2024年06月30日(日)

「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい。』と 言われた。」ルカ7:13



夫が亡くなっている女性、その一人息子が、死んで、かつぎ出され
るところに、主は遭遇された。夫がいない上に、たった一人の息
子を失うとは、彼女は、どん底の悲しみ、絶望であったろう。病気
やけがなら治り、回復するが、死だけは何もかもを、容赦なく断ち
切ってしまう。後戻りも、回復も100%不可能だ。

何もかもが打ち砕かれてしまった状況だ。当時の夫のいない女性
は、社会的に非常に厳しい状況にあった。唯一頼りであった息子、
そして生きがいそのものであった、大切な息子を失うとは。はらわ
た裂かれる思いだったろう。生きる望みであり、力、支えが無くなっ
てしまった。彼女は泣き続けていた。

そこに、主が「泣かなくてもよい」と御声をかけられた。「かわいそう
に思い」「深い同情をよせられ」「あわれまれ」とあり、強烈な同情だ。
主は、腹の底からのあわれみが湧き出で、溢れ流れ、青年をいや
された。母親から頼まれたわけでなく、一方的に主の溢れ出るあわ
れみによってであった。「青年よ。起きなさい」の言葉で、息子は生
き返った。

主は口先でなく「深い同情」と共にいやす事のできる「力」を持ってお
られる。「泣かなくてもよい」は、その通りに成就した。同じ主が、今、
悲しみのどん底にいる私たちに、腹の底からの同情を寄せて下さっ
ている。「彼を母親に返された」失ったものを返して下さった。何とい
う慈しみで喜びだろう。この主が、あなたの目の前におられる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「かわいそうに」思って下さる主。「泣かなくてもよい」と言って下さる
主。「かわいそうに」「泣かなくてもよい」と、かたわらに、心の内に
おられる。なすすべなく、泣くしかない、涙の祈りは、ずっと答えら
れてきた。


2024年06月29日(土)

「立って、父のところに行って、こう言おう。『おとうさん。私は 天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました・・』」 ルカ15:18



弟息子が家を出て、放蕩をした後、戻ったのだが、その時に
父親は「この息子は、死んでいたのが生き返り」と言った。彼
が父親の家を出た時も、又、それ以前も、家にいた時から、彼
は死んでいたのだった。放蕩し尽くしたから、死んだのではなく、
それ以前から、すでに父との関係が失われていた。

父は、息子を変わらない愛で、ずっと愛し続けていたが、息子の
心は、父から全く離れてしまっていた。父は身体だけつなぎ止め
ても、無駄とわかっていて、したいようにさせてやった。家を出、
自由に好きなように、したいようにしたくて、父の財産を生前贈与
してもらい、遠国に出て行った。彼は、自由と放縦をはき違えて
いた。

どん底まで行き、何もどうにもならず、行き詰まり、自らの無力を
思い知った。その時に自分から自発的に、自由意志で、父のもと
へ帰った。悔い改め、父との関係が生き返った。私たちも、何度
も御父のもとを離れる。好きなように、自分の欲望に従って生き
てしまう。父に顔向けが出来ない。どの面下げて帰ればよいのか。
少しはましになってから帰ろうとする。

しかし父は何を喜ばれるのだろう。父のもとに帰る事だ。父はどん
な状態であれ、帰る事をひたすら待ち、大喜びして下さる。いつで
も立ち返れる。私たちの弱さをご存じだ。何度でも立ち返ろう。両
手を広げて待っていて下さる。今も離れているなら、今すぐ帰ろ
う。「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。
今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、
主だからです。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
サタンは腹をすかせたライオンで、全力で襲いかかり、絶えず神
から離そうとしている。目に見えるこの世の影響力は凄まじい。
気づかぬ間に流されるが、神の愛は永久に不変で、あわれみは
尽きない。気づけば立ち返れ、何という感謝なことだろう。


2024年06月28日(金)

「試みる者が近づいて来て言った。『あなたが神の子なら、この石 がパンになるように、命じなさい。』」マタイ4:3



悪魔は、荒野で主を試みて来た。主は40日の断食を終え、まさに死
との限界ギリギリで、空腹状態だ。そこに来て、「あなたは神の子
で、奇跡でも何でも出来るのだから、石をパンに変えて、パンを自
分で作ればいいのでは」と、誘惑して来た。「このままでは死んで
しまう、神はパンを与えてくれないのでは?」との疑いを吹き込
む。

「神に頼らなくても、自分でパンを作れるのだから、そうした
ら?」「何とかしないと生死に関わるよ」と。「死んだら、人類の
救いも元も子も無いではないか」「とにかく命を維持する事が大
切」と。あなたにもこんな誘惑が来るだろうか。「神に頼っていた
ら、どうなるかわからない。自分で何とかしなければ。」「祈りは
時間がかかるし、さっさと自分でやってしまえば。

すぐ出来る、それでうまく行けばいいじゃない」。「自分でした方
が早い。御心にかなった事なんだし、問題無いよ」それこそ、ここ
で死んでしまったら、自分の使命はどうなるのか。とにかくは生き
延びなくては。しかし悪魔の嘘だ。主に頼り続けるなら、あたかも
餓死するかのように思わせる。

「自分で調達すれば?」主のためなんだからと、自分の判断で動
き、自分の力で事を行なうように仕向けて来る。それが悪魔の巧妙
な誘惑だ。しかしどこまでも主の言葉の下に、自分を置いて、主に
従うことが信仰だ。主は必ずパンを与えて下さる。

パンが命を造るのでなく、神の言葉が命を造る。神への信頼を崩そ
うと攻撃して来る、サタンをわきまえていよう。絶えず神から離そ
うとして来る事を覚え、祈っていよう。
--------------
振り返ってみて、恐れから最悪の事態が浮かぶとき、祈らず動いて
いる事が多い。サタンは、主による完全勝利を経験させまいと怖れ
を吹き込んでくる。一つ一つ主に祈り、御言葉に聞き主に頼ろう。


2024年06月26日(水)

「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にか なった者で、わたしの心を余すところなく実行する。」 使徒13:22


ダビデは、主から「わたしの心にかなった者」と言われ、主の心に
かない、主と一つなる者と言われていた。「わたしの心にかなった
者」との言葉は、何と光栄な事で嬉しいものだろう。しかし、その
ダビデは完全だっただろうか。そうではない。彼はバテシバとの姦
淫の罪を犯した。

そこで主を仰ぎ、悔い改めたなら良かったのだが、更にひどい事
に、その罪を隠ぺいするために、彼女の夫ウリヤを殺害してしまっ
た。大変な罪を重ねてしまった。ウリヤは、ダビデ王にとって、大
変忠実な良い部下だった。それを殺害してしまい、罪まみれだ。そ
れが、どう主と一つだったのか。

