快楽の憂鬱



往壓は出窓へ腰掛け、眼下に広がる蓮池を眺めながら手酌を傾けていた。
清純な白色を浮かべる睡蓮がそこかしこで花開き、水辺で静かに浮かんでいる。
数多の清らかな花々の中に、ぽつりぽつりと。

それはまるで処女を散らす艶色の如く、艶やかな紅を吐く花弁。

秘めたる色は此の場所所以か。
止めどなく甘やかな声音が初夏の生温い気を震わせていた。
独り身で聞くには些か侘びしい。
盃の酒を一息に飲み干して窓の外に目を遣ると、見知った姿が足早に歩いてくるのが見えた。
往壓の頬が僅かに綻ぶ。
店の暖簾を潜る姿を目視した往壓はこれから起こる騒動を予感して、ふつふつと湧き上がる笑いを飲み込んだ。






「…竜導はどうした?今日は来ておらんのか?」

前島聖天へ現れた放三郎は辺りを見渡し、足りない頭数に首を傾げる。
別段呼び出している訳ではないが、最近は大概暇を持て余すと往壓は此処に居ることが多くなっていた。
今は妖夷の出現する兆しもなく、蛮社改所もほんの一時に過ぎないが至って穏やかだ。
元閥は銃火器の分解をして手入れをしていて、アビはその手伝いで火薬を練っている。
宰蔵はマスラオの修理から戻ってきた扇子の使い心地を確認するよう、からくりを弄っていたが。

「あ、そうだ。あいつからお頭へ言伝を頼まれてたんだっけ」

パチリと扇子を閉じた宰蔵が何かを思い出し、座している放三郎の前へ歩み寄った。
文机の前で書物を開こうとしていた放三郎の手が止まる。
「竜導から?」
「はい。お頭がお出かけになられた後に、私も猿若町へコレを受け取りに出向こうとお屋敷を出たところで竜導に出会しまして」
「それで?竜導は何と?」
「お頭と前島聖天で会ったら伝えて欲しいと。何か…どうしても急ぎお渡したい物があるから上野不忍池弁天島の『浮華屋』って茶屋へ来て欲しいって」
「不忍池の茶屋に?竜導が待っておると?」
「そのようです」
宰蔵の言葉に放三郎は腕を組んで暫し考え込んだ。

往壓が何故物を渡すのに此処ではなくわざわざ茶屋へ呼び出すのかが分からない。
急ぎというなら尚更前島聖天でも放三郎の屋敷でもいいはずだが。
しかも上役でもある自分を呼び出すとは、相変わらず無礼極まりない。
しかし。

「全く…仕様のない奴だ」

放三郎は深々と溜息を零すと、読みかけの書物を閉じて立ち上がった。
「お頭?」
「呼びつけられるのは腹立たしいが。竜導の元へ出かける。後は頼んだぞ」
「承知いたしました。お気を付けて」
社の階段を降りていく放三郎を見送って宰蔵が頭を下げるのと同時に、背後で思いっきり誰かが噴き出す。

「江戸元…どうしたんだ?」

突然肩を震わせて床へ突っ伏す元閥を、アビが驚いて注視した。
放三郎の気配が漸く遠のくと、元閥は堪えきれずに腹を抱えて大爆笑する。
「ひっ…い…あっはっはっはっ!お…可笑しっ!腹が…っ!捩れ…っ!」
「なっ!何だ江戸元!?何がそんなに可笑しいんだ??」
訳が分からず後ずさる宰蔵に叫ばれ、笑いすぎで涙を浮かべた元閥が漸く顔を上げた。
「さ…さいぞ…さ…ゆ…往壓さ…ぶっ!」
「お…おい!何を言ってるか分からないぞ?」
どうにも笑いが治まらない元閥の背中を、アビが呆れた顔でトントンと叩いている。
「江戸元、往壓さんがどうかしたのか?」
アビは元閥の言葉にならない切れ切れの声から、何とか往壓のことを言いたいのだけは聞き取った。
一頻り笑った元閥が漸く落ち着いて身体を起こすと、顔を強張らせて唖然とする宰蔵へ意味深に双眸を眇める。
「往壓さんは…お頭を弁天島の『浮華屋』で待ってるって?」
「そ…そうだ。念を押されたからな。間違いない」
「へぇ〜…往壓さんも随分と大胆なことをしなさる」
訳知り顔で元閥が面白そうに朱色の唇へ笑みを浮かべた。
アビと宰蔵は意味が分からず、顔を見合わせて眉を顰める。
「その茶屋がどうかしたのか?」
「ん?あぁ、不忍池はこの時期蓮飯が有名でねぇ…アビも今度連れてって上げようか?」
元閥はニッコリ微笑むと、指先でアビの頬を撫でた。
じっと見つめてくる元閥の瞳に厭な予感がして、アビは返事をせずに視線を泳がせる。
「蓮飯っ!?江戸元!私も食べたいっ!一緒に連れてってくれっ!」
「宰蔵さんは………お土産で」
「何でだっ!?」
「弁天島はねぇ…酸いも甘いも知り尽くした者しか受け容れてくれないんですよ」
「………そう言うことか」
元閥の含みを察したアビは、深々と溜息を吐いた。

