2023年09月30日(土)

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなた の計画はゆるがない。」箴言 16:3


ある人の証しだ。少年時代からの夢があり、その進路を目指し
懸命に勉強して来た。だが不合格だった。大変なショックで、受
け入れがたい辛いものだった。やるだけやって、合格を信じてい
ただけに、落胆はひどいものだった。しかしそんな挫折の時に、
友人に誘われ教会へ行った。

そこで聞く、み言葉が心に沁み入り、神の愛を初めて知り、目が
開かれるようだった。心が非常に慰められ、主イエスを信じ救わ
れた。そしてみ言葉の学びを進める中で、「あなたのために立て
ている計画」があると、自分の人生にも、主の「計画」がある事を
知った。

嬉しくて、喜びが与えられ、新たな希望を持つ事ができた。そして
今度は進路を主にゆだねて、自分の思いでなく、主の御心を求
めた。すると、前とは別の道に導かれ、翌年、合格が与えられ、
卒業時には資格を得る事ができた。仕事に就いて、時を経た時
に、牧師になるよう召された。仕事を辞して神学校へ進んだ。

卒業後、結婚し、開拓伝道に従事した。経済的に非常に厳しかっ
た。子どもが次々と生まれ、大変な苦境に立たされた。その時に
何と、その資格が大いに役に立ち、収入を得る事ができた。振り
返る時、、先をご存じである、すべて主のご計画の中だった。挫
折により主に出会え、委ねると、新たな資格取得の道に導かれ、
主の働きに召し出された。挫折の時から、主はすでにこのご計
画を立てておられたと知った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主のみ思いは、人の思いと異なると言われている。明確に異な
ると言われるからには、よほど異なるということだ。しかしゆだ
ねる時、信頼し、安心しておれる。違っても、思うより遥かに高い
道であるから。


2023年09月29日(金)

「私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分 を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、 彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、 知恵のないことなのです。」Uコリント 10:12



私たちは普段、気づかないかもしれないが、人や自分を、どんな物
差しで評価しているだろう。この世の価値観では、見えるところの
能力によってだろうか。就職試験に行き、あれも出来ない、それ
も、これも出来ない、何も出来ないと言えば、不合格間違い無し
だ。クリスチャンにも根深く培われた、古い生まれつきの価値観が
ある。

そのため、自分の出来る事に、能力に、拠り所を見い出そうとし、
自分のアイデンティティをそこに置く。すると暗闇に陥ってしま
う。肉の力で頑張ろうとし、それを評価されたい、認められたい。
又、肉の力で頑張ると、必ず出来ない他者をさばく。自分は頑張っ
た結果なので、出来ていないと、努力していないとしか見えなくな
ってしまう。そして又、肉で歩むと、天を仰ぐ事を忘れるので、上
でなく、横しか見えない。

その結果、他者との比較に陥ってしまい、絶えず比較して、上がっ
たり下がったり、シーソーの歩みになる。主と、み言葉が抜け落ち
ると、見えるところの他者との差異でしか、自分を量る方法が無い
ので、比較で生きてしまう。今、どこを見て生きているだろう。比
較の根深い価値観がある事を覚え、絶えず御霊により軌道修正して
頂こう。御霊は気づきを与えて下さる。

ペテロが、主からどのような死に方をして神の栄光を現わすを示さ
れた時、ヨハネが気になり「この人はどうですか」と聞いた。する
と主は、ヨハネはあなたに何の関わりがあるか。「あなたは、わた
しに従いなさい」と。上を見上げ、御心を行なう事に集中していよ
う。
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周囲がどうかで自分の幸せが変化して見えすぐに喜びが消える。本
当に不安定な者だ。でも自己推薦は不要だ。弱さのままで、もう主
は愛してださっている。主に支えられている恵みを覚えて、しっか
りと上を見上げていよう。


2023年09月28日(木)

「してみると、あなたがたは、悪い者であっても、自分の子どもに は良い物を与えることを知っているのです。そうすれば、なおのこ と、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良 いものを与えないことがありましょう」マタイ7:11



主は、求めよ、そうすれば与えられると言われ、どんな時にもまず
祈れ、わたしを呼べと言っておられる。自分の子どもが、パンが欲
しいという時に、石を与える親がいるだろうか。子どもが魚を欲し
いという時に、どの親が、蛇を与えるだろうと。親は子どもを愛し
ているので、必ず良いものを与えると。

そのため、祈って行くが、そんな中で、ある事を経験する。求めが
あり、祈っているのだが、なかなか祈りが答えられない。幾ら祈っ
ても答えられず、壁にぶつかっているように感じてしまう。そし
て、むしろ状況は反対方向へ、悪い方へ向かって行く。一体どうな
っているのだろう。パンを求めているのに、石が出て来る。魚が欲
しいのに、蛇が出て来る。そんな経験があるだろうか。

アウグスチヌスの母モニカの、涙の祈りは有名だ。息子が異教に走
り、ひどく不道徳な堕落した生活をしていた。母は、「涙の子は決
して滅びることはない」と教えられ、息子のためにひたすら祈り続
けた。祈るのだが、しかし祈るほどに、見えるところは、ますます
悪くって行く、息子は更に堕落して行った。

だが、涙の子は滅びないと、祈りを信じることができ、見えるとこ
ろ逆になって行っても、尚も、祈り続けて行った。そしてとうとう
息子に、回心が与えられた。祈りということの中にも試練があり、
試される。祈りを続けよう。祝福の一歩手前かもしれない。
---------------
待ち望むという希望がある事は感謝だ。忍耐して祈ることが出来
る。求める者に主が与えてくださるのは常に最善だ。この確信があ
るから今日も求めて、捜して、たたいていける。


2023年09月27日(水)

「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近 づいて、彼らとともに道を歩いておられた」ルカ24:15



エマオ途上の二人の弟子たちは、主の無残な十字架の最期を見て、
失望落胆した。よみがえりを信じていない彼らは、エルサレムを後
にし、とぼとぼと郷里へ引き揚げる。「暗い顔つき」だ。主がロー
マ帝国をくつがえし、王国を打ち立てるとの思いが余りにも強く、
その分、失望も非常に大きかった。期待が大きければ、落胆も大き
い。

何もかも打ち砕かれ、絶望し、なすすべなく、郷里へ向かう弟子た
ち、そんな彼らを主は見捨てられなかった。よみがえりを信じない
彼らだったが、まさにその信仰をよみがえらせるために、主ご自身
が彼らのもとへ向かわれた。失望落胆で、かたわらを歩く主がわか
らない弟子たちに、主はどこまでも御言葉を語られる。御言葉を解
き明かし続けられる。

「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟り
を与え」る。原則として、私たちは御言葉を通して主と出会う。御
霊が働かれ、御言葉により目が開かれ、主がわかる。御言葉が大切
だ。御言葉を離れて、幻や、感覚や、神秘体験を求めると、間違っ
た方向へ行ってしまう。

今、失意の中にいて、主を見失っているだろうか。主は決して見捨
てず、あなたのかたわらを歩いておられる。御言葉を解き明かし、
ご自身を現わされる。今、御言葉を注視しよう。祈りつつ耳を傾け
よう。主は、御言葉を語っておられる。御霊が働いて、御言葉によ
り、新たに主がわかるようにされる。
--------------
暗い顔つきで主を見失っている者を、放さずなお主は語ってくださ
る。主の御言葉に聞いて行こう。聞くことで御霊に励まされ、教え
られ新しい力が生まれる。主にありのままを祈ってみよう。


