Wonderfull Life vol.1

大騒動からひと月が経った。
その間ひたすら激務続きで、甘粕の記憶からもあの事件は次第に薄れていった様だ。
冬の火災期。
1日に連続して出場がかかり、特に夜中などの出場では仮眠すら満足に取れない。
不眠不休で出場し、現場で朝日を拝むことになるのも、決して珍しいことではなかった。
漸く交代して勤務が終わると、社会人になってから一人暮らしを始めた自宅アパートへと真っ直ぐ帰る。
部屋に辿り着くと疲労困憊の身体を引きずって、着替えもロクにせず布団に潜り込む様な生活が続いていた。
日々が仕事と疲労とで手一杯になっている。
そんな忙殺された時でも、ふと通勤や防火指導に行く途中で小学生を見かけると、忘れかけていた泣き顔が脳裏に鮮やかに浮かんだ。
『あのガキ…もうオレのこと思い出すこともねーだろーなぁ』
ぼんやりそう思う自分の胸が微かに痛みを覚えるのには苦笑するしかない。
『もうどーでもいいことだ…オレもそのうち思い出しもしねーだろ』
甘粕は頭を降ると気持ちを仕事へと切り替えた。
そんな忙しい生活も暫く続けば自然と身体が慣れてくる。
仮眠を取れるタイミングも覚えて、以前ほど酷く疲れを溜め込むことも無くなってきた。
『やっぱ基本は自分の身体と体力だよな』
甘粕は久しぶりに休んでいたロードワークを再開することにする。
朝方出張所から戻って一眠りし、昼過ぎに起きて軽く食事を取った。
小休止ついでに簡単に掃除を済ませてから、トレーニング用のジャージに着替えた。
外へ出ると軽くストレッチをして、時計のストップウォッチを設定する。
『暫くやってねーからペース配分考えねーと』
甘粕はスタートボタンを押すと軽い足取りで走り始めた。




今日も大吾はそわそわと落ち着かない様子で帰りの号令を待っていた。
カバンを膝の上に置き、いつでも走って教室を出られる体勢だ。
教師の話が終わり、日直が号令をかける。
「きりーつ、れいっ…」
号令が終わる前に大吾は猛ダッシュで扉から出ていった。
行き先は先日川で溺れた場所、千国川の土手。
あの後大吾はその時一緒にいた友人達に、
『あの消防士さん、マラソンしてたみたいだから、何かトレーニングしてたんじゃないかなぁ。前にもあそこの土手で走ってるの何回か見たことあるよ』
と教えて貰ったのだ。
その話を訊いて以来、毎日大吾は土手へと通っている。
大騒動の日からずっと大吾は甘粕のことばかり想っていた。
会いたくても甘粕の勤務する鯨台出張所は、大吾の自宅から行くには千国川を越えた向こう側なので結構離れている。
それに以前は母親に連れて行って貰ったので、あまり道や場所を覚えていなかったのだ。
溺れた川に日参してるのがバレると母親に怒られるので、こっそり内緒で大吾は通っている。
大吾は息を切らし土手に辿り着くと、すっかり常連になった遊歩道に設置してあるベンチに腰掛けた。
「今日は来るかなぁ…」
寒さで冷たくなった手に息を吹きかけながら、大吾は周りを見渡す。
ちょうど学生の下校時間帯なので、遊歩道を通る人も多くて賑やかだ。
大吾は学生服の間に見える私服姿をした人達を、どきどきしながら確認する。
それでも大吾の待ちわびる大好きな人はいなかった。
冬の1日は早く、陽が西の空に傾き始める。
次第に周りは夕闇の色が混ざり出した。
陽が落ちて暗くなる前に帰らないと母親に怒られてしまう。
「帰んなきゃ…」
すっかり意気消沈して大吾は立ち上がろうとした。
それでも『もしかしたら』と淡い期待をして自然と腰が重くなる。
先ほどまで賑やかだった通りも、今ではたまに犬の散歩で通りがかる人がいるぐらいだ。
大吾が立ち去るのを躊躇しているうちに夕暮れのオレンジ色が薄れてくる。
空から屋根の連なる向こう側に沈む夕陽をじっと眺めていると、無意識に涙が滲んできた。
「あまかす…会いたいよぉ…っ」
俯いた大吾の瞳から幾粒もの涙がポタポタと零れ落ち、地面に吸い込まれた。
切なさを振り切るように立ち上がると、ぼんやりと遊歩道の先を見つめる。
まだよく分からないが、人が向こうから走ってくるのが見えた。
ドキンと大吾の心臓が高鳴る。
段々と近づいて見えてくると、次第に鼓動が早くなっていくのが分かる。
そしてその姿をハッキリ捕らえると、大吾の瞳が大きく見開いた。
その瞳からは後から後から涙が溢れてくる。
「あまかすーっっ!!」
大吾は泣きながら漸く会えた想い人に向かって走っていった。