そのダビデの素晴らしいところは、自らの罪を示される度に、主の
御前に、その罪を認めて悔い改めた事だった。ゆえに、主と一つで
あるという事は、完全に主の御心を行ない、決して罪を犯さないと
いう事ではない。そんな事をできる人は、一人もいない。弱さゆえ
に、主の御心を痛め、罪を犯してしまう。しかし、御霊はその罪を
指し示され、悔い改めに導いて下さる。

その時に、心を頑なにせず、逃げずに、主と自分にまっすぐに向き
合い、心砕かれ罪を認め、悔い改める事だ。十字架の完全な赦しが
すでに備えられている。悔い改め、悔い改めて、赦されて、赦され
て歩むこと、それが主と一つである事だと言われる。今日、御声を
聞くならば、心を頑なにせずに、導きに従おう。
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主に対して罪を犯したことを認め、ごまかさず言い訳せず主に赦し
を願おう。主に赦されなければ真の解決にはならない。くり返し罪
を犯す者が主と一つにされている。感謝だ。


2024年06月25日(火)

「私のために断食をしてください・・私も、私の侍女たちも、同じ ように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のとこ ろへまいります。」エステル4:16



アハシュエロス王の時代に、王妃ワシュティが退けられ、代わりに
エステルが王妃に選ばれた。エステルはその態度のゆえに、周囲の
すべての人々から好意を得、王は、他のどの女性よりも、エステル
を愛した。そんな時、家来ハマンの巧妙な悪事計画により、ユダヤ
人民族皆殺しの法令が出た。

それを知ったモルデカイは、王宮にいるエステルに、王に助けを求
めるよう伝えた。ワシュティが退けられ、エステルが王妃に選ばれ
た時には、なぜだかわからなかった。しかしこの時に至り、過去の
出来事が理解できる。主がユダヤ民族を守るために、この時のため
にエステルを王妃とされ、備えられたのだ。主によることであっ
た。

そしてエステルは主に従い、素晴らしく用いられ、ユダヤ民族は見
事に救われた。私たちの信仰生活も、同様だ。今に至るまでに、こ
れまで様々な事柄が織りなされ伏線になっている。振り返ってみる
と、点と点が繋がり、パズルが埋まって行くように、様々な備えに
驚くはずだ。そして、今、あなたの立場と、あなたの位置でしか出
来ない事がある。

ユダヤ民族の救いのために、王に願うのは、王妃の立場にいるエス
テルにしか出来なかった。あなたにしか出来ない事を、主は備えて
おられる。あなたがその場所にいるのは、もしかすると、この時の
ためであるかもしれない。エステルと同様に主からの御心がある。
今の場で、主からの示しが臨むなら、御心に従おう。あなたにしか
出来ない事だ。大いに祝福し、用いて下さる。
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背後で全てを支配しておられる主が、その時、その時に自分にしか
できない事を示してくださる。この場に置いていてくださっている
主に、もしかすると、という思いで祈り、導きに従おう。


2024年06月24日(月)

「そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送っ てやせ衰えさせた」詩篇106:15



時に、自分が、どうしても欲しいものがあるだろうか。何があって
も、絶対に欲しい。手に入れたい。それしか目に入らない。しか
し、その自分が、喉から手が出るほど欲しいものが、果たして本当
に自分に必要なものであり、益をもたらすものだろうか。それは主
の栄光を現わすものだろうか。それを主に問い、祈れるなら大丈夫
だ。「肉の欲望」の強い誘惑から守られる。

欲望は、欲しいと思い始めると、コントロールが効かない。欲望は
際限がない。その肉の思いに、サタンも、からんで来る。だが自分
が欲しいものと、主の御心はどうだろう。祈りなく、単に欲しいも
のを求めて行くなら、欲望に支配されてしまい、貪欲の罪に陥って
しまう。今、どうしても欲しいものがあるなら、それが主の御心に
かなうものかを、祈り求めよう。

祈るなら守られ、悪魔の足場を砕く。そしてもしそれがあなたに必
要であると、主が思われるなら、必ず与えて下さる。御言葉は言
う。「主は彼らにその願うところを与え、彼らに病を送ってやせ衰
えさせた」。主に、絶対に欲しいと、どこまでも欲するなら、主は
その強烈に求めるものを与えられる。

しかし心は虚しくなると。主の御心を求める事なく、欲に突き進む
なら、主はある時、あえて与えられる。だがそれを手にして、心は
空虚になり平安無く、祝福が無い。喜びが無い。今、強い願望のあ
るものが、主の御心かどうか、主に問い、祈ろう。真の喜びのため
に。
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御心に反して手にしたものは何処まで行っても平安がなく、たまし
いが枯れるのなら虚しい。今、祈っても与えられない事実を受け入
れたい。主を信頼して、主の最善を持ち望みたい。


2024年06月23日(日)

「『わたしに何をしてほしいのか。』すると、盲人は言った。『先生。 目が見えるようになることです。』」マルコ10:51



バルテマイは、主に出会った時に「わたしに何をしてほしいのか。」
と問われ、「目が見えるようになる事」を願った。すると主は、それ
を「あなたの信仰」と言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰
があなたを救ったのです。」と。当時は福祉もなく、目が見えない
という事は、社会生活が不可能で、経済的にも成り立たず、生け
るしかばねのような存在だった。

物乞いをして生きる事は、どんなに惨めで、プライドが傷ついた
事だろう。しかし彼は自分の人生に、神が必要である事を認め
た。神のあわれみが無ければ、生きて行けない、惨めで哀れな
者である事を認めた。プライドを捨てて、神に、あわれみが欲しい
と、「私をあわれんでください」と大声で全身で叫び求めた。

弟子たちが黙らせようと、大勢でたしなめると、ますます叫び立
てた。彼は必死だった。ここで求めなければ、もうチャンスは無
い。ありったけの力をふりしぼって叫んだ。主はこれを「信仰」だ
と言われた。主に、目が見えるようにと求めたが、それは心の目
もだった。主はその信仰に応え、あわれんで下さり、無条件の愛
を下さった。誰にも相手にされなかった彼は、どんなに嬉しかった
ろう。
肉の目も霊の目も開かれて、主の行かれる所について行った。大喜
びで、主に従う者とされた。私たちはどうだろう。自らの人生、何
が大切なのだろう。自分にとって、主は、大切なものが沢山ある
中の一つだろうか。どうしても無くてならぬお方だろうか。主に求
めよう。霊の目を開いて下さる。そして喜びに溢れて、感謝をもっ
て、主について行こう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
主は、背景も心の内も、すべてご存じながら、「あなたは、わたし
に何をして欲しいのか」と、私たちにも問うて下さっている。主に
心を打ち明け、思いを言い表わそう。主の思われる最善の答え
へと導いて下さる。


2024年06月22日(土)

「『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に 忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人 の喜びをともに喜んでくれ。』」マタイ25:21



