2021年04月30日(金)

「私はひどく悩んでいます。主よ。みことばのとおりに私を生かし てください」詩篇119:107



信仰生活の中で、突如の問題や、悩み、困難に出会う。心は苦しく、
悶々とし、真っ暗闇の中にいるように感じる。何がどうなっている
のか、わけがわからない状態だ。落ち込むばかりだ。どこに向かえ
ば良いのか、どの方向に歩を進めば良いのかわからない。方向も見
えない。暗闇のトンネルの中だ。そんな時こそ、みことばが、私の
足のともしびだ。暗闇の中を歩む時に、何が必要なのだろう。

光だ。光があれば、足元が照らされて、歩を進める事ができる。停
電の真っ暗な中は、歩けない。でも、ろうそくの光があれば歩ける。
試練の中で、「みことば」を真剣に求めよう。ある人は次々と厳し
い試練に襲われ、飲み込まれてしまい、ただ頭をおおって、しゃが
み込んでいるばかりだった。

そんな状態だったが、礼拝で「祈りなさい」との御言葉が語られた。
祈りもできず、ただ流されるままになっている自分の姿が見えて、
まず祈る事を始めますと。前を向いて歩み出した。別の人は、突然
の極めて厳しい困難の中で、御言葉を求めた。「わたしを呼べ。そ
うすれば、わたしはあなたに答え」と語られ、まず祈る事を示され
た。「理解を越えた大いなる事を示す」と。

祈りを積むと、思いとは全く違うが、進むべき道がはっきりと示さ
れた。確信持って示された道に進む事ができた。どうしてよいか全
からない状況の中で、御言葉を求めよう。主は御言葉を与え、進む
べき方向へと導いて下さる。

・・・・・・・・・・
真っ暗闇の中で、一番必要なものは何だろう。光が、暗闇を消し
てくれる。光があれば、歩を進める事ができる。そして御言葉が光
だと言っている。悩みや苦しみの中で、御言葉を祈り求めよう。
主は御言葉を与えて下さる。御言葉により、心が救われる。


2021年04月29日(木)

「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありも しないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いで す。喜びなさい。喜びおどりなさい」マタイ5:11


クリスチャンは、時に、信仰ゆえの試練に会う。信仰のための苦
しみがある。だが自分の未熟さ、欠点ゆえにトラブルを起こし、周
囲に迷惑をかけて、苦しみを招く。これは信仰ゆえの苦難ではない。
誰でも、礼儀に反する事をするなら嫌われるし、自己中心に歩めば、
周囲とまさつが起きる。

しかしクリスチャンという事で苦しみを受ける事がある。悪口を言
われたり、仲間はずれにされたり、何の非も無いのに非難中傷され
たり、不当な扱いを受ける。「そしりと苦しみを受け、捕らえられ、
財産が奪われ」・・今は、即、公安が来て拘束されたり、命を奪
われる事は無い。が、辛く当たられ、村八分にされるような、不当
な苦しみを受ける事がある。

しかしそれがキリストゆえの苦しみなら、恥じる事はないと。この
事のゆえに、落ち込み、落胆するのでなく、喜べと。喜び踊れと。
そして主を崇めるようにと。「喜びなさい。喜びおどりなさい。天
においてうける報いは大きいのだから」と。その人は、たとえ迫害
され、辱めを受けたとしても、主との個人的な堅い関係があるので、
幸せな人だ。

そしてこの世の喜びではない、御霊の喜びが与えられる。どんなに
自分が罪深いかを知り、その罪が赦されている事を知っている。ど
んな愛で愛されているかを知っていて、いかに苦しい時にも、主が
共におられることを知っている。

・・・・・・・・・・・
信仰ゆえに迫害がある事は、御言葉が言っている事で、わかって
いる。しかし、わかっているのだが、嫌がらせや、攻撃を受ける時、
心が落ち込んでしまい、意気消沈してしまう。そこで主は喜べ、
喜び踊れと言われる。天で報いは大きいと。御言葉に立とう。


2021年04月28日(水)

「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなけれ ばならない」出エジプト14:14



様々な信仰の勇者たちが、信仰による戦いを戦ったが、その主によ
る方法は、人間的に見るなら、意味をなさないようなやり方だった。
指導者モーセは、出エジプトを果たしたのだが、エジプト軍の追っ
手にどんどん迫られ、とうとう前は、断崖絶壁の紅海となり、前進
も後退も出来ない絶対絶命の状況に陥った。

その時、主は、祈るモーセに、何と「恐れるな。イスラエルの民に
前進するように言え」と。モーセがその通りに従うと、目の前の紅
海が分かれ、道が出来た。又、難攻不落のエリコの高い城壁を前に、
ヨシュアは、町の周りを回るよう命じられた。6日間町の周囲を1
度周り、7度目に7度回り角笛を吹き、大声でときの声をあげよと。
その通りに従うと城壁は崩れ落ちた。

又、ダビデは、無敵の巨人ゴリアテに向かい、剣や槍でなく、石投
げで石を打ち、見事に倒した。彼らが戦いに勝利したのは、主の示
された方法に従ったからであった。人間の思いでは、目の前の状況
は絶体絶命、不可能な中、そんな事をして何になるとの、不可思議な
方法だった。しかし主の示し通りに従った時、主の奇跡が現わされ
た。

「この戦いは主の戦い」まさに人間のものでなく、主の戦いであっ
た。私たちも時々理解を超えることがある。どう見ても不可能に見
える事もある。しかし主を信じて従う時、主の栄光を拝する。目の
前の一歩一歩を主を仰ぎ、御霊の方法に従う事が大切だ。御霊は
確実に導かれる。とにかく主の方法に従う時、それは主の戦いとされ
る。

・・・・・・・・・・・
自分の思いで、自分から発した事は、自分の戦いになる。それが
御霊の実を結ぶ事はない。しかし、主から発した事、主の示しに従う
時、それは主の戦いとされる。主の戦いであれば、必ず主のみわざが
現われる。主との交わりの中で、主に伺いながら、一歩一歩進もう。


2021年04月27日(火)

「わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あ なたがたの思いよりも高い」イザヤ55:9 


35階のビルの入口に立って、地上からビルを見上げる時、そのビル
と近隣が見えるだけだ。しかし、ビルの最上階に行き、そこから景
色を眺めるならどうだろう。遙か彼方の地平線まで見える。遠方の
景色まですべてが展望できる。有限な私たちは地上で見ているごと
く、ほんの目先の情報でしか、物事を考えられないし、判断できな
い。

様々な計画を立てるにしても、近視眼的に、目の前しか見えていな
い。遙か先の事は見えないし、明日の事すらわからない。しかし永
遠であり、全知であられる主はどうだろう。明日も、私たちの将来
も、行く道も何もかも見通されていて、完全にご存じだ。私たちよ
りも遙か先を見た上で、今の状況を導き、配慮して下さっている。

自分はこの考えは絶対だ、この計画は絶対だと思う。自分軸で見る
ので、そう思えてしまう。そして、自らが立てた計画通りに事が運
ぶように願う。だがその通りでなく、思い通りにならないと、焦り、
イラ立ち、不安になり、思い煩う。ところが、遙かに高い主の前で
は、自分の計画は絶対ではないかも知れない、そのへりくだりが必
要だ。