2023年09月26日(火)

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられた からである」ヨハネ6:6



男だけで五千人、女と子どもを入れると、遥かにそれ以上の大勢の
人々を前にして、主はピリポを試された。ピリポに、空腹の人々
に、食べる物がない、「どこからパンを買って来て、この人々に食
べさせようか。」と問われた。ピリポは、現状について頭で計算を
した。答えは「不足・だめ」だった。めいめいが少しづつ取るにし
ても、手持ちでは足りないと。

アンデレも、あるいは、主が何かして下さるのではと思い、何か持
っている人を探し回った。少年の小さなお弁当があったが、しかし
こんなに大勢に、こんな小さな物では、焼け石に水だ。だめだと思
った。大勢の群衆、食べ物が無い、手持ちも無い、このような状況
で、しかし主はすでに「ご自分ではしようとしていることを知って
おられた」。

すでにご計画があられた。これは何と心強い事だろう。あなたが、
今、このような追い詰められた、瀬戸際の状況なら、主はすでに方
法を持っておられる。しようとする事があられる。その上で、主
は、私たちに信仰を求めておられる。「信仰がなくては、神に喜ば
れることはできません」主が喜ばれるのは、信仰だ。信仰を献げよ
う。

「小さな」ものを用いて下さる。五つのパンと「小さい」魚を二匹
だ。焼け石に水に思える。何になろうか。今、新しい歩みに招かれ
ているだろうか。自分が小さな者に思えるなら、主は「小さな」者
を用いられる。一番肝心な事は、その「小さな」ものが、主の手に
渡っているかどうかだ。主はそれらを用いて、奇跡をされる。 
---------------
どうせ駄目だろうと止めてしまったあの事この事。主に持って行き
献げたならどうなっていただろう。主にはご計画があり、主にあっ
てする事に無駄は一つもない。主に委ねられるように祈ろう。


2023年09月25日(月)

「私の賛美する神よ。黙っていないでください。彼らは邪悪な口と、 欺きの口を、私に向けて開き、偽りの舌をもって、私に語ったから です。」詩篇109:1



ダビデは、愛を向けた相手になじられ、愛して行くのに、憎しみで
攻撃されるという、辛く苦しい経験をした。サウル王につけ狙わ
れ、常に死と隣り合わせだった。ダビデはサウル王に何の悪い事も
していない。むしろ忠実な素晴らしい部下だった。しかし殺害目的
でずっと追われた。実子アブシャロムからも敵対され、歯向かわ
れ、実子であるだけに、非常なる苦悩であったろう。

ダビデは実子と戦わず、逃げ回った。愛や真心は通じると思いたい
が、そうでない場合がある。その場合は、どうすれば良いかを、ダ
ビデを通して学ばされる。ずっと誠意と愛情をもって接して来た人
々が、敵対し、攻撃して来る。邪悪な口と、欺きの口と、偽りの舌
をもって、憎しみの言葉で取り囲みと。

ののしり、なじって来る。非常に苦しい状況だ。しかしまさに、人
間の神に対する態度そのものだ。だが御父は、敵対する者を更に追
いかけ、御子まで殺して下さった。その御子を私達はどう扱った
か。神の愛すら通じないのであれば、罪人である人間同士の愛が通
じなくとも不思議はない。

主は十字架上で、人々の、ののしりに対してどうされたか。人々の
赦しを御父に祈られた。ダビデも同じだった。「私は祈るばかりで
す」。これが答えだった。「祈るばかりです」。復讐し、反撃でな
く、主に心の内を打ち明け、主に知って頂くことができる。心の内
を叫び祈ったダビデは、この後、賛美と感謝へと変えられている。
祈って行こう。
---------------
彼の日はわずかとなり・・と続くダビデの祈りの率直さに驚く。心
が怒りに吠え、嘆きで地に伏すとき、ダビデのように泣きながら主
に向かって心の内を告げていこう。主は全てを聞いていてくださ
る。


2023年09月24日(日)

「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民 は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に 与えようとしている地に行け。」ヨシュア1:1



モーセに導かれ、出エジプトを果たした民は、荒野を40年間旅し
た。そしてとうとう約束の地、乳と蜜の流れる地カナンの目前ま
で到達した。主は、モーセの死後、新リーダー・ヨシュアを立てら
れた。そして「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダ
ン川を渡り、わたしが・・与えようとしている地に行け」と命じられた。

足の裏で踏む所は、約束したとおり、あなたがたに与えていると。
主は、カナンの地をイスラエルに与えると、約束しておられた。しか
し、実際に自分のものとするには、具体的な行動が必要だ。彼ら
は、その土地に進み入り、戦い、勝ち取らなければならなかった。

ただ待っているだけで、祈っているだけで、もし主に示された事に
従い、実際に行動する事が無ければ、所有することは出来ない。
実際に入って行き、足の裏で踏まなければならない。これは、私
たちも同様だ。主は、私たちに豊かな祝福を備えておられる。そ
れを自分のものとするには、信仰に立ち、実際に従わなくてはな
らない。行動が必要だ。その時、約束のものを所有する事ができ
る。
今、あなたも、主が与えようとしている地に、「行け!」と言われて
いるだろうか。祈りの座から立ち上がり、行動を起こす時だろうか。
不安で、ためらっているだろうか。信仰もって、「一歩」踏み出して
みよう。すると主の力が臨んで、成し遂げられて行く。主の約束を
現実のものとして、受け取ることになる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主が「行け」と言われた時には、踏み出せるよう祈っていよう。
足の裏で踏まなければならない。実際に行動する事が必要だ。
今、目の前に、示されている事を行なおう。そうできるよう祈ろう。
大きな祝福にあずかる。


2023年09月23日(土)

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしにな る聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え・・」ヨハネ14:26



ある人が、小学生の時から、教会に通っていたが、罪がよくわから
ず、赦されたという事も、ぼんやりしていた。その後も教会へは行く
が、信仰自体も漠然としていて、サークルへでも行っているような
感覚だった。そんな中、部活で部長をしていたが、病気のため、入
院の必要が生じた。迷惑をかけるので、部長を他の人に代わって
もらった。

退院後、少し体調が良い時に行くと、自分のいた場所に、新部長
がいてうまく回っているし、皆がその人を信頼し、相談を持って行く。
それを見た時に、寂しさと妬みが湧いた。自分の顔が歪むのがわ
かった。こんなはずではない自分を見せられ、どうしようもない醜さ
を知った。その時、初めて罪がわかった。自分のプライドの高さ、
高慢を知った。心から悔い改め、主の十字架がこの罪のためであり、
自分のためであることを身をもって知った。

その時に心からの感謝が湧いた。ある人は、入院中に親しくなった
患者さんが、後で入って来て、先に退院して行くのを見ると、作り笑
いをし、口では「良かったね」と言う。しかし、心では全く祝福できず、
喜べず、羨ましくてならず、妬ましさでいっぱいだった。その時、喜
ぶ者と共に喜ぶ事など全く出来ない、自分の姿を思い知らされた。

