2021年01月31日(日)

「わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パ ロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現わし、エジプトはわたし が主であることを知るようになる」出エジプト14:4



主の数々の奇跡により、モーセに導かれたイスラエルの民が、エジ
プトを出た。ところが、荒野の端に宿営した途端、主はモーセに
「民に引き返すように言え」と告げられた。引き返して、海辺で宿
営せよと。なぜ、そんな事を?不可解に思える。エジプトから少し
でも距離を置かねばならないのに。

しかしパロは、彼らがあの地で迷子になったと思うだろう。それで
パロが追跡すれば、パロの全軍を通して「わたしの栄光を現わす」
と。エジプトが「わたしが主であることを知る」と。そのために主
がわざとそうされた。民は主の言葉の通りに従った。

するとパロは、すぐにえり抜きの戦車と全戦車、精鋭部隊の最強軍
団で民を追跡した。そして何と彼らに追いついた。民は非常に恐れ
て、主に向かって叫んだ。主に叫んだのはよいが、モーセへの、主
の答えを待つのでなく、モーセを責め、文句、不満をぶつける。

主は、モーセに「恐れるな、主の救いを見よ、主が戦われる、黙っ
ていよ」と。すると、前は海、後ろは追軍の絶体絶命を前に、大き
なる驚くべき奇跡をされ、海を分け、道を造られた。追っ手がそこ
に入った時に、水は元に戻り、エジプト全軍は滅ぼされた。

引き返すように言われたのは、このためであった。むしろ全軍を誘
導するためであった。私たちも、どうにも出来ない突然の苦しみに
会うかも知れない。しかし、それは主の栄光のためであり、あなた
を通して、主が栄光を現わされる。そして主がまことの神である事
を新たに知ることになる。主にご計画がある事を信じていよう。

・・・・・・・・・・・・
私たちにも一見、理解し難い、意味不明な事が起きる。しかし民を
引き返させたのは、エジプト軍をおびき出し、滅ぼすためであった。
その時はわからなくても、主には、先を見通したご計画がある。
「イスラエル人はそのとおりにした」ように、御声に従おう。


2021年01月30日(土)

「イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸につい ては争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ」創世記26:2 2


イサクが、次々と井戸を掘る箇所が出て来る。ペリシテ人が、イサ
クが家畜の群れや多くのしもべを持つ事に妬んで、父アブラハムの
時代に、掘った井戸をふさいでしまった。そして、出て行けと言わ
れた。しかしイサクはその事でペリシテと争わずに、そこを去り、
ゲラルの谷間に住み、そこでまた井戸を掘った。すると湧き水が出
た。

ところが、そこでもゲラルの羊飼いたちが、この井戸は自分たちの
ものだと言い張って来た。そこでもイサクは争わず、別の所に移動
して井戸を掘った。するとそこでも争って来たので、また別の場所
い移動した。そこで井戸を掘った時に、初めて争いがなく、「今や
主は広い所を与えて、この地で増えるようにして下さった」と言っ
た。

イサクは、理不尽な目に会い、父が掘った井戸を埋められても、ま
た、自分たちが掘った井戸を奪われても、争いを仕掛けられても、
反撃し、争わずに、場所を変えては井戸を掘り続けた。「ののしら
れても、ののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、正し
くさばかれる方にお任せになった」と、どこまでも主に委ねて行く、
まさに主の姿であった。

イサクはへりくだっていた。井戸を下に下に掘ることは、へりくだ
ることだ。下へ下へと、御前にへりくだって行く時に、恵みの湧き
水が湧く。イサクを追い出したアビメレクは、イサクが素晴らしく
祝福される様を見て「私たちは、主があなたとともにおられること
を、はっきり見たのです」と言った。へりくだって主に従って行く
時、敵が、主が私と共におられることを見る。

・・・・・・・・・・・
主に身をゆだねる時に、主が全責任を取って下さる事を見せられる。
自分で守るのでなく、主が守って下さる。どうしても自分が出て、
自分が事をなそうとするが、へりくだりとは、主に自分自身を明け
渡し、主を信じること、主に戦っていただくことを覚えたい。


2021年01月29日(金)

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」箴言16:3



私たちは、先の事、明日の事、様々プランを立てる。そして自分が
立てたプランにどうしても固執してしまう。それがベストだと思え
るからだ。そのためそのプランを主に委ねよと言われた時に出来な
い。手放せない。自分がしっかり握り締めてしまう。又、それは自
分の宝に関しても同様だ。手放せない。

主、以外に「力とするもの、栄えに満ちた喜び、愛するもの、心に
慕うもの」は、自分にとって何だろう。心がそこにあるなら、命そ
のものとなって、どうしても主に明け渡す事ができない。自分のプ
ランを、自分の将来を、愛するものを、自分の喜び、力とするもの
を明け渡すと、それを失ってしまうと思う。

自分がコントロールしていないと不安しかない。将来を委ねてしま
うと、将来がだめになってしまうと思ってしまう。自分を明け渡す
と、自分が崩れ去ってしまうと。だから恐くて、ますます握り締め
て放さない。そうするとますます主以外のものが、自分のいのちに
なって行く。いのちとなっているものを、明け渡す事は、到底人間
にはできない。

しかし、人にできない事が神にはできる。「ゆだねる事が出来ませ
ん」と認め、「助けて下さい」と現状をありのまま祈って行こう。
握っている間は、不安と恐れ、思い煩いでいっぱいだが、委ねると
自由と平安とされる。祈りに答え、自分にはできない事に御霊が働
かれ、御霊の力によって、成し遂げて下さる。
-------------
自分がどうしても握っていたいものは何だろう。そのために悩み、
失くすともう終わりだと思っているものを認めよう。そして、主が
委ねさせてくださることを信じよう。


2021年01月28日(木)

「また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように」Tテモテ6:18




パウロは「受けるよりも与えるほうが幸いである」とも言っている。
パウロは宣教活動をしつつ、テント作りで、収入を得ながら、苦労
して自分の手で働いていた。自分の生活のため、また共にいた人々
を助けるために働いた。人は、どんな事が嬉しくて、どんな事に幸
せを感じるだろう。

ほとんどの場合は、願いが叶って、欲しかったものを手にした時、
又、何かを得た時ではないだろうか。プレゼントや、不意の頂き物
や、人からの好意を受けた時、また、感謝された時かも知れない。
生まれつきの性質は、欲望が叶う事、得る事、受ける事に喜びを感
じるものだ。そして得たものは放したくない。ずっと握りしめてい
たい。損をするのは嫌で、得をしたい。