甘粕は千国川の土手に差し掛かると、少しペースを落とした。
ちらっと横の川に目をやると、甘粕の脳裏にあの泣き顔が浮かぶ。
『ったく…いい加減参るよな』
頭を振って残像を打ち払うと、甘粕は正面へと目を向けた。
しばらく走ると前方に立ち竦む子供の姿が見えてくる。
『…まさか、な』
自分の考えに苦笑いしながら徐々に近づいていくと、その子供は自分の名前を叫んで真っ直ぐに走ってきた。
「え…ええっ!?」
驚いて立ち止まると、先程思い出した時と同じ泣き顔の張本人が、甘粕の胸に飛び込んだ。
「うえぇぇぇん!あまかすぅ〜、会いたかったよぉっ!!」
わーわーと号泣しながら、大吾は甘粕にきつく抱きつく。
突然の出来事に甘粕の思考回路は完全に止まった。
泣き喚く子供にしがみつかれたまま、甘粕は放心状態で固まっている。
「おれっ…すっごく会いたかったんだからなっ!」
ぐすんと鼻を啜りながら甘粕を見上げると、ぼーっと大吾を見下ろしていた。
しかしその視線は目の前の大吾を通り越して、心ここにあらずといった感じだ。
大吾はせっかく再会できた恋い焦がれる相手が自分を見ていないのが分かり、ものすごく許せなかった。
むっと唇を尖らせると、立ち竦む甘粕の首に背伸びして腕を回し、強引に自分の方へと引き寄せる。
甘粕へ顔を寄せると、ちょこんと唇をくっつけた。
柔らかい唇への感触に、甘粕は驚いて目を見開く。
「えへへ…2回目だぁ」
大吾はニコニコと嬉しそうに笑うと甘粕の首にしがみついた。
「な…何してんだーっっ!!」
ようやく我に返ると甘粕は真っ赤な顔で、ぶら下がる大吾を怒鳴りつける。
「なにって、チュウしたんだけど?」
不思議そうに首を傾げて大吾は甘粕を見つめた。
「そうじゃなくて…何でオレにするのかって訊いたんだよ」
眉間に皺を寄せながら、甘粕が不機嫌に大吾を睨む。
そんな甘粕の様子も全く気にせずニッコリ微笑むと、またもや不意打ちで甘粕にチュッと口付けた。
「ーーーーっっ!!?」
「そんなの…あまかすが好きだからに決まってるじゃん!」
大吾は甘粕の瞳を覗き込みながらきっぱり言い切る。
大吾の告白に甘粕は唖然とした。
まじまじと甘粕に見つめられて恥ずかしくなったのか大吾は頬を染め、照れながら甘粕の肩へと顔を伏せる。
『いーち、にー、さーん…とりあえず落ち着けぇ〜、オレッ!』
頭の中で必死に深呼吸をして、どーにか平静を取り戻そうと試みた。
大吾と言えば嬉しそうにくすくす笑いながら甘粕にしがみついたままだ。
甘粕もどうにか気持ちが落ち着いてきて、漸く重大なことに気付く。
「お前っ!あんな目にあったっていうのにまだこんなトコに来てやがったのかーっ!!」
甘粕の突然の剣幕に大吾は首を竦める。
「だってぇ…」
大吾は唇を尖らせ、拗ねた様に甘粕を見つめた。
「だってもクソもねーっ!こんなとこに来てたらお母さんに心配かけることぐれー、てめぇでも分かるだろうがっ!」
甘粕にもっともな説教をされ、大吾はしゅんと下を向く。
あまりの落ち込みように今度は甘粕の方が少し焦りだした。
「こんな暗くなるまで…何でこんなトコに居たんだ?」
普通はあんな目にあったら暫くは恐怖心が蘇って近付きたくもないはずだ。

それなのにどうして?
何でコイツはここに居るんだ?