自分は親切な良い人間と思っていたが、その自分の醜い姿を見
せられた。しかし主はこんな自分を愛しておられ、その愛は自分
がどうであろうと、決して変わらず、人の喜びを喜べない、自分の
ための十字架だと、心からの感謝が湧いた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
御霊が罪につき、義につき、さばきにつき教えて下さる。御霊に
よらなければ、罪はわからない。御霊が罪を教えて下さる時、
悔いくずおれる。頭でなく、霊でわかり、十字架の恵みがわか
る。自分のその罪のためであることがわかる。


2023年09月22日(金)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、 ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、 歩き回っています。」Tペテロ 5:8



悪魔に「機会を与えるな」ともある。機会を与えるのは、自分だ。
悪魔は私たちの心に、足場を得ようと常に狙っている。カインはア
ベルの献げ物が受け入れられた事の怒りで、悪魔に足場を与えた。
悔い改めて、罪を治めるべきであった。だがカインはそうせずに、
アベル殺害に至った。サウル王はダビデへの激しい妬みで、悪魔に
足場を与えた。

自らの妬みを悔い改め、主に拠り頼み、捨てる事をせず、悪魔に
機会を与え続けた。ダビデは、高慢により人口調査の罪を犯した。
勝利に次ぐ勝利に、高慢になった。人口調査をしたが、その動機が
自分の力を誇りたいがためであった。主でなく兵力に頼るよう誘惑
された結果だった。

部下ヨアブが、神への反逆だと阻止するが、ダビデは聞かない。そ
の結果、神の怒りを招き、民に災いをもたらす事になった。悪魔
は、忠実だったダビデを襲い、巧妙に働き、ダビデは姦淫と殺人の
罪を犯してしまった。私たちは心を見張り、守る必要がある。又、
悪魔は狡猾に「疑い」猜疑心を起こす。

「これでも神は愛なのか」「本当に守ってくれるのか」「必要など
与えられるのか」。信仰の足元が揺れて、ぐらつく。対人関係に「
疑い」を起こし、不信感を植え付ける。又、赦さない心は、悪魔に
足場を与えてしまう。赦し合おう。今、悪魔の誘惑が来ていない
か。機会を与えてしまっていないか。御霊に心を探って頂き、見張
ろう。悪魔の策略に気づけるよう祈っていよう。
---------------
あらゆるところに悪魔の誘惑があり、気分や環境によってすぐに足
場を取られてしまう。目を覚まして祈りつつ備えていよう。主から
離されたら闇だ。弱さを覚えていつも主と共に歩もう。


2023年09月21日(木)

「キリストは・・ののしられても、ののしり返さず、苦しめられて も、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりまし た。」Tペテロ2:23



ある人が、職場で上司との関係で、苦しんだ。暴言に、嫌がらせ、
理不尽な扱いを受けた。一緒に祈っていたクリスチャンの先輩が、
慰めようと「辛かったねえ」と声をかけた。すると彼は「はい、祈
らされました。こんなに祈った事はありません。自分は悪くないの
にと、怒りと悔しさしかなくて。そんな中、主の十字架が迫ったの
です。

完全に正しい方が、十字架にかかる必要の無い方が、あの十字架で
苦しまれ、命を捨てられた、その事に目が開かれました。今まで頭
でしか、わかっていなかった事が、初めて心でわかりました。主の
姿を通して自分の姿が見えました。その時、主にいっさいをお委ね
できて、今、平安が与えられています。もう感謝しかありません」
と答えた。

彼には正当な言い分があり、主張があった事だろう。しかし信仰に
立った。自分で自分を守ろうとせず、又、自分で状況を動かそうと
せず、すべてを正しく導き、裁き、成し遂げられる方にお任せした
のだ。ダビデもサウル王から理不尽な扱いを受けた。サウルの一方
的な妬みにより、命をつけ狙われた。槍をダビデ目がけて投げつけ
られた事もあり、どこまでも追撃された。

ヨセフも、エジプトで主人から厚意を受けたが、その主人の妻によ
り、身に覚えの無い無実の罪で投獄された。しかし、ダビデもヨセ
フもそんな中で、反撃するので無く、御父に自らを委ねて行った。
そして彼は、主により、神の時に、ふさわしい解決を与えられたの
であった。
---------------
ののしられたら、ののしりたいと感情的になってしまうが、それは
御心ではないと知っている。思いは乱れても祈ることが出来る。
主に助けを求め、事の全てを知っておられる方にすべてを委ねてい
こう。


2023年09月20日(水)

「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そ うしたら、お前の用意した物は、いったいだれのものになるのか。」 ルカ12:20



ある金持ちが大豊作で、倉には納めきる事ができなかった。そこで
それを壊し、もっと大きな倉を建て、みなそこにしまった。もう先
何年分も貯めたから、安心だ。さあ食べて飲み楽しもうと言った。
その彼の間違いは、物で、命まで保障されると思った事だ。そこが
愚かだった。だが神は「今夜、お前の命は取られる。お前が用意し
たものは、誰のものになるのか」と。

さあ、思う存分楽しもうとした矢先、その夜に亡くなった。元々金
持ちの上に、更に豊作で、倉の上に、更に大きな倉だ。神が豊作を
与えて下さった事の感謝は全く無く、貧しい人々に分け与えようと
の思いも無く、どこまでも自分、〃、〃だった。宝のある所に、心
もある。今、私たちの心はどこにあるだろう。この世の所有物は、
実は神からの預かり物だ。真の所有者は神だ。

任されたものを、神に喜ばれるように管理して行く時、自分にも喜
びが与えられ、そして天で豊かな報いがある。彼の人生に、神は無
かった。人生は自分の思い通りになるものと思っていた。だがどん
なに順風満帆であっても、明日どうなるかは、誰にもわからない。
明日は主の御手の中だ。だから「あすのための心配は無用」と。

それより、今日なすべき事、今日の御心が備えられている。見えな
い明日の事を思い煩い、今日の日をつぶしてしまうなら、何一つ成
し遂げられなくなる。今日、一人〃に与えられた役割がある。それ
をしっかり成し遂げる事ができるよう祈ろう。神の前に富むとは、
み声を聞き、従う歩みだ。そして日々地道な交わりにより、主との
関係が更に深く培われて行く事だ。
---------------
明日の事を知ることは出来ない。先の事がわからないから不安にな
るのは当たり前だ。だから日々主を認めて、今日の祝福を祈り、明
日を主に委ねていこう。自分の力で生きていると思うなら不安しか
湧いてこない。


2023年09月19日(火)

「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」 マタイ6:13



「試み」という元の言葉は「試練」と「誘惑」のどちらにも使われ
ている。しかし源が全く違い、「試練」は神からであり、「誘惑」
は悪魔からだ。要注意だ。神は、断じて誰をも、罪に誘惑される事
はない。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて誘惑
される」。サタンが私たちの欲望のある所に、誘惑をしかけて来
る。

そして「試練」は神より与えられるものであるので、それは益と成
長と祝福となるもので、受け入れ、忍耐すべきものだ。そうする
時、必ず一段階づつ成長して行ける。試練は、成長のためのもの
だ。「試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思いなさい」そ
れは成長を遂げた完全な者にされるためと。

