2022年01月31日(月)

「あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみ な増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そ ういうことがないように」申命記8:13



モーセに導かれイスラエルの民は、出エジプトを果たした。苦しい
荒野を経て、約束の地カナンを目指した。その約束の地に入ってし
まえば、信仰はもう必要無いのかというと、決してそうではない。
良い地に入って、食べて満ち足りた後も、「主の命令を守って、そ
の道に歩み、主を恐れなさい」と。

神を信じて生きるのは、何かを貰うためではなく、それ自体が目的
だからだ。ある婦人が子供が欲しくて、祈りに祈って、不妊治療に
も通っていた。どうしても欲しい、余りにも強い願望に、ある時、
主の恵みをもぎ取ろうとしている自分の姿に、愕然とし、悔いくず
おれた。このまま行けば、子供さえ得られるなら、手段は何でも良
い事になってしまう。

「ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あげよう」とのサタンでも
よいという事になる。恐ろしくなり、心底悔い改めて、明け渡し
た。
その時に、心に平安が満ち渡った。しばしば間違ってしまう。信仰
を、自分が良く生きるための、何かを得るための、手段にしてしま
う。すると、すべてが的はずれになる。

自分の自己実現の手段、喜びを得る手段、問題解決の手段、それな
ら、自分の思い通り、期待通りでない時に、必ずつまずいて、主か
ら離れる事になる。何かを与えられようと、与えられまいと、主ご
自身を信じて生きる事、主を喜び、主を礼拝して生きる事、これが
私たちの生きる目的だ。
---------------
主と共にある生活には喜びもあれば、主と共に苦しむこともある。
自分にとって喜こばしいものだけでなく、主ご自身を喜び、心か
ら礼拝して生きていきたい。


2022年01月30日(日)

「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器で も、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていない のでしょうか」ローマ9:21



ある人が言った「私は、教会に時々出席していたのですが、主を信
じるのに十年もかかりました。砕かれなければ、神様はわからない
ですねえ。それからも砕かれて〃、主を知って来た感じです。自分
が変わらないのは、自我が砕かれていないからだと教えられまし
た」。

自我が砕かれて行くほどに、主がわかって行く。そのために、主は、
どうにも出来ない事態に会わせたり、悩みとなる相手を、目の前に
置かれたりする。嫌いな相手であり、ある時は、どうしても我慢な
らず、職場を変える。しかし、次に行った先にも同じような相手が
いて、悩まされる。「相手を、この状況を何とかして下さい」「相
手を変えて下さい」と必死に祈るのだが、祈りが聞かれない。

しばらくすると、祈りが聞かれていない事に気づく。そして時を経
ながら「これは、もしかして自分の問題か?」と気づいて行く。気
づくと、祈りが変えられて、「主よ、私を変えて下さい」となる。
そうすると、その祈りは御心に適うので、必ず聞かれて行く。自分
の内側が変えられる。へりくだらされ、自我が砕かれて行く。

自分が変わるので、同じ状況であっても、自分自身は平安にされる。
自我が砕かれるほどに、平安が流れ込み、頭の知識ではなく、主を
親しく知って行ける。主は陶器師であり、私たちを砕き、練り、造
り上げられる。目の前の痛い、苦しい事態は、自分自身が変えられ
るために、主から送られて来たものだ。必ず平安へと導かれる。

・・・・・・・・・・
痛い事も、いつも学ぶように、主には一つも無駄はなく、ご計画が
あり、御手の中にあり、災いではなく、平安と将来と希望のための
ものだと経験させられる。これまでの一つ一つも、平安の落とし所
に落とされて来た。まず、ありのままの心の内を祈って行こう。

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2022年01月29日(土)

「しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなた がたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子ど もです」ローマ8:13



新生して、新しい性質を持つ私たちは、主に喜ばれるように歩みた
いと願う。「恐れないでただ信じていなさい」と言われるが、どう
しても主の約束を信じる事の出来ない自分がいる。目の前の状況に
圧倒されて、目に見える所に捕らわれて、主が全能であり、不可能
が一つもない事を信じる事ができない。

不信仰を恥じて、信じようとするのだが、どうしても信じる事がで
きない。叉、嫌いな相手を「嫌ってはいけない」「愛さなければ」
と思う。裁いたり、憎むと、すぐに平安が失せる。だから余計に愛
さなくてはと頑張る。だが、幾ら頑張っても、嫌いな相手を愛せな
い。何とか愛さなければと思うのだが、そうしていると、むしろま
すます嫌いになるばかりだ。そして平安は無い。

そんな中で、自分の力で頑張っている事に気づかせられる。気づく
のだが、また肉の力で頑張ってしまう。肉はどこまでも根深く強い。
何度も繰り返す。自分の力でやれば、やるほど失敗する。やがても
う疲れ果ててしまう。そんな私たちに、主は「疲れた人は、わたし
のところに来よ」と。「わたしが休ませるから」と。

クタクタのヨレヨレになって、主のもとに行き、「信じる事ができ
ません」「愛せません」とギブアップし、重荷を下ろす。すると不
思議だが、信じる事ができて、愛することができるようにされる。
律法の苦しみから、恵みの世界に入れられるからだ。自力でなく御
霊の支配の中に置かれる。すると自分は全く頑張らないのに、御霊
の力によって、事が成し遂げられて行く。私たちは御霊の支配の中
にいる。

・・・・・・・・・・・・
本当に不思議でならない。神が働かれる時、するするとひとりでに
道が開かれ、物事が成し遂げられて行く。いつも経験するが、自分
の思いと力に気づかせられ、無力を認めて、明け渡す時に事が動い
て行く。委ねられるよう祈って行きたい。