しばしば主のみ思いと自分の思いに、大きな隔たりがある。主は私
たちの事も、将来も、周囲の事をも配慮し、最善をして下さる。そ
して全主権を持たれる主は、愛なる主だ。しばしば思い通りでない
事態を通るが、愛なる方が、ご自身の計画されている最善へと導い
て下さる。

・・・・・・・・・・・
自分で何とかしようとしている時は、問題の全部が、自分の肩に
かかっている。重くのしかかり、思い煩いでいっぱいだ。高層ビルの
最上階、遙か以上から見られる、全知全能の主に、おゆだねす
るなら、どんなに安堵で平安だろう。肩から重荷が落ちてしまう。


2021年04月26日(月)

「あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしの ように、新しくなる」詩編103:5



私たちは、主を信じて以来、祈る事を教えられ、祈る恵みにあずか
っている。主に祈り求め、数えきれない祈りが答えられた事を、感
謝している事だろう。同時に、答えられなかった祈りも多く経験し
て来た。そして、振り返ってみた時に、答えられなかったあの願い、
この願い・・答えられずに良かったという事を見い出す。

あの時、この時、自己中心なあの願い、この願いに、その通りに答
えられていたら、どんなに方向違いの、間違った道に行っていただ
ろうか。私たちは、目先の事しか見えないし、肉の思いも、欲も強
く、自分の真の必要をわかっているわけではない。どうしても自分
軸で、自分を中心に物事を見てしまうので、正しく見えていない。

あの時、あの祈りが答えられていたら、自分はどんなに高慢になっ
て、恐ろしい事になっていただろう。道が閉ざされた事で、心砕か
れ、へりくだらされ、高慢になる事から守られた。むしろ素晴らし
い益で、良い事であった。主に拠り頼むようにされた。思い通りに
なっていたら、どうなっていたかわからない。

自分はこれが、あれが、絶対に最善と思うが、目の前の美味しい草
をあさって迷子になる羊のごとく、目先の事しか見えていない。主
は、遙か先まで何もかも見通された上での最善を用意して下さって
いる。
自分の思う最善でなく、主が思われる最善を求めて行けたらどんな
に良いだろう。自分の思いを横に置いて、主のみ思いを求めてみよ
う。主が下さるものは、どうであれ、常に良いものだ。

・・・・・・・・・・・
色々な人々が、願いの道が閉じられて、高慢から守られたと言う。
思い通りの人生なら、どんなに高慢で、恐ろしい事になっていたかと。
閉ざされたのは、良い事だったと。自分の思う良い事と、主の良い
事は違う。主は良いものしか与えられず、良いもので満たして下さる。


2021年04月25日(日)

「ところが取税人は、遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、 自分の胸をたたいて言った『神さま。こんな罪人の私をあわれんで ください』」ルカ18:13



謝罪に関してどうだろう。大人でも、子供同士の喧嘩でも、一方が
謝罪した時に、受け入れてもらえない場合に、逆ギレする場面を見
るだろうか。腹を立てて、攻撃的になる。それは真に謝罪していな
いことを暴露している。口先だけの謝罪であり、事実、悪い事をし
たのだが、本当は悪いと思っていない。自己正当化だ。相手が悪い
から、こうなったと心では思っている。

だから、攻撃、非難に転じる。もし真の謝罪で、真の悔い改めなら、
自分の非が、はっきりわかっていて、悔いくずおれる。自分は、到底
赦されるなどと思えず、赦される事が驚きだ。パリサイ人と取税人
の祈りの箇所で、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようとも
せず、自分の胸をたたいて「神さま。こんな罪人の私をあわれんで
ください」と言った。

心から悔い改めていた彼は義と認められて帰った。又、ダビデがバ
テシバとの姦淫とその夫ウリヤ殺害の罪を犯した時に、ナタンの指
摘に、「私は主に対して罪を犯した」と心から悔い改めた。即「主
もまた、あたなの罪を見過ごしてくださった」と罪の赦しを受けた。

そして「この事で、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あ
なたに生まれる子は必ず死ぬ」と言われた時に、ダビデはへりくだ
って、その取り扱いを厳粛に真摯に受け入れた。そこには不満も、
反抗も無く、「主の宮に入り、礼拝した」。主にひれ伏し、御名を
崇めた。

・・・・・・・・・・・・
御霊に導かれた悔い改めは、真に罪がわかり、悔いくずおれる。
人の事など全く見えない。ただただ自分の罪が見えるばかりだ。
取税人が、こんな罪人の私をあわれんでくださいと言った言葉の
通りだ。そして、その罪が赦された、安堵と平安を経験する。


2021年04月24日(土)

「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかし したように、ローマでもあかしをしなければならない」使徒23:11



パウロは、主からローマ行きを示されていた。だが、第3次伝道旅
行の後、エルサレムに寄った際に「除いてしまえ。生かしておくべ
きでない」と人々に殺されそうになり、引き裂かれるのではと思う
ほどの大変な騒動になった。捕らえられてしまい、ローマに行く事
は、閉ざされたかのように、全く不可能に見えた。

しかしその監禁により、却って暗殺者から守られる事になった。又、
でたらめな、実の無い裁判に見えたが、それは総督ペリクスやフェ
ストに証しをする機会となった。そして丁度アグリッパ王がフェス
トに会いに来たため、王にも福音を語る機会が与えられた。何とい
う主の支配と導きだろう。

パウロは更にローマ皇帝に上訴したため、これがローマへの道を開
き、パウロの思いとは全く違い、囚人としてであったが、ローマに
向かう事になった。その船が幾日も大嵐に会い、危機的状況となり、
最後の望みも絶たれようとしていた。しかしパウロは必ずカイザル
の前に立つとの、主の言葉を信じていた。

船は座礁したが、主の示し通りに、全員が岸に辿りつき助かった。
「こうして、私たちはローマに到着した」。パウロは無事ローマに
着き、福音を伝える事になった。紆余曲折はあるが、どんな障害が
あっても、主は必ず語られた言葉を実現される。100%成就する。

あなたは今、途上の苦しい中にいるだろうか。何もかもうまく行か
ないだろうか。しかし結末がある。「こうして、ローマに到着し
た」。必ず、あなたに約束された御心は、主が成就させられる。信
じて忍耐しよう。

・・・・・・・・・・・
パウロのローマ到着への行程は、パズルのピースが埋まって行くかの
ように、すべての出来事がふさわしい場所に配剤されていた。又、
それは一見、負の出来事だ。しかし重大な意味を持って埋まって
行く。私たちも今、負にしか見えないその事が、栄光へと結果して
行く。、


2021年04月23日(金)

「神はバラムに言われた『あなたは彼らといっしょに行ってはなら ない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されている からだ』」民数記22:12



バラムは、モアブ王バラクに、イスラエルを呪うようにと頼まれた。
その時、バラムは神の御心がはっきりと告げられた。彼らと一緒に
行ってはならない、呪ってもいけない。その民は祝福されているか
らと。主の答えだった。しかし更なる使いが来た。その時に、バラ
ムは「主が、私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめま
しょう」との態度だった。