反対に、サタンからの「誘惑」は決して受け入れてはならない。断
固拒否し、立ち向かうべきものだ。その誘惑を受け入れてしまう
時、罪を犯してしまう。だから主が「主の祈り」で言われたよう
に、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈
る事は重要だ。試みに会わせないよう、誘惑から守られるようにと
「祈る」必要がある。

なぜなら新生した私たちにも、天に帰るまで、まだ肉があるから
だ。肉に悪魔の攻撃が来る。悪魔が肉に働いて誘惑して来る時、ま
さに自分の肉の願望と合致するので、やられてしまう。自分の願望
と悪魔の誘惑が合致していると、なかなか気づけない。だからこそ
いつも祈っていよう。サタンを識別できるように。
---------------
誘惑が来た時に祈っているだろうか。誘惑が来ると祈るよりも速く
誘惑にのってしまう。誘惑には勝てないからこそ、日ごろから試み
に会わせないでくださいと、弱さを覚えて祈っていたい。


2023年09月18日(月)

「イスラエル人は海の真中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、 右と左で壁となったのである。こうして、主はその日イスラエルを エジプトの手から救われた」出エジプト14:29



イスラエルの民は、モーセの導きのもとに、苦難のエジプトを出
た。しかしパロは許可を与えた後、頑なになり、自らが軍勢を率
い、えり抜きの戦車600とエジプトの全戦車を率い、民を追跡し
た。段々と追いつき、どんどん近づいた。民は、迫り来る軍勢に、
非常に恐れて主に叫んだ。そしてモーセにかみついた。

なぜエジプトから連れ出したのか、荒野で死なせるためか、エジプ
トにいた方が良かったと。その時にモーセは、「しっかり立って、
きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見よ」と言った。
「主があなたがたのために戦われる」と。その時に主はモーセに言
われた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人
に前進するように言え」と。

モーセは、ずっと叫び祈っていた。目に見えるところでは、前進す
るなら、海に溺れて死んでしまうではないか。しかし主の言葉に従
い、見える所でなく、信仰によって前進しようとした時に、目の前
で海が分かれた。従おうとする前ではなかった。そして皆が渡り終
えた後、追跡の軍勢は海に飲み込まれてしまった。

その結果、民は、主がエジプトに行なわれた御力を見、主を恐れ、
主とモーセを信じた。実際に従って行く時に、主の偉大な力を経験
し、更に信じて行ける。主の栄光を拝する。今、一歩従うことを求
められているだろうか。
--------------
目の前に迫る問題に身はすくんでしまうが、信仰によって従った者
だけにわかる主の栄光がある。前進せよとの主の御言葉に従おう。
自分には出来ないが、主が救い出し通過させてくださる。


2023年09月17日(日)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があ なたがたのことを心配してくださるからです。」Tペテロ5:7


ある人が、職場の対人関係で、深く傷つく事態が起きた。腹が立
って仕方がない。激しい怒りが湧く。相手が赦せず、何倍にもして
仕返しをしたいと思う。怒りが収まらなかった。しかし少し落ち着
くと、自分はクリスチャン、赦さねばとは思うのだが、心は裁きと
憎しみが渦巻いた。

だが、罪のとがめも来て、赦さなければと思う。そうしなければと
思うのだが、怒りは消えない。どうにもならなかった。「赦しなさ
い」との数々の御言葉もよくわかっているのに、相手の事が思い
に来ると煮えくり返り、そして、又、赦せない自分を責めるよう
になる。自己嫌悪に陥り、惨めになった。

そんな繰り返しの中で、何とか「赦せますように」と祈り始めたの
だが、やはり無理で、できない。段々、「何で、あの相手のため
に、自分が、こんなにも苦しまねばならないのか」と、腹が立って
来る。普段の生活で、楽しい時もその思いがよぎる途端、暗く、
苦しくなる。

主の御前に出て、なぜこんな事になっているのかと、怒り、恨み、
自分の惨めさ、辛さ・・心の底をハンナのようにぶちまけ続けた。
すると不思議だが、心が何だか落ち着き、主が受け止めて下さ
っていると信じられて、暖かい感覚が来た。

主を感じ、祈り続けていると、それはそれ、これはこれと、祈りと
現実問題がリンクしておらず、赦しは自分の力でしようとしていた
事に気づかされた。祈ったはしから、自分が動き出す。主に、そん
な自分を明け渡した時に、初めて心に安堵が来て、主が赦す力も
与えて下さると信じることができた。

・・・・・・・・・・・・・・・
相手を赦すことが御心だが、決して肉では、自分の力では赦す事
は不可能だ。しかし自分でやろうとしてしまう。かなり悪戦苦闘し、
尚も戦い、とうとう疲れ果て、無力を認め、主の前にギブアップ
する時に、不思議だが御霊によって、御心を行なわせて下さる。


2023年09月16日(土)

「・・だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。 なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを 守り、わたしの名を否まなかったからである。」黙示録3:8


フィラデルフィアの教会では、兄弟愛が保たれていた。それは「わ
たしのことばを守り」とあり、み言葉を重んじ、そこに土台を置き、
み言葉に従っていたからだった。それゆえ兄弟愛が保たれていた。
自分の思いでなく、み言葉に一人一人が従う時に、そこに兄弟愛
が保たれる。「ことばを守り」が、カギだ。

そして教会は、「御霊の一致」を熱心に保つようにと言われてい
る。人間的な一致でなく、御霊の一致だと。意見が合う、好みが
合う、相性が良いとの、決して人間的なものではない。信仰者
一人〃には、御霊が内住されていて、各々がその御霊に従う時
「御霊は一つ」なので、そこに必ず一致がある。

それを妨げるものが、肉だ。皆が、自分の思いを主張して行くな
ら、必ず分裂になって行く。人は十人十色で、思いや意見は皆、
ことごとく違う。そこにサタンが巧妙に働いて来る。主を見上げ、
「主のみ思いは」から離れ、自分の思いに固執する時、「自分を
わかってくれない」「受け入れてくれない」と感情的になり、関係
がもつれてしまう。

「自分が」「自分の」「自分を」に向かう時、兄弟愛からかけ離れてし
まう。サタンが働くところだ。まず主のみ思いは、み言葉はどう言
っているかに目を向ける時、兄弟を愛する愛と一致に導かれて行く。
そこに主の栄光が現われて行く。

・・・・・・・・・・・・・
常に、自分の心の内には、御霊の思いと、自我からの肉の思い
がある。肉の思いを捨てて、御霊の思いに従えるよう祈りたい。
サタンに自己主張、自己憐憫、自己顕示を正当性で欺かれな
いよう祈っていよう。


2023年09月15日(金)

「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この 二つは互いに対立していて・・自分のしたいと思うことをすること ができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたが たは律法の下にはいません」ガラテヤ5:17



私たちの心は、自然に放っておくと、肉へと向かってしまう。嫌な
人は、愛そうとするのでなく、嫌っていたいし、更に憎しみがつの
る。人の言動にムッとなると、まず祈るよりも、言い返したい。一
言、言い返すと、肉はスッキリする。人から傷つけられると、何倍
にもして報復したい。又、主の言葉に従うよりも、自分の好きな事
をしたい、しかし、それは肉だ。