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2022年01月28日(金)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ さる」詩篇37:5



重荷をゆだねよと言われ、頭ではよくわかり、委ねたら良いのはわ
かるのだが、そうできない。これが私たちの姿だろうか。「委ね
る」
とは、石を転がすという意味で、主の上に、あなたの重石の重荷を
転がしてしまうことだ。そうすると、その転がした石はどうなるの
か。その石は主の上にあって、自分のもとにはもう石は無い。

そのように、主にきっぱりと手放してしまうことだ。すると思い煩
いが消えてしまう。不安が失せて、落ち着きと平安が心に満ちる。
経験した事があるだろうか。重荷が主の手に行ってしまうからだ。
しかし委ねたつもりでも、自分が握っているなら、いつまでも不安
は消えない。委ねた「つもり」で、実は渡していない。

自分が手を放してしまうと、どうなってしまうのかと不安でたまら
ず、どうしても放せない。なぜ放せないのか。つまりは主を信じる
事ができないところに問題がある。自分が手放すと、すべてがだめ
になり、崩壊してしまうと思う。だから放せない。問題が「不信
仰」
にあるなら、その事を主に打ち明け、助けを求めよう。

自分の強い思いを通したい時も、委ねられない。委ねると自分の思
いが通らないからだ。委ねるとは、「イエス」でも「ノー」でも、
どちらでもOKです、との態度だ。御霊に心を探っていただいて、
主の助けを求めよう。主が、委ねる事ができるようにして下さる。
-------------
自分の思い描く結果が欲しい時は、なかなか主に委ねられず、いつ
までも思い煩ってしまう。その思いごと主に祈り、ごろりと重い石
を主に転がそう。主が受け取ってくださる。


2022年01月27日(木)

「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなた がたに必要なものを知っておられるからです」マタイ6:8



ある人の証しだ。主に導かれ神学校に入学した。最終学年に進む
時、
手持ちのお金では授業料が払えなかった。規則があり、払えなけれ
ば、退学するしかない状況だった。とにかく祈りに祈った。主は、
必要は必ず与えて下さるのでは。期限も近づき、ただ祈るばかりだ
った。祈りに祈った。とうとう期限当日になったが、与えられなか
った。

仕事も辞めて、遠くの田舎から出て来た。主の御心を確信したはず
だった、どうしてなのだろう。だが、与えられないからには、これ
も主の御心であり、引き揚げようと思った。寮で荷物の整理をして
いると、そこに学友が部屋に入って来た。話を聞いて驚いたが、そ
の彼も授業料が払えず、どうにもならない状況にいた。

幾ら不足なのかと聞くと、丁度手持ちの金額だった。自分のために
は全く足らないが、彼のためには充分だった。それでそれを彼に上
げた。彼はびっくりして「君はどうするのか」と。「いいんだ。君
がこれで進級できるなら使ってもらえたら、嬉しい」と。彼は何と
も申し訳無さそうにしていた。

荷物の整理が全部済んで、部屋を出ようとした時に、一つの郵便物
が置いたままだった。彼が「見ないの?」と聞くと、「もういいん
だ。捨てて」と言った。それで、彼が開けてみると、何と多額の小
切手だった。授業料に十分だ。二人で大喜びし、主に心から感謝し
た。
-------------
主は必要をすべてご存じのうえで求めよ、門をたたけと言ってくだ
さる。徹頭徹尾、主を信頼し祈り求めよう。それならノーの答えも
確信して平安に受け取れるのではないだろうか。


2022年01月26日(水)

「彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、 彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。 わたしは彼らの神、主である」出エジプト29:46


出エジプト記は、ヨセフを知らない新しい王が、民を苦しめるとこ
ろから始まる。民は苦役にうめき、叫び、その苦しみの叫びは神に
届く。そして記事の最後は「主の栄光が幕屋に満ちた」と終わって
いる。主は幕屋を作るように命じられた。

「わたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」と。
それはアロンとアロンの子たちを祭司として任命し、聖別し、その
所で、罪のための全焼のいけにえを献げさせるためであった。律法
を与えると同時に、律法が示す罪への解決、罪のための贖いが備え
られた。そして幕屋は、彼らの間に住むために与えられたと。

主が、民の間に住むことが、民をエジプトから出された目的だと言
っている。「彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ
出した者であることを知る」と。苦しみのエジプトから出されたの
は、主が民と共に住むためであった。新約では「ことばは人となっ
て、私たちの間に住まわれた」そして「この方の栄光を見た」と。

また「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとど
まります」、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝」と。「と
どまる」とは「住む」意味で、主と一つであると。そして新天新地
で「見よ。神の幕屋が人とともにある。

神は彼らとともに住み、彼らはその民となる」と。苦役の奴隷であ
った民、罪の奴隷であった私たちが救い出されて、主が住まわれ
る。
常に主と共にあるとは、何という光栄、喜びだろう。
-------------
努力してつかむのではなく、主が私たちの心の中に降りて来てくだ
さり住んでおられる。なんと感謝なことだろう。どんな環境でも、
いつも主と交わり主の臨在を感じて生きていける。


2022年01月25日(火)

「主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたが その翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から豊かな報 いがあるように」ルツ2:12


飢饉の際に、家族の幸せのために移ったモアブで、ナオミは夫と二
人の息子を亡くしてしまい、異国の地で苦しい時を過ごす。やがて
故郷も飢饉が去り、帰郷を決意し、ナオミはルツとオルパの二人の
嫁に、各々実家へ戻るよう強く勧める。