ある人が、手の込んだケーキを作った。納得行く出来となり、
隣家におすそ分けに行った。すると、その見事さに驚かれ、
とても喜ばれた。ケーキ作りが上手で素晴らしい、あなたほど
作れる人はいないと大変賞賛された。「いいえ、とんでもない」
と言い、家に戻ったが、戻った途端、平安が無くなったのだ。

それで主に心を向けていた時に、気づかされた。本当の動機は、
隣人への親切では全く無く、あなたは上手で素晴らしいとほめて
欲しくて、おすそ分けに行ったのだと。「私はこんなにうまく作れる
のよ。私は素晴らしい」と、心の中で自分を誇っている事を。御前
に悔い改め、御霊の気づきが与えられた事に心から感謝した。

料理やお菓子作りは、彼女に主から与えられた賜物であった。
だからこそ、手の込んだ料理や菓子類も上手に作る事ができた。
そこに主の祝福があるからだった。それは主が、ご自身の栄光の
ために用いるようにと、与えておられるものだった。私たちも、主
から与えられた良いものを、自分の栄光のために、自分を誇るため
に使ってしまうかもしれない。

又、逆に、せっかく与えられている尊い賜物を「麗しい地をさげ
すみ、神のみことばを信ぜず」とあるように、軽んじて、捨てて
しまっていないだろうか。主を認め、主に感謝し、しっかり受け取り
直すことができる。今一度、主にお献げして、動機を助られ、きよ
められて、主に用いて頂こう。主は祝福し、用いて下さり、栄光を
現わして下さる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
御霊が、自分では気づけない動機に、気づかせて下さる。御霊の
気づきが無ければ、どこに向かうかわからない。間違った動機
に気づかせて頂きたい。そして主が下さった賜物を、きよめて
用いて頂きたい。

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2024年06月21日(金)

「患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が 練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知ってい るからです」ローマ5:3



この世の宗教は、信心すると悪い事が起きないからと言う。そのた
めの信心だ。商売繁盛、家内安全、五穀豊穣、無病息災・・受験はす
べて合格、畑はすべて豊作、悪い事が起きるなら、信心している意
味が無いと。そんな神は要らないと。では、もしクリスチャンの畑
は常に豊作、商売はいつも繁盛、受験はすべて合格、病気けがは、
無しならどうだろう。皆が殺到するのではないだろうか。

しかし御言葉はそうは言わない。誰しも苦しい事は嫌で避けたい
が、信仰者には、必ず試練が臨む。御心のままに、合格あり不合格
もあり、豊作も不作も通る。病気にもなるし、けがもする。しかし
それら試練から、忍耐が生まれ、忍耐の中でこそ、品性が培われて
行くのだと。

愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、柔和、忠実、自制、これらの
品性が試練を忍耐する中で、実として人格に培われ、備わって行
く。だから、「患難さえも喜んでいます」と。もし神無しなら、試
練は、ただ痛いだけだけだ。何の益も無く、学ぶことも出来ない。
それどころか、むしろ逆に、愚痴と不満、又、怒りでいっぱいにな
る。

信仰者も、試練の時に、もし主が飛んでいるなら、不満と怒り、反
抗心、妬みで屈折し、真逆の方向に向き、他人と比較し「皆は幸せ
で、自分は不幸」となってしまう。そこに悪魔が、からんでいる。
要・警戒だ。主から目を離さず、患難を喜べませんと正直に向かお
う。正直に祈る時、悪魔の入る余地を無くし、導かれる。
----------------
患難を喜べませんと、素直に言える主を知っているのは何という感
謝だろう。患難の中でも主の恵みを信じていける。今は喜べなくて
も、患難にも主との平和があり、確信があり、主に委ねていける。


2024年06月20日(木)

「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教え てください」ルカ11:1



祈りは、学校だと言われる。少しづつ〃主が手を取って、教え学ば
せて下さる。救われて、教会生活が始まると、指導者や先輩クリス
チャンから、祈って、聖書を読むことを、繰り返し〃まさに口すっ
ぱく教えられる。信仰生活の生命線であり、大切な事だと。最初は
余りよくわからず、とにかく他の人々が祈るように、祈り始める。
今から思えば、その祈りは、かなり自己中心だ。

しかし主はそんな祈りに答えて下さった。よくわからない中で、初
心の時は、まず主に向くようにして下さる。自分の事なら祈れるの
で、祈りに答え、祈りを励まして下さる。年月を経る中で、ある
時、祈っても〃、答えられない経験をする。そんな時、原則があ
る。「その耳が遠くて聞こえないのではない。あなたの咎が神との
仕切りとなり」と、もし罪があれば、悔い改める必要があると。

又、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとし
て、悪い動機で」とあり、動機が間違っているかも知れない。御霊
が気づきを与えて下さる。ある人が、御心に従おうとした時に、親
族の反対を受けた。身体を心配したためだった。しかし御心で正し
い事だと、断固進もうとし、祈りを積むが、反対は強くなる一方だ
った。

そんな状況を祈っていた時に、全く気づかなかった自我を示され
た。反対する親族に反発し、反目し、絶対に遂げると意地になって
いる自分。主のためなど、全く無いではないか。心から悔い改め
て、自分自身も、状況も、主に明け渡した。すると何と数ケ月後、
身体をいやして下さって、親族の祝福のもと、御心を行なう事がで
きた。
--------------
祈りが叶えられると主のご愛を直接受け取るようでうれしい。でも
叶えられない祈りの時にも、大切な学びがあり、主の御思いがある
ことを覚えていたい。祈りの答えはどこにあるのか主に聞いていき
たい。


2024年06月19日(水)

「まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実であ る。」詩篇33:4



ある人が神学生だった時に、最終学年を迎え、卒業後の奉仕先が定
まっていた。卒業時期が近づき、卒業までに学費と必要経費の納入
が必須だった。もし納入できなければ、留年になってしまう。お金
が無かった。しかし卒業後の御心もすでに与えられていて、絶対に
主は必要を備えて下さるはずだ。祈りに祈った。

段々と、卒業の日が近づくが、まだ与えられない。更に祈りを積ん
だ。ただただ、祈るばかりだった。主にだけ頼りたいと思い、誰に
も言わなかった。納付期限も近づき、まだ与えられず、祈るばかり
だった。これ以上祈れないほど祈り、とうとう納付期限になってし
まった。どうすれば良いのか、とにかくありのままを正直に話そう
と思った。それが平安だった。

教師に、祈りに祈ったが、与えられなかった旨を告げた。すると教
師は、けげんな顔をし、「あなたの分はすでに振り込まれています
よ」と言った。誰にも言っていなかったので、まさに主ご自身のみ
わざだった。別の人も、やはりお金が無かった。その神学校は、進
級時に前納が規則だった。ずっと祈りに祈ったのだが、与えられな
かった。