しか、御言葉はそうでなく、受けるより、与える方が幸せだと言う。
この世とは正反対の、全く新しい価値観だ。愛するには、時間と労
力を、持てるものを、犠牲を献げる事が必須だ。犠牲無くして愛す
る事はできない。与えるとは、自分自身を与える事になる。主の一
生がまさにそれであった。何もかもを、命までも与え尽くして下さ
った。

与えて行く時、この世への執着、物への執着、また、貪欲から自分
自身が守られ、自由にされる。天に視点を置く生き方にされる。自
分の時間を家族に、労力を周囲の人々に与えられるよう、祈って行
こう。自分のしたい事を少し脇に置く時、与える事の喜びを、御霊
の喜びを経験して行ける。
---------------
誰かの益のために用いられるかも知れない。主が志を与えてくださ
ったら、喜んで出来るように祈ってみよう。受けるより与えること
の幸いを経験していこう。


2021年01月27日(水)

「この人の名はナバルといい、彼の妻の名はアビガイルといった。この女は聡明で美人であったが、夫は頑迷で行状が悪かった」Tサムエル25:3



ダビデはサウルにつけ回され、命の危険に逃げ回っていた。しかし、
そんなダビデのもとに、貧しい人々や王に不満を持つ人々が寄り集
まり、600人にもなった。その人々の養いのため、荒野にいた時、
富裕なナバルに食糧を頼んだ。というのも、ナバルの家畜をダビデ
達が守ってやっていて、持ち物は何一つ無くならなかった。そのた
めの親切を求めた。

ところがナバルは愚かで、ダビデを非難し拒絶した。そのためダビ
デは400人の部下を引き連れ、報復に向かった。これをしもべが、
ナバルの妻アビガイルに告げた。ダビデの使者に、ナバルは罵った
こと、彼らは事実良くしてくれたこと、このままでは主人や一家が
皆殺しにされると。その時、聡明なアビガイルの的確な判断と機転
で、事なきを得た。

ダビデのもとにすぐに駆けつけ、溢れるばかりの食料を贈り、主の
御心ではない復讐をしないよう、へりくだって、知恵をもって進言
した。ダビデはその進言に耳を傾け、ナバル討伐を思いとどまった。
アビガイルの行動が無ければ、ダビデは肉で復讐していただろう。
ダビデは、アビガイルを遣わした神を見た。彼女を通して「今日、
あなたを私に会わせるために送って下さった神」、

「悪を行なうのを引き止めて下さった主」と。神がとどめて下さっ
たので、自分は罪から守られたと。私たちにも、御霊が進言し、肉
の思いをとどめて下さる。そのために、御霊は私たちに語り、促し、
又、人を送って御心を示される。御霊の進言に従おう。
------------
肉は勢いがあり、すぐに愚か者へと向かわせるが、御霊はアビガイ
ルのように知的で聡明な神の御心に導いてくださる。怒りは全てを
知っておられる御手に委ねて、御霊の声に従おう。


2021年01月26日(火)

「わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる」出エジプト7:5



出エジプトに際して、モーセを通して、奇跡のわざが次々となされ
た。ナイル川が血に変わり、かえるが全土に満ちた。呪法師たちも
同じことをした。悪魔も万能ではないが、奇跡を行なう。神と同じ
事をした。しかし次に、地のちりが全土で、ぶよとなった。呪法師
も同じ事をしようと、彼らの秘術を使ったが出来なかった。ぶよは
人や獣についた。

そこで呪法師たちは言った「これは神の指です」と。自分たちには
どうしてもできず、神以外の何者でもないと認めた。しかし神のわ
ざだと理解したからといって信じるわけではない。パロも、ますま
す心を頑なにした。彼らの言う事を聞き入れなかった。次に、あぶ
が全土に満ち、地は荒れ果てた。行き詰まるとパロは、民を出て行
かせると言った。しかし「決して遠くに行ってはならない」と。

悪魔は、私たちにも「遠くに行ってはならない」と言う。信仰はそ
こそこでよい。すべてを献げるなど行き過ぎだ。罪から全面的に離
れるなど、出来っこない。悪魔は私たちを、肉から、罪から離れさ
せたくない。御子のかたちへと成長させたくない。今も誘惑が来て
いるだろうか。

神は「わたしが主であることを知るようになる」の目的で十の災害
を下された。しかしパロは神を拒み、ますます強情になって行った。
反対に私たちは、神が主であることを、ますます知って、喜びに溢
れて行ける。
-----------
少しは行くから遠くへ行ってはいけないの声に従っている自分がわ
からないのかも知れない。神の御手を信じて、出エジプトを果たそ
う。ここから先へ踏み出せる。


2021年01月25日(月)

「彼らと盟約を結んで後三日たったとき、人々は、彼らが近くの者 たちで、自分たちの中に住んでいるということを聞いた」ヨシュア 9:16 



主の指示を仰がず、自分の思いで始めてしまい、失敗した経験があ
るだろうか。ある時、ギブオンの住民達は、自分たちが滅ぼされる
のを恐れ、ヨシュアを欺いて、盟約を結ぼうとした。そのため古び
た着物に、古いはきもの、パンは乾いてボロボロ、破れた皮袋・・と、
遠くから来たように見せるため、巧妙に偽って変装した。私たちは
あなたのしもべであり、盟約を結んで欲しいと。

それでヨシュアたちは、だまされてしまい、彼らと和を講じ、生か
しておくとの盟約を結んだ。そのすぐ後に、何と実際は彼らが近く
の者で、自分たちの中に住む者である事が判明した。結果、滅ぼさ
れるべき民が、ずっとイスラエルの中に居続ける事になった。

失敗してしまった。その原因が「主の指示をあおがなかった」とあ
る。ここが間違いだった。祈らないで事をすると、肉の判断をして
しまい、手痛い失敗をする。ある人は、高額賃金のバイトに飛びつ
いて、大変な目に会った。朝は早く、重労働できつく、残業も多く、
心身消耗の毎日となった。デボーションも持てない状況に、平安も
失せて、疲れ果て辞めてしまった。

