表裏一体 |
皆が出払っている前島聖天は珍しく静まり返っていた。 時折紙を捲る音が微かに聞こえるのみ。 社にある文机の前に姿勢正しく座して、放三郎は幾重にも積み上げた文献を一つ一つ手に取っては、熱心に視線を走らせていた。 そうして書物と向き合って既に一刻は過ぎている。 不意に水面の揺れる音に気付いて、放三郎が視線を上げた。 出かけている前島聖天の主である元閥か、あるいはアビか。 宰蔵は朝から猿若町へ出かけていた。 あるいは。 「あれ?珍しいな。今日は誰も居ねーのか」 入口からひょいと顔を出したのは往壓だった。 社の中へ首を巡らせると、人気の無さに目を丸くする。 「………此処に居るであろう」 頭数から外された放三郎は、思いっきり不本意そうに顔を顰めた。 目の前に居るにも係わらず無視をされれば腹も立つ。 「あ〜…そうじゃなくて。小笠原さんが居るのに他の連中はいねーのか、って」 悪びれる風情もなく口端を上げる往壓を、放三郎はじっと睨め付けた。 「視線が泳いでおるぞ、竜導」 「気のせいだろ?」 「大体貴様は何しに来たのだ」 今のところ妖夷出現の兆しもなく、別段集まるよう指示した覚えはない、が。 「あ?暇だったからさ」 往壓はそう言って軽く笑うと、文机を挟んで放三郎の前へ腰を下ろす。 机に肘を付いて寄り掛かり、積み上げられている書物を手に取ると、パラパラと頁を捲った。 「相変わらず熱心だな…」 「知識を得て損になることはなかろう」 「そりゃーそうだけどな」 往壓は興味なさそうに書物を戻すと、頬杖を付いて放三郎を眺める。 「ずっと小笠原さん一人なのかい?」 「あぁ。朝此処へ来たときに元閥は居なかった故、昨夜から出かけて居るのではないか?アビはどうしているか分からんが、宰蔵は朝から猿若町へ出かけて居る」 「へぇ〜…」 放三郎が説明すると、往壓の口元に意味深な笑みが浮かんだ。 猛烈に厭な予感がする。 いきなり立ち上がった往壓は勝手に文机を持ち上げ、端へ片付けてしまった。 再び放三郎の前へ戻ってくると、目の前に向かい合うよう腰を落として胡座を掻く。 「小笠原さん、暇なんだけど」 「…私は忙しい」 「あー、すっげぇ暇。暇だな〜」 「………。」 目の前の往壓から視線を逸らせば、直ぐに躙り寄って移動してきた。 わざとらしく覗き込んでくる往壓に、放三郎は顔を顰める。 「退屈なんだよ、退屈」 「…退屈なら長屋へ帰るなり酒でも飲みに行けばよかろう」 「暇つぶしに此処へ来たのに、また帰ってどうするよ?それに酒飲む金も無ぇしな」 「竜導お前は…毎日どれだけ飲んでおるのだ」 「宵越しの金を持たねぇのが江戸っ子の心意気ってもんさ」 「戯れ言を申すな」 往壓の屁理屈を放三郎はキッパリ吐き捨て、また書物へ視線を戻した。 邪険にされた往壓は眉間へ皺を寄せる。 「なぁ…小笠原さん」 「うるさいぞ」 「構ってくれっ!」 「…竜導。子供のような駄々を捏ねるな」 「子供だろうが年寄りだろうが暇は暇」 「全く…仕方のない奴だ」 放三郎は書物を閉じると暫し考えた。 「そうだ。先日薬種問屋から購入した竜骨があるのだが、一緒に見るか?」 「…それを眺めて楽しいのはあんただけだろ」 往壓が額を押さえて興味なさそうに手を振る。 折角誘ったにも係わらず適当に断られ、放三郎が不機嫌そうに睨んだ。 学問に熱心なのは結構だが、放三郎は時折微妙に抜けたことを生真面目に言うので始末に困る。 しかも本人に自覚はない。 ある意味天真爛漫と言うべきか。 本人に指摘すれば厭そうに顔を顰めるだろうが、そういう部分は寧ろ気に入っていた。 往壓は微かに口元を綻ばせる。 「私は知らん!勝手にすれば良かろう」 憮然とした表情で吐き捨てると、放三郎はまた書物を開いた。 相手をしなければそのうち飽きて帰るだろうと思っていたのだが。 何故か往壓が居なくなる気配はない。 それでも暫くは無視を決め込むが、静かすぎると返って気になってきた。 書物の文字からほんの少しだけ視線を上げれば、思いっきり目が合ってしまう。 往壓は先程と変わらず胡座を崩した立て膝に肘を乗せ、じっと放三郎を眺めていた。 視線が合うと、往壓がニヤリと口端を上げる。 「あ〜…暇っ!と」 往壓は大きく身体を伸ばすとゴロリと床へ寝転がり、断りもせず勝手に放三郎の膝へ頭を乗せた。 「お…おいっ!竜導!」 「別にあんたが読んでいるのを邪魔してる訳じゃねーから良いだろ?」 微かに頬を赤らめ慌てる放三郎に、往壓は欠伸を漏らしながら膝へ懐く。 「退屈すぎて眠くならぁな」 「うるさいぞ、竜導」 「独り言だから気にすんなよ」 「………。」 