ついに期限が来て、与えられなかったので、それも受け止め、郷里
に帰ろうと思った。荷造りをし、片付けをすべて終えた時に、一通
の封書が残った。気力が無く、見る気もしなかったが、開けてみる
と、何と必要以上の小切手だった。主は、まことに真実であられ
た。
------------
大きな試みの中、祈る事しかできない。全ての不安を日ごとに主に
投げかけよう。何も出来ない事を主は知っていてくださる。出来な
いから、主の御業のことごとくが真実であると知れる。感謝だ。


2024年06月18日(火)

「アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。さて、 この地にはききんがあったので・・エジプトのほうにしばらく滞在す るために下って行った」創世12:9


アブラムは「父の家を出て、わたしの示す地へ行け」との召しを受
け、カランを出発し、カナンの地に入った。そしてネゲブの方へと
旅を続けていた時に、激しいききんに会った。そこで、エジプトに
しばし滞在するために下った。ききんが余りにも厳しく、命の危険
を感じたのだろう。エジプトに下って、アブラムは罪を犯してしま
った。

美しい妻サラのために、自分は殺されるかもしれないと、保身のた
めにサラを妹だと偽り、サラにも偽りを強要した。そのためサラ
は、パロの宮廷に召し入れられる事となった。間一髪のところで、
主の介入により、救い出された。アブラムの失敗は、激しいききん
に臨んだ時、主を仰がず、祈って主の御心を求めずに、自分の知恵
と判断で行動した事だった。

それがエジプト行きであり、間違いであった。まず主に祈り、頼
り、指示を求めるべきだった。私たちも信仰をもって歩み出した途
端に、厳しいききんが臨むかもしれない。その時に驚き慌ててしま
い、主が飛んでしまい、自分で何とかしなければと焦る。心騒ぎ、
とにかく保身を考えてしまう。肉の策を考え、肉で行動する。

その結果、失敗し、刈り取りをする事になる。まず自分で動かず
に、「わたしを呼べ」と言われる主を呼ぼう。どんな窮地であって
も、主は手立てを持っておられ、そして逃れの道を備えておられ
る。
------------
いつでも自分の知恵が主への従順の邪魔をしてしまう。繰り返す失
敗から学びたい。祈り信仰によって歩もう。動揺するとき、主に助
けを求め、主を待とう。


2024年06月17日(月)

「・・必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成 功させる。」イザヤ55:11



信仰生活の中で、どうだろう。主の御心に従うなら、物事がスムー
ズに行き、何もかもが、うまく行くはずだとの思いが無いだろう
か。御心に従わないなら、仕方がないが、従う以上は、もう大丈
夫、順風満帆との思いはどうだろう。しかし現実では、御心に従っ
た途端、問題にぶち当たり、苦しい状況に陥る。様々な試練に会
う。

「え!なぜ?」「こんなはずでは」「うまく行くのでは」「御心で
はなかったのか?」「自分が御心を間違ったのか?」様々な思い
で、戸惑い悩んでしまう。ヨセフは、御心に従う中で、様々な足か
せに悩まされた。「彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし」とあ
り、鉄の足かせに入れられた。

み言葉が実現するまで、主の言葉は彼を試したとあり、ヨセフは思
い通りにならない事の連続だった。しかし主の御心にとどまり続
け、遂に成就した。主が弟子たちに「さあ、向こう岸へ渡ろう」と
言われ、彼らが御心に従い、出発した中で、大嵐の試練に会った。
御心に従わなければ、大嵐に会うことも無かった。

しかしその中で、弟子たちは、主が、風も波も、自然界をも支配さ
れる方である事を、初めて知った。御心を歩む中で、試練が送られ
る。ある人が、仕事を祈り続け、職場が与えられた。祈りの答えだ
った。しかし配属部署の内容は、自分には難しく到底無理に思え
た。

苦しい思いをし、「御心のはずなのに、なぜ?」と。辞めたかった
が、主から授かったので、辞めるわけにも行かず、祈りに祈り、皆
にも祈ってもらった。すると自分には出来ないはずなのに、まさに
主の力により出来るようにされ、みわざを拝する事と去れた。
------------
主の望まれるように事は成就してゆく。自分の思い通りばかりを追
っているなら、なぜ?なぜの?連続ではないか。今、痛くても必ず
新しい扉が開く。主の御言葉を握り、最善を信じていよう。


2024年06月16日(日)

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使 っています・・マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女から それを取り上げてはいけません」ルカ10:41


マルタとマリヤは、二人共、大喜びで主をお迎えした。姉のマルタ
は、主と弟子たちのためにご馳走を料理し、家の片付けや掃除、
多くの労が要った事だろう。一方、妹のマリヤは、何よりも主の
言葉を聞く事を願い、求め、行動に移した。

当時、男性の中で、女性がそのようにするのは、勇気の要る事
だった。姉と妹は、主を歓待するその方法が違った。マルタは、
余りの忙しさに、焦り、イライラした。ふとマリヤを見ると、何も
せずに座っている。どうして手伝わないのか、怒りがこみ上げる。

マリヤを責め、それを許している主に指図までする。「主のため
に」始めた事が、欲求不満となる。何をしているのかわからない。
清潔な場所や食事は、主と弟子たちのために、大切な奉仕だ。
しかし主は、マルタは色々な事を思い煩っていると言われた。
そして「どうしても必要なことは、一つだけ」と。それはマリヤが選
んだ、主の言葉を聞くことだと。

私たちも、なすべき事が山積みになると、許容量オーバーになり、
イライラと不満噴出だろうか。主が飛んでしまうと、思い煩いや焦り
に飲み込まれてしまう。時々、経験するだろうか。主から、「あな
たは、色々な事を心配し、思い煩っている」と言われているだろう
か。いつも、絶えず、必要な一つだけの事に、立ち返ろう。そこから
喜びと平安に返れる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日常生活で、主から目が離れると、すぐにマルタになってしまう。
「マルタ、マルタ」と、「あなたは色々な事を心配して、気を使って
います・・」と、そのまま語って下さっている、主の御声が聞こえる。
我に返らせて下さる。


2024年06月15日(土)

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなた の計画はゆるがない」箴言16:3



信仰において、主にゆだねる事が、大切だとよくわかるのだが、
自分を主にゆだねる事は、なかなか簡単ではない。非常に難
しい。自分の強い思いがある時、明け渡すのは困難で、自分
のプランや願望はなかなか放せない。自分のプランや願望は、
自分そのものだからだ。自分のいのちとなっている。

又、自分の思いや願いは、神の思いと、しばしば違っている。
ズレがある。自分はこうしたいのに、神は違う道を言われる。頑固
な自我が、どうしても動かないのだ。明け渡せない。自分の人生
をしっかり握った自分自身が、結局は信仰生活を、喜びの無い
ものにしている。