オルパは帰ったが、ルツはナオミと共に行く事を決心し、その根拠
は「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」との主への信仰だ
った。まことの神を見ていた。そして帰郷が丁度、大麦の刈り入
れ時期だった。ルツは生計のため落ち穂拾いに出た。そこが「はか
らずも」ボアズの畑だった。

そしてまた「丁度その時」所有者であるボアズが来た。ボアズは遠
い親戚であり、やがてそのボアズと結婚に至る。権利のある近い親
戚が退いたからだ。ナオミは孫を抱く事になり、異邦人のルツがメ
シヤ誕生の系図に入る。これらすべてが神の摂理であった。

一つ〃のピースが各々ふさわしい場所に、ピタリと埋められて行
く。
予め神が置かれていたものだ。もしルツが実家に帰ったなら、もし
ボアズの畑で無かったなら、もし近い親戚が買い戻していたら、ど
れ一つ欠けても成就しなかった。

私たちも、思いもよらない出来事が起きるが、すべては主の摂理の
もとにある。ご計画だ。主の御手により、御心が成し遂げられて行
く。主に信頼し、平安でいよう。
-------------
光の見えない闇のような日々も、背後で必要な場所に必要な人を配
して全てを支えておられる主がいる。主が必ず祝福に導いてくださ
る。どんな時も主は心に据えて信じていよう。


2022年01月24日(月)

「主はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の 小麦粉一セアが一シュケルで、大麦二セアが一シェケルで売られる ようになる』U列王7:1



エリシャの時代、飢饉で食物が無く、人々が餓死する中、エリシャ
が「明日小麦や大麦が溢れるばかりにある」と語った。すると侍従
が、そんな事はあり得ないと言った。エリシャは「あなたはそれを
見るが食べられない」と告げた。

そんな時、四人のらい病人がサマリヤの門にいた。町は大変な飢
饉、
どうせ自分達は必ず死ぬ。それなら敵の陣営へ入ってみようと。も
しや食料があるかも知れない。すると神が敵に、大軍勢の騒ぎを聞
かせられ、襲撃と勘違いするようにされた。敵は驚き恐れ、陣営を
置き去りにしたまま逃げ去った。

それで入ると、山ほどの金銀と溢れる食料があった。彼らは王家に
知らせた。王は信じなかったが、偵察により事実を知った。すると
大勢が殺到したので、門の管理をしていた侍従は踏みつけられ死ん
だ。エリシャの言葉通りになった。実際、溢れるほどの食料を主は
用意された。しかしそれを信じなければ、自分のものにはならな
い。

溢れる食料がそこにあるにかかわらず、飢えて死ぬ事になってしま
う。私達も同様だ。十字架の救い、神の愛、恵み、罪の赦し、義と
される事・・、溢れる食料の中にいながら、信じなければ、餓死す
るように、溢れる恵みの中で、不信仰でいないだろうか。

自分で恵みを遮断し、受け取れない侍従は、自分の姿だろうか。信
じようとしない自分に気づく事から始まる。そのまま祈りに持って
行ける。主はその祈りに答えて、信仰へと導いて下さる。
-------------
自分を見るとできる要素は何もないが、そこから主の御言葉へと信
仰を向けるなら、まだ手にしていない祝福を見つける。信仰をもっ
て踏み出そう。溢れるばかりの恵みを受け取りに行こう。


2022年01月23日(日)

「イエスは彼らに言われた。『子どもたちよ。食べる物がありませ んね。』彼らは答えた。『はい、ありません。』」ヨハネ21:5


ペテロは、大好きな主を3度否み、裏切るという大罪を犯してしま
い、心はどんなものだったろう。主からガリラヤに行くよう伝えら
れ、故郷に戻ったペテロと弟子たち。主に合わせる顔もない。自分
はもう弟子失格で、心は暗く重かったろう。意気喪失、無力な自分
に出来る事は、かつてなりわいにしていた漁しかない。

それでペテロが漁に出ると、他の弟子たちも追随した。しかしベテ
ランであるはずの漁においても、魚は一匹も捕れない。ペテロは、
自分の人生の大失敗が脳裏から離れず、思いはそこでいっぱいだっ
たろう。主を裏切り、主を捨てた自分。心は空っぽだ。

しかしそんな彼らに、主の方から夜が明けた時、岸べに立たれた。
「食べるものがありませんね」「はい、ありません」「右側に網を
おろしなさい」と。岸辺からの声に。ただ言われる通りにすると、
何と驚くばかりの大漁だった。全く同じ光景が以前にもあった。一
瞬、ヨハネが「主です!」と気づいた。ペテロが主に召された時の
あの原点だ。

ペテロは、一刻も早く主のもとへ行きたくて、湖に飛び込んだ。三
度否んだペテロ、主を捨てて逃げ去った弟子たち、主はその心の挫
折、後悔、傷みをご存じであった。主の方から弟子たちに朝の食事
を用意し、ペテロを回復させられ、立ち上がらせられた。

私たちの信仰人生のどんな真っ暗な時でも「夜が明けそめた時、イ
エスは岸べに」立っておられる。ご自身を現わして下さる時、そこ
に慈しみがあり、いやしがある。主の変わらない愛は尽きる事がな
い。
・・・・・・・・・・
主を裏切ってしまったペテロと弟子たち。心はどんなに重苦しく傷
んだろう。自分の力では、何の実も無く虚しい中、「ありません」
と認めた時に、主からの指示。その通りに従った時に、大漁。主の
愛は変わらない。今、一度従ってみよう。