御心は、すでにはっきりしているのに、それ以上何を確かめる事が
あろう。次には、従うことがあるだけだ。示された事を実行する事
が御心であり、求められている事だ。だが、私達も同様の事をして
いないだろうか。結局のところ、神の御心というのは建前で、自分
の思い通りの事を、都合の良い事を言って欲しい。求めているのは
その事だ。

ある人が、ありとあらゆる偶像を巡りに巡った。自分の求めている
答えを得るまで、拝み屋を次々と回り歩いた。その人は答えがすで
に決まっていて、承認印が欲しい。私達もしばしば、導きを求めて
いるのでなく、承認を求めている。自分の思い、自分のしたい事は
すでに決まっていて、どうしても遂げたい。

御霊は、気づきを与えて下さる。あなたも御心を示されているのに、
尚も祈っている状態だろうか。行動に移したくないので、ぐずぐず
しているだろうか。その示された事柄に、信仰もって従おう。その
一歩に従うと、次に展開がある。まず目の前の御心に従う事が大切
だ。

・・・・・・・・・・・
バラムは、本音は行きたかったので、他の事をお告げになるか再度
聞こうとした。主の御心どうのでなく、自分に都合の良い答えが欲
しい。又、御心が示されているのに、ぐずぐずする。自分の内にも
ある肉に、気づける事が感謝だ。主に助けを求める事ができる。


2021年04月22日(木)

「主はサタンに仰せられた『では、彼のすべての持ち物をおまえの 手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない』」ヨブ1:12


サタンは、神のように全知全能ではない。サタンはあくまでも被造
物だ。全主権は主にある。サタンは、主の許可の範囲内でしか働け
ない。ヨブ記にあるように「持ち物はよいが、身に手を伸ばすな」
と。持ち物に限定で、身体は触れる事が出来ない。次にサタンに
「身体はいいが、命には触れるな」。身体に限定だ。主が限度を定
め、その限度内でしか働けない。

12弟子の1人であるユダは、銀貨30枚で主を売った。その結果、主
は捕らえられた。「サタンがユダの心に、主を売ろうとする思いを
入れた」とあり、サタンが思いを入れ、ユダはそのサタンの思いに
同調し、行動に移した。全能の主は、サタン阻止は可能だが、その
サタンすら、主の御旨の成就のために利用された。主が天でも地で
も、全権を握っておられる。

サタンは、主を十字架の死に追いやったが、結果的に、その十字架
は人類の贖いを完成させてしまった。もう決して後に戻せない。サ
タンもどうする事も出来ない。又、ペテロもサタンにやられてしま
った。自分の弱さを知らず、自信満々で、主に従って行けると思っ
ていた。しかしいざとなると保身に走り、主を否んでしまった。

だが、主はそれもご存じの上で、ペテロの将来を見据えておられた。
「サタンがあなたをふるいにかける」と。ユダは悔い改めず、ペテ
ロは悔い改めた。ペテロは粉々に砕かれ、自らの弱さを知った。サ
タンは働くが、主はその上におられ、背後で支配されていて、勝利
へと導かれる。

・・・・・・・・・・
時に、次から次へと試練に会う。そんな時は、まるでサタンにほんろう
されているように感じる。しかし最も肝心な事は、サタンも主の支配下
であり、全主権は主にある事だ。サタンも主の許しなくして動けない。
すでに勝利だ。何という安堵で、嬉しい事だろう。



2021年04月21日(水)

「主はギデオンに仰せられた。『わたしはあなたといっしょにいる。 だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そ う』」士師記6:16


ギデオンが、敵であるミデヤン人を逃れて、恐れて酒ぶねに隠れて
いた。しかし主はそのギデオンに、「あなたのその力で行き、イス
ラエルを救え」と告げられた。「わたしがあなたを遣わす」と。驚
いた彼は、どうして自分にそんな事が出来よう。自分の分団は最も
弱く、私はその中で一番若いと。自分には無理だと言った。

すると主は「わたしはあなたと一緒にいる。あなたはミデヤン人を
打ち殺す」と。その時、ギデオンは主に、あなたであるというしる
しが欲しいと願った。本当に主からの事なのかと。二度のしるしを
求め、確かめた。主はギデオンに答えられ、彼は主による事と確信
した。恐れて隠れている彼に「勇士よ」と語られ、現在の彼ではな
く、主は先を見据え、勇士として戦うギデオンを見られた。

そして「あなたのその力で行き」と、彼がいかに弱く、若くても何
の問題も無いと。主が共におられる事と、主の任命がすべてだ。私
たちも、自分の弱さを見て、嘆き、自らの無力におじけづき、何が
出来ようとひるんでしまう。私たちもどうだろう。主からの示しに
も、自分を見るなら、能力は無い、時間も富も力も不足だ。

しかし、主は「あなたのその力で行け」と言われる。あなたの力の
問題ではなく、どなたが共におられるかの問題だ。主が共におられ
るかどうかが、すべてだ。主が遣わされなら、必要な力は与えられ
る。今、あなたにも「あなたのその力で行け」と御声をかけておら
れるだろうか。

・・・・・・・・・・・
主から、何かの御心を示された時に、とても無理、荷が重いと感じ
るだろうか。時間は無い、知恵は無い、無い無い尽くしだ。しかし
「わたしはあなたと一緒にいる」「わたしがあなたを遣わす」のだ
から、そのままで「行け」と。主が背中を押しておられる。


2021年04月20日(火)

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありませ ん。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じよう に、試みに会われたのです」ヘブル4:15

 

私たちの主は、私たちの弱さをご存じだ。弱さを裁き、責められる
のでなく、理解し、同情して下さっている。何と有難い事だろう。
身体は弱さを覚えるし、病気にもなる。主は肉体をとって、地上に
来られたので、疲れ果ててしまう身体の弱さもよくわかって下さる。
弟子たちと向こう岸へ渡る時、湖上の舟のともで、嵐のまっただ中
も熟睡されていた。

それほど身体が疲れておられた。又、身体と共に、内側の弱さもご
存じだ。憎しみや敵対心、妬み、赦せない思いは、苦しく辛い。そ
れらを正直に主に告げて行こう。主は導いて、その苦しみ辛さから
自由にし、解き放って行って下さる。又、罪を犯してしまった時、
御前に悔い改めるなら、豊かに赦して下さる。赦しを受け取ろう。
平安が戻る。

又、私たちは、しばしば試練を通る。試練は非常に苦しく辛いが、
主も共に苦しんで下さっている。「彼らが苦しむときには、いつも
主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによ
って主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られ
た」、その苦しみを理解し、わかって下さっている。

主は、恵みの御座へと私たちを連れて行って下さる。「あわれみを
受け」「恵みをいただいて」、おりにかなった助けを受けるために、
大胆に恵みの御座に近づこうと。そこには、時ピッタリの助けがあ
るからと。近づく根拠は、自分の力、功績でなく、主の「あわれ
み」と「恵み」だ。何と感謝な事だろう。

・・・・・・・・・・・
弱さに同情して下さっているとは、何と救われることだろう。誰し
も弱いし、弱さを持っている。それを責めず、裁かず、受け止めて
下さっている。そして主のもとに行くなら、折りにかなった助けを
下さると。いつも主のもとに、あわれみと恵みが


2021年04月19日(月)

「しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える民を、 わたしはその土地にいこわせる」エレミヤ27:11