しかし、ほこ先を間違った方に向けて、神を恨む。神がこんなふう
にした。人生うまく行かないのは、神が悪いと神を責める。人間は
自分勝手に振る舞うが、しかし、神のご計画は着々と確実に進め
られて行く。人の愚かさで神の計画が、変わる事も、狂う事も無い。

「主はすべてのものを、ご自分の目的のために造」られた。すべて
が完璧であり、一分も違わない。自分の計画を、イコール自分自
身を、神に明け渡す事が、実は自分が最高に生きることのできる
道だ。平安が来て、御霊の喜びを経験して行く。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明け渡すことが大切と、頭ではよくわかるのだが、実際非常に困
難だ。自分の、どの部分が拒んでいるのか、御霊に探って頂こう。
人にできない事が、主にはできる。取り扱い、平安へと導いて下さる。


2024年06月14日(金)

「『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信 頼すれば、あなたがたは力を得る。』しかし、あなたがたは、これを 望まなかった。」イザヤ30:15 




主は、同じく「やめよ」と言われ、わたしこそが、神であることを
知れと言われた。「やめよ」とは、他の訳では「静まって、わたし
こそ神であることを」になっている。「静まって」とは、黙って、
言葉を発っする事なくという意味ではなく、自分の力で立ち上が
り、あれこれと動き回るな、という事だ。人間的な力に頼るな、と
の意味だ。

突如の緊急事態発生の時、どうだろう。全く予想もしていない事
が、突然起きると、まず驚き慌ててしまう。パニックになってしま
い、とにかく自分を救うため、思いつく対処に動き回り、その後、
主を思い出すだろうか。又は、主に祈る事は祈るのだが、それはそ
れ、これはこれと、対応は、自分の思いと力でしているだろうか。

又、すべてを何もかもを、委ねているつもりだが、この世に後ろ髪
を引かれ、後ろの橋を焼き尽くせず、万一の場合の逃げ道を残して
いるだろうか。結局は、主を信じる事ができず、自力で行なってい
る事になる。目に見えるものの影響力は絶大だ。そんな中で、目に
見えないものを信じて行く事は、勇気がいる。

今一度、よく心を静め、御霊に自分の心を探って頂こう。本当は、
自分は何に頼っているのだろう。人は、被造物なので、必ず何か頼
らねば生きて行けない。もし主に頼らなければ、自分か、人か、物
に頼っている。正しく主に頼れば、どんなに幸いで祝福だろう。そ
の時に、神が神であられることを真に知って行く。
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祈っても、心は落ち着かず今すぐに出来る事はないかと考えが巡
る。何によって安心するのだろう。見えるところではなく、主に頼
ることで平安を受けとりたい。


2024年06月13日(木)

「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを 教えるために・・」ルカ18:1



私たちは祈っているが、どうだろう。幾ら祈っても、答えば無い時
があるだろうか。祈って、祈っているのだが、なかなか祈りが、聞
かれないと思う時がある。祈るのだが、答えがない。一体どうなっ
たいるのかわからない、まるで放っておかれているように感じる。
しかし主は、祈りを聞かれている。どんな小さな祈りにも、しっか
り耳を傾けて下さっている。

すぐに答えられる祈りがあり、「ノー」が答えの祈りがあり、祈り
続ける事が求められる祈りがある。その場合は、決して失望しない
で、祈り続けるようにと。祈り続ける事によって、様々な事を学ば
され、訓練されるからだ。答えがなかなか来ないで、引き延ばさ
れ、祈り続ける事により忍耐が養われる。忍耐の無い者から、忍耐
できる者へと変えられて行く。

そして時間をかける中で、自らの動機があらわにされて行く。全く
気づかなかった自己中心、肉の欲に気づかされ、自分の姿が見せら
れる。虚栄心、プライド、体面、動機に不純物があることを知る。
悔い改めに導かれ、きよめられて行く。自分の欲の願いでなく、御
心が成るようにと、祈りが変えられて行き、自分が変えられて行
く。

それは、時間をかけて祈り続ける中でしか、得られないものだ。祈
りの答えと共に、遙かに素晴らしい霊的成長が与えられる。途中で
祈りを止めてしまうなら、これらを逃してしまう。祈り続けよう。
動機を矯正し、御心へと祈りを導き、答えを下さる。
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自分の思いばかり強く「イエス」の答えだけを見つめて祈ってしま
うが、長く待たされると、不思議に祈りが変えられてくる。祈りは
主に届いている。感謝だ。主のあわれみは尽きない。


2024年06月12日(水)

「『いっしょにお泊りください・・』と言って無理に願ったので、 イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。」 ルカ24:29


エマオ途上の弟子たちに、主が歩み寄られ、何を話しているのかと
尋ねられた。彼らは、今の状況を心の内を、ありのままに語った。
イエスが十字架につけられ死なれたこと、行ないにも言葉にも力あ
る方であったこと、イスラエルを贖って下さると望みをかけていた
が、だめだった、更に三日目に女たちが墓に行くと、遺体が無く、
御使いがイエスは生きていると告げたと。

心の内を吐露させて下さった。すると主は、不信仰だと告げられ、
聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを、彼らに説き
明かされた。二人は、その語られる言葉に耳を傾け、熱心に聞き入
っていると、心が暖かくなって来て、段々心が燃やされて行くのを
感じた。不思議が起きた。別れ道に来た時に、無理やり頼み、せが
んで、一緒に泊まって頂きたいと願った。

主にせがみ、求めた。家に入って頂き、一緒に食事をするとは、親
しい打ちとけた交わりで、心を開くことだ。復活を信じず、エルサ
レムを離れ、主を離れ、郷里へ戻る弟子たちに、主は、彼らの心に
「求め」を起こされた。もっと御言葉を聞きたい、主と一緒にいた
いと求めた弟子たちに、主はご自身を現わして下さった。

不信仰によって、さえぎられていた霊の目が開かれた。信仰が与え
られた。道々、話し合い、論じ合っていた彼らには、十分な聖書知
識はあった。知識が幾らあっても、信仰によらなければ、主は見え
ない。絶望していた弟子たちが、希望、喜びへと変えられた。主は
そばにおられる。御言葉を受け取り、信じよう。そうできるよう祈
ろう。
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霊的に元気な時ばかりではなく、いつでも弱く迷いやすい者だ。で
も一番心細い、失望落胆の時、主は近づいて語りかけてくださる。
祈りながら御言葉を読んでいこう。求めれば主が与えてくださる事
を信じていよう。


2024年06月11日(火)

「イエスは彼らに言われた。『歩きながらふたりで話し合っている その話は、何のことですか。』・・ふたりは暗い顔つきになって、立 ち止まった」ルカ24:17



郷里のエマオへ向かう、二人の弟子達がいた。そのかたわらを歩か
れる方が、主イエスだとはわからなかった。なぜ、わからなかった
のだろう。二人の目がさえぎられていたからとある。そして続く御
言葉によると「信じない、心の鈍い人たち」とあり、不信仰が目を
さえぎっていたのだと。