2022年01月22日(土)

「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、 あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、 あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきであ る」創世記4:7



カインとアベルが、主に各々献げ物を持って来た。カインは地の作
物から持って来て、アベルは、最良の初子の羊を、自分自身で持っ
て来たとある。アベルの献げ物は受け入れられ、カインの献げ物は
受け入れられなかった。神のひいきだったのか。しかし「私たちの
神、主には、不正も、えこひいきもない」と言われる。受け入れら
れなかったカインは激怒で、顔を伏せた。

そのカインに、主は「なぜ憤っているのか、顔を伏せているのか。
あなたが正しく行なったのであれば受け入れられる」と。つまりは、
カインは正しく行なっていなかった。又、正しい心で行なっていな
かった。神が正しくないと言われているので、間違いがあったとい
う事で、主に聞き、悔い改めれば良かった。

しかしカインは怒りで顔を伏せ、心を閉ざしてしまった。主に聞き、
叉、自らの気持ちを告げて行けば良かった。しかし心頑なにし、主
を拒み、怒りは増幅して行った。怒りは罪を引き起こして行く。主
は、罪が戸口で待ち伏せしてるから、罪を治めるようにと警告され
た。罪を治めるとは、罪を告白し、悔い改め、十字架の赦しを受け
取る事だ。

しかしカインは、怒りの矛先をアベルに向け、妬みは激しい憎しみ
となり、殺人へと至った。何と弟を殺害してしまった。どんな時に
も、愛して下さっている主に、顔を伏せる事なく、向いて行くこと
が大切だ。主に語り、聞いて頂く事が出来る。そして豊かな赦しが
あり、御心へと導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・
顔を伏せること、心を閉じることが、主と真逆の方向へ向かわせて
しまう。顔を伏せるのでなく、顔を主に向けよう。どんな事でも、疑問
も、率直に直接主に問うて行こう。わからない事は教えて頂こう。
主は愛をもって教え、導いて下さる。主のもとへ行こう。


2022年01月21日(金)

「ペテロは力を込めて言い張った『たとい、ごいっしょに死ななけ ればならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申 しません』」マルコ14:31



私たちは、時に失敗する。人間だから必ず失敗する。どうして自分
がこんな事を、という信じられない失敗をしてしまう。過去にも何
度も失敗して来た。だが失敗で、人生が終わってしまうのではな
い。
大事な事は失敗を認め、悔い改め、そこから学んで行く事だ。

主は豊かに赦して下さり、失敗を通して多くの学びを得る。あわれ
み深い主は、次の展開へと導いて下さる。ペテロのために主は「あ
なたの信仰がなくならないように」と祈られた。「失敗しないよう
に」とも祈れたはずだが、そうは祈られなかった。

ペテロは主を3回も否み、呪いをかけてまで誓い裏切るという大失
敗を通して、自信を見事に砕かれた。ペテロはへりくだらされ、造
り変えられて行った。主の昇天後は、諸教会のリーダーとして大き
く用いられた。失敗を通して、肉の自分の考え、自分のあり方を軌
道修正される。

ペテロは大失敗を通して、自分の真の姿を見せられた。充分自力で
従って行けると思っていたが、全く従う事の出来ない人間だと知っ
た。だが、ペテロの失敗のただ中も、主は決して変わらない愛で、
愛し続けておられた。主の執り成しにより、ペテロは立ち直る事が
できた。

そして更に深く主を愛する者とされ、主に頼る者とされた。同様に
私たちにも、主の愛が注がれていて、どんな中でも変わらない深い
愛で愛されている。弱さを通して、自分の力で、生きて行けない者
である事を知る。これこそが大きな恵みであり、成長だ。
-------------
簡単に出来そうだと思う事ほど主に頼らず失敗してしまう。失敗を
通して自分の限界をさらに知らされ、主に頼る領域が増えてゆく。
失敗を通して学んでいこう。


2022年01月20日(木)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗や みの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するも のです」エペソ6:12



私たちの格闘は悪魔に対するものだが、まず悪魔に「機会を与える
な」とある。機会を与えるのは自分自身だ。悪魔は私たちの心に、
足場を得ようと常に狙っている。カインは「怒り」で、悪魔に足場
を与えた。悔い改めて、罪を治めるべきであったが、カインはそう
せずに、アベルを殺してしまった。

サウル王は「妬み」で悪魔に足場を与えた。妬みを悔い改め、主に
頼み、捨てる事をせず、悪魔に機会を与え続けた。ダビデは「高
慢」
の罪で人口調査をした。勝利に次ぐ勝利に、高ぶった。人口調査で
自らの力を誇ろうとした。神でなく兵力に頼るよう誘惑された結果
だった。

部下ヨアブが、神への反逆だと止めるが、ダビデは聞かない。その
結果、主の怒りを招き、民に災いをもたらす事になった。悪魔は、
主を愛し主に忠実であったダビデにも巧妙に働いて、姦淫と殺人の
罪に誘惑した。私たちは自分の心を見張る必要がある。

又、悪魔は狡猾に「疑い」を起こす。「これでも神は愛?」「本当
に守ってくれるのか」「必要は与えられるのか」。足元がぐらつ
く。
対人関係に「疑い」を起こし、疑心暗鬼にし不信感を植え付ける。
悪魔の攻撃だ。

赦さない心は悪魔に絶えず足場を与える。今、悪魔の攻撃に会って
いないか。足場を取られていないか。心を見張ろう。悪魔の策略に
気づけるよう祈っていよう。御霊の気づきを与えて下さる。
---------------
祈らず自分で考えていると、どんどんサタンと会話していってしま
う。思い煩いや苦い思いが来るときはすぐに祈ろう。主はどう導か
れているだろう。足場を主に渡そう。