そんな艶めかしい茶屋など、一つしか思い浮かばない。

「愉しそうだろう?」
「俺はいい」
「またまた。アビは奥ゆかしいねぇ」
「厭がってるんだっ!」
元閥は真っ青な顔で激しく首を振るアビを突っついてからかった。
一人取り残された宰蔵は訳が分からず首を捻る。
「何だ?二人して…私には全然分からないぞ?」
「そうさねぇ…宰蔵さんも追々お頭ぐらいの年頃になれば…まぁ相手に寄りけり、ですがね」
「???」
謎掛けのような元閥の言葉に宰蔵が頬を膨らませてふて腐れた。
何だかはぐらかされている気がしてならない。
「だからっ!ただの茶屋だろう?何で私が行ってはならないんだっ!?」
諦め悪く食い下がる宰蔵に元閥はそれ以上何も言わず、ただ曖昧な笑みを浮かべるだけ。
騒がしい二人をぼんやり眺めていたアビは。

「ん?そう言えば…何でそんな所で往壓さんはお頭を待ってるんだ??」

アビが何気なく呟くと。
「忍ぶ恋路は〜さて、はかなさよ〜…ってさ。気付かなかったのかい?」
「お頭と往壓さんが…」
「お頭と竜導がどうかしたのか?」
「あぁ、お頭と往壓さんがすれ違いにならなきゃいいけど。ってことですよ〜」
「…そうか?」
じっとり訝しげに見上げてくる宰蔵に、元閥は適当に誤魔化し宥める。

「…お頭、大変そうだな」

アビは社の外へ視線を飛ばして、往壓に振り回される放三郎の気苦労に同情した。






放三郎が暖簾をくぐって時を待たず。
凄まじい勢いで階段を駆け上がってくる足音が聞こえてくる。
往壓は笑いを噛み殺して出窓から腰を上げると、部屋の襖の前で立った。

「りゅ〜うぅ〜どぉ〜っ!貴様っ!!」

スパン!と勢いよく襖が開けられ、僅かに頬を赤らめた放三郎が憤慨して飛び込んできた、が。
それと同時に横から伸びてきた掌に口を塞がれる。
「うううぅぅうううーっ!?」
「はいはい、小笠原さん落ち着けって。こんな場所で悪目立ちしたくねぇだろ?」
「う…っ」
往壓に諭され途端に大人しくなった放三郎をそのまま部屋の中へ引きずり込んだ。
適当に足で襖を閉めると、放三郎の口を開放する。
「おい、どう言うつもりだ?」
「あ?どうって?」
出窓に座り直した往壓が口元に笑みを浮かべた。
「だから…何故このような場所に呼び出したのだっ!」
「しっ!あんまり騒ぐと店の者が乗り込んでくるぜ」
「………。」
放三郎は往壓を睨みながらも口を噤んだ。
「まぁ、座わんなよ」
往壓が勧めると、放三郎が忌々しげに舌打ちして腰を落とす。
部屋はさほど広くなかった。
注文したらしい膳に酒の入った銚子が5本乗っているが、それらは既に空だろう。
視線だけで横を見遣って、放三郎は額を押さえた。
「竜導、一体どういうつもりだ。宰蔵の言伝で茶屋に来いと言うからわざわざ出向いてやれば…」
「茶屋だろ?」
「茶屋は茶屋でも『出会い茶屋』ではないかっ!」
部屋には既に一組の床が用意されている。