二人は主の復活を全く信じないので、主が死んでしまったという絶
望と落胆の中にあった。悲しみもあった。彼らは「暗い顔つき」だ
ったと。私たちも、失望の中にいる時、主が見えなくなる。「失
望」とは、主に期待を向けるのを止め、主を見限ることだ。それは
不信仰であり、不信仰は私たちの心をふさぎ、暗やみの中に引き込
む。

平安を失い、心は重く、暗く沈むばかりだ。「不安・思い煩い」も
目がさえぎられてしまう。心配事の山だけが見えて、主が見えなく
なる。「自己憐憫」は、自分はかわいそうと、自分の殻に閉じこも
り、主をシャットアウトするので、見えるのは自分だけだ。「多
忙」も目の前の物事をこなす事に心が奪われ、主が飛んでしまう。

有形、無形の偶像も、心がそれに持って行かれてしまい、主を閉め
出してしまう。あなたは今、どうだろう。もし、目がさえぎられて
いるなら、主が遠いなら、何があるのか気づきが与えられるよう、
祈ろう。主は、今も、あなたのかたわらに共におられる。そして、
御声をかけておられる。
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現実がどんなに暗くても、自分の内に光が見えなくても、主が光、
主がおられるから希望がある。暗い顔つきでいる時、不信仰に陥
っている事に気づきたい。主を見失わず主と共に歩もう。


2024年06月10日(月)

「・・大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に 倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、 あなたにお知らせするのです。」ヨブ1:19



ヨブが子ども達、皆を失い、財産、家財の何もかもすべてを失っ
た。その時に、ヨブは立ち上がり、上着を引き裂き、頭をそった。
そして、地にひれ伏し、主を礼拝した。その時に「主は与え、主は
取られる」と、主の御名はむべきかなと言った。「主は与えて下さ
る」とは、誰しも喜んで言えるが、「主は取られる、主の御名はほ
むべきかな」とは、なかなか言えない。

神はいじわるで、奪い取り、どこが愛なんだと言いそうだ。しかし
ヨブはこれらすべてが、主から出ていると、はっきりと認めた。
主の絶対的主権を認める告白だ。その上で、主の御名を崇めたの
だ。神を信じるとは、こういう事だと言われている。舞台裏では、
悪魔が、神にヨブを中傷した事が出て来る。

「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか」と。人は、利得も無いの
に神を信仰などしない、ご利益があるからこその信仰だと。しかし
ヨブの言葉と対応、態度は、その悪魔の中傷と神への訴えを無力な
ものとしてしまった。この世界には、損得、利得からでなく、神が
神であられるゆえに、信じる信仰、礼拝して行く信仰が存在すると
いう事を、ヨブは証明した。

信仰者に試練は必ず臨む。それは非常に厳しいものかもしれない。
しかし神は愛なる、良い方で私たちに最善しかなさらない。どんな
時にも、そこに信じて立とう。私たちの生涯が、神が神であられる
から、崇めて行くことを、証しして行けるとは、何と幸いなことだ
ろう。
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どんな中にあっても、背後におられる主の変わらない愛を信じよ
う。試練に立ち向かうことは出来ないが、弱さのままで祈っている
と、主の慰めや励ましに気づく。主を信じて立っていよう。


2024年06月09日(日)

「イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が やって来て言った。『あなたのお嬢さんはなくなりました・・』」マルコ 5:34


私たちは日常生活で、非常に急いでいる時に、妨げが入る事を
経験する。急ぐ仕事の最中に、突然の来客や別用が入る。すで
に予定があるのに、想定外の事態が入り込む。すると、急いで
いる事が中断になり、時間が、労力が取られる。イライラしてしま
う。

ヤイロは、娘が危篤状態で、一刻を争う状況だ。娘を助けて欲
しいと、主のもとに必死の思いで来た。主はヤイロの願いを受け
て、彼と出かけられた。感謝な思いと共に、早く〃と、どんなに急
いた事だろう。すると突然、想定外の事態が起きた。そこに長血
の女性が立ちふさがったのだ。一分一秒を争うところに、突如の
出来事だ。行く手を阻まれて、この危急の時に、娘を思うヤイロ
の気持ちはどんなものだったろう。

主が長血の女性に対応され、ヤイロが立ち往生の中に、娘が亡
くなったとの知らせが来た。まさに絶望ではないか。すると主は、
間髪を入れず「恐れないでただ信じていなさい」と言われた。中
断に対して、主が全責任を取って下さる。この時のヤイロの気持
ちはどんなものだっただろう。主はその気持ちを思い、御言葉を
与えて下さった。

ヤイロの心は守られた。私たちも、大切な急ぐ事態の中で、他者
による妨げが入るかも知れない。しかしそんな中で、他者を顧み
ることは、自分のしている事を中断する事だ。犠牲が必要とされ
る。しかし、主が責任をもって私たちを顧みて下さる。今、「恐れな
いで、ただ信じていなさい」と御声をかけて下さっているだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・
目に見える状況でなく、主が語って下さる言葉を受け取り、信じる
ことを教えられる。又、特に急いでいる時に、想定外の事態が入る
ことを、しばしば経験する。そこでも主を認め、主により対応して行
けるよう、いつも心を主に向けておれるよう祈ろう。


2024年06月08日(土)

「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い 尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰 に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」Tペテロ5:8



悪魔は様々な策略をもって、私たちを狙う。「悪魔の策略に・・」
とのみ言葉があり、「策略」と言われている。悪魔は行き当たり
ばったりに適当な思いつきで、攻撃しているのではない。方策
を練りに練って攻撃して来ると言っている。よく踏まえていよう。
私たちの弱い所を熟知していて、そこに誘惑が来る。

心に否定的な、歪んだ嫌な思いが湧くだろうか。サタンの攻撃
だ。自分の思いでなく、サタンが吹き込んでくる思いだ。よく見
分けられるよう、祈っていよう。ある婦人が、近所に引っ越して
来た女性と交流したいと、お茶に誘った。しかし、待っても、来
る気配がない。こちらとしては、親しくなりたいし、手助けをした
いのに相手はそうでもなさそうだ。

段々、ネガティブな思いがふつふつと湧き上がる。自分を嫌い
で、避けているのでは?何か気にさわることを言ったのか?
何だか疑心暗鬼になって来る。嫌な気持ちになり、こちらも避
けるようになった時、突然、サタンだと気づかされた。無いもの
を有るものに、有るものを無いものに、自由自在に否定的思
いを吹き込んで来る。