2022年01月19日(水)

「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けた のではなく、子としてくださる御霊を受けたのです」ローマ8:15




ある人の証しだ。教会へ行く前に、自分で聖書を読んでいたが、よ
くわからなかった。良い、立派な教えで、教訓だろうと思ってい
た。
心に響いて来る事は無かった。しかし教会に行くようになり、聖書
を学ぶ中で、神の愛を知り、主を救い主として受け入れた。その時
から変わった。

祈り、御霊の助けを求めて、聖書を読むようになり、ただの良い教
え、教訓が、まことに生きた言葉に変わって行った。心に御言葉が
響いてきて、初めての経験だった。御言葉から喜びが与えられ、心
の平安を知って行った。自分に道を示し、自分を生かしてくれる言
葉となり、以前とは全く違った。

「信仰のこの事がわかりません。教えて下さい」と率直に祈る時
に、
学び会から答えが来たり、礼拝説教で解き明かされたり、信仰書を
通してわかったり、祈りの答えに驚かされた。まさに心の内をご存
じで、生きて働いておられる事を経験した。御霊の働きだ。

悩みの時に、御言葉通して指針が与えられる。又、悲しみの時、落
胆、落ち込みの時、御言葉から慰め、励ましが臨む。問題の中で祈
っていると、これはこうすれば良い、あれはああすればとの示しが
来る。御霊の助けだ。

又、日常生活で平安が失せると、何かが違い、軌道修正が必要で、
平安の方向へと歩めば良いことを学ぶ。信仰人生どんな苦しい問題
の中でも、必ず御心の道へと、御霊が助け、導いて下さる。信仰生
活を力強く導いて下さっている。
-----------------
御霊を通して、ひとつの御言葉が自分のたましいをゆさぶる、いの
ちを持った言葉として迫ってくる。こんな弱い者が主と共に歩んで
いるんだと実感する。御霊の慰め、励ましに喜びがあふれてくる。


2022年01月18日(火)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください・・私のうちに傷のつ いた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてくださ い」詩篇139:23



ある人が会社員として主に仕えていた。ある時上司から「君の昇進
を強く推したが、残念だった」との言葉を聞いた。それが、ひどく
心が動揺したのだった。自分は主のために生きたいと願い、出世な
ど全く関心外と思っていた。しかしいざその場になると、実は自分
の内に強い野心がある事を知った。

そんなはずはないと愕然とした。御前に行き、その思いを主に語り
祈っていた。その時に、何も無い時は、そんな欲など無いつもりだ
ったが、本音では出世を求め、同僚よりも先んじたい、上に立ちた
い、地位、名誉を欲している自分を知った。それらをことごとく主
に告げて、今一度自分自身を献げる事ができた。

その時に、主からの深い平安が臨んだ。それは何にも代えられない
平安だった。自分は今の場で、主を第一に生きて行きたいと、改め
て思った。するとその後、突然昇進の辞令を受けた。すべてご存じ
の主が、心の奥を照らし、動機を聖めて下さったと感じた。

ある妻は、夫から職を辞し、神学校への志を打ち明けられた。普段
は主を第一にがモットーで、必要はすべて満たされると信じていた
し、いつも周囲にも言っていた。しかし全身に衝撃が走り、生活は
?子供たちの教育費は?食べて行けるのか?大きな不安と恐怖に襲
われた。心が沈み真っ暗になった。

何も無い時の、順境での信仰でしか無いのだと思い知らされた。だ
がこの事により、初めて真に主に拠りすがるという経験に導かれ
た。
御霊の喜びと満たしへと進ませて下さった。
-----------------
祈っているのに全く違うことを平気でしてしまい、建て前で祈って
いた事に気づかされる。本音の自分を主に知らされ感謝だ。祈りの
課題が見えてくる。主よ私を探り・・の祈りを祈っていこう。


2022年01月17日(月)

「それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そし て、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり 見えるようになった」マルコ8:25



ベッサイダで、人々が盲人を連れて来て、主に触って下さるよう願
った。主は盲人の両眼につばをつけ、両手を彼に当てられた。「何
か見えるか」と問われると、彼は「人が見え、木のようだが、歩い
ているのが見える」と言った。見えるが鮮明ではない。人が、木の
ようにぼんやりしていた。見えつつあるが、まだ十分でなかった。

そこで、主がもう一度両手を彼の両眼に当てられた。彼が見つめて
いるとすっかり直り、はっきり見えるようになった。いやされた。
主に直接触れられた時に、ぼんやり見えるようになり、彼が尚も
「見つめて」いた時に、「はっきり」見えるようになった。私た
ちはどうだろう。主をじっと見ているだろうか。

忙しくて、そんな時間など無いだろうか。主が、何だかぼんやりし
ているのは、そのためだろうか。デボーションも、なすべき事が気
になり、形ばかりになり、心が立ってしまっているだろうか。主は
彼の目を開かれたように、私たちのぼやっ〜として見えない心の目
も開いて下さる。

ぼんやりしていたのが、御言葉により少しづつはっきりとするよう
にされる。「彼が見つめていると」のごとく、彼は、ぼんやりした
中も、失望せず見続けた。今、まだよく見えなくても、御声に耳を
傾け続けよう。時をかけつつ、主は必ず少しづつはっきり見えるよ
うにして下さる。なすべき事は主を見つめ続ける事だ。
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暗闇に生きていた者が主を信じ光の中に生かされていく。ここまで
手を引いてくださった主に感謝だ。必ず主は導き続けてくださる。
主から目を離さず見つめ続けていよう。