祈らないで決めた結果だった。まず主の指示をあおぐ事の大切さを
教えられる。祈り、主に相談して、事を始めよう。その時、もしそ
の始めた事柄の中で、困難が来たとしても、祈って始めた事であれ
ば、信仰を持てる。ある人は、祈って与えられた職場で、苦しい試
練に会った。しかし祈って始めた事なので、主のご計画の中と受け
止め平安にされ、信じる事ができた。そして多くの祝福を刈り取っ
た。

・・・・・・・・・
祈って導かれて始めた事は、途上で障害や困難に会っても、「祈っ
た」との土台に立てるので、不思議な平安がある。そして途中で、
負の事が起きても、万事益とされると信じる事ができる。祈りは
力だ。主が働かれる。


2021年01月24日(日)

「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心の ゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」Tペテ ロ2:19


御言葉は、信仰者には試練があり、苦しみを受けると言っている。
キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみを賜っ
ていると。しかし自分の罪や落ち度で、争いになり、苦しむのは迫
害ではない。信仰ゆえの苦難ではなく、信仰以前の問題だ。誰でも
人に迷惑をかけるなら非難される。

だが自分の落ち度ゆえでなく、キリストゆえに受ける苦しみがある。
御言葉がそう言っている。今の日本では、信じたからと言って、殉
教する事はないし、公安に連れて行かれる事もない。私達なら、信
仰ゆえに仲間はずれにされ、悪口、嘲笑、侮蔑、無視の対象になる
事かも知れない。信仰ゆえに、家を出なければならないかも知れな
い。

しかしキリストゆえの苦しみなら、恥じる事はない。返ってその事
のゆえに神を崇めよと。義のために迫害されるなら幸い、理不尽に
悪口雑言を言われるのは幸いだと。喜べ、喜びおどれと。ある人が
家族が信仰に反対で、辛い事が起きた。思わず家を飛び出し、教会
に行った。

「異邦人の中にあって、立派にふるまいなさい」「不当な苦しみを
受けながらも・・悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです・・
善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは
神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのため
です・・」
牧師からの御言葉により、祈りにより励まされ「帰ります」と、新
たに力を受けて、帰って行った。主のゆえ、信仰ゆえのものである
なら受け取ろうと、心が変えられた。

・・・・・・・・・・・
自分にも非があり、落ち度があるなら、相手と争いが起きて当然だ。
だが時に、理不尽な、不当な苦しみを受ける事がある。それを主の
ゆえに忍耐して行く時、主に喜ばれると。十字架を負われた主に従
う事であり、それが証しとして用いられて行く。


2021年01月23日(土)

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道3:11



天の下では、何事にも定められた「神の時」がある。祈りが答えら
れる最善の時があり、私たちのなすわざにも、最善の時がある。神
の御心にかなった、神が動かれる「時」がある。そうであれば、信
仰人生において、「神の時」を待ことが非常に大切だ。待つ事も学
びだ。

私たちは、待つ事が非常に難しい、なかなか待てない。じっと待つ
のが苦手だ。動いている方が楽だし、何かしている事で自分が安心
できる。ただ待つ事は、不安や焦りとの大きな戦いだ。アブラハム
も待てないで、失敗してしまった。

75歳の時に子を与えると主の約束を受けたが、待てずに、86歳の時
に自分の思いで肉で動いてしまい、女奴隷よりイシマエルを生み出
してしまった。秩序の乱れ、混乱と根深い問題を引き起こした。10
0歳の時、約束の子イサクを得た。

エリメレクとナオミも、飢饉の時に、忍耐し、主を待ち望む事をせ
ずに、家族の幸せを求めて、偶像のはびこる地モアブに移住してし
まった。家族の幸せを求めたのだが、夫も息子も亡くなり、多くの
苦しみを刈り取る事になった。

今、待つ事が御心なら、「あなたがたの確信を投げ捨ててはならな
い。それは大きな報いをもたらす」「神のみこころを行なって、約
束のものを手に入れるために必要なのは忍耐」だ。神の時が満ちな
ければ、幾ら焦っても物事は動かない。逆に神の時が来れば、あれ
ほど微動だにしなかった事態が、驚くほどにあっけなく動き、実現
する。
神の時がすべてだ。焦らず、思い煩わず、神の時を待とう。そうで
きるよう祈ろう。その時、心は平安の内に守られる。

・・・・・・・・・
「神の時」は厳粛だ。主が動かれる、定められた「時」がある。時
でなければ、幾ら動き回っても、徒労と不毛に終わる。逆に神の時
なら、人手によらずに、目の前で門が次々と開かれ、事が進んで行
く。「ひとりでに」門が開いて行く。待てるように祈ろう。


2021年01月22日(金)

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」マタイ11:29



主は、わたしのもとに来よと、常に招いておられる。そのままで今
すぐ「来よ」と。私たちは、このままでは行けないと思う。人を訪
ねる時どうだろう。手みやげがいる・・と思い、頂き物をすると、
お返しが・・と考える。罪を犯すと、ちょっとはましになって、主
のもとへと思う。こんな自分ではダメ、とても御前に行けないと思
い、ますます主から遠ざかる。

頭ではわかるのだが、良い子が受け入れられ、悪い子はだめとの根
深い価値観からだろうか。又、まず主のもとへ行くのでなく、自分
の力でやってみて、どうしてもだめなら助けてもらうだろうか。ど
うしても自力でしようとする、これも根深い価値観がある。ある人
が、子供が不登校になり、悶々と悩んだ。

最初は、なだめたりすかしたりと対応するが、しかしどうやっても
行こうとしない。悩みつつ、親として出来る事は何でもしようと、
学校や保護者との関わりにも、時間や労力の犠牲を払い努力した。
数ケ月過ぎるが、全く何の変化も無い。心身共に疲れ果てた。その
時に「疲れた人はわたしのところに来なさい」と語られた。

主のもとに行き、何もかも、いっさいがっさいを告げた。その時、
「自分が」ああしようこうしようとしていて、子供をありのまま受
け入れていない事を示された。心から悔い改めた。そして子供をゆ
だねる事ができた。その時に初めて、真の平安と安堵に満たされた。
-------------
すぐに自分で動いてしまい、最終的にありのままを受け入れてくだ
さる主の元に行く。簡単に目がふさがれてしまう者だからこそ、明
け渡そう。主が教えようとされている事をまず聞こう。


2021年01月21日(木)

「そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで『確かにあなたは神の子です』と言った」マタイ14:33



