2022年01月30日(日) 「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器で も、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていない のでしょうか」ローマ9:21
「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器で も、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていない のでしょうか」ローマ9:21
ある人が言った「私は、教会に時々出席していたのですが、主を信 じるのに十年もかかりました。砕かれなければ、神様はわからない ですねえ。それからも砕かれて〃、主を知って来た感じです。自分 が変わらないのは、自我が砕かれていないからだと教えられまし た」。 自我が砕かれて行くほどに、主がわかって行く。そのために、主は、 どうにも出来ない事態に会わせたり、悩みとなる相手を、目の前に 置かれたりする。嫌いな相手であり、ある時は、どうしても我慢な らず、職場を変える。しかし、次に行った先にも同じような相手が いて、悩まされる。「相手を、この状況を何とかして下さい」「相 手を変えて下さい」と必死に祈るのだが、祈りが聞かれない。 しばらくすると、祈りが聞かれていない事に気づく。そして時を経 ながら「これは、もしかして自分の問題か?」と気づいて行く。気 づくと、祈りが変えられて、「主よ、私を変えて下さい」となる。 そうすると、その祈りは御心に適うので、必ず聞かれて行く。自分 の内側が変えられる。へりくだらされ、自我が砕かれて行く。 自分が変わるので、同じ状況であっても、自分自身は平安にされる。 自我が砕かれるほどに、平安が流れ込み、頭の知識ではなく、主を 親しく知って行ける。主は陶器師であり、私たちを砕き、練り、造 り上げられる。目の前の痛い、苦しい事態は、自分自身が変えられ るために、主から送られて来たものだ。必ず平安へと導かれる。 ・・・・・・・・・・ 痛い事も、いつも学ぶように、主には一つも無駄はなく、ご計画が あり、御手の中にあり、災いではなく、平安と将来と希望のための ものだと経験させられる。これまでの一つ一つも、平安の落とし所 に落とされて来た。まず、ありのままの心の内を祈って行こう。 http://www.j-hbbc.net/cgi-bin/hbbc/thank.cgi ======================================= 【日々のことば】 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係り [ホームページ] http://park11.wakwak.com/~hbbc/word/ [登録変更の連絡] lema@j-hbbc.net [よくあるご質問] 届かない? 受信許可リストに登録する! http://park11.wakwak.com/~hbbc/cgi-bin/word/qa/view.cgi