2022年01月15日(土)

「彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、 彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。 わたしは彼らの神、主である」出エジプト29:46



出エジプト記は、民の苦難から始まる。民は苦役に苦しみ、うめき、
その叫びは神に届く。神により出エジプトが成され、最後は「主の
栄光が幕屋に満ちた」と終わる。主は幕屋を作るように命じられた。
「わたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」と。

アロンとその子たちを祭司として任命し聖別し、その所で罪のため
のいけにえを献げさせるためであった。律法を与えると同時に、罪
の解決、罪のための贖いを備えられた。そして幕屋は、主が「彼ら
の中に住む」ために与えられると。主が、民の間に住む事が、民を
救い出した目的だと言っている。

「彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、
彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようにな
る」と。苦難のエジプトから出されたのは、主が民と共に住むため
であった。新約では「ことばは人となって、私たちの間に住まわれ
た」そして「この方の栄光を見た」と。また「わたしにとどまりな
さい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」、「わたしはぶ
どうの木で、あなたがたは枝」だと。

「とどまる」=「住む」、主と一つだ。そして将来の最終的、新天
新地で「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、
彼らはその民となる」と。苦役の奴隷であった民、罪の奴隷であっ
た私たちが救い出されて、私の中に、主が住まわれる。何という光
栄、喜びだろう。

・・・・・・・・・・・・
単なる外側の教えではなく、主が、私の中に住むために、救い出し
て下さった。何と驚くばかりに嬉しい事だろう。そこに焦点を当て
る時、平安にされ、喜びが来る。絶えず信仰の目を、そのところに
向けていたい。そうできるよう祈ろう。


2022年01月14日(金)

「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊にとり つかれているのです」マタイ15:22



娘が悪霊につかれている、異邦人の母親がいた。必死の思いで、主
に叫んだ。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんで下さい」。この
切なる叫びに、主は答えて下さると思う。だが主は「一言もお答え
にならなかった」。主は沈黙され、無視された状態だ。彼女は決し
て諦めず、尚も叫びついて来た。弟子たちは見かねて、帰して欲し
いと主に願った。

すると「わたしは、イスラエルの羊以外のところには遣わされてい
ない」と。彼女はそれを聞いて「ダビデの子」を抜いて、更にひれ
伏し求めた。カナン人はイスラエルではない。「ダビデの子よ」と
言う権利は無い。彼女は一歩も引き下がらず、むしろ尚もへりくだ
って正しい位置に立った。

すると主は「子どものパンを子犬に投げてやれない」と言われた。
何と冷淡なと思いそうだが、実は、主は彼女を正しい道筋に導いて
おられた。そこで彼女は更にへりくだった。「主よ。その通りで
す」
と小犬である事を認め「小犬でも食卓から落ちるパンくずはいただ
きます」と求めた。主はあわれんで下さる、いやして下さると信じ
たからこそ、決して諦めなかった。小犬がもらえる恵みを求めた。

その時、娘は直った。彼女は願いが聞かれた。主は彼女の「立派な
信仰」に驚かれた。主を信じたからこそ、退かずにへりくだって求
めた。信じていなければ、まず求めない。そして信仰は決して諦め
ない。諦めないので、必ず答えを手にすることになる。
------------
小犬が主人を仰ぐようにへりくだり粘り強く主に信仰をお献げした
い。長い試練の道のりも、主のご計画と必ず良くしてくださる事を
信じて御心の扉を叩き続けたい。


2022年01月13日(木)

「それでサムエルは、すべてのことを話して、何も隠さなかった。 エリは言った。『その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさ いますように』」Tサムエル3:18



ハンナの涙と共に切なる祈りにより、サムエルは産み出された。そ
の彼は、祭司エリのもとで養育された。ある時、サムエルは主から
呼ばれた。しかしエリに呼ばれたものと思い、エリのもとに行く。
それは主の御声だと教えられ、次にはエリに言われた通り「お話し
ください。しもべは聞いております」と答えた。

すると、主からの最初のメッセージは、何とエリの家への裁きであ
った。「彼の家を永遠にさばく。自分の息子たちが呪いを招くよう
な事をしていながら戒めなかった罪による」と。自分の師であるエ
リに伝え難い、極めて厳しい言葉であった。彼はエリに語る事を恐
れた。しかしエリに聞いた通りに告げるよう言われ、主の言葉を伝
えた。

預言者とは、神から受けた言葉を、忠実にそのまま民に語る人のこ
とだ。どんなに辛い、痛い言葉であろうと、その通りに語らねばな
らない。預言者として立てられて行くサムエルへの最初のテストで
あったかも知れない。私たちはどうだろう。

口では「お話下さい。しもべは聞いております」と喜んで聞きます
と言いつつ、罪の指摘や、醜い、嫌な姿を照らし出される痛い言
葉、
叉、自分の願い通りでない言葉は聞かずに、耳を閉じるだろうか。
痛い言葉こそが、実は必要な言葉であり、恵みの言葉だ。

そこでこそ自分が、主の似姿へと変えられて行く。必ず豊かな祝福
とされる。逃げずに耳を傾けよう。心地よい言葉だけが、「恵まれ
る」と思っていないだろうか。
------------
知恵のある者は忠告を聞き入れるとある。耳の痛い御言葉を聞き流
してしまわず、きちんと立ち止まり向き合ってみよう。主からの真
実な導きではないだろうか。主からの励ましではないだろうか。


2022年01月12日(水)