五千人の給食の奇跡の後、すぐに弟子たちは、強制的に舟に乗せら
れた。主が同伴されないので、弟子たちは気が進まなかったろうか。
無理やり行かせられた。主はその間、「祈るために、ひとりで山に
登られた」。その祈りは弟子たちのためだった。私たちも振り返っ
てみた時にどうだろう。気が向かない、本音ではしたくない、関わ
りたくない、動きたくないと、渋る時に、主は「強いて」させられ
る事がある。

御言葉に迫られ、渋々従ったのだが、その結果大きな祝福を何度も
経験した。肉はいつも渋る。主が強いてさせて下さる事は、実は恵
みだ。その時に、主は弟子たちにされたように、執り成して下さっ
ている。弟子たちは、その舟で嵐に遭遇する。真っ暗闇の中での嵐
は、ベテラン漁師の弟子たちも恐怖を感じた。このままだと舟が沈
んでしまう。

主が飛んでしまい、パニックだ。彼らは自力で奮闘していた。自分
の力で何とかしようと必死だった。そんな中、向こうから来る主を、
恐怖のため、幽霊と間違える。「パンのことから悟るところがなく、
その心は固く閉じていた」ゆえだった。主が湖の上を歩くなどと想
像だにしない。恐怖の余り、叫び声を上げる弟子たちに「しっかり
しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。わたしが共にいると。

主を迎え入れた時に、嵐はピタリと止んだ。彼らは驚き、主を拝し
て「確かにあなたは神の子です」と言った。心が固く閉じている者
に、強いて舟に乗り込ませ、結果、生けるまことの神の子であるこ
とを現わされた。私たちにも、強いて事に当たらされる事は、頑な
な心を砕いて、まことの主を知らせて下さるためのようだ。
---------------
波も風も極力避けて生きたい者だが、何かが起きた時に主と共に対
処していく。しっかりしなさいと主の声を個人的に聞くことは大き
な祝福だ。主の導きを受けなければわからない。


2021年01月20日(水)

「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」Tヨハネ3:18



困っている人に必要が生じた時、自分はどうだろう。良きサマリヤ
人の箇所の、祭司やレビ人のように、関わるのが面倒で「反対側を
通り過ぎ」避けてしまうだろうか。時間と労力を取られたくなくて、
又、仕事が増える事が面倒で、経済的な犠牲も払いたくない。「寄
るべのない者の叫びに耳を閉じる」だろうか。

人は、自分が聞きたい事だけを選び取って、聞いていると言われて
いる。聞きたくない事は耳をふさぐ。だから聞こえない。そして聞
かなかった事にすれば、自分を正当化できて、悩まずに済むし、と
がめも感じなくて済む。だが、御言葉によると、困っている人の必
要を無視すると、「自分が呼ぶ時に答えられない」とある。自分の
祈りが聞かれなくなってしまう。

「口先だけでなく、行ないと真実をもって愛そう」「自分の心に責
められなければ、大胆に神の御前に出ることができ」「求めるもの
は何でも神からいただける」「なぜなら、神の命令を守り、神に喜
ばれることを行なっているから」だと。行ないと真実をもって愛す
る時、自らの祈りが聞かれて行くと言っている。

そして主との間に、とがめも妨げも無いので、御霊の喜びと平安に
満たされる。この平安は何ものにも代えられない。主は、すべての
良いわざに溢れる者とするために、あらゆる恵みを溢れるばかりに
与えて下さる。是非、この恵みにあずかろう。
------------------
都合の悪いことを聞かないようにしっても御霊のとがめが来る。犠
牲的な愛がないと主に認めて祈りたい。出来ることを主は導いてく
ださる。とがめのない心で主に向かいたい。


2021年01月19日(火)

「イエスは・・その両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、『何か見えるか』と聞かれた」マルコ8:23



人々が盲人を主のもとに連れて来た。主は盲人の両眼につばをつけ、
両手を当てられ「何が見えるか」と問われた。彼は見えるようにな
り「人が見える、木のようだが、歩いているのが見える」と答えた。
見えるのだが、はっきりとではなく、人が木のようにぼんやり見え
た。だが、まだ鮮明ではなかった。そこで主が再度、彼の両眼に両
手を当てられた。

そして彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっき
り見えるようになった。つまりまず目が開かれ、ぼんやり見えるよ
うにされた後、彼が続けてじっと「見つめて」いた時に、全快し
「はっきり」見えるようになった。私たちはどうだろう。主がぼん
やりしているだろうか。見えてはいるのだが、人が木のように、ぼ
やっ〜としているだろうか。

それならまず、はっきり見えない事を認めよう。そこから祝福は始
まる。見えているのか、見えていないのか、あいまいにしていれば、
ずっとあいまいなままだ。次に、はっきりと見えるよう、主に祈り
求めよう。彼は、じっと見つめた。主がはっきりと見えるために、
主との親しい交わりが必要だ。

この世の事に忙殺され、主との交わりがないがしろになっているだ
ろうか。主を知るためには時間が必要だ。そして信仰は聞くことか
ら始まり、聞くことは、みことばによる。御言葉を聞き、学ぶこと
は非常に大切だ。そのための時間を献げよう。時間があれば、御言
葉に向かおうと思っていると、時間は全く無い。

少しの時間でも聖別しよう。主は必ず豊かに祝福して下さる。特に
示された御言葉には従おう。そうして行く時に、主が、目を開いて
下さって、はっきりと見えるようにして下さる。
-------------
主を個人的に知るには時間が必要だ。主に語り、心を主に向ける時
間を大切にしよう。生きている限り、新しく主を知っていきたい。
目がはっきりと見えるように祈ろう。


2021年01月18日(月)

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい」創世記12:1



アブラハムの父テラが、出身地のウルを出て、カナンへと旅立った。
しかしカランまでやって来て、そこに住みつき、そこでテラは亡く
なった。その父を葬ったカランで、アブラハムは主の御声を聞いた。
「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしの示す地へ
行け」と。人間の事情に関係なく、主の一方的な選びと召しであっ
た。

アブラハムは75歳の時に、主の召しに従い、一族と共にカランを出
て、カナンの地を目指した。ただ主の御声に従った。アブラハムの
信仰だった。信仰とは主の御声を聞いて、主に信頼して従うことだ。
「生まれ故郷」とは、自分の心のふるさとでもあり、心地良い場、
居場所、慣れ親しんだ生活、自分の拠り所だ。