肉は楽な方へと進み、より楽な方をを選んでしまう。祈るようにと
御霊の促しを感じる時、祈るよりもテレビを観ていたいし、好きな
事をしていた。一日の終わりには、あれこれと犯した罪を思う。し
かし主に向く事なく、そのまま眠りにつき、又、次の朝を迎える。
それを繰り返していると、どんどん肉へと流されてしまう。自分で
気づかぬまま、知らず〃の内に、主を離れた生活へとさまよい出て
しまう。

それを押しとどめてくれるのが、主との交わりであり、祈りだ。多
忙な中、ほんの少しでも主との交わりを持つ時に、御霊は罪を示
し、悔い改めへと導かれる。赦されて、又、霊が新たにされ、新し
く歩んで行ける。ある人が仕事上の難題を抱え、心身すり減らして
いた。残業の日々で疲労もたまり、イライラし、ピリピリしてい
た。時間無く、祈りの時も全く持てていない。

限界を感じ、昼休みに外へ出て、公園の隅のベンチで、主を求め
た。あるがままを主に祈り、心底の助けを求めた。ほんの少しの時
間だったが、カラカラに渇き切った心が、主に触れて水を得たよう
にすう〜と落ち着き、新たにされた。平安と共に、午後の仕事に戻
れた。
------------------
御霊に導かれて初めて自分のしたいことができる。だから心は潤い
喜ぶ。あわただしい毎日、少しでも御言葉にふれ、主と交わる時を
守ろう。そして御霊の導きに応えていこう。


2023年09月14日(木)

「何も思い煩わないで・・願い事を神に知っていただきなさい。そ うすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心 と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリピ4:6


「願い事を神に知っていただきなさい」とあるように、一つ一つの
不安や心配事を思い煩うのでなく、神にことごとく願い事を知って
いただくようにと。そして、「何も」いっさい思い煩うなと言われ
る。又、「あらゆるばあいに」この場合は、あの場合はどうかでな
く、すべての場合にと。一つ残らずだ。あなたのすべてに、主は深
い関心を持っておられる。

そして「感謝をもって」が大切だ。感謝をもって願いを献げるよう
にと。感謝する事は、私たちの心が、がんじがらめになっているそ
の問題から解き放たれ、引き上げられる。あなたの心には、不満が
あるだろうか。感謝を主に献げよう。ある人が、大きな問題悩みが
重なって、打ちのめされた。気力も失せ、何をする気もせず、打ち
ひしがれた。

そのような状態が続いたある日、心は重いが、主の御前に出た。御
言葉を読むでもなく見ていると、「感謝せよ」の言葉が心に臨んで
来た。十字架の贖いを、御父が御子を与えて下さった事を、最近、
感謝していない事を思い出し、心は沈んでいたが、意志により感謝
を献げた。御言葉に従って、続けて感謝していると、不思議が起き
た。

心が、ふっと暖かくなって来て、失っていた喜びが湧いて来た。御
霊により、更に喜びが大きくされ、感謝が溢れて来た。心が全く変
えられた。感謝する時、自分から目が離れ、主に目が向く。自分と
状況だけを見続けている事が問題で、感謝する事は、心を解き放
ち、主を仰がせてくれる。サタンの足場を崩して行く。
------------------
感謝から祈りはじめよう。うつうつとした思いでも、感謝の祈りの
後には喜びがくる。悲しみの回りにも必ず主のあわれみが備えられ
ていることを知れる。感謝を数えてみよう。


2023年09月13日(水)

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありま せん。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」 ガラテヤ6:7



ダビデはバテシバとの姦淫と、その夫ウリヤ殺害の二重の罪を犯し
てしまった。ナタンによって罪を指摘された時に、「私は主に対し
て罪を犯した」と罪の告白をした。その時、即座に「主もまた、あ
なたの罪を見過ごしてくださった」とダビデの罪が赦された。何と
いう恵みだろう。完全に罪は赦される。罪のとがめは全く受けな
い。

罪は二度と思い出されず、海の深みに投げ込まれる。罪の責めは全
く負う事がない。十字架の贖いによる神の大きな恵みだ。しかし、
罪が完全に赦される事と、罪の結果を刈り取る事は別の事だ。自分
の蒔いたものは、必ず刈り取る。これは法則なので一つの例外も無
い。罪は赦されるが、罪の結果は自らが負う事になる。厳粛な事
だ。

だから、赦されるのだからと、恵みを軽んじて、軽く考え、罪を犯
してはならない。ダビデの最初の子どもが病気になった。ダビデは
断食をし、一晩中地に伏して祈った。だがその子は死んだ。ダビデ
はそれを受け入れた。そして主を礼拝した。又、息子アブシャロム
が謀反を起こし、自分に敵対した。

息子たちの間に、数々の辛い心の痛む出来事が起きたが、主からの
ものと認め、受け入れた。そのところにダビデは神の聖、神の愛を
受け止め、ますます練りきよめられて行った。蒔いたものは、刈り
取る事が御心であり、訓練として下さり、そこに尚も祝福が備えら
れている。
-------------------
蒔いたものには必ず刈り取りがある。くり返し失敗して、たとえ今
は良くても明日はどうなるかわからない者だ。主の罪の赦しを感謝
し、どういうものに蒔いていくかをよく吟味したい。


2023年09月12日(火)

「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明ら かにされます」エペソ5:13



ある人に高齢の母親がいて、家事に困難が生じたため、ヘルパーを
お願いする事にした。すると、そのヘルパーが来るまでに、家を掃
除し、きれいにしようとするので、余計に大変な事になってしまっ
た。こんな汚れた所に、人に入ってもらえないとの事だった。私た
ちもどうだろう。来客時には、見えない所にすべて押し込んで、外
側きれいにするだろうか。

見た所きれいだが、見えない所はぐちゃぐちゃだ。私たちは御霊を
このように迎えていないだろうか。応接間にだけ通し、プライベー
トな部屋には入られたくない。都合の悪い部屋には鍵をかける。き
れいな所だけを見せて、自分の醜い所、弱い所、汚れた所はいっさ
い触れられたくない。御霊にも隠してしまう。そして汚い部分は自
分で対処しようとする。これが肉に従って生きることだ。

御霊によって殺すとは、御霊の光に自らのありのままを隠さずに、
さらけ出す事だ。醜い、弱い、汚いそのところに御霊に来ていただ
くことだ。「明るみに引き出されるものは、みな、光によって明ら
かにされます」「明らかにされたものはみな、光だからです」。隠
しているものは、暗闇の中だが、明るみに出されたものは、光だ
と。

プライドが邪魔をするだろうか。しかし心の闇がどんなに深くて
も、御霊の光が射し込めば、もう闇は消える。御霊の光がある所、
すでに闇ではない。あるがままの自分を御霊が照らし、見せられる
事から祝福は始まる。どんなにひどい、醜い自分であっても、それ
を素直に認めて行く時に、主は取り扱って下さり、御霊により、キ
リストのかたちへと変えて行って下さる。
-------------------
自分の醜い部分は見ないふりをしても、もやもやと苦い思いとなっ
て心をめぐってくる。そのまま祈りに持っていきたい。恨みや、妬
みかも知れない。曖昧にせず、光の中に出そう。


2023年09月11日(月)

