Wonderfull Life vol.1

「今日は珍しく出火報が入らないなぁ」
ま、結構なことだとみんなで頷く。
激務で有名な鯨台出張所は、火災現場から連続出場などザラにある。
その日は朝から一度も出場がかからず、各自がそれぞれ溜め込んだ内業整理に勤しんでいた。
甘粕も先日確認してきた水理台帳の整理をこなしていく。
「おーい、甘粕にお客さんだ〜」
先輩が廊下から顔を覗かせ声を掛けてくる。
「…オレに、ですか?」
わざわざ出張所まで訊ねてくる客に覚えが無く、甘粕は不思議そうに首を傾げた。
廊下を見ると声を掛けた先輩所員に三十代後半ぐらいの女性が何度も頭を下げているのが見えた。
その傍らには小学校後半ぐらいの男の子が居る。
「こちらに甘粕さんはいらっしゃいますか?」
子供を伴って女性が声を掛けてきた。
「甘粕は私ですけども…」
甘粕は自分の席から女性の方へと進み出る。
「あなたが甘粕さんですか。先日はこの子が…うちの息子が溺れているところを助けて頂いたそうで、本当にありがとうございました」
目の前の女性が深々と頭を下げた。
傍らの子供はじーっと甘粕を見上げている。
「あー、あの時の!元気になったようで、良かったですね」
甘粕は子供と母親に向かってニッコリと微笑んだ。
「本当に…川の近くは危ないから近寄らないように言っていたんですけど、全くこの子はっ…甘粕さんが通りかからなかったら今頃は…」
母親は感極まったのか、涙声になって深々と何度も頭を下げる。
「そんな…オレは当然のことをしただけですから、気になさらないで下さい」
甘粕は慌てて母親に頭を上げてもらった。
「この子もすぐに応急処置をして頂いたおかげで、身体の異常もなくすぐに退院できまして…あ、これ大した物ではないんですけど、休憩の時にでも皆さんで召し上がって下さい」
手にしていた包みを甘粕へと差し出した。
「わざわざご丁寧にありがとうございます」
甘粕は恐縮しながら包みを受け取る。
「ほらっ、大吾も消防士さんに御礼をいいなさい!」
母親の言葉に甘粕は子供の方へと視線を動かした。
先ほどから子供は大きな目でじっと甘粕を見上げている。
『…犬っころみたいだなぁ、デッケー目』
助けたときに顔をよく見ていなかった甘粕は、改めて子供を眺めてみた。
くせっ毛なのか、黒い髪がぴょこぴょこあっちこっち跳ねている。
黒くて大きな目はかわいらしいが、意志の強そうな眉や口元がどちらかと言うとやんちゃな印象を与えていた。
その子供が突然甘粕の腕をギュッと掴んできた。
「消防士さん、あまかすっていうの?」
目をキラキラ輝かせながら一生懸命甘粕を見上げた。
「コラッ、大吾!甘粕さんでしょっ!!」
母親が慌てて子供を叱りつける。
しかし子供の方は全く母親の声が耳に入ってないようだ。
「ははは…いいですよ」
甘粕も子供の言うことなので、さほど気にしてはいない。
子供の方は一生懸命甘粕を見上げて、腕を掴む手に力が入る。
「あのなっ!お願いがあるんだ、おれ」
真剣な顔で甘粕を見上げた。
「お願い?何かな…オレにできることなら」
甘粕はしゃがみ込んで子供と視線を合わせる。
すると子供は甘粕の肩の方へ手を伸ばし掴んだ。
「あの…えっとぉ…」
子供はポッと顔を朱色に染めモジモジし始める。
「…???」
いきなり自分を見て恥ずかしがっている子供に、訳が分からず甘粕は首を捻った。
「あ、あのね…おれ、朝比奈大吾っていうの」
突然何を思ったのか子供は自己紹介する。
「大吾くんか…それでお願いって何かなー?」
甘粕はにこやかに微笑んで先を即した。
側で母親はハラハラしながら我が子の言動を見守っている。
子供は顔を真っ赤にして俯いて、何かを躊躇している様だ。
しかし意を決して顔を上げ、甘粕を真っ直ぐに見つめた。

「あのね!あまかす、おれのお嫁さんになってっ!!」
「……は?」

しーん…。

突拍子もない爆弾発言に一気に室内が凍り付く。
言われた甘粕もまさしく目が点になって固まっていた。
そしてしばしの静寂の後、

どどっ!