「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼ら の悪がわたしの前に上って来たからだ」ヨナ1:2



主はヨナに、ニネベへ行くよう、命じられた。しかしヨナは敵国ニ
ネベが気に入らず、「主の御顔を避けて」、行きたくない。そこに
丁度タルシシュ行きの船があり、その船に乗った。すると嵐になっ
た。ヨナはこの嵐は自分のせいなので、自分を海に投げ込むように
と言った。

主は、海に投げ込まれたヨナを、海中で大きな魚を備え、その中で
ヨナを守られた。そこでヨナは悔い改めの祈りをし、魚の腹から出
た後、今度は素直にニネベに向かった。するとヨナの言葉に聞き従
い、ニネベの人々は悔い改めた。そのため主は災いを思い直され
た。

それがヨナには納得行かず、心が収まらない。小屋を作り、陰に座
り、どうなるか見てやろうと、すねたような態度だ。主はとうごま
で、日陰を作られ、ヨナは喜んだ。だが翌日、虫で、とうごまが枯
れた。焼け付く太陽は照りつけ、ヨナは衰え果て「死んだ方がま
し」
と死を願った。

機嫌を損ね、それが直ったかと思うと、又、機嫌を損ね、死にたい
と思う。私たちも些細な事で信仰が揺れ動く。うまく行けば大喜び
し、反対だとひどく失望落胆し思い煩う。状況に振り回されるだろ
うか。大事な事は、主は、ヨナを大きな愛で愛され、愛し続けられ
ている。ヨナが御心をそれても、主の愛は変わらない。

決して見捨てず、見放されない。何があっても変わらない不変の愛
で、ヨナに目を留め、導かれる。この愛で私たちも愛されている。
この主を心に据えよう。もし今、御顔を避けているなら、主に向き
直り、御心を行なおう。その時、何にも代えられない喜びがある。
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環境に左右されて、すぐにつぶやいてしまう。どこまでも自分の事
でいっぱいの者を主は変わらない愛を注ぎ続けていてくださる。主
の尽きないあわれみとご愛に感謝しかない。


2022年01月11日(火)

「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」 マタイ11:30



くびきとは、平板に穴が二つ平行に開いていて、二頭の家畜の頭部
を入れるものだ。二頭を同じ方向へ進ませるためだ。それが無けれ
ば、それぞれ別々の方向へ行く。くびきは二頭を同じ方向へ進ませ
る。主も私たちに「わたしのくびきを負え」と言われる。主のくび
きは負いやすいと。

それは身体にフィットして快適、心地良いという意味だ。くびき
は、
その穴に首をきちんと入れると、快適で心地良いが、嫌がって、も
がくと首が締め付けられる。くびきを逃れようとするなら、そのく
びきは締め付け、痛いばかりだ。辛いものとなる。これさえ無けれ
ばと、自分を苦しめるものとなる。

あなたにとってくびきはどうだろう。自分のくびきを「受け入れ」
しっかり負う時、そのくびきは平安と喜びをもたらしてくれる。し
かし受け入れず、もがく時、それは首を絞め、ただ苦しいばかり
だ。
くびきを受け入れられなければ、そう出来るよう祈る事ができる。
主は助けて下さる。

ある人は、目の前の状況が受け入れられず、苦しくてたまらなかっ
た。どうしてもだめで、受け入れられない。心は重く辛い。もがい
て悶々状態だ。どうにも出来ない。もう瀬戸際となり、「最悪で
す。
もうぼろぼろです、助けて下さい!」と叫んだ。

その時、ギブアップの祈りに答えられ、主の助けが臨んだ。御霊の
働きにより、くびきを受け入れる事が出来て、解放された。心が平
安なので、それは軽いものと感じられた。
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自分の方法でやろうとして疲れ果ててしまう。重荷や疲れとなるも
のを持ったままで主の招きに応答しよう。主のくびきは負いやすく
軽い。主の御言葉を信じよう。


2022年01月10日(月)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる 祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきな さい」ピリピ4:6



ある人が、突如の困難が起きて、大きな不安と恐れに襲われた。パ
ニックで何をどうして良いかもわからない。心は暗くふさがれ、胸
が苦しい。どうすれば良いのだろう、誰にも言えず、悶々状態だ。
どんどんネガティブな方へと向き、何もかもがダメになるように思
えてしまう。

しばらくして、はっと我に返った。そうだまるで主が飛んでいた。
御霊の気づきに感謝し、とにかく不安なままで、主のもとに行っ
た。
心は重苦しい。しかしいつも学んでいるように、何が何だか、わか
らない心の内を、不安も恐れも、なすすべが無い事もあるがまま主
に告げて行った。

そして静まっていると、「何も思い煩わないで、あらゆるばあい
に、
感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたの願い事を神に
知っていただきなさい」と示されたのだ。「何も」という事は、ど
んな状況であれ、いっさい思い煩うなと言う事だ。驚くべき事だっ
た。御言葉の通り、願い事を主に告げて行った。

その時「神に知っていただきなさい」により、「神に知っていただ
いた」との確信が来た。すると大丈夫だと安堵と共に思えた。神に
知って頂いたのなら、何の心配があろう。最善をして下さると信じ
る事ができた。状況は同じなのに、心に平安が臨んだ。不思議な恵
みの経験だった。
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主よ平安をください、まだ委ねられませんと思い煩いが来るたびに
胸の内を主に告げて助けを求めよう。主の平安がくる。そうして落
ち着いた心で主の導きを待とう。


2022年01月09日(日)

「ところが、パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼ら の言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである」出エ ジプト8:15