主も「わたしのくびきを負って、わたしから学べ」と言われた。く
びきとは、板に穴が二つ開いていて、二頭の家畜の頭部を入れるも
ので、二頭を同じ方向へ進ませるためだ。くびきは、その穴に首を
きちんと入れると、締め付けられず、窮屈でもなく、快適で心地良
い。が、くびきを嫌がり、もがくと首が締め付けられる。くびきを
逃れようとするなら、更に締め付けられ、痛くて辛いものとなる。

これさえ無ければと思う、自分を非常に苦しめるものとなる。あな
たにとって、くびきはどちらだろう。民のバビロン捕囚の際、長く
なるので、地に足をつけてその地で生活するようにと。バビロン王
のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えよと。自分のくびきを
「受け入れ」しっかり負う時、そのくびきは平安と喜びをもたらす。

しかし受け入れず、もがく時、それはきつく首を絞め、ただ苦しめ
られるものとなる。もし、くびきを受け入れ難いなら、そう出来る
よう祈る事ができる。主は助けて下さる。ある人は、状況が受け入
れられず、苦しいばかりだった。どうしても受け入れられない。心
は重く辛く苦しい。もがいて悶々状態だ。

もう瀬戸際に来て、「どうにも出来ず、もうぼろぼろです、助けて
下さい」と叫び祈った。ギブアップの祈りに答えられ、主の助けが
臨んだ。くびきを受けれ入れる事が出来た時に、心は自由にされる。

・・・・・・・・・・
くびきを嫌がり、反抗すると、それは自分の首を締め付けるばかり
で、更に辛く、苦しくなる。ただ痛いばかりだ。自分のくびきは何
だろう。くびきを受け入れ、しっかり負う時に、それはむしろ安ら
ぎと憩いを与えると。そしてそのくびきは負いやすく、軽いと。


2021年04月18日(日)

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリス トから離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ4:4


「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ」とあるが、邪悪
な良心とは、何だろう。良心とは良い心であり、その良い心が邪悪
という事になる。不思議な言葉だ。ここでは、主の十字架の血潮だ
けでは不足とし、そこに行ないを付け加える、つまり、自分の善行
によって、主に受け入れてもらおう、愛されようとする事だ。

もし、主の愛を得たくて、受け入れて欲しくて、奉仕をし献げもの
をするなら、それは人間の力によるものであり、主の十字架を無意
味にしてしまう。「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法
によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」
だ。主はいたずらに、無駄に死なれた事になってしまう。

良心のとがめが辛いので、良心のとがめを無くしたくて、奉仕や献
げもの、善行、親切をしているだろうか。善行で、良心のとがめを
無くそうとする、それを邪悪な良心と言っている。例えば、人を傷
つける言葉や不機嫌な態度で、良心のとがめを感じると、優しく親
切な行ないをして、自分の内でチャラにする。善行で、良心をなだ
める。

これなら「キリストから離れ、恵みから落ちてしまった」事になる
と。これは御霊から来る平安ではない。主の血潮のみが私たちの良
心のとがめを消し去る。完全に消し去る。平安を与えられ、真心か
ら神に近づくことができるようにされる。何か主の血潮以外のもの
に依存しているだろうか。きよめていただこう。

・・・・・・・・・・
罪を犯すと、このままでは行けないので、少しはましになって、御
前に出ようとしたり。人に悪い態度をすると、親切な行ないで良心
をなだめようとする。これらが恵みから落ちてしまうことになる。
ありのまま、すぐに御前に行き、血潮により頼もう。


2021年04月17日(土)

「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が祝 福してくださったのである。こうしての人は富み、ますます栄えて、 非常に裕福になった」創世記26:12


イサクが飢饉に会った時、エジプトへ行こうと考えた。エジプトは
食料が豊富であったので、周りの人々は皆そのようにしていた。そ
の飢饉は、皆が動くほどの重大な危機だった。しかし、主は、はっ
きりとストップをかけられた。エジプトへは下るな、主の示す地に
住むようにと。この地に滞在するなら、大いに祝福し、この地を子
孫に与え、子孫は空の星のように増し加えられ、子孫によって地の
すべての国々は祝福されると。

大いなる祝福の約束を下さった。イサクはエジプトへ行かず、主の
言葉に従った。イサクがその地に種を蒔くと、何とその年に百倍の
収穫を見た。非常に厳しい飢饉であった中で、やせた土壌で、百倍
の実を結ぶなど有り得ないし、考えられない。奇跡のわざだった。
それに遊牧民のイサクが、農耕をして百倍もの実を結んだのだ。主
の言葉に従った結果だった。

「主が彼を祝福して下さったのである」と。私たちも自分の思い、
見える所、常識では、こうした方が良いと思う事がある。しかし主
の言葉は正反対である場合がある。イサクがエジプトに下らず、と
どまったように。そこには主の大きな祝福が備えられている。自分
の思い、判断でなく、主の御声を聞いて従おう。その時、「主が彼
を祝福してくださったのである」を経験して行く。

・・・・・・・・・・・
「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えな
い」箴言10:22 飢饉の最中に種を蒔いて、豊作など不可能だ。す
べての事は、主による。自分で何とかしようとせず、まず主の示し
に従おう。その時、豊かに祝福され、すべての必要が備えられる。


2021年04月16日(金)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべて の武具を身に着けなさい」エペソ6:11



主は、十字架の時が来た事を知られ、今まで愛し導いて来た弟子た
ちに、「その愛を残るところなく示された」。自分の弟子たちを
「極みまで愛され」「愛し通された」。それで、主は手ぬぐいを腰
にまとい、弟子たちの足を洗われた。そこにユダもいた。今から裏
切るであろうユダの足を、知った上で洗われた。ユダをも最後まで、
極みまで愛し通された。

ペテロも主を裏切った。3度も呪いをかけて誓い「あんな人を知ら
ない」と。そしてユダとペテロの裏切りは有名だが「弟子たちはみ
な、イエスを見捨てて、逃げてしまった」。弟子たちも皆、主を見
捨てて一目散に逃げた。それも予めわかった上で、主は愛し通され、
弟子たち皆の足を洗われた。

そして主の死後、ユダはひどく後悔したが、主のもとへは行かず、
主に頼らず自分で始末し、更に罪を重ねてしまった。ペテロも同じ
く後悔したが、主のもとにとどまり、悔い改めた。他の弟子たちも、
復活の主のもとへ戻った。「ユダにサタンが入った」とあり、悪魔
は勝手には入れない。本人の意志を妨げる事はできない。ユダは悪
魔の方を選んだ。徐々に心を開き受け入れた。

主はユダを愛されたが、ユダは主を選ばなかった。自分の思いの主
と違ったのだろうか。主のそばで3年間御言葉を聞いた。主のわざ
も見た。御言葉も知った上でのユダ自らの意志だった。ペテロは後
に「悪魔が食い尽くすべきものを捜し求めて、歩き回っている」と。
サタンとの戦いであり、目を覚まし祈っているよう警告している。

・・・・・・・・・
サタンは執拗に誘惑を仕掛けてくる。サタンだと気づけるように、
朝毎に、識別のために祈っていよう。ユダは、失敗した後、主のも
とへ行かずに、罪に罪を重ねてしまった。失敗した時は、すぐ主の
もとへ行こう。主は豊かに赦して下さる。何という恵みだろう。