そこは安心できて、周囲とも良い交流があり、生活の基盤が据えら
れていて、安定した場所だ。そこにとどまれば、経済的基盤もでき
ている。そこなら、物心共に主に頼らずとも生きて行ける。その安
定した場を出るという事は、それらをすべて捨てる事であり、ただ
ただ主のみに拠り頼むという事だ。非常に大きな決心だ。

見知らぬ地へ向かうので、何が起こるかも全くわからず、身の危険
もあるだろう。持ち物にも頼れず、人も頼りにならず、自分の知恵
も判断も頼れない。ただ主だけが頼りであり、主の言葉だけが行く
道を示し、照らし出す。私たちも「生まれ故郷を出て」、主以外に
大きく依存しているものから離れて、主だけを頼り、前進せよと言
われているだろうか。大きな祝福が備えられている。
-------------
主の他に心に信頼を寄せているものがいくつもある。それなら主の
導き自体がわからないかも知れない。いつでも新しい道に旅だてる
よう身も心も身軽にしていたい。


2021年01月17日(日)

「すると、イエスは彼らに答えて言われた。『人の子が栄光を受け るその時が来ました』」ヨハネ12:23



主は、十字架の死の前に「時が来ました。子の栄光を現わして下さ
い」と祈られた。この上ない残酷で凄惨な死に、栄光が現れるよう
にと。十字架刑など、一見、敗北、悲惨、無力にしか見えない。
「これのどこが栄光?これが神の子なのか?」とこれ以上ない惨め
で哀れな姿、その苦しみが栄光である事を主は知っておられた。

両手両足を釘づけられて、さらされた姿で何の抵抗も出来ない。な
されるがままであり、これこそ無力の極みだ。しかしこれが栄光だ
と言われている。「栄光」と聞くと、大成功、大勝利、喜ばしい事、
失敗の反対を思い浮かべないだろうか。受験は合格、畑は豊作、子
供は良い子、立身出世、商売繁盛・・こういう事が栄光だと思ってい
ないだろうか。

しかし十字架刑が「わたしの栄光を彼らが見る」「わたしを栄光で
輝かせて下さい」と言われた「栄光」であった。大成功だけが栄光
なのではない。どんな状況でも、それが悲惨なものであっても、又、
失敗であっても、そこで悔い改めて主に従って行くなら、主はあな
たを通して「栄光」を現わされる。

姦淫と殺人罪はどうだろう。栄光の正反対だ。しかし真摯に悔い改
めたダビデは、主の栄光のために用いられた。ヘブル11章の信仰の
人に名を連ね、ダビデの詩編にどんなに私達は慰め、癒され、引き
上げられただろう。どんな悲惨な状況であれ、そこで自分自身を明
け渡して、御霊の導きに従おう。主のあわれみは尽きない。

・・・・・・・・・・・
栄光というと、一見ポジティブな事柄を連想しそうだ。病気、経済
的苦境、不合格、問題・・一見、負の事柄が起きると、祝福されて
いないように感じるが、そうではない。その中で、主を第一に、御
声を聞いて従って行く時に、主はご自身の栄光を現わされる。

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2021年01月16日(土)

「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではな く、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:26



主が、五つのパンと二匹の魚で奇跡をされ、大勢の人々を満腹させ
られた。その奇跡を見るや、群衆は大歓声で主をかつぎ上げ、王と
するために連れて行こうとした。その時、主は、ひとり、山に退か
れた。人々は奇跡を見、満腹した時に「まことに、この方こそ世に
来られるはずの預言者」と言ったが、主はその心の内をご存じであ
った。

群衆は主を信じ、従って生きて行きたいと願ったのではなかった。
主について行けばパンがもらえる。生活の心配がなく、ずっと良い
暮らしができる、そのための主であった。私たちも自己充足、自己
実現のために、主について行っているだろうか。何のために主に従
っているのだろう。

何かの利得のためだろうか。主は満腹を下さる。自分の願いが叶え
られ、自分の欲望が満たされる。しかしそれだけなら、自分の願望
が叶えられている間はついて行くが、願望が叶えられず、思い通り
にならなくなると、主を離れる事になる。ついて行く意味が無いか
らだ。主は必ず必要を与えて下さる。必要を与えて下さるのであっ
て、私たちの肉の思い通りに動かれるのではない。

人々が主を「むりやりに連れて行こう」とした時に、主は退かれた。
私たちはどうだろう。今、どこまでも自分の願いを通そうと、むり
やりに主を連れて行こうとの態度だろうか。そうでなく、自分の思
いの方を捨てて、明け渡して、主のみ思いを聞き、主に従おう。そ
れこそが大きな祝福で、消えない満足と喜びの道だ。

・・・・・・・・・・
主に願いが叶えられるのは心地良い。しかしそれのみなら、かしわ
手を打って拝み、ご利益をもらうのと変わらない。自分が変えられ
る事は無い。自我が砕かれ、主に従い、主とひとつに歩み、主の
かたちに変えられ行く恵み、その喜びに目を向けて行きたい。、

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2021年01月15日(金)

「それは、あたなを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった」申命記8:2



試練は苦しく、辛い。そのため試練に会うと「なぜ?〃?」と不満、
愚痴、怒りが湧くが、主は、はっきりと「あなたを苦しめ、試み」
と言っている。そして「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。
これもあれも神のなさること」と、順境も逆境も主からのものだと。
順境の時には喜び、感謝すればよいが、試練を通してしか得られな
いものがある。

「苦しみに会う前には、あやまちを犯しました。しかし今は、あな
たの言葉を守ります」の通りに、人は強情で頑固で、自分を正当化
する者だ。自らの非を認めたくないので、環境や人のせいにする。
しかし苦しみにより砕かれて、自力に頼れないので、主のもとに追
いやられる。主に頼るしか、なすすべが無いところにまで追い込ま
れる。主に拠りすがって行く。へりくだるようにさせられる。

その時、初めて真に主を知る。拠り頼む事の意味を知る、幸いな経
験だ。涙の谷を過ぎる時も、その中で主に従って行くなら、必ずそ
こが泉の湧く所となる祝福とされる。人は皆、試練に会う。思い通
りに行かないから試練だが、その時に二つの選択がある。心を屈折
させ、不信仰に陥る事もできるじ、主からの訓練としてしっかり受
け止める事ができる。

