[夫と妻バックナンバー]

夫のせいでなく自分の問題・・



       自分の都合だけで、礼拝を守ってきた事を神様から示されてから、最近少しは、一回一回の礼拝を、祈って委ねて守る事ができているように思う。いろんな条件が合わず行けなかった週も、落ちこむ事もなく、平安に守られているから感謝だ。

毎週の礼拝が、何事もなく守れるという確たる保証が無いことは、それだけ、 礼拝に復帰?できた時の喜びも大きく、バイブルクラスから、もう感謝が溢れてくる。 大切に御言葉を学ぶ事は、神様から恵みの御手をはっきりと自覚できるし、何度も聞い ているはずの御言葉が、本当の意味を持って心に入ってくるような気がする。

先日、日本に福音が伝わる歴史を学んだ時は、宗教改革当時のルターや、カルバンの働きまでが、 すべて今朝の私のためであったかのような、感激をもって聞く事ができるから、 その後の、礼拝の感激もひとしおだった。

青年達の指揮に合わせて歌う賛美も、H姉の奏楽も新鮮で、又「今日も礼拝に来れた事、有難うございます」と素直に神様の前に、祈れる事も嬉しい。

多恵子先生が、アメリカで留守の間のバイブルクラスでは、『聖霊の満たし』を学んだ。 最初、「M姉、一人でやってくれる?」と多恵子先生に言われた時は、 「えっ!!どうしよう、多恵子先生の代わりなんか出来ん!」と一瞬ひるんだが、「M姉しか、ここやった人いないんよ。」とあっさり言う多恵子先生に、「あぁ、そうよ。皆より一回早くここやっただけじゃもんね。」と妙な重圧も飛んで、パッと軽くなって、バイブルクラスに臨めた。

学び後、話し合った時、「御霊に満たされなさい」とあるように、聖霊の満たしは、神様の命令で 「歌いなさい」なら「はい、歌います」と言えても「御霊に満たされなさい」と言われると、 素直に従えない者が、確かに自分の内にいる、やはり、十字架を見上げなければ…との意見が出た。

自分の内に「聖霊様に聞き従えない者」が確かにいることを認め、だから切に、聖霊様に満たされたい、 と強く思う事は、やはりイエス様を知る者のみが経験する思いで、みんな以前からの古い性質と、 神様から頂いた新しい性質のせめぎ合いの中で、日々葛藤している事がよくわかった。皆、同じだと。

忙しくそれぞれの奉仕をしておられ、教会では、ほとんどすれ違うだけの兄弟姉妹との意見交換は、僅かな時間だったが貴重だった。

正直に言うと、一週間通して、礼拝に行きたい!と思ってる訳ではなく、自分で死守するぞ!と言う気合を入れなくていいから、すごく楽になった分、「聞き従えない者」も簡単に顔を出して、今バイトが与えられて、久しぶりに家を空けているので、家に居ればいたで、する事もあるし、という思いも少しして来て、「桜がきれいだから山にでも登ってみようか?」と主人に水を向けてしまった。

礼拝を守れる確証が無いのは、こんな自分の中にも問題があると思った。何も知らない主人に 「教会に行きたいと顔に書いてある」と言われ、絶対、書いてない(悲しいかな)ので微妙にドキッ!! としながら、今週はなんとか守れた。

でも、礼拝中に神様は語って下さり、又、又大 きく恵まれて帰って来れるから、何とも不思議だ。