そんな時、バッタリ会ったが、彼女は大変友好的であり、「お誘
い嬉しく、いつお伺いすればよいのかと思ってました」との事で、
平安に満たされた。サタンは無いものを吹き込む。疑いを抱か
せ、平安を奪う。思いを拒否することで、立ち向かおう。今、悪
魔からの思いの攻撃が来ていないだろうか。いつも御霊の気
づきが与えられるように、祈っていよう。気づかせて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
悪魔は不信感を抱かせるよう誘惑し、疑心暗鬼にさせて行く。
思いに働く悪魔に聞いて行くと、事実でない妄想で欺かれる。
悪魔は私たちより遥かに知恵がある。御霊の気づきが与えられ
るよう祈っていよう。御霊が悪魔に気づかせて下さる。


2024年06月07日(金)

「あなたが神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あな たのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことば のためだ。」ダニエル10:12



ダニエルは、バビロン捕囚が70年後に終わる事を知り、どうか遅ら
せないで下さいと祈った。すると、その祈りが終わらない内に、ガ
ブリエルが遣わされた。祈ると、すぐに聞かれたのだった。別の祈
りの時は、「ペルシャの国の君」であるサタンに、21日間妨害さ
れ、祈りがとどめられた。だが、主は、彼が主の前で、へりくだろ
うと決めた初めの日から、祈りは聞かれていると。

祈りは、主によりしっかり聞かれていたが、答えの到着に21日かか
った。待ち望む期間が必要だった。私たちもすぐに答えられる祈り
があり、時に、答えが延ばされる祈りがある。しかし、主を待ち望
もう。それは遅くなっても必ず来る。主を「待ち望む」ことを学ば
される時がある。その時は信仰が試される。

待つ期間が無ければ、信仰を用いる必要がない。自動販売機のよう
に、お金を入れると、すぐ飲み物が出て来るなら、待つ必要が無
い。それなら信仰が鍛えられ、練られる事がない。祈りの答えが遅
れている時こそ、信仰を使う時だ。信仰の訓練であり、成長の時
だ。

又、明白に「ノー」の答えもある。「ノー」も神のご意志だ。祈っ
たからこそ、主の「ノー」がわかる。「即、実現」「ノー」「待ち
望め」のどれかだ。しかし、あなたの祈りが聞かれ、聞いて下さっ
た結果だ。主はどんなに小さな祈りも聞いて下さっている。環境を
見つつ、答えを見張ろう。
------------
祈り、まだ語っている時にガブリエルが素早く飛んできてとある。
主は祈りを聞いて最善の答えをくださる。待ち望むことが主の御心
ならそこから学ぼう。祈りつつ主の答えを見張ろう。


2024年06月06日(木)

「一主の御告げ。一仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたととも にいるからだ・・わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れる な。」ハガイ2:4。



信仰生活で、神の「時」と、神の「御心」は、非常に大切だ。信仰
人生のすべての事に、美しい「神の時」がある。同時に、主は、私
たち一人一人に、「御心」を持っておられる。ハガイの時代もそう
だった。当時、廃墟となった神殿再建が、ずっと中断していた。

そこに神に遣わされた預言者ハガイが、神により神殿再建を示され
語った。「山に上り、木を運んで来て、宮を建てよ」と。主は「そ
うすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。」と。
民は、神殿工事を再開し、4年後、その神殿が完成した。

エレミヤが、バビロン捕囚の時に、70年後、主はこの所に帰らせる
との預言をしていた。バビロンによって破壊された神殿が、丁度エ
レミヤの言った通りに、まさにその時に成就した。ずっと神殿が崩
れていたのだが、民は再建について、まだ、今でなくてもよいとず
っと言い訳をしていた。「主の宮を建てる時はまだ来ない」と、引
き延ばしていた。

だが、主の宮が廃墟となっているのに、民は板張りの家に住んでい
ると。自分の事で走り回っていて、自分の事に忙しく、自分のため
の時間はあるのだが、主のための時間も労力も無かった。しかし、
主はハガイを遣わし、「今、仕事に取りかかれ」、今が、「時」だ
と。「わたしがあなたと共にいるからだ」「わたしの霊があなたが
たの間で働いている。恐れるな。」と。

同様に、主は、あなたに何かの御心を示しておられるだろうか。今
が「時」だと。自分の事に夢中だろうか。中断したままの事を、再
建せよと言っておられないか。もし示される御心があれば、
「今」、仕事に取りかかろう。
------------
今、取りかかれと示されているなら行動しよう。時を支配しておら
れる主が今だと言われている。忙しい毎日で脇に置いている、やる
べき事は何だろう。あるならば信仰を持って取りかかろう。


2024年06月05日(水)

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」 箴言3:5



ある人が、まとまった費用が、今すぐ必要な状況になった。毎月、
給料が入り、返済できるから問題ないと、深く考えずに、すぐに貸
してくれる金融業者から借りた。気軽に借りてしまったが、余りの
利子の高さに驚き慌てた。返済が思うように行かず、利子はどんど
んかさむばかりで、大変な事になってしまった。自らの無知を思い
知らされた。

もう自分ではどうにもならず、追い詰められ、周囲にも祈ってもら
い、自分自身も祈りに、祈った。主のあわれみにより、みわざをも
って無事に返済ができた。恥ずかしい思いをし、周囲にも迷惑をか
けてしまった。自らの失敗であった。痛い所を通り、心を深く探ら
れ、悔い改めが与えられた。

まず主を仰ぐこと、祈りが全く無く、祈らずに自分の思いで行動し
てしまったこと、そして「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せ
よ。」とあり、そうすれば、主が成し遂げて下さると。頭ではわか
るのだが、信じる事ができない、自分の姿がはっきりと示された。
不信仰だった。その時に、まず主に祈り、主にゆだねて、信頼する
なら、必ず必要を与えて下さってであろう。

そして今はその事を、信じることができる。大変な失敗をしてしま
ったが、失敗を通して、砕かれた。頭ではなく、身をもって教えら
れ、学ばされた。主はすべての事を益として下さるが、その通り
に、この失敗を境に、自分が変えられて行った。感謝な事であっ
た。
------------
いつでも自分の判断や常識によって生きていけてしまう。主に祈
り、導きを待たない自分がいる事を覚えていたい。小さな心配事も
主に祈り、頼り平安を受けとって歩もう。


2024年06月04日(火)

「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心 に蒔かれたものを奪って行きます。」マタイ13:19



種は神の言葉であり、人が往来して固まった土地である、道ばたに
落ちた。もし大切な、重要な物なら、落ちたまま放っておくだろう
か。もしそうなら、それは捨てても構わない、どうでもいい物とい
う事になる。道ばたの心は、主の言葉を大切なものとは思わず、気
に留めていない。そのため「悪い者が来て、その人の心に蒔かれた
ものを奪って行く」と。

悪魔が来て、心から、御言葉を奪い取る。心に入らないという事
は、結局は聞かなかった事と同じになってしまう。そうであれば、
決して実を結ぶ事がなく、自分が変えられる事もない。御言葉を聞
く態度はどうだろう。主が、民の出エジプトの際の奇跡で、激しい
雹を降らせるから、今すぐ家畜、野にあるすべてのものを避難させ
よと言われた。

