考古館
右上のけつ状耳飾りは県内でも希有な資料である
この大珠、こちらから見ると生き物の顔に見えませんか?
節理が多数走っているが、透明度があり、全体も緑色で大変美しい大珠である。孔に紐擦れの痕が無く、作られて早い時期に埋葬されたものと思う。
藤橋遺跡
馬高遺跡
馬高遺跡
馬高遺跡
馬高遺跡
別当山遺跡(七日市町)
別当山遺跡(七日市町)
三十稲場遺跡
三十稲場遺跡
三十稲場遺跡
三十稲場遺跡
三十稲場遺跡
三十稲場遺跡
三十稲場遺跡
三十稲場遺跡
見事な砥石である。欠けていなければ30p以上はあると思われる。石は安山岩で炉石に使われていたのか、赤く焼けている。幅3p程のV字型の溝が刻まれている。
藤橋遺跡
藤橋遺跡
藤橋遺跡
尾立遺跡
尾立遺跡
尾立遺跡
千石原(脇野町)
雉子打場
鳥越
原遺跡
転び堂(上除町)
石錐(各遺跡)
三十稲場
馬高
馬高
馬高
左上の土製品は用途不明である
馬高
中道(栖吉町)
雉子打場遺跡(長岡市深沢町)
各遺跡(長岡市内)
馬高
馬高
上の沢(関原町)
独鈷石(藤橋遺跡)
別当山遺跡は縄文中期の遺跡ですが、知り合いが、当遺跡からアメリカ石鏃を見つけており、もしかすると縄文と弥生の複合遺跡かもしれません。左の2枚の座布団の下段左から3本(計6本)は拾った当時、なんとなく違和感を感じました。そう考えると納得です。
この翡翠の大珠を拾ったのは中学2年生の時です。拾い上げた時、磨製石斧の作りかけかと思いましたが、土を落とすと孔が見えびっくりしました。孔の下を指で押さえ、上の孔を吹くと「ピーッ」と甲高い大きな音がします。
原遺跡(長岡市関原町) ※現 鎌田山遺跡
各遺跡で拾った珠達。中期以前の時代には白い蛇紋岩も貴重な珠原石として珍重されたようだ。
三十稲場で拾った珠達。右側の二つは自然石の形を利用し孔をあけたものと思う。装飾品ではなく実用品かも知れない。
この3つの遺跡は筆者が30年にも渡り表採をしてきた遺跡である。何百回足を運んだことか。写真を撮った平成14年3月の初旬にはこの様に雪がすでに無かった。私の記憶では初めてである。近年はその大部分が個人所有の畑から公の土地に変わり、草が生い茂り表採の出来る畑が少なくなったのは残念である。
各地の遺跡で拾った石器の剥離片や石器の素材となる石たちである。瑪瑙、玉随、赤玉、黄玉、チャート、黒曜石、よく分からない石・・・・・
昔は拾っても捨てていたが、集めてみると結構きれいなものだ。遺跡ごとにしておかなかったことが反省点である。
巻頭の翡翠の大珠と同じ原遺跡の石斧である。この遺跡は小規模遺跡として一般的には知られていないが、昭和40年代後半に土地改良事業で雑木林が切り開かれ現れた中規模遺跡ある。馬高遺跡の西北側約100mしか離れておらず、もしかすると馬高の前駆遺跡である可能性がある。なお原遺跡という名称は中村氏が便宜上付けたもので、本来の地名(通称)である鎌田山が良いのかも知れない(近年後者の表記に変わってきた)。下の写真は原遺跡である、奥の杉林手前で大珠を拾った。表紙の三本ひげ土偶は手前の畑で拾ったものである。
上の石錐は各地の遺跡で拾ったものである。石錐には使い方によって2種類あると思う。一つは石どうしを擦りあわせる(孔を穿ったり、擦り切りなどの)仕事に使うタイプ。もう一つは皮や木等に穴をあける細長くとがったタイプ。
次に左の写真の小型磨製石斧であるが、これも現代の大工さんが使っている、のみのような使い方をしたのではないかと思う。木の棒の先に埋め込み槌のようなもので叩きながら、柱等にほぞ穴などをあけたのではないかと思う。刃の幅が同じくらいなのは、単なる偶然か、それともすでに何らしかの長さの単位が存在したのであろうか?
尾立遺跡は藤橋遺跡のすぐ南隣の縄文晩期から弥生期の小さな遺跡であるが、時代も石器の形態も藤橋のものに似ているような気がする。あまり知られていない遺跡であるため表採をする人は少ない。
現在、藤橋遺跡はその大半が公園になってしまい、拾える場所は少なくなった。石鏃の特徴は肉厚で不格好なものが多い。石錐が多いのも特徴の一つである。
左の有孔石器は謎である、周りが丸く刃を有せず、完形だとしても長細い円になると思われる。
やや茶色かかった左の有孔石斧は、刃を有している。これは隣の尾立遺跡で表採した物である。
藤橋は石鏃の数に比べ石斧が少なく、その代わり板状石器や掻器のような石器が多い気がする。木にはさみ打製石斧のような使い方をしたのだろうか。
三島郡(現長岡市)七日市町の西側丘陵頂上部に位置するこの遺跡は、馬高遺跡のある関原丘陵と黒川をはさんで相対する遺跡である。昔から知られている遺跡であるが、未発掘である。とても形の良い石鏃を拾うことのできる筆者の好きな遺跡の一つである。その他の表採物としては、滑車型土製耳飾りや石斧などがある。爪形紋土器を見ることがあり、馬高と同年代かむしろ古い遺跡かも知れない。
※筆者の勘違いで間違えていた遺跡名を「稲場」から「別当山」に変更します。2009年1月9日
原遺跡(長岡市関原町)
言わずと知れた三十稲場遺跡である。とにかく出土品が多数である。筆者もこの他に石垂300点、石斧数10本、その他の石器・土製品などを多数有するが、掲載はそのうち。
馬高・三十稲場は筆者の地元であるだけに、個人的に思い入れが強い遺跡である。特に馬高の石鏃は美しく好きである。その他100点近い石斧や各種石器・土器があるが掲載はそのうちに。
各遺跡で表採した翡翠原石(おもに三十稲場と藤橋)。
右上は雉子打場、右下は馬高。右の2点には研磨の痕跡が確認できる。
三十稲場で見つけた巨大な翡翠原石。当時このような大きさのまま、原石を運んだと言う貴重な資料である。これは畑中の砂利道に長年埋まっていたものである。
右側の翡翠原石は南三十稲場遺跡の真ん中を通る農道が、土地区画整理事業で廃止された折、ブルトーザーが上を通った時に割れたものと思われます。中の緑色がちらっと見え、拾うことができました。遺跡の中の砂利道には、農家の人が畑から出てきた石を道脇に出すので、結構石斧や凹石などが見つかることがあります。
原遺跡(鎌田山遺跡)
馬高遺跡
別当山
左側の上部側で茶色(瑪瑙)の馬高遺跡の珠は写真右側の端が欠けていますが、拾い上げて土を落としていた時、ぽろっと欠けてしまいました。後で接着しようと思って、ズボンのポケットに入れておきましたが、家に帰ってみたらポケットに小さな穴が開いており、途中で落としてしまいました。40年以上経った今でも見るたびに悔やまれます。
筆者(左は厳密にいうと小学生の頃の長男)が糸魚川で拾った翡翠。(右は違うかも)
三十稲場遺跡