室内が爆笑の渦に飲み込まれ、うって変わって賑やかになった。
「わっはっはっはっ!甘粕すごいなぁ〜、ボウズにプロポーズされたじゃねーか!」
「甘粕〜、結婚式には呼んでくれよ〜!祝辞は俺に任せろっ!!」
あちこちから先輩所員のからかう声が飛び交う。
「大吾っ!あんた何言ってんのっ!?」
母親の方はあまりの恥ずかしさで、卒倒寸前だ。
しかし、子供の瞳は至って真剣に甘粕を見つめる。
『…落ち着け〜、子供の言うコトなんだからっ』
甘粕は頬を引きつらせながら、ポンッと子供の頭に手を乗せた。
「あのな…、オレは男だからお嫁には行けねーんだよ」
極力子供を傷つけないように、甘粕は穏やかな口調で諭そうと試みる。
「そうなの?」
甘粕から否定の言葉を訊き、哀しそうな表情に歪んだ。
子供は口をへの字にして、泣くのを我慢しながら甘粕を見つめ返す。
甘粕はよしよしと子供の頭を撫でた。
「そう、オレはお嫁さんを貰う方だから行けねーんだ。ごめんな」
多少の罪悪感を感じながら、甘粕は子供に謝る。
きっと子供だから自分を助けた相手に対して、抱いた好意の捉え方を間違ってしまっているだけなんだろう。
しかし、甘粕の捉え方こそが間違っていた。

「わかったよぅ…んじゃ、おれがお嫁に行くから貰ってくれる?」
「……は??」

しーん…。

またもや子供の爆弾発言に室内が異常なほど静まりかえる。
部屋には10人ほど人がいるのにも係わらず、それこそ物音一つしない。
このまま時間が凍り付くんじゃないかと思われた瞬間、

どどどっ!!

室内に先ほどよりも更に爆笑の嵐が吹き荒れた。
「わっはっはっ!甘粕っ、よかったなぁ〜カワイイ若い嫁さんが貰えてっ!」
「ホントホント、嫁さん貰えねーヤツラが一杯居るってーのになぁ〜!」
さすがの甘粕も脱力して床に突っ伏している。
『なんなんだ、このガキはっ!何でオレがこんな目に…』
ズキズキとこめかみが引きつるのを抑えて、ガックリと途方に暮れた。
しばらくはこのネタで所員全員にからかわれるのが目に見えている。
「大吾っ!いい加減にしなさいっっ!!」
母親は真っ赤になりながら子供の頭を思いっきり叩いた。
「いってーっ!母ちゃん、何すんだよぉ〜っっ!」
子供は頭を押さえ、涙目になって母親を見上げる。
「あんたがバカなことばっか言ってるからでしょっ!」
唇を尖らせて拗ねる子供の頬をぎゅぅっと抓った。
「いてててっ…、何がだよっ!おれバカなことなんか言ってないもんっ!」
母親の手を振り払い、子供は目の前の甘粕にしがみつく。
甘粕の方も脱力するあまり、しがみつかれるままになった。
「バカなことに決まってるでしょ!子供は結婚なんかできないのっ!」
『いや、根本的に間違ってます…まずヤロー同士は結婚できません』
などと甘粕は心の中で不毛なツッコミを入れてみる。
「今じゃなくてもいいもんっ!だって16歳になったら出来るんだろ?!」
『だからさぁ〜、それは女の場合なんだっつーの!』
と、ますます甘粕は頭を抱え込んだ。
突然母親と言い合っていた子供がクルッと甘粕を振り返る。
「あまかす…おれのことキライ?」
大きな瞳を潤ませてじっと甘粕を見つめた。