モーセに導かれた出エジプトの際に、主は次々に奇跡をされた。パ
ロは、次々と主により災害に苦しめられると「出て行かせる」と言
う。しかし苦難が去り、ほとぼりがさめると「行かせない」と翻す。
又、苦難が臨むと「私は罪を犯した。主は正しい。もう沢山だ。行
かせる」と言う。「私は罪を犯した。祈ってくれ」とまで言い、一
見、悔い改めに見えるが、事が収まると、又、頑なに、強情になる。

これは目の前の苦難を何とかして欲しいだけで、悔い改めではない。
口先だけの言葉で、心では思ってはいない事の表われだ。王であり、
トップで、部下は命令通りに動く。何もかもが自分の思うがままに
出来るパロにとって、主の奇跡は、単に脅しに過ぎなかった。脅し
が無くなれば、もう問題無い。だから元に戻り、何も変わらない。

主のみわざが、心からの悔い改めを生み、主のご愛や真実を知る事
には、ならなかった。一方、私たちはどうだろう。不都合な出来事
は、ただ単に振りかかった災難であり、苦しみが去りさえすれば良
いのだろうか。それなら、パロと同じになってしまう。「わたしが
主であることを、あなたがたが知るためである」。

信仰生活での様々な悩みや苦しみは、「わたしが主であることを知
るため」に送られている。それは、主ご自身がまことの神である事
を知る時であり、又、自分の内側が照らされる時だ。悔い改めに導
かれるかも知れない。そして確かに主を新たに知れる。目の前の問
題や困難は、「わたしが主であることを知るようになるため」と受
け取ろう。

・・・・・・・・・・・・
この一年も多くの試練、問題、悩みに遭遇する。その時に、目の前
の苦しい状況だけを見るのでなく、主を見上げよう。その悩みを通
して「わたしが主であることを知るようになる」と。何と嬉しい事
だろう。新たに親しく主を知れるとは。受け取れるよう祈ろう。


2022年01月08日(土)

「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自身を弟子たち に現わされた」ヨハネ21:1


主が、「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます」
と言われた時に、ペテロは「たとい、ごいっしょに死ななければな
らないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しませ
ん」と言った。弟子たちも皆、そう言った。しかし主が捕えられた
時に、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。

そしてペテロは、三度主を否んでしまい、呪いをかけて誓ってまで
否んだ。主を裏切ってしまったのだ。だがその少し前に、彼らの間
で、「この中でだれが一番偉いだろうかと議論していた」とあり、
彼らの求めていたものが、主のお心と全くかけ離れていた。自分の
力で、肉の求めで、信仰生活を送っていた。

死んでも従うという言葉も、自分の思いと自分の力によるものだっ
た。そのため、もろくも砕け散ってしまった。しかし、主は、信仰
がなくならないように、あなたのために祈ったと言われ、主の祈り
と主の支えの御手があった。これがすべてであった。よみがえられ
た主は、ガリラヤで主の方から、ペテロに、弟子たちにご自身を現
された。

そしてペテロの信仰を回復させられた。自らの力は無力だ。自分で
立ち直る事もできない。私たちのためにも、主は祈って下さってい
る。エマオ途上の失望落胆した二人の弟子たちに、主の方から近づ
かれて心を燃やし、再び立たせて下さったように、あなたのかたわ
らにも、今、主がおられる。その主が、失望を希望と期待へと変え
て下さる。

・・・・・・・・・・・・
自信満々だったペテロは、その肉の自信をもろくも砕かれた。将来
のリーダーとして見据えておられ、砕き、練り、整えられた。砕き
は痛く辛いが、子であり感謝だ。放っておかれる方が私生児だと。
今年も、主に焦点を当て、砕きも受け止めて行けるよう祈ろう。


2022年01月07日(金)

「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。 わたしは新しい事をする」イザヤ43:19


イスラエルの民は、国が滅び、神殿は破壊され、街は廃墟となった
中、敵国バビロンに捕虜となり連行された。バビロン捕囚だ。悲惨
な、屈辱的な、絶望的な出来事であった。異国での長い間の捕囚生
活、目の前の広大な荒野、もう先の事など考えられなかっただろ
う。
そこに主は、「わたしは新しい事をする」と。

この捕囚から解放して、エルサレムに帰還させるという事だ。何と
いう光であり、慰め、希望だろう。「あなたがたのために、わたし
はバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ
人を喜び歌っている船から突き落とす」、バビロンを打ち負かす
と。

そして、先の事、昔の事を考えるな、とは出エジプトの紅海横断の
ことだ。イスラエルの民にとって後にも先にも無い、偉大な輝かし
い奇跡であり、彼らの原点だ。それが不信仰により、今は、バビロ
ン捕囚という苦しい状況にあった。

「わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける」「荒野に水をわき出さ
せ、荒地に川を流し」。道路が無い所が荒野で、荒れた開墾されて
いない土地だ。そこに道を造ること、叉、水の全く無い荒れた地に
川を流すこと、これは紅海が分かれる事よりも、更に困難だと言わ
れている。

つまり、「新しい事」とは、いっさい人の手によらない、神にしか
出来ない事、神にのみ出来るわざだ。ペルシャ王クロスによって民
は解放された。神は、しようとすることをされる。私たちにも、荒
れた、絶望的な状況の中で、神にしか出来ない「新しい事」をして
下さる。
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明けましておめでとうございます。昨年末には多くのあたたかいメ
ールを有難うございました。今年も、主のなさる新しいことに期待
し、主に励まされて日々のみことばの配信をつづけていきます。