自らの選択だ。そして結果を刈り取る。訓練として受け止めるなら、
測り知れない益を得る。平安の実を結ぶ。後に「苦しみにあったこ
とは、私にとって幸せでした」と必ず言える。苦しみは私達を、更
に主に近づけてくれる。ついには、あなたを幸せにするためだ。
-------------
試練の度に強靭になれと言われるのではなく、主に頼る事を覚えな
さいと言われるのは何と慰めだろう。主は心を用いてくださってい
る。主に訴え、主に祈りながら試練を抜けていこう。


2021年01月14日(木)

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」ガラテヤ5:1


主は、十字架で罪の問題を解決し、すでに私たちを自由にして下さ
った。しかしその自由とは、自分のしたい事を思うようにする事で
はない。それは肉のわがままであって、放縦だ。自由にはルールが
伴い、秩序がある。そして責任が伴う。その上に立って初めて自由
だ。ルールを無視する事が、自由だと勘違いしてはいけない。

魚は水中で自由であり、陸では不自由だ。魚は、水という拘束の中
でこそ自由だ。例えば楽器を演奏する時、楽譜に縛られないだろう
か。しかし譜面通りに演奏すると素晴らしい楽曲を演奏できる。ス
ポーツもルールに従って初めて、持てる力を発揮し、大いに競技を
楽しめる。しばしば生まれつきの価値観は勘違いする。

すべての縛りから解放される事が自由だと。そうではなく、拘束を
受け入れて従う事、つまり戒めに従い、御霊の導きに従うところに、
真の自由がある。例えば、嫌な人がいると、肉は嫌っていたい。愛
したいのでなく、嫌いたいので、嫌う事が、好きなように生きる自
由だと思ってしまう。

しかし人を憎むと平安を失い、苦しく辛く、非常に不自由だ。では、
どうする事が自由なのだろう。愛が無い事を認めて、主に愛を求め
る時に、主は取り扱って下さる。その示しに従う中で、主からの愛
が与えられる。憎むのではなく、愛して行く時に解き放たれ、平安
と御霊の喜びを経験する。自分を明け渡して、御霊に従って行く時
に、自由に、自由にされて行く。
-------------
憎みたいままに憎んでいるなら、わがままな自我に振り回される奴
隷だ。主が与えてくださった御霊に導かれて生きよう。主が自由を
与えてくださる。


2021年01月13日(水)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩編37:5



思い煩いに飲み込まれる事があるだろうか。突如の問題が起きて、
不安でたまらない。恐れと心配の深い淵に落ち込んでしまう。心は
重く、真っ暗だ。そんな時、主はどこにおられるだろう。問題が高
い城壁のように立ちはだかり、主は飛んでしまっている。何とかし
なければと、そればかりで、ますます心はずっしりと苦しい。自分
の肩に重荷が、すべてかかっているからだ。重くてたまらない。

しかし「自分が」「自分が」と、自分が先立って動くので、ますま
す主が遠のいてしまう。しかし自分ではどうにも出来ず、空回りす
るばかりだ。どうにもならない、瀬戸際まで来た時に初めて、主を
覚え、主に拠りすがる。主は助けの手をのべて下さる。最初から頼
ればよいのだが、同じ事を繰り返す。自我が強く主に渡せない。

いろんな人々が、委ねればよいとわかるのだがどうしても、委ねる
事ができない。手放す事ができないと。自分が手放すと、事態がだ
めになる、崩壊してしまうと思う。又、自分自身を委ねると、なぜ
か何もかも失ってしまい、自分の思いの道を歩めなくなってしまう
と。そのため自分が握っていなければと、ますます固く握る。

そしてどんどん苦しくなり、窮地に陥ってしまう。自分には委ねる
事ができない事を認めよう。そして主に助けを求めよう。主が委ね
させて下さる。初めて自由にされ、平安と喜びに満ちる。自分の思
いとは違うかも知れないが、思いを遥かに越えた豊かな祝福が備え
られている。
-------------
思ったような解決を願っている時は、お委ねしたつもりでも、また
心配してしまう。狭い視野でがんじがらめの自分を手放して、主の
解決にお任せしよう。


2021年01月12日(火)

「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」マタイ20:16



最初この箇所を読んだ時に、自分は早朝の者のように感じるだろう
か。不公平ではないかと。だがこれは地上の事ではなくて、「天の
御国」の事を言っている。御国では、先の者が後になり、後の者が
先になると。地上の国から見ると逆だ。地上の価値観は、先の者が
先で、後の者は後だ。御国の価値観は、地上の価値観と全く異質だ。
すべてが恵みにおおわれ、恵みが支配する世界だ。

地上は恵みでなく報酬の世界だ。働いた分に比例した報酬を得る。
労働を提供した分は、その通りに貰う。そこで御国の価値観とこの
世の価値観が、かみ合わない。この世の価値観では、働きに比例し
ない報酬に腹を立てる。納得が行かない。そしてそれはこの世では
「正しい」ことだ。しかし御国は、全く質を異にする「恵み」の世
界だ。

労働を提供していないのに給料を貰えるのが、恵みだ。この世では、
それでは経済活動が成り立たず、混乱だ。つまり御国とこの世は、
全く別のものだ。主は、きちんと雇用契約通りに、早朝の労務者に
1デナリを支払われた。そして、9時の者からは「相当のもの」と
契約された。溢れるばかりに与える気前の良い主は、他の者にも同
じように良くしてやりたいと願われた。

肉の価値観は、御国の価値観を受け入れ難い。神の国が実力主義、
成果主義でなく、恵みの世界だからだ。培われて来た根深い価値観
と相容れない。しかし5時の者にとればどんなに嬉しく、有難い事
だったろう。家族に持ち帰るものが無く、心暗く沈み、不安でいた
中、どんなに喜び、感謝が溢れた事だろう。御国はあわれみが支配
する場所だ。
-------------
一日中立っていても雇われない者を5時から招き入れて恵みを与え
てくださる。主のあわれみは尽きない。この世の価値観でものを見
るとき、ここに立ち返ろう。


2021年01月11日(月)

「こうして、私は神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう」詩篇43:4



あなたが、最も心の喜びとするものは何だろう?人は皆、自分の心
に幸せを与えてくれるもの、自分を満たしてくれるものを喜ぶ。満
足を与え、幸福感を与えてくれるものを求める。もし、富が自分を
幸せにしてくれて、夢を実現させてくれて、楽しませてくれ、一生
を保障してくれると思うなら、人生に富を求めるだろう。