「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからで す。」ヨハネ 15:5 



日常生活で、どうだろう。祈る時も、立ち止まる暇も無いほど忙し
く、次々と、目の前の事柄に追われる時があるだろうか。そんな
時、目まぐるしく動き回っているのだが、何かがちぐはぐになって
いて、心は満たされておらず、結局、骨折り損のくたびれもうけに
なってしまったりする。

心身消耗し、疲れてしまい、そんな時、「わたしにとどまりなさ
い。わたしも、あなたがたの中にとどまります」「わたしにとどま
っていなければ、実を結ぶことができません」の主の言葉が響いて
来る。主にとどまることが、何よりも最重要だ。その時、今日の一
日が、豊かに実を結ぶ一日とされる。

主と、主の言葉を離れて、祈りもなく、ただ走り回り、動き回り、
目の前の事柄をこなす時、心は満たされず、虚しさを覚える。外側
は動いているが、「わたしを離れては、あなたがたは何もすること
ができない」との御言葉通りだ。大事な事は、誰と共にいるかだ。

「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」との主を
見上げ、信仰持って主と共にこの一日を生きる時、主を認め、心は
満ちて来る。喜びが湧いて来る。主を求め、主の喜ばれる事を求め
て行く時、虚しさは無い。

主の愛は永遠に変わらず、どんな時も、愛して下さっている。又、
主は、どんな小さな祈りも聞いて下さっている。こちらが、主に向
くなら、周波数を合わせるように、焦点が合い、主の御声が聞こえ
て来る。
---------------------
主に向き、祈る時がなければ、簡単に自分の力だけでやってしま
う。けれど心に主からの満たしがない。忙しいからこそ主を認め、
御霊の声を聞こう。主の慰め、励ましを受け取ろう。どんな時でも
心が守られる。


2023年09月10日(日)

「イエスは言われた。『人にはできないことが、神にはできるので す。』」ルカ 18:27


ある人に、打ちひしがれるような試練が臨んだ。その試練は辛くて
苦しくてたまらなかった。そんな中、教会で御言葉を学んでいた時
に自分が握りしめているものに気づかされた。それを主に委ねるよ
うにと、示されているとわかった。しかしどうしても委ねられない
のだ。委ねようとはするのだが、委ねられない。自分が固く握って
いる。どうしても放せない。なぜ放せないのか。

自分が手放すと、すべてが崩壊してしまうように、だめになってし
まうように思うからだ。だから、ますます強く握りしめる。主に任
せるのでなく、自分がしようとしている。任せられないのは、主を
信じることができないからだと、心を照らされた。握り締めている
ものは、自分にとって、いのちとなっているものだ。

しかし現実は苦しくてたまらない。委ねられないからずっと苦しい。
委ねようとするのだが、しっかりと握り締めている。もうどうにも
ならず、委ねられないこと、どうしても出来ないこと、握って放せ
ないこと、しかし苦しくて助けて欲しいこと、そんな事を何もかも
吐き出して祈った。

心底ギブアップ状態になった時、不思議だが委ねることができた。
御霊の助けであり、祈りの答えだった。その時、その問題に解決が
来て、平安にされた。私たちも委ねようとするが、委ねられない時、
主のもとに行き、祈ろう。人にできない事が主にはできる。ありの
ままを主に祈ろう。助けを求めよう。主が働かれる。

・・・・・・・・・・・
自分には、どうしても出来ないから、祈りが備えられている。祈り
に持って行ける。そしてその祈りは答えられる。しかし自分には出
来ないと知り、認めなければ、主にすがる事もできない。出来ない
という弱さは実は、大きな祝福だ。


2023年09月09日(土)

「ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって『ぶどう酒が ありません。』と言った」ヨハネ2:3



カナの結婚式の最中に、ぶどう酒が無くなった。手伝いでそこにい
たマリヤは、さあ大変と騒ぐ事なく、慌ててしもべに買いに行かせ
るのではなく、自分で動き回らなかった。では、どうしたかという
と、まず主のもとに行き「ぶどう酒がありません」と告げた。とに
かく、主に持って行くなら、主が解決して下さると信じていた。

その時、主は「わたしの時はまだ来ていません」と言われた。それ
は、わたしの時とわたしの方法があります、ということだ。マリヤ
は、主が必ず事態を解決して下さると信じたので、手伝いの者たち
に、あの方の言われる事を、何でもするようにと伝えた。すると主
は「水がめに水を満たしなさい」と言われた。

水がめに、なぜ水を?ぶどう酒が必要なのでは??だが彼らは、主
の言われる通りに従った。6つの大きな水がめは、大変な重労働だ。
すると「さあ、今くみなさい」との指示。宴会の世話役に持って行
けと。言われる通りにすると、素晴らしい上等のぶどう酒に変わっ
ていた。主は、ご自分の栄光を現され、弟子たちは主を信じた。

私たちも問題が来た時は、立ち騒がず、又、自分で何とかしようと
動かず、まず「イエスに向かって」祈ろう。祈って、主からの示し
を待ち、自分の思いと違っても、示された通りに従おう。そうする
時、主の栄光が現れる。自分だけでなく、周囲にも主の祝福が及ん
で行く。「〜がありません」とまず祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・
何かが起きた時には、すぐに「わたしを呼べ」と言われる主に向か
おう。自分で動き回らず、まず、立ち止まって、主に祈ろう。主は
祈りに答えて、導きを下さる。導きを待って、その示しに従おう。
そして主の栄光を拝したい。

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2023年09月08日(金)

「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、 あのことをしようヤコブ4:15



主が、私たちのために計画を立てて下さっているなら、あの事、こ
の事、自分たちが、プランを立てるのは良くないのだろうか。そう
ではない。無思慮の、行き当たりばったりが良いのではない。将来
の計画や、雨の日のために備える事は大切だ。しかし重大な事は、
私たちには明日の事、つまり先の事と自分の命の事は、いっさいわ
からないという事だ。

人の生き死には、主の主権の内であり、人の手の中には無い。しか
し「私は〜して、〜して」「私は、私は」と自分が計画を立て、成
し遂げようとする。その根にあるものは、虚しいプライドであり、
高ぶりだと言っている。「むなしい誇りで高ぶっている」と。神を
無視し、自分が神の位置にいる事になる。又、人生は何が起きるか
わからない。それは誰にもわからない。それを「霧」にたとえられ
ている。

しばらく現れたと思うと、すぐに消えてしまう。非常にはかないも
のだと。だから今日〜しよう、明日〜しようと思っても、明日生き
ているかどうかもわからない。それゆえ、神無しの人生、神無しの
計画が愚かなのだと。大豊作で倉を建て増した金持ちは、「私は、
私は、私は〜しよう」と、さあ楽しもうとしたが、何と、その日に
命が取られてしまった。主は「愚か者」と言われた。

神の前に富まなかった事が愚かだと。大切なのは、「主のみこころ
なら、〜しよう」だ。祈りの中で、主と相談して、主と一つに計画
を立てて行く。「愚かにならないで、主のみこころは何であるか
を、よく悟りなさい」。その時、主の前に富む者とされ、豊かな実
を結んで行く。計画は、主と相談しながら立てよう。
--------------------
いくら綿密に計画を立てても、本当は明日の事すらわからない。主
の前にへりくだり御心ならばと、一つ一つの計画が主に祝福される
よう祈ろう。祝福の度に心からの感謝をささげることが出来る。