2021年04月15日(木)

「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことな く、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたと き、聞いてくださった」詩篇22:24


ある人が、大事なテストの際に、カンニングをしてしまった。良心
のとがめを感じ、心に影を落とした。ずっと心が苦しかった。誰に
もどうしても言えず、心が暗いまま、悩んで悶々としていた。主を
信じてはいたのだが、余りよくわかっていなかった。しかしこのど
うにも出来ない瀬戸際の中で、生まれて初めて必死に叫び祈った。

真剣に主に助けを求めた。その時に、詩篇の御言葉に触れた。「私
は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこからくるのだろう
か」今の自分にピッタリ重なり、まさに自分の事だった。そして
「私の助けは、天地を造られた主から来る」と語られ、答えを下さ
ったと思った。心がすうーっと楽になった。

主が共におられる事が感じられた。あんなに苦しかった心が落ち着
いた。そして担任に正直に話せた。心が安堵と喜びで満ちた。失敗
をしてしまったが、この事を通して、頭の信仰だったのが、御霊に
より主に触れた初めての経験とされた。主のあわれみであり、自分
自身が大きく変えられて行った。

問題や悩みや苦しみに出会うのだが、振り返る時、その悩みを通し
て、主を切に求めるようにされ、主に近づけられた。霊の目が開か
れて行った。これからも問題は通るが、主から離れず、主のもとに
いるなら、必ず助けがあり、支えと導きがあり、更に主を知る者と
されて行く。

・・・・・・・・・・・・
自分で対処出来る事であれば、自分でしてしまっていて気づかない。
しかし、自分で全く何もどうにも出来ない、お手上げ状態である時、
主にすがらざるを得ない。主に拠りすがる時に、初めて主がわかる。
振り返ると、主に最も近かったのは試練の時だった。、


2021年04月14日(水)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え・・」エレミヤ33:3



日常で、様々な対人関係があり、傷つけられたり、又、不用意に傷
をつけてしまう事もある。そこに感情のもつれが生じると、憎しみ
や恨み、赦せない思いとなる。赦せない思いが募ると、苦しくてた
まらない。経験する事があるだろうか。怒りと憎しみに振り回され
てしまう。赦せない思いはどうにもならない。

心にふつふつと火が燃えているようだ。無くなるどころか、増幅し
て行く。自分は苦しくてたまらないのだが、しかし決して赦せない、
赦したくない。悶々状態だ。根深く、その思いは増幅して行ってし
まう。どうすれば良いのか。まずは主を呼ぼう。祈りに持って行こ
う。赦したくない思い、憎しみ恨み怒りを認め、自分でなすすべ無
いを認め、主を求めよう。

とにかく祈りに持って行く時、主が取り扱って下さる。その事態に
働いて下さる。一人一人に応じて導いて下さる。ある人は憎む心は、
自分が辛くてたまらず、助けを求めて、祈りに祈り、とにかく祈り
続けていた。すると不思議に心の方が変えられて行き、赦してもい
いやと思えた。奇跡だった。

ある人は、怒り憎しみが苦しいので、ずっと祈っていた時「相手の
祝福を祈りなさい」と御霊の声が来た。絶対に嫌だと思った。顔を
見るのも嫌で祝福など到底祈れない。ずっと拒み、抵抗していたが、
その状態は非常に苦しく、とうとう追い込まれギブアップして、相
手の祝福を祈った。

すると何と、心がすっとしたのだ。確かに心が変わったそして、自
分の力でなく、平安にされた。とにかく御霊の示しに従う時、みわ
ざを見ることを経験し、教えられた。
------------
何に閉じ込められていようが、たましいは主にあって自由に変えら
れていく。主を呼ぼう。苦しい憎しみの胸のうちを主に告げよう。
主は答えてくださる。それは理解を超えた大いなることだ。


2021年04月13日(火)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7



思い煩いは、心をネガティブな事に延々向けて行く。経験あるだろ
うか。心が苦しくなり、辛くなり、落ち込むばかりだ。そればかり
を考えている。不安な事があると一日中重苦しい、暗い気持ちだろ
うか。主に出会う前は、ただただ思い煩うばかりだったろう。しか
し主は「何も思い煩うな」と。感謝をもって、祈りと願いを主に知
っていただけと。

御言葉の通りに、主が言われる通りに、心の内の不安、思い煩い、
心配事、恐れ、嘆き、何もかもを主に告げて行った時に、心がふっ
と、軽くなり、安堵が来るから不思議だ。御言葉の通りに従う時に、
初めて経験して行くことだ。愚痴を不平をつぶやいているなら、何
一つ変わらず、ぐるぐる回るばかりだ。

そのつぶやきを主のもとに持って行く時に、そこに確かに主が働か
れるので、変えられて行く。変化が起きて行く。心に不思議な安堵
が来るし、その問題を実際に導いて下さる。思い煩いが起きた時に、
すぐ主のもとへ行けるためにも、普段に主との親しい交わりが大切
だ。困難の時だけでなく、平常の日々に、地道に主との交わりを積
み重ねて行くことだ。

日々に主との交わりを大事にし、関係を築いて行くことだ。交わり
により信頼関係が少しづつ〃深められて行く。信頼が培われて行く
時に、初めて主に委ねたり、明け渡したりする事ができる。そして
主が最善をして下さると信頼することができる。
-----------
思い煩わず主に委ねるようにと知識では知っていてもいざとなると
できない。けれど日々の主との交わりの中で、主の慰めや励ましを
キャッチし、不安の中に主が共におられる事を知っている。心配は
あっても主への信頼は揺らがない。


2021年04月12日(月)

「こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほどつらかった」士師記16:16



サムソンは、ナジル人(聖別された者)であり、神から特別な力の
賜物を与えられていた。ところがそこにデリラという女性の大きな
誘惑が来た。サタンは、人の内側にある欲望に巧妙に働きかけて来
る。少しづつ〃、しかし、まとわりつくように執拗に働きかけてく
る。最初は、少し位大丈夫と油断をしてしまう。

アル中やギャンブル依存、薬物依存も、少しだけならから始まり、
段々深みにはまって行く。ペリシテの領主たちはデリラにお金を渡
し、サムソンの力の秘密を探るように言う。彼女はサムソンにその
事を尋ねる。しかし3回だまされたデリラは、尚もしつこくサムソ
ンにせがむ。毎日しきりにねだられ、責め立てられ、サムソンは死
ぬほど辛かった。

デリラを失う事を恐れる余り、とうとう力の秘密を口にしてしまう。
すると力の秘密である髪の毛をそり落とされ、ペリシテに捕らえら
れてしまう。「毎日しきりにせがみ」とあり、私たちもどうだろう。
毎日しきりに執拗に耳に聞こえる言葉が、肉の言葉、サタンの言葉
であればどうだろう。サムソンがデリラの誘惑に屈してしまったよ
うに、行為へと進んでしまう。

全く逆に、御言葉を聞き続けるならどうだろう。御言葉を一心に見
つめて離れないなら、事を実行する人になって行く。主の言葉を喜
びとし、昼も夜も口ずさむならどんなに幸いだろう。日々、どの言
葉を聞いているかが、行為を決定して行く。聞いている言葉によく
注意していよう。神の言葉に心を向け、握って行こう。
------------
無駄だとわかっているのに浪費してしまう時間やお金も思い当たる。
執拗に誘惑は来る。御言葉を受けとり大切なものを奪われないよう
武装しよう。主が必ず正しい方へ導いてくださる。