又、人から認められる事、評価される事、ほめられる事が自分に満
足と喜びを与えてくれるなら、人の賞賛に的を合わせて生きる事に
なる。「何を喜びとするか」で、人はそこに、自分の時間も能力も
労力も注ぐことになる。そしてその思いの通りの人生が築き上げら
れる。無意識ながら、方向性を決めてしまう事になる。自分は何が
喜びなのだろう。

ある宣教師は、力を尽くして宣教活動をし、人が集まれば喜び、人
が来なければ、がっかりし落胆した。目に見える成果に喜び、それ
が無ければ失望する。しかしある時、これなら働きの成果を喜びと
しているのであって、主を喜びとしているのでは無い事に気づかさ
れた。主ご自身ではなく、主が下さるものを喜びとしている。

それなら自分の願いが叶わない時、必ず落胆するし不満になる。
成果でなく、主からの祝福でなく、主ご自身を喜びとして行くなら、
状況や結果に関係なく、変わる事のない喜びがある。主との関係の
中にいる事が喜びなら、何があろうと無かろうと揺るぐ事がない。
主以外の、別のものを拠り所としていないだろうか。
-------------
心が簡単に幸せだと感じるものを見つめ、手に入ると神様感謝しま
すと満足するが、足らず、満たされず、手に入らない時に、主はご
自身を求める本当の幸いな生き方に導いてくださるのではないか。


2021年01月10日(日)

「蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった」マタイ13:4


種は神の言葉であり、耕地でなく、人が行き来する固い道ばたに落
ちた。もし大切な物なら、道ばたに落ちたまま放っておくだろうか。
もし放っておくなら、それは捨てても構わない、どうでもいい物と
いう事になる。道ばたの心は、本心では神の言葉をそんなに大切な
ものとは思っていない事になる。

気に留めていない。関心が無い。だから「悪い者が来て、その人の
心に蒔かれたものを奪って行く」と。悪魔が来て、信じて救われる
ことがないように、心から御言葉を奪い去ってしまう。心に入らな
いという事は、結果的に聞かなかった事と同じになってしまう。そ
うであれば、実を結ぶ事ができず、自分が変えられて行く事もない。

御言葉を聞く態度はどうだろう。主が、出エジプトの際の奇跡で、
激しい雹を降らせるから、今すぐ家畜、野にあるすべてのものを避
難させよと言われた。雹で、人も家畜もみな死んでしまうからと。
その時、主の言葉を恐れた者は、言われた通りに、しもべ達や家畜
を家に避難させた。

しかし、主の言葉を心に留めなかった者は、御言葉をないがしろに
し、しもべ達や家畜をそのまま野に残した。激しい雹はことごとく
を打ち砕いた。主の言葉を畏れるなら、言葉を受け取り、必ず行動
が生まれる。聞き従って行く。

私たちは御言葉をどう聞いているだろう。主の言葉を軽んじて、な
いがしろにし、聞き流しているだろうか。主の言葉には力がある。
愛があり、真実があり、、主のわざを成し遂げて行く。主の豊かな
祝福にあずかる。祈って、御霊に助けられて、御言葉に耳を澄まそ
う。そして御言葉に従おう。

・・・・・・・・・・
御言葉を聞いて、従うなら、100倍の実を結ぶ。まず御言葉が無い
限り、信仰も、結実も無いので、御言葉に向く姿勢は非常に大切だ。
漠然と成長する事はなく、御言葉である種が芽吹き、茎となり実
を結ぶ。聞く態度を助けられて、聞いた言葉に従おう。


2021年01月08日(金)

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」ルカ5:4



漁師であったペテロが、前夜不漁であったにもかかわらず、朝に
「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」との主の言葉
を受けた。しかし朝に魚などいるわけがない。そして更に昨夜は一
匹たりとも捕れなかった。骨折り損で、全くの無駄ではないのか。
しかしペテロは、常識には全く反しているのだが「でも、おことば
どおり、網をおろしてみましょう」と主の言葉に従った。

すると驚くべき大漁だった。なぜ、網をおろそうと思えたのだろう。
ぺテロは舟を降りて網を洗っていた。その時、大勢の群衆が押し合
いへし合いで、主の言葉を聞いていた。だがペテロは無関心に背を
向け聞いていなかった。徹夜の漁で心身疲労こんぱいで、一刻も早
く帰り休みたかったろう。

そんな時、主がペテロに舟を少し出すよう頼まれ、舟から群衆に語
られた。ごった返していた群衆は主の声もよく通り、よく聞けた。
ペテロは自分の持ち舟なので、舟の中で御言葉を聞かざるを得ない
状況だった。主の計らいだった。御言葉にじっくり耳を傾けた事、
それが「でも、おことばどおり」網を下ろす事に至った。

ペテロは、御言葉を聞いた事により変えられた。自分の経験値、自
分の思い、自然界の常識では、魚はいない。いるはずがない。まし
てや昨夜、ベテラン漁師の自分も一匹も捕れなかった。目に見える
ところはすべてが反対方向を向いているが、「でも」御言葉に従っ
た。ペテロは自分軸から主の言葉を軸に従うようにされた。

私たちも、御言葉軸で生かされたい。伝道は難しい。なかなか人は
救われない。しかし主は深みに漕ぎ出して、網を下ろせと言われる。
状況は難しい、でもおことばどおりに、再度網をおろしてみよう。
そして続けよう。
-------------
自分の経験から得たものを簡単に飛び越えられない。でも、そこに
は必ず主の計らいがあるはずだ。主が押し出してくださる。信じて
漕ぎ出そう。


2021年01月07日(木)

「『こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は』と言った。そして主のみこころを求めに行った」創世記25:22



信仰人生に「なぜ?どうして?」と思うことが起きる。穏やかな日
々に、突如の苦しみが臨む事もある。主に従うなら、祝福されるの
ではないのか、なぜこんな苦しみ悲しみに会うのか。経済的苦境、
対人関係の悩み、仕事の問題、病気、離別・・様々な問題を通る。

イサクとリベカ夫婦にも試練があった。40歳で、イサクはリベカを
めとったのだが、リベカは不妊の苦しみを通った。その上、不妊は
当時、神に呪われているという迷信があり、人々から、何か後ろめ
たい事があるからだと中傷され、更に辛い状況だった。そのため、
イサクは自分の妻のために主に祈願した。