2023年09月07日(木)

「『ケイラの者たちは私を彼の手に引き渡すでしょうか・・イスラ エルの神、主よ。どうか、あなたのしもべにお告げください。』 主は仰せられた、『彼は下って来る』」Tサムエル23:11



ダビデは、ペリシテ人を打って、ケイラの住民を救った。その後、
ダビデ殺害のために、つけ狙うサウル王がケイラに迫っている事を
知った。普通、ケイラの人々を救ったのだから、当然、サウルに追
われているダビデを助けるはずだと思う。しかし殺害を何とも思わ
ないサウルは、ケイラの人々をも平気で虐殺するだろう。

ケイラの人々もそれを恐れて、怯えて、ダビデを渡すかも知れな
い。様々な思惑が巡る。ダビデは、どうしたのか。まずその事を祈
りに持って行き、主に問うた。すると主の答えは、ケイラの人々は
ダビデをサウルに引き渡すというものだった。そのためダビデと部
下600人は、即、ケイラから出て、あちこちとさまよった。

ダビデがケイラから逃げたと知ると、サウルはダビデ討伐をやめ
た。ダビデは荒野や要害や、ジフの荒野の山地に宿った。サウルは
執念深く、どこまでもダビデをつけ狙ったが、主が、ダビデをサウ
ルの手に渡されなかった。主の主権の中であった。私たちも、どん
な場合も祈りが大切で、御霊の判断を仰ぐ事が大切だ。

助けたのだから、助けてくれるだろうというのが普通の判断だ。し
かしダビデが肉の判断で動いていたなら、大変な危機を身に招いて
いた。人間的判断で、行動すると間違ってしまい、危険に身を投じ
る事になる。常に御霊の判断、導きに目を向け、祈り心でいよう。
主は必ず御心へと私たちを導いて下さる。祈りは力だ。
--------------------
些細なことでも経験する。先入観で祈らずに向かったものが思わぬ
方向に展開したこと。主に祈って、一番良い方法に導いていただこ
う。思いを超えた主の最善が待っている。


2023年09月06日(水)

「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、ま ずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物 をささげなさい」マタイ5:24


私たちの肉の性質は、自分の間違いを認めたくないものだ。プライ
ドだ。相手が謝りさえすれば、こちらも謝ってもよい。相手が変わ
るなら、こちらも変える気持ちは無いわけではない。自分から「私
が悪かった」とは言いたくない。プライドがどこまでも邪魔をす
る。言い訳をし、自分を正当化し、出来るなら、謝らずに、善行で
相殺したい。

問題に向き合わずに、礼拝出席や奉仕をする事が逃げになり、それ
で埋め合わせしようとする。だが、主に罪を犯しているなら、罪を
告白し、人への罪なら、相手に謝罪する必要がある。主は和解を喜
ばれる。先延ばしにしているだろうか。いつかでなく、気づいたあ
なたが、すぐにせよと。そして祭壇に献げ物をする時、「恨まれて
いる相手」がいるなら、先に相手と仲直りをせよと。

この場合、恨まれているのであって、自分が恨んでいるのではな
い。しかしその時も、自分の方から赦しを求めよと。誤解や行き違
い、感情のもつれがあるのかも知れない。その時は、気づいた自分
の方から始めよと。又、人を憎んだままなら、献げ物は受け入れら
れない。礼拝への途上でも、仲直りの方が大切だと。謝罪や和解が
難しいのは、プライドが関わって来るからだ。何とか避けたい。

主はどこまでも、私たちを赦して下さる。だが自分はどうだろう。
赦せない相手がいるだろうか。自分は正しいと、主張続けるなら、
そこに解決が無い。自分を省みて少しでも非はないだろうか。主
は、根本から解決し、大きな喜びと安堵、平安でおおって下さる。
--------------------
嫌な人とは出来るだけ距離を取りたい。思い出すだけで腹が立つか
らだ。でも主は、悪いのは相手であって自分ではないと言い張る自
分に問題があると言われる。敵意をもって今も見ている罪を認めた
い。主は赦してくださる。


2023年09月05日(火)

「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て。』・・火 のあとに、かすかな細い声があった」T列王19:11



エリヤは一人で、バアルと対決し、壮烈な戦いをし、大勝利を得
た。天から火が降る大いなる奇跡だった。すると極度の疲労の中
で、悪の黒幕イゼベルが出て来て、使者をエリヤに遣わし、エリヤ
殺害を告げた。あれほど勇敢に戦ったエリヤが、そのイゼベルの言
葉に、恐怖と不安で鬱状態に陥り、死を願うまでに至った。

エリヤにすれば、あれだけの命がけの死闘をしたのに、何も変わら
ないではないか。現にイゼベルに命を狙われて、失望落胆しかなか
った。「私は先祖たちにまさっていない」、先祖と比較して落ち込
む。比較の罠だ。又「ただ、私だけが残ったが、彼らは私のいのち
を取ろうと狙っている」、自分一人との思い込みの中で、不安と孤
独に陥った。

しかし事実は全く違う。主が、バアルにひざをかがめない者、七千
人を残しておくと。決して一人ではない。そんなエリヤに、主は愛
と慈しみで対応された。「何をぐだぐだと不信仰な事を」との叱責
でなく、十分な睡眠と食事を与えられた。心身消耗し、疲れきった
エリヤを深く眠らせ、まず第一に休息を与えられた。睡眠と食事で
力を得た彼は、ホレブの山まで歩けた。「彼への主のことばがあっ
た」。心身回復した時、主の言葉が臨んだ。

彼の問題はネガティブ思考だった。自分はダメ、そして、殺される
との恐怖、希望の持てない絶望感・・しかし主は彼の間違った思考
と情報を正され、「ハザエルに油をそそいで、エフーに油をそそい
で」と新たな使命を与え、再び立たせられた。私たちも、新しい力
が内側から湧き上がるのは、主の言葉による。落ち込む時には、じ
っと主の細いみ声に耳を澄まそう。主は語りかけて下さっている。
--------------
真っ暗な思いに陥るとき、悪い事ばかりが浮かんでくる。じっと祈
ることしかできない。何も見えないような中にも主は寄り添ってく
ださり、必ず主の慰めが及ぶ。起きて食べなさい、旅はまだ遠いの
だからと。じっと主を待とう。


2023年09月04日(月)

「メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をし た。彼は両足が共になえていた。」Uサムエル9:13



メフィボシェテは、ダビデの親友ヨナタンの息子で、サウル王の孫
だった。普通、前王の一族は皆殺しにされた。いつ反乱を起こすか
わからない危険な存在ゆえだった。サウル王はダビデ殺害に燃え、
ダビデは常に命を狙われ、何度か殺されそうになり、死と隣り合わ
せの日々だった。

そんな事からメフィボシェテは、ダビデに殺されて当然であり、隠
れて身を潜めていた。しかしダビデは、メフィボシェテを王宮に招
き入れ、サウルの土地をすべて返し、王宮で暮らし、他の王子と同
様に、自分と共に食事をするよう言った。それはヨナタンが、サウ
ルの王子でありながら、父親から自分を守り、命を救ってくれた大
切な親友であり、彼との約束を果たしたいがためだった。