雹で、人も家畜もみな死ぬからと。その時、主の言葉を恐れた者
は、その通りに、しもべ達や家畜を家に避難させた。しかし、主の
言葉を心に留めなかった者は、御言葉をないがしろにし、しもべ達
や家畜をそのままにした。激しい雹は、何もかもを打ち砕いた。主
を畏れるなら、その言葉を真剣に受け取り、必ず行動が生まれる。
聞き従って行く。

私たちは御言葉に対して、どうだろう。軽んじて、聞き流している
だろうか。主の言葉には力がある。愛があり、真実があり、必ず主
のわざを成し遂げて行く。そして主の豊かな祝福にあずかる。祈っ
て、御霊に助けられ、み言葉に耳を澄まそう。御声を聞いて、従え
るよう祈ろう。
-----------
こんな事は出来ないと自分だけを見て御言葉を聞き流してしまうよ
り、出来るようにしてくださいと祈りたい。受け入れた種には命が
ある。受け入れ従っていこう。御言葉の命にふれよう。


2024年06月03日(月)

「イエスは百人隊長に言われた。『さあ行きなさい。あなたの信じ たとおりになるように。』すると、ちょうどその時、そのしもべは いやされた。」マタイ8:13


百人隊長が、中風のしもべのいやしを求めて、主のもとに来た。こ
の隊長は異邦人で、しもべと言えば当時は奴隷であり、奴隷のため
に心を砕き、神を畏れる愛情深い人物であった。自分の家に来ても
らう資格もないので、おことばを下さいと。そうすれば、しもべは
直るからと。非常にへりくだった態度であり、そして、彼は何より
神の言葉は、必ず成就すると信じきっていた。

主は、彼の信仰に「驚かれ」て、感心し「このような信仰を見たこ
とがない」と言われた。主が驚かれるのは、「信仰」だ。立派な行
ないではない。百人隊長である彼も、権威の下にあり、権威という
ものがよく理解できた。例えば警官は車を誘導し、止めたり動かし
たりできる。運転者は、指示通りに従う。又、違反すれば切符を切
られる。それは、警官に権威が与えられているからだ。

同様に、軍隊の上官の命令は絶対的であり、部下はその通りに従
う。権威を知る、百人隊長は、更に最たる神の権威を認めていた。
だからその神の言葉の権威をも認めた。主は「さあ行きなさい。あ
なたの信じたとおりになるように」との言葉を与えられた。すると
丁度その時、しもべはいやされた。神の言葉には、力と権威があ
る。霊でありいのちだ。神の言葉は、100%必ずその通りに成就す
る。

私たちはその権威と力のある言葉を、どのように聞いているだろ
う。ぼや〜と聞いて、適当に受け止めているだろうか。祈りにより
真剣に聞き、語られた言葉に信仰により応答する時、主がみわざを
される。今、語られているなら、従おう。
------------
「信じたとおりになるように」と主が語られたことをしっかりと受
け止めたい。信仰に従って主は与えてくださる。一番大切な御言葉
を信仰を持って聞きたい。


2024年06月02日(日)

「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の 神であられますから。」詩篇143:10



信仰生活を送る中で、ある日突如「なぜ?」「どうしてこんな事が」と
思う事態が起きる。平穏な日々を過ごしている時に、突然の悩み、
問題が起きる。想定外の事に会うと、パニックになる。主に従うな
ら、祝福があるのではないのか、なぜこんな苦しみに会うのか。対
人関係の問題、経済的苦境、仕事の悩み、突如の病発覚・・種々
の問題に会う。

イサクとリベカが結婚したのだが、リベカが不妊だった。それでイサ
クは妻のために主に祈った。その祈りが答えられて、リベカはみご
もった。その時に双子の子どもたちが、お腹の中でぶつかり合い
争った。こんな状況で、どうなるのかと不安でたまらず、リベカはそ
の時にどうしたかというと、「主のみこころを求めに行った」。

その時、兄が弟に仕えるという厳粛な御心が示された。又、ダビデ
は、3年間の飢饉が続き、深刻な状況になった時に、ただ単に
飢饉がやむように〃と祈ったのではなく、ダビデはその時に「主の
みこころを伺」い、みこころを求めた。すると主は、その祈りに答え
られ、対処していない罪がある事を示された。

そして、すべて主の示しの通りに従った時に、「その後、神はこの国の
祈りに心を動かされた。」のだった。主は、時に、私たちに困難を与
え、主を仰ぎ、主に注意を向けさせようとされる。そこに主からのメッ
セージがあるからだ。主が伝えたい大事な事ある。そのため、みここ
ろを求めさせようとされる。私たちも、単に問題解決でなく、主のみこ
ころを示されるよう祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
一羽の雀さえ父のお許しなしに地に落ちない。髪の毛も数えられて
おり、身の回りで起きる出来事は、主の御手の中だ。偶然でも、たま
たまでも無い。主のお心を、主からのメッセージを祈ろう。主のお心
を知る時、御霊の喜びが来る。


2024年06月01日(土)

「・・民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に 渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、 わたしに向かって誇るといけないから。」士師記7:2



兵士がどんどん減らされて行く箇所だ。当時、イスラエルは侵略
を受け、苦しい状況にあった。主はデオンを立てて、民を率い、
諸国と戦わせようとされた。その呼びかけに32,000人が集まった。
だが相手は135,000人の圧倒的大軍で、勝ち目はない。しかし主
は非常に不思議な事をされた。ギデオンに、何と兵士の数が多過
ぎるので、減らすよう命じられた。

そして最終的にはたったの300人が残された。135,000人の敵に、
その300人で戦うと、ギデオンの大勝利に終わったのだ。この時、
主は彼に兵士を減らす理由を「大人数だと自分の手で救ったと、
自分を誇るから」と言われた。この戦いの勝利が人間によらず、
主の力によるものである事を明確にするために、あえて兵士の
数を減らされた。

私たちはどうだろう。自分がもっと強く、能力があればと思うだろ
うか。だがもし強ければ、主の働きを自分が奪い、自分の栄光に
してしまう。信仰的体験さえも、肉は誇る。パウロは、第三の天に
引き上げられるという、特別な経験をした。パウロも、自分を誇ら
ないよう、余りにも大きな恵みに、高ぶらないように、とげが与え

れたと言っている。

苦しいとげであったが、それにより高ぶりから守られた。高慢から
守って下さるのは、何と感謝だろう。そして更に素晴らしい啓示を
受けた。「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」と。この世で
誇れるのはどこまでも強さだが、私たちは弱さを誇る。何という恵
みだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
この世の価値観では、強いこと、力のあることが善だ。しかし信
仰の世界は全く違う。「もっと〜〜であればよいに」と思う、その
弱さの中にこそ、主の力が現われるとは、何と感謝なことだろう。
主にゆだね、頼って行きたい。