苦しい状況にある妻のために切に祈った。主はイサクのその切なる
祈りに答えられた。主は、窮地に陥った者の祈りを聞いて下さる。
私たちも、窮地にはまず祈ろう。リベカは双子を妊娠した。どんな
に喜びであった事だろう。ところが、双子の兄弟がお腹の中でぶつ
かり合い、争うという悩みが襲って来た。

あんなに求めた子供なのに、リベカは不安でたまらず、そんなリベ
カがした事は「そして主のみこころを求めに行った」とある。私た
ちも、喜びの日々から、突然わけのわからない不安な状況に陥った
り、理解不能の事態に遭遇する事がある。そんな時はリベカのよう
に、主のみこころを求めよう。主は祈りに答えて、主のお心を示し
て導いて下さる。
------------
突然の事態でも主に祈ると希望が生まれる。主が聞いてくださり愛
を持って答え、導いてくれるからだ。足りない自力で頑張って生み
だす希望ではない。主に信頼していよう。


2021年01月06日(水)

「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は、今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに」Tサムエル13:13



サウル王は、サムエルが来るまで7日間待てと言われていたのに、
7日間が過ぎてもサムエルが来なかったので、自分で勝手にいけに
えを献げてしまった。しかしそれは祭司しか献げる事のできないも
のだった。人間的になら、サムエルが遅れたのが悪いのでは、そし
て民が離れて行こうとしている中、仕方無かったのではと思えるか
も知れない。

又、アマレクを打ち、すべてのものを聖絶せよとの命令を受けたに
関わらず、自分の思いで、最も良いものを惜しみ、値打ちの無いも
のだけを聖絶した。そしてアマレクに勝利した事で、自分のための
記念碑をも建てた。しかしサウルのした事は、罪であった。それは
占いの罪、偶像礼拝の罪だと言われ、主の御前に大きな背きであっ
た。

サウル自身は、良い事をしたとの自覚しかなかったろう。しかし、
重要な事は、自分が思うことではなく、主が言われた事に従い、そ
れを行なう事だ。自分が良いと思うことではなく、又、主が喜ばれ
るであろうと、「自分が思う」事ではない。ここで自分の思いが入
り、間違ってしまう。主の示しより、自分の考えの方が良いように
思えてしまうのだ。

しかし、それが「主のことばを退けた」ことになり、御言葉を捨て
た事になってしまう。私たちもどうだろう。主が喜ばれるであろう
と、「自分が」思う事を行なってるだろうか。主が最も喜ばれる事
は、主の御声に聞き従うことだ。そのために祈り、御声に耳を澄ま
し、よく聞く事が必要だ。従う時、御霊が助けて、成し遂げさせて
下さる。
------------
善悪を自分で判断している事にまず気づきたい。自分中心にしか見
えない者で、いつも自分のためにが先立ってしまう。自分のために
御言葉や主の導きを求めていないかへりくだり、謙遜に主に聞こう。


2021年01月05日(火)

「しかし、百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した」使徒27:11



パウロたち囚人は、船でイタリヤ行きが決まり、百人隊長に引き渡
された。途中で季節的にもう航海は危険なので、パウロは中止を忠
告した。しかし百人隊長はパウロより航海士や船長の判断を信じ出
航した。するとパウロの言葉通りに、暴風で危機的状況になり、な
すすべなく流されるままになった。

激しく翻弄される中で、人々は命の危険を覚え、非常な恐れに襲わ
れ、ついに最後の望みも絶たれようとしていた。その時に、パウロ
は人々を励まし、命を失う者は一人もないと、神の言葉を告げる。
そして紆余曲折ありながら、パウロの言った「頭から髪一筋も失わ
れることはない」の通りになった。

最後は「みな、無事に陸に上がった」。神の言葉のその通りに成就
した。パウロは絶体絶命に見える瀬戸際の中で、目に見える絶望の
状況ではなく、神の言葉の方を信じた。それゆえ信仰により、人々
に告げる事ができた。主が、湖上の小舟で熟睡中、弟子たちは嵐に
ほんろうされた。「黙れ、静まれ」の一言で、荒れ狂う湖が大なぎ
になった。その時に「信仰がないのは、どうしたことです」と言わ
れた。

私たちも人生の嵐に会うと、パニックになり、恐れに飲み込まれて
しまう。主への信仰だけが恐れと不安を消し去る。状況を見るので
なく、御言葉のほうを見ることが信仰だ。今、あなたの目はどちら
を見て、受け入れているだろう。
------------
羅針盤さえない時代の航海で、必ずローマに到着すると主の約束を
信じて絶望の中で励ましを語れるパウロに学ぼう。今年も様々な波
や風が立つが、主を仰ぎながら進める航海は何と幸いだろう。


2021年01月9日(土)

「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから」マタイ8:8



ある百人隊長が、主のもとに中風のしもべのいやしを求めて来た。
この隊長は異邦人であり、しもべとは、当時は奴隷であり、奴隷の
ために心を配り、神を畏れる愛情深い人物であった。自分の家に来
てもらう資格もないので、お言葉を下さいと。しもべは直りますか
らと。へりくだった態度であり、そして彼は何より神の言葉は必ず
成就すると信じきっていた。

主は、彼の信仰に「驚かれ」、感心し「このような信仰を見たこと
がない」と言われた。主が驚かれるのは「信仰」だ。立派な善行で
はない。彼も権威の下にあり、権威がよく理解できた。例えば警官
は車を誘導し、止めたり動かしたりできる。又、違反すれば切符を
切られる。運転者はそれに従う。それは、警官に権威が与えられて
いるからだ。

そして軍隊の上官の命令は絶対であり、百人隊長は、更に最たる神
の権威を認めていた。だからその神の言葉の権威も認めた。主は
「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」との言葉
を与えられた。すると丁度その時、しもべはいやされた。神の言葉
には力と権威がある。霊でありいのちだ。神の言葉はすべて必ずそ
の通りに成就する。

私たちはその権威と力のある言葉をどのように聞いているだろう。
ぼんやり聞いて、適当な受け止め方だろうか。祈りをもって真剣に
聞き、語られた言葉に信仰をもって応答する時、主が働かれ、みわ
ざを見る。今、語られていたなら、従おう。

・・・・・・・・・・・
御言葉を素直に、真摯に、信仰もって聞けたらどんなに良いだろう。
それを妨げている、内側にある頑なな岩や、不信仰に気づけますよ
うに。御言葉を聞く事から信仰が生まれるので、土地である、心が
耕されて柔らかくされ、種がしっかり根付いて行きますように。