「私の食卓で食事をしてよい」とは家族の一員にするという事だ。
サウルの子孫であり、更に両足が不自由で、王のために何の役にも
立たないメフィボシェテは、なぜ自分が?殺されて当然の、何の資
格も無い自分が?余りの戸惑いで驚くばかりだった。このメフィボ
シェテは、私たちの姿だ。

御父に敵し、罪を犯し、その「罪の支払う報酬は死」であり、永遠
に滅んで当然の私たちが、ただ御子の十字架の贖いのゆえに、罪は
帳消しに無罪放免とされ、永遠に神の子とされる。そして主の食卓
に連なる者とされ、溢れるばかりに豊かな交わりの中に入れられ
た。彼は「いつも王の食卓で食事をした」、私たちも日々主の食卓
で溢れる恵みを味わおう。豊かな交わりに入れられている。
--------------
十字架にあらわされた主の愛と義を知る者にされ、日々主の豊かな
交わりの中で歩んでいける。なんと幸いな者だろう。この恵みを忘
れ、簡単に喜びが消えてしまう者だが、御言葉に励まされながら、
喜びの内を歩んでいきたい。


2023年09月03日(日)

「神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だ れもいないのか。」ルカ 17:18 



主は、ある村で、10人のらい病人に出会われた。遠く離れた場所か
ら、大声で「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と
叫んだ。人に近づくなら、「汚れている。汚れている。」と叫ばな
くてはならないからだ。彼らは、主の噂を聞いて、主に会いたかっ
た。チャンス到来で、力の限り叫んだ。すると主は、「行きなさい。
そして自分を祭司に見せなさい。」と。

その場でのいやしでなく、行く途中でいやされたとある。「行きな
さい」と言われた時は、彼らはまだらい病のままだった。だが、言
われた通りに、祭司に見せるために出かけた。すると、途上で、ら
い病がきれいにいやされた。今まで病気の苦しみだけでなく、社会
からも。宗教の関わりからも阻害され、生けるしかばねのようだっ
た。

彼らは、どんなに夢のような喜びだったろう。するとその中、たっ
た1人のサマリヤ人だけが、大声で神をほめたたえながら引き返し
て、主の足もとにひれ伏して感謝した。「立ち上がって、行きなさ
い。あなたの信仰が、あなたを直した」と。9人は、病が治る事が
すべてであった。だが又、病気にはなる。しかし、サマリヤ人の彼
は、病のいやしと共に、たましいの救いを受けた。

私たちもどうだろう。辛く苦しい試練では、困った時の神頼みで、
主にすがりつき、必死で助けを求める。だが、助けられた後はどう
だろう。まるで当たり前かのように、感謝も忘れ、主がおろそかに
なってしまう。「9人はどこにいるのか」、主が喜ばれる「感謝」を
精一杯お献げして行けるよう、祈っていよう。

・・・・・・・・・
「困った時の神頼み、楽しい時の神離れ」で、順調で問題の無い日
が続くと、主に頼らず、自分で生きてしまう。自分で生きて行ける
からだ。しかし肉は何の実も無い。主にとどまって、豊かな御霊の
実を結ばせて頂こう。愛、喜び、平安、寛容、親切・・。


2023年09月02日(土)

「主はその高殿から山々に水を注ぎ、地はあなたのみわざの実によ って満ち足りています。」詩篇 104:13 



安心し、平安であり、「満ち足りる」心とは、誰しもが望むもので、
心の求め、欲しいものだろうか。満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大
きな利益を受ける道とあり、真の満足は、心から湧き出るものであ
って、外部からのものではない。生活の必要は与えられているのに、
「あれが、これが欲しい」「もっと欲しい」幾ら持っても決して満
足が無く、更に欲しい。

これは「貪欲」だ。貪欲は、心の問題で際限がない。底なしだ。そ
れは所有すれば、するほどますます心が囚われてしまう。これで良
いという事が無い。常に心が満たされない。「満ち足りる心」は主
を仰いで、感謝することから来る。「すべての事について感謝せよ」
「あふれるばかりに感謝せよ」。今、与えられているものを、主を
見上げ感謝して行く時、貪欲の罪から守られる。

そして競争心や妬みからも守られる。今の境遇は、皆、違う。しか
しそこに主を認めて、主からの境遇と受け止め、感謝して行く時、
妬みや不満から守られる。不満、妬みは、無いものを数える事から
来る。「あれが無い、これも無い」。無いものを数えていないだろ
うか。与えられているものに目を向けよう。溢れるばかりに感謝を
献げよう。

感謝するとは、そこに主を認める事になる。感謝する時、悪魔は足
場を失う。パウロはどんな境遇でも、満足する事を「学んだ」と。
様々な状況の中で、主に従いつつ、「学んで」身につけられて行っ
た。一見、受け入れ難い事、極度のストレスも通ったろう。しかし
主に従い、主に身を委ねて行く中で、少しづつ〃学ばされて行った。
今の境遇を受け入れ、感謝できるよう、自分では出来ないので、主
に助けを求めて祈ろう。

・・・・・・・・・・・
感謝など無理と諦めて、主から離れるのでなく「感謝できません」と、
主に近づき、訴えよう。主が何とかして下さる。感情でなく、意志
を向けるよう助けが来る。意志を向けて感謝して行くと、不思議が
起きる。御言葉に従う事になるので、思いが変えられる。


2023年09月01日(金)

「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中か らよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」 Uテモテ 2:8


人は、生まれつきの性質は、ネガティブ思考へ向かう傾向があると
言われている。水が半分入っているコップを見て、「もう半分しか
ない」と「まだ半分もある」に分かれる。しばしば悲観的だ。家族
の帰りが少し遅いと、「事故に会ったのでは?」挨拶に相手からの
返事が無かった時、「避けられているのでは」「気にさわる事をし
たのか?」「嫌われてるのか?」又、会合で、反対意見を言われる
と「自分が嫌いなのか」。

メールに返信が無いと「どの言葉が悪かったのか」、体調悪いと
「変な病気ではないか」「大変な事になるのでは」と、どんどん悲
観的な方に傾き、最悪のシナリオが出来上がってしまう。流される
ままなら、ネガティブへ向かうばかりだ。そんな時、「不安や恐れ
を考えるまい」とすると、ますますはまり込む。

例えば不眠の時に、「眠らなけねば」と焦れば焦るほど、ますます
眠れなくなる。もがけば、もがくほど、更に泥沼に落ち込むよう
に。そんな時は、現状から目を離し、目を主に転じる事だ。ある実
験がある。「黒い丸を頭に描いて下さい」「次にその黒い丸を消し
て下さい」。なかなか消えない中、出来た人はどうしたのか。「白
い丸を描きました」と。

賛美や御言葉や祈りに心を向けて行くとよい。否定的思いを無くそ
うと頑張るのでなく、主に心を向け、信仰的思いで満たして行く。
その時に、否定的思いが消える去る。主に思いを向けよう。「すべ
ての事について感謝・・」感謝して行く時、思い煩いや恐れが消え
る。御霊の働きだ。
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御言葉はいつも喜び、感謝し祈りなさいと言われる。ネガティブな
状況で主に感謝をささげていると思いがどんどん変えられる。御霊
が力をくださる。主を見上げ感謝しよう。闇がはれて力が湧く。