放三郎は小さく咳払いすると、再び文字へ視線を落とした。 どうせ読んだところで頭に入らないことは分かっていたが、往壓に悟られるのも悔しい。 「…こんなことなら昨夜江戸元に誘われたとき付いて行きゃーよかったか」 「江戸元に?」 「独り言だから」 「………。」 往壓は放三郎の膝に頭を乗せたまま寝返り打って背中を向けた。 「昨夜は江戸元馴染みの花魁とこの引込が新造出しってんで、祝いの宴があるとか。アビも連れて行くって言ってたか…文字通り酒と女で潰れてんだろ、今頃」 可笑しそうに笑う往壓の耳を放三郎が引っ張る。 「イデッ!いたた…小笠原さん痛ぇよっ!」 「全く。妖夷の兆しも上からの下達も無いからいいようなものを…」 「たまに息抜きで羽目ぇ外すのも良いだろ?」 「貴様達は頻繁にだろうがっ!」 「まぁまぁ、いーじゃねぇか。心配しなくても俺は酒飲んで帰るだけで、女を買っちゃいねーよ」 「心配などしておらんっ!」 むきになって放三郎が怒鳴り返すと、往壓は肩を震わせ笑いを堪えた。 吉原へ行けば行ったで、不機嫌そうにあれこれ詮索してくる癖に。 全く素直になれない情人に小さく溜息を漏らすが。 往壓よりも若輩な己に対しての意地なんだろう。 「…竜導?」 膝枕に懐いたまま突然黙り込む往壓に、放三郎が声を掛けた。 「何だい?そいつ読むのに忙しいんだろ?」 「む…」 邪険にされた放三郎は眉間に皺を寄せ、書物を掲げ直す。 「あー…暇だなぁ」 「………。」 「何か面白い事はねぇかね…」 「………っ!」 コロリと寝返りを打った往壓から艶やかな上目遣いで見つめられ、放三郎は小さく鼓動を跳ね上げるが、気付かぬ振りで無視を決め込んだ。 頑なな放三郎に往壓は双眸へ笑みを浮かべると、突然腰に抱きつく。 「小笠原さーんっ!暇だあああぁぁっっ!!」 「貴様は何処に向かって叫んで居るのだっっ!!!」 股間に顔を埋めて叫ぶ往壓の頭へ思いっきり拳を落とした。 「痛えぇ〜〜〜っっ!!」 「莫迦者っ!暴れるな…っ!顔を擦り付けるなーーーっっ!!」 真っ赤な顔で放三郎が往壓の頭を掴むと。 「………おや?」 「〜〜〜〜〜っっ!?」 再び放三郎の拳が往壓の頭へめり込んだ。 「照れるこたぁねぇだろ?勃つぐらい」 「やかましい」 怒りも露わに憮然と腕を組んで睨んでくる放三郎に、往壓はやれやれと肩を竦める。 懲りる様子のない往壓に、放三郎は諦めて溜息を零した。 「竜導…貴様は何をしたいのだ」 「だから、さっきから構えって言ってんじゃねーか」 「先程申したであろう。私は今日中に此の書物を読みたいのだ」 「それじゃ俺が暇だろ」 膝を付き合わせて話したところで平行線は変わらない。 放三郎は暫し思案すると、徐に立ち上がった。 何をする気かと見つめる往壓の視線の先で、置いてある長持の中を漁り始める。 「小笠原さん…何してんだ?」 「確か此処へ入れておいたはずだが…おぉ、あったあった」 長持の蓋を閉めると、放三郎が手に小箱を持って戻ってきた。 往壓の前で膝を着くと、小箱を開いてみせる。 「………何だ?それは??」 「これは西洋の金子だ」 「随分小っちぇな。で?それをどうするんだい?」 「賭けようではないか」 「賭け?」 いきなり放三郎から提案された往壓は瞠目した。 金貨を掌へ乗せ、往壓の方へ差し出す。 「こちらが表。そしてこちらが裏になる」 「へぇ…」 「私とお前で表か裏かどちらかを賭けて、この金子を投げる。落ちたときに出た面で勝敗を決めるというのはどうだ?」 勝負は勝負でも将棋や囲碁と違い、その時の運次第。 往壓は面白そうに笑みを浮かべた。 「成る程ね…いいぜ、乗った。それで?小笠原さんはどっちにする?」 「そうだな…私は表で」 「じゃぁ俺は裏だ。もし俺が勝ったら?」 「お前の好きなように付き合ってやろう。但し…」 「よぉーしっ!じゃぁあんたが勝ったら俺のこと好きにしていいぞっ!」 「え?いや…違っ…そうではなくてだなっ!」 「貸しな。俺が投げる」 放三郎の手から往壓がさっさと金貨を取り上げると、焦って言い募ろうとするのをわざと遮る。 「竜導っ!」 「ほらよっと!」 往壓は指先で金貨を弾いた。 高く上がった金貨がスッと二人の間へ落ちてクルクルと回る。 裏か表か、どちらへ転ぶか。 金貨の動きが緩やかになり、そして。 「表、だな」 賭に勝ったはずの放三郎は喜びもせず、複雑な面持ちで目の前の情人を見つめた。 |
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