2021年04月11日(日)

「私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有 様でした。私はこの二十年間、あなたの家で過ごしました」創世記 31:40



エサウとヤコブは双子の兄弟だったが、弟ヤコブが母リベカと共謀
して、父イサクと兄エサウを欺き、長子の特権と祝福を奪い取った。
エサウは激怒し、ヤコブを殺そうとした。それでヤコブは家を出ざ
るを得ない事態に。荒野を行き、孤独と寂しさの中で野宿した時に、
夢を見た。はしごが現われ、頂きが天に届いていた。主がかたわら
に立ち言われた。

「わたしはこの地をあなたとあなたの子孫に与える。わたしはあた
なと共にあり、あなたを守り、この地に連れ戻す。成し遂げるまで
あなたを捨てない」と。ヤコブは伯父ラバンのもとへ行くが、ラバ
ンはヤコブより更にずる賢く、巧く利用され、苦役の歳月を過ごす
事になる。愛するラケルとの結婚のために働くが、ラバンに騙され
る。同じ事を自分も刈り取る事になる。

苦しい砕きを通る。20年後、神の時が満ちた。「あなたの先祖の国
に帰れ」と。すべてに時があり、神が動かれるなら、ラバンも誰も
止められない。妻と多くの財産と共に帰郷する事となる。これらヤ
コブの歩みは、主の主権にあった。「この地に連れ戻す」「この地
をあなたとあなたの子孫に与える」主の約束だ。

「わたしはあなたと共にあり」「成し遂げるまで決してあなたを捨
てない」、主の約束は成就した。主があなたを握られたなら、決し
て放されない。狡猾なヤコブは砕かれ、主の器へと整えられて行っ
た。様々な訓練は主の器へとの整えられるためだ。

・・・・・・・・・・
主は、自己中心で、ずるいヤコブを、苦しい環境を通して、訓練し、
砕き、練って行かれた。造り変えて行かれた。懲らしめは主の愛だ。
目の前の出来事の一つ一つを、主に焦点を当てて行く時に、主の砕
きが見えて、それは豊かな祝福へと霊的成長へと繋がっている。


2021年04月10日(土)

「ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナ ンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた」創 世記9:21



ノアの箱舟の出来事の後、箱舟から出て来たノアの息子たちはセム、
ハム、ヤペテであった。ノアはぶどう畑を作り始めた。そしてぶど
う酒を飲んで、天幕の中で裸になっていた。酔っ払ってしまい、気
のゆるみがあったのかも知れない。息子のハムはそれを見て、外の
セムとヤペテに告げた。ハムは父のぶざまな姿に軽蔑や批判の思い
を持ち、笑い者にするかのように二人の兄弟に告げた。

しかしセムとヤぺテは、着物を持って来て、自分達二人の肩にかけ、
後ろ向きに歩いて行って、父の裸をその着物でおおい、顔をそむけ
て、父の裸を見なかった。肉の性質は、人の失敗や弱さを暴き、あ
げつらい、辱めようとするが、愛はそのようにしないで、人の弱さ
や失敗をおおう。ノアは自らの裸をおおった二人の息子を祝福した。

「神がヤぺテを広げ、セムの天幕に住まわせるように」と。「何よ
りもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうか
らです」とあり、主は十字架で、私たちの罪をおおって下さった。
主の前に、律法学者とパリサイ人が、姦淫の女性を連れて来た時、
彼らは、モーセは姦淫の者を石打ちに命じているが、あなたはどう
するのかと詰め寄った。

群衆は好奇心で見ている。主は「罪の無い者が石を投げよ」と。
人々は全員去った。その女性に「わたしもあなたを罪に定めない。
今から決して罪を犯してはならない」と。主は罪をおおわれた。私
たちも、主により罪をおおわれた者だ。

・・・・・・・・・・・・・
姦淫の女性の罪は完全に赦され、逃げた人々の罪はそのままだ。主
のもとで、「あなたを罪に定めない」と、どんな罪も赦され、おお
って頂けるとは何と感謝な事だろう。何もかも赦された者として、
今、誰かの失敗をおおうように言われているだろうか。


2021年04月09日(金)

「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです」ルカ12:15



愚かな金持ちが出て来るが、どこが愚かだったのだろう。彼は「安
心」の拠り所を富に置いていた。お金さえあれば、幸せだと考えて
いた。財産を更に蓄えたなら、楽しめると思っていた。富が、自分
を幸せにしてくれると信じていたからだ。富、地位、名誉、異性・・
何かに執着して、それが自分にとって絶対的なものとなるなら、そ
れが偶像だ。

そして「私の」倉、「私の」穀物や財産、「自分の」たましいと、
彼にとり、すべてのものが「私の」ものだった。神のため、人のた
めに使おうとの思いは皆無だった。私たちは、何一つ持たずにこの
世に来て、何一つ持って出る事も出来ない。今ある命も富も能力も
時間も、すべては神の賜物だ。一人〃に預けられ、任せられている。

それをしまい込んでいるだろうか。自分中心に、自分の思いで、使
っているだろうか。主のため、人のために用いる時に、大きな喜び
を得、生き生きと生きる事ができ、天でも豊かに報いられる。御心
に従って、どんどん用いて行こう。そして、彼は財産を倉にしまい
込めば、自分の「たましい」も保証されると考えた。

「愚か者。おまえのたましいは、今夜、おまえから取り去られる」。
たましいは、神の領域だ。誰も神に代わる事はできない。自分も必
ずいつか死ぬ事を考えていなかった事だ。私たちも、自分の死の事
はわからない。「自分のために蓄えても、神の前に富まない者」で
はなく、主に喜ばれるよう生きる事が、神の前に富む事だ。
-------------
心がこの世のもので一杯になっている時、神との関係が飛んでしま
う。私の、私のと自分と自分の集めた物に頼っていないか。神の前
に裸で立つ日が来ることをいつも覚えていたい。


2021年04月08日(木)

「子どもらよ。今、私に聞き従い、私の言うことに心を留めよう」箴言7:24



主に従うためには、主に目を向け、従おうとの意志をもって選択が
必要だ。信仰はオートマチックではない。自動的に従えるのではな
い。没個性や没人格になるのではない。ロボットや操り人形ではな
い。意識して、肉とサタンを退け、御霊の導きの方を選択し、御霊
に拠り頼んで行く必要がある。

主が、私たちの意志を無視して、何かされる事もない。意志には触
れられない。従うか、従わないのか、自らの選択にかかっている。
だから主を選ばず、罪を犯した時の責任は自分にある。神や人に転
嫁する事は出来ない。日々の生活を、自分自身を顧みることが大切
だ。

全く顧みることのないまま、日々の忙しさに流されて、主との交わ
りから遠ざかっているだろうか。御霊の示しを、なおざりにしてし
まっているだろうか。方向変換し、主の導きの方へ足を向ける事が
大切だ。祈りっ放しでよいのでなく、祈った結果、実際に行動する
事が大事だ。今、主の御心に、自分の足を向けるよう言われている
だろうか。