表向きは不忍池名物の蓮飯を食べさせる茶屋だが、実質は人目を忍んで情人達が落ち合う場所。

特に不忍池の弁天島には出会い茶屋が多く集まり店を出していた。
こういう手合いの店は何かと揉め事を嫌う。
それ故に招き入れる客層も選んで、若年層の連れ合いは断る念の入れ様だ。
当然店の信用として客の秘密は一切口外しない。
客同士がはち合わせても知らぬ存ぜぬが暗黙の了解。

「此処にいる連中は見つかりゃ姦通罪だ。誰も彼も我関せず。誰からも見咎められない場所としては打って付けだろ?」
「それは…そうだが…いやっ!そう言う問題ではっ!」
「あんたが気にするほど周りは見ちゃいねぇよ。テメェらが愉しむのに忙しいからな」
ククッと可笑しそうに喉で笑う往壓を、放三郎は溜息混じりで見遣る。

放三郎にとって気になるのは周りではなく、目の前で寛いでいる男だ。

何となく居心地悪そうに身体を揺らして袴の裾を直していると。
「とりあえず、これ」
いきなり放三郎の目の前へ往壓が何かを投げて寄越した。
慌てて受け取ると、手の中へ視線を落とす。

渡されたのは八寸四方の金唐革で作られた巾着袋。
革の表面には見たことのない繊細な花の刺繍が施されていた。
どうやら中に箱が入っているらしい。

放三郎が顔を上げると、往壓は開けるよう視線で即した。

「これ…はっ!」
「気に入ったかい?」

袋の中に入っていた物は、ビードロの容器に入った美しい蝶の標本だった。
今までみたこともない光り輝く碧色の羽根が光に反射して虹を吐いている。
「竜導、一体これをどうしたのだ?」
「この前あんたが山崎屋で蘭学書を読み漁ってたときに思い出したんだよ。随分昔、博打の形にソイツを渡されて泣き付かれてな。確か…カピタンとも商売してた大店のぼんくら息子が博打に嵌った挙げ句にイカサマで身包みごと巻き上げられたって訳だ」
「竜導…お前まさか?」
放三郎が不審気に眉を顰めると、往壓は心外だと言わんばかりに肩を竦めた。
「おいおい、俺はイカサマなんかしねぇぞ。俺は俺の取り分を貰っただけだ。まぁ、そんなモンでも売りゃー金になるかって貰ったんだが、すっかり忘れちまってた。今更思い出したところでこのご時世だ。売るに売れねーし。舶来物だろうし小笠原さんなら貰ってくれるんじゃねーかと思ってさ」
「いいのか?私が貰っても?」
「どうせ俺が持っててもまたそのうち忘れてどっかにやっちまうよ。貰ってくれよ」
「分かった…有り難く頂いておく」
異国の美しい蝶の標本を手に入れて嬉しそうに瞳を輝かせる放三郎は、往壓が艶やかな笑みを浮かべているのに気付かない。

「あ、タダじゃやらねぇよ?」
「は?」

驚いて目を丸くする放三郎に、往壓は楽しそうに口端を上げた。
貰えと言ったくせに。
「分かった。幾ら欲しいのだ」
放三郎が憮然とした表情で吐き捨てると往壓が首を傾げる。
「金をくれなんて言ってねぇが?」
「しかしタダではないと…っ!」
往壓を睨み付けた放三郎の鼓動が一気に跳ね上がった。

出窓へ腰掛けた往壓は壁に凭れ、片脚を上げた着物の裾は大きく乱れて内腿まではだけている。
思わず放三郎の喉が小さく鳴った。

「あんたから見返りが欲しいってことなんだけどなぁ…」
「竜導…っ」

欲情を孕んだ双眸が放三郎を捕らえて誘う。

「…小笠原さん」

熱を帯びた掠れた声音に惹き寄せられ、放三郎は淫猥な笑みを浮かべる情人を抱き締めた。



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