どきっ。

真摯な目で見つめる子供の表情に一瞬心臓が小さく跳ねる。
『待て待て待てーっ!何をときめいてるんだ、オレッ!!』
甘粕は不可解な感情に内心大きく動揺した。
どうにか表情には出さずに済んだのだが。
「ほら、大吾ってば、甘粕さんが困ってるでしょ?」
母親が慌てて子供を宥めに入る。
「だって…」
子供がポロポロと涙を零しながらぎゅうっと甘粕にしがみつく。
『だーっ!落ち着けってばオレッ!!』
気のせいではなくどんどんと心拍数が上がってきたようだ。
甘粕の頭の中ではパニックを起こし始める。
自分の心なのに制御できないなんて今まで一度もなかった。
『何なんだっ!どーなってるんだよ〜!!』
一人訳の分からぬ感情で葛藤している甘粕に、とどめの爆弾が落とされる。

「だっておれ…初めてチュウした人と絶対結婚するって決めてたんだもんっ!」

子供は大きな声で宣言すると、更にきつく甘粕にしがみついた。
その場の大人達の視線が一斉に甘粕に集中する。
静まりかえった一種異様な空気の中で、子供のぐずる鳴き声だけが聞こえていた。
無言のままの視線が突き刺さるように痛い。
「甘粕…それは一体どーいうことなんだ?」
その重たい空気を破る様に、甘粕の側に居た先輩が恐る恐る口を開いた。
子供にしがみつかれたまま甘粕が首だけを向ける。
「…人工呼吸です」
甘粕の簡潔な一言にその場の大人達がはっと我に返った。
「そっ…そーだよなぁ、溺れたんだもんな!」
「あー、ビックリした、俺はてっきり…」
「…てっきり何ですか?」
甘粕の不機嫌な声が間髪入れずに返される。
周りの人間も顔を見合わせ、誤魔化すように大袈裟なほど笑い合った。
「一体オレのこと何だと思ってるんですか…」
先輩達のあんまりな態度にガックリと項垂れる。
側にいた子供の母親はひたすら恐縮して、我が子の言動を何度も謝った。
「ほら、皆さんお仕事があるんだから帰りましょう」
甘粕にすり寄って懐く子供を母親は引き剥がしにかかる。
「やだっ!あまかすと一緒にいるぅ〜!!」
子供は泣きながら駄々を捏ね、甘粕の首にしがみついて離れない。
母親と子供の攻防をボンヤリと眺めながら、甘粕は大きく溜息をついた。
自分の首に回った子供の腕を掴むと、ゆっくりと引き剥がす。
暴れていた子供の動きがピタッと止まった。
「ごめんな、オレ仕事があるから」
どうにかムリヤリ笑顔を作り、甘粕は子供の頭を撫でた。
子供が目を大きく見開いて甘粕を見つめ返す。
大きな黒い瞳からはポロポロと涙がいくつもこぼれ落ちた。
その表情は泣き叫ばれるよりも返って悲愴で痛々しい。
「ほら、大吾帰りましょう」
母親は子供の手を取ると、甘粕に頭を下げた。
甘粕も返すように慌てて会釈する。
母親に強く手を引かれながら、子供は寂しげな表情で何度も甘粕を振り返った。
子供の顔を見ながら甘粕は軽く手を振る。
そんな甘粕の姿に顔を歪ませ、涙を零しながら子供は帰っていった。
甘粕に言い知れぬ罪悪感だけを残して。
『もう会うこともないけどな…』
二人の姿が扉から消えても暫く甘粕はその場から動けなかった。