具体的に従うように導かれているなら、実行しよう。詩篇には「急
いで、ためらわずに」従ったとあり、ぐずぐずしていると、そこに
サタンが来て、従えなくされてしまう。今日、意志を向けて、示さ
れた事に聞き従おう。祝福が備えられている。
------------
朝に御言葉を聞いても立ち上がるといつもの生活がある。どこに焦
点を当てて生活しているだろう。主の御言葉を留めて従っていこう。
御言葉をたくわえ、守って生きよと主は言われる。


2021年04月07日(水)

「あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい」創世記6:14



ノアは、主から「箱舟を作れ」と言われ、長さ、幅、高さを指定さ
れた。ノアは命じられたとおりに従った。見渡す限りの晴天、雨な
ど降りそうにない。洪水など誰が信じられよう。しかしノアは見え
る所や自分の感覚、思いでなく、主の言葉を真実とし、ただ主の言
葉に従った。箱舟が完成した時も、自分で入るのでなく、主からの
「あなたとあなたの全家族とは箱舟に入りなさい」との言葉により、
入った。

雨は40日40夜降り続き、天の下のものはすべておおわれた。その後
も5ヶ月間、増水し続けた。そしてその後、水が引き始め、大雨が
とどめられた。アララテ山上に箱舟はとどまり、洪水から2ヶ月半
後、山々の頂きが現れた。ハトを放っては様子を見、結局、山上で
7ケ月待った後、地は乾き切った。その時、主は家族と一緒に「箱
舟から出よ」と命じられた。

ノアは箱舟を作るのも、完成した箱舟に入るのも、出るのも、すべ
て主の言葉を受け、従った。「ノアは、すべて主が命じられたとお
りにした」。水かさが増し続けた5ヶ月の間、又、雨が止んだ後、
7ヶ月の間、ずっと箱舟の中だった。その間、どんな思いでいたの
だろう。だが主は「ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべて
の獣や、すべての家畜とを心に留めておられた」。

「心に留めておられた」とあり、私たちにも同様にして下さってい
る。先が全く見えない、トンネルの中に思える試練の中で、主はあ
なたをしっかり心に留めて下さっている。何と安心で嬉しい事だろ
う。絶えず主が目に留めて下さっている。愛し、慈しみ、抱いて下
さっている。そこを信じ、試練の中で、主の言葉に従って行こう。
-----------
箱舟に守られていると思うか、閉じ込められていると思うのか、洪
水の中で絶対の信仰が試される。私達も主のご愛を一瞬でも疑えば
試練にのまれてしまう。主が心に留めてくださっている。御言葉に
立とう。



2021年04月06日(火)

「彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった」出エジプト15:22



モーセに率いられた民は出エジプトの際、男子だけで60万人、女子
供を入れると200万ほどだろうか。大変な人数だ。葦の海から旅立
ち、3日間荒野を歩いた。彼らは水が見つからず、水を探した。マ
ラでようやく水を見つけたが、それは非常に苦くて飲めなかった。
そのいら立ちと不満はモーセに向かった。

モーセの素晴らしいところは、そのまま民に対応せず、それをまず
一旦主に持って行った事だった。自分の思いと力で、どうこうしな
かった。モーセが主に祈ると、一本の木が示された。それを水に投
げ入れると、苦い水が甘くなった。その水は民をうるおした。「そ
の所で彼を試みられた」これはまた、民だけでなく、モーセへの試
みでもあった。

突然の試練で、主に聞き従うかどうかを試された。民はエジプトを
出て、そのまま真っ直ぐ進めば、カナンまで2週間程のところ、不
信仰により荒野へと南下する事になった。そして40年間荒野をさま
よった。これは、主が、民を様々な試練を通し、訓練し、整えるた
めであった。信仰を培い、成長させ、主に従って生きる事を身につ
けさせる、その歴史であった。

私たちも同様に、試練の荒野を通る。様々な苦しい問題や悩みを通
り、試され、砕かれ、練られ、鍛えられる。そして信仰者として整
えられて行く。主に信頼し、御言葉により生きる事を身につけられ
て行く。その荒野の間、主はずっと天からマナを降らせられた。主
に従うなら、すべての必要は必ず備えられ、満たされる事を見せら
れる。
------------
神は一人一人に特別な取り扱いをもって導かれる。誰とも違う試練
の荒野は孤独だが、絶えず神はご自身の存在を示してくださる。試
練の中で神だけが養い、癒し、整えてくださるお方だとの深い確信
が与えられる。


2021年04月05日(月)

「そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか」ルカ17:17



10人のらい病人が、主のもとに来た。遠く離れた所に立って、大声
であわれみを求めた。当時、らい病は汚れた病気で隔離されていた。
人々との接触は許されず、「私は汚れた者です」と自分で言わなく
てはならなかった。病気の苦しみの上に、社会生活はできず、精神
的な孤独、悲しみ苦しみがあった。宗教的にも汚れた者であった。
必死の思いで主にすがって来たであろう。

「どうぞ、あわれんで下さい」と叫んだ。主は、彼らをあわれみ、
癒された。すると10人の内、1人だけが主のもとへ戻り、9人は戻っ
て来なかった。病気が完全に癒され、社会復帰ができて、自由だ。
普通に生活ができる。生けるしかばねのようであった彼らからすれ
ば、何と夢のような事だろう。9人は、ラッキー、幸運、良かった
と、世の中へ帰ってしまった。

彼らにとっては、飛び切りの幸運で偶然の事態であった。そこに神
は無かった。1人だけが戻り、大声で主をほめたたえ、主の足もと
にひれ伏して感謝した。主への感謝で一杯で、賛美と喜びだった。
そこに主を認め、主を崇めたのだ。彼だけが、全く新しい信仰の人
生に入った。

「あなたの信仰が、あなたを直したのです」彼は主の愛を体験し、
救いを受け、主の愛の中を生きて行く人生が始まった。何が大切な
のだろう。病気が治る事だろうか。本当の幸せは「世の終わりまで
いつもあなたと共にいる」、この事だ。その幸いな人生へと招いて
下さっている。苦しみの時も喜びの時も、主と生きて行ける事が、
真の幸せだ。
------------
与えられたものを喜ぶのではなく、与え主である主を喜びとしよう。
問題が解決したら一直線に世に帰って行くなら、また次の問題に翻
弄される。いつも共にいる主を喜びとする生涯を歩もう。


2021年04月04日(日)

「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおり に成就する」イザヤ14:24



私たちは主を知る以前は、自分の思い通りに生きて来た。思い通り
になると喜び、時には思い通りにならず、挫折を味わった。自分の
思いは非常に強いので、クリスチャンになっても、根深く培われて
いる。そのため、自分の思いで生きて行ってしまう。ある人が、自
分の思いだと気づかないまま、主に、自分の願いを祈り、そしてそ
のようにならないと、聞かれないと思い、ガッカリ落胆した。

何とかそのようにと尚も祈った。しかしその祈りは、全く聞かれな
かったのだ。「どうして?」の悶々を通りながら、その事を「なぜ
ですか」と問うて行った。その祈りの中で初めて、自分の願い、望
みが、自我からの自分中心である事を気づかされ、教えられた。主
が願われる、主の御心ではなく、どこまでも自己中心の願いでしか
なかった。

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成
る」、人の心に多くの計画があると言っているが、自分の思いと自
分のプランがあるばかりだった。「わたしのはかりごとは成就し、
わたしの望む事をすべて成し遂げる」の通り、主の計り事、主の望
む事がある事を覚え、主のみ思いが成るようにと祈りを変えた。

その時に、自分の思いでいっぱいの自分が変えられて行った。主が
望む事が、成し遂げられて行くのであれば、自分の思いや自分の望
み通りでなくても、それがベストなのであり、受け入れて行けるよ
う祈った。その時、初めて平安を経験した。自分の思いから離れら
れるのは、何と平安なのだろう。

・・・・・・・・・・・
主の御心が成るのであって、自分の思いが成るのではない。祈りと
は、主の御心を尋ね求めるプロセスと言われるが、祈りの中で肉の
思いが気づかされ示され、主のみ思いへと導かれ変えられて行く。
祈りが大切で、必要だ。まず自分の計画を祈りに持って行こう。


2021年04月03日(土)

「それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。 そして言った。『いや。どうしても、私たちの上には王がいなくて はなりません』」Tサムエル8:19


イスラエルは神によって統治されていた。しかし民は、人間の王を
強く求めた。サムエルは老いて、息子達は主から離れている。敵の
攻撃が来た時も、王が戦ってくれる、そのため周辺の国々のように、
自分たちも王が欲しいと。サムエルは気に入らなかったが、まず主
のもとに行き祈った。私たちも、自分の思いと違う事柄に直面する
時は、まず祈る事が大切だ。

主は、民が、人間の王を欲した時に、「彼らを治めているこのわた
しを退けた」と言われた。そして、王の権利を知らせよと。サムエ
ルは、民にどんな犠牲があるかをことごとく知らせた。息子は戦い
に取られ、娘たちは働かされ、畑は取り上げられ、自分の家来たち
に与える・・そして自分たちの選んだ王のゆえに主に求めても、その
日、主は答えて下さらないと。

大変な事態になるが、しかしそれでも、民はどうしても王が欲しい
と強く言い張った。人が、主の警告を聞かずに、どうしても欲しい
と主張するなら、主は与えられる。主は、彼らに一人の王を立てよ
と答えられた。しかし願いが叶えられた結果、やせ衰えると。「そ
こで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってや
せ衰えさせた」

自分の欲望を押し通すのでなく、私たちを極みまで愛し、最善をし
て下さる主に従い、主の警告に聞く事が、自分にとって平安の道だ。
それは主の愛から出た警告だ。

・・・・・・・・・・・
主に聞き従う事の大切さを教えられる。肉は、自分の欲があり、自
分の都合の良い、好きな方向に進みたい。思い通りにしたい。しか
しそこに祝福は無い。願いが叶った結果、一時の快楽はあるが、心
は虚しくなる。真の豊かさ、喜びのある主の御声に従おう。


2021年04月02日(金)

「だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合い なさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも そうしなさい」コロサイ3:13


信仰生活で、赦せない相手が出て来る。だが赦さない心は、自分が
辛い。憎しみは重い鉛となり、心をふさぐ。日常に忙殺されている
間は、忘れているが、ふっと心を暗くする。楽しい時も、頭をよぎ
った途端、心暗くなる。さばく心を持ち続けると、祈りの障害とな
り、又「御霊によって歩め」の命令に従えなくなり、肉の歩みとな
ってしまう。

苦しいし、委ねるべき事がわかるのだが、どうしても憎しみを握っ
て放さない。そんな時は、まず、あるがままを主に告げよう。主の
助けを仰ごう。赦せるように、手を取って導き助けて下さる。多く
の人々が、そのプロセスを様々経験して来た。ある人は、自分を批
判、中傷した相手をどうしても赦せず、根深い恨みがどうにもなら
ず、祈り続けていた。

すると「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているか自分で
わからないのです」との言葉が、心に深く響いて来て、当然相手の
事だと思った。相手は、何をしているのかわからないのだから赦す
ようにと。しかし御霊により心を照らされ、そうでなく自分の事だ
と示された。相手が悪いせいと、憎しみ恨み怒りを正当化している
が、しかしそれは紛れもなく自分の罪だと。

言われる通り、確かに自分の罪だと認めさせられた。そして続いて
自分の罪の赦しが祈られている事に、大きな驚きと共に、初めて目
が開かれた。自分が赦されているという、大きな恵みにおおわれ、
自然に相手を赦すことができた。主の大きな恵みであった。主は必
ず助けて下さる。まず祈りに持って行こう。

・・・・・・・・・・
自分の力で、肉の力で、人を赦す事は不可能だ。出来ない。赦せな
い思い、恨みは根深いものだ。赦しなさいと言われても出来ない。
だからこそ祈りが与えられている。主と交わり、祈って行こう。御
霊がなすべき事を示して下さる。それに従う時にみわざにあずかる。


2021年04月01日(木)

「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのとこ ろに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ・・」イザヤ 55:11



初めての地で、道に迷った事があるだろうか。見知らぬ所で、方向
がわからない。その時は地図か、交番か、地の人に聞けばよい。停
電の経験があるだろうか。ロウソクや懐中電灯とつけて、ホッと安
堵する。飛行機や船の航行はどうだろう。嵐の中も羅針盤や計器に
よって正しい方向に進める。これらが霊的生活においては、神の言
葉だ。

どの方面に進むべきか、どちらを選択すべきか、判断が難しい時、
御言葉は方向を示し、確かな指針を与えてくれる。又、悩みの時に、
どうすべきかを、経済的苦境、対人関係の悩み、仕事上の問題、健
康の不安・・そんな時に、御言葉は、なすべき事を教え、内側を照ら
し、励まし慰めを与え、平安へと導いてくれる。

ある人が失業し、次の職を求めるが次々と落ち、貯えも底をつき、
不安と恐れ、思い煩いで一杯だった。どうしてよいかわからない。
途方に暮れて、この事で「御言葉を下さい」と切に祈り求めた。す
ると「すべての事について感謝しなさい」「捜しなさい。そうすれ
ば見つかります」の言葉が心に入って来た。

主からの答えだとわかり、とにかく感謝しようと、「失業を感謝し
ます。まだ職が無い事を感謝します」と祈った。その時に不思議が
起きて、不安が消えて心にすうーと平安が来た。御言葉に従うと、
状況は変わらないが、心が変えられた。そして祈り求め平安の内に、
力を与えられて職探しが出来、とうとう良い職が与えられた。

・・・・・・・・・・・
百人隊長が、主に「御言葉をいただかせて下さい」と願ったが、暗
闇の灯であり、迷子の時の地図である、御言葉を祈り求めよう。御
言葉に導かれて、前に歩を進める事ができる。御霊に導かれ、御言
葉に従う時、必ず主のみわざにあずかる。主と一つに歩める。

http://www.j-hbbc.net/cgi-bin/hbbc/thank.cgi
=======================================
【日々のことば】
発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係り
[ホームページ] http://park11.wakwak.com/~hbbc/word/
[登録変更の連絡] lema@j-hbbc.net
[よくあるご質問] 届かない? 受信許可リストに登録する!
http://park11.wakwak.com/~hbbc/cgi-bin/word/qa/view.cgi