甘粕には不可解で仕方ない。
大吾の言葉を待っていると、俯いたまま甘粕の胸にしがみついてきた。
「だってっ…おれ、どぉしてもあまかすに会いたかったからっ…ここで待ってるしか…初めて会った場所でずっと待ってることしか、あまかすに会える方法知らなかったんだもっ…」
大吾は込み上げる嗚咽を堪えながら必死に甘粕へ訴えた。
甘粕は自分の胸に縋り、泣き続ける大吾に対して奇妙な感情が沸いてくる。

痛い様な、愛しい様な、戸惑う様な、嬉しい様な、…相反する想いが複雑に混ざり合う不思議な感覚。

甘粕の腕が自然と上がり、腕の中に収まる大吾を抱き締めた。
「あまかす…?」
一瞬目をまん丸く見開いて大吾は驚いたが、すぐにそれは幸せそうな笑顔へと変わる。
「…風邪ひくつもりかよ、こんなに冷えちまって」
甘粕が不機嫌そうにぼやいた。
大吾は居心地良さそうに甘粕の胸へと擦り寄る。
「へーきだよ、あまかすあったかいし…何かいい匂いする」
大吾の言葉に甘粕は目を見開いた。
「あ?オレなんもつけてねーけど…走ってたから汗クセーだろ?」
くすくすと大吾が笑う。
「でもあまかすの匂いだからへーきだよ」
甘える様に甘粕の胸に鼻を押しつけた。
「タコッ!んなもん嗅いでんじゃねーよ」
呆れかえって甘粕は大吾の頭を小突く。
それでも笑い続ける大吾に甘粕は苦笑し、ふと周りを見渡した。
「ったく…すっかり陽が暮れちまったじゃねーか」
冬の短い一日。
まだ6時前だったが、辺りはすっかり薄闇に包まれていた。
「仕方ねーな、おいテメェん家まで送っていってやるから」
甘粕は未だ居心地良さ気に自分の腕の中に収まる大吾を見下ろす。
しかし大吾の方は不満そうに頬を膨らませ、甘粕をじーっと見上げていた。
「…何だよ?」
訳が分からず甘粕は眉を顰める。
『人が優しく言ってやってるのに、何拗ねてやがんだ?』
甘粕は膨らんだ大吾の頬をぷにっと引っ張った。
「いひゃいぃ〜、はなへよぉ〜」
大吾が嫌そうに首を振るので甘粕は頬から指を離す。
離した途端に大吾は更にぷぅっと頬を膨らませた。
「テメェじゃな〜い〜!大吾だもんっ!!」
大吾はただ甘粕に名前を呼んで貰えなくて拗ねてた様だ。
単純な理由にすっかり呆れながら、甘粕は一つ溜息をつく。
「…わーったよ、家まで送ってやるよ、大吾」
大吾は甘粕に名前を呼んで貰え、幸せそうに満面の笑みを浮かべた。
その笑顔にまたもや訳の分からない感情が溢れそうになり、甘粕は誤魔化すようにすたすたと歩き始める。
「あ、待てよぉ!あまかす〜」
慌てて大吾は甘粕の後を追った。
大吾が追いつくと甘粕は大吾に合わせて歩調を緩める。
甘粕のさりげない所作に大吾は嬉しそうに微笑んだ。
暫く特別な言葉も交わさずに2人並んで遊歩道を歩く。
大吾はというとニコニコしながら甘粕の顔を見上げていた。
「おい、ちゃんと前見て歩け。すっ転ぶぞ」
ちらっと目をやり、甘粕がそっけなく忠告する。
甘粕と目が合うと大吾は頬を紅潮させ、照れたように俯いた。
『あんだけヤラかしといて、なぁに今更照れてんだか…』
大吾の様子を眺めながら、甘粕は内心で苦笑する。
俯きながらトコトコと甘粕の横を歩いていた大吾が、ふと何かを思いついたように甘粕を見上げた。
「…何だ?」
甘粕が声をかけると、大吾は何かを言いた気に口を開く。
しかし戸惑っているのか、その言葉は声にならない。
「おい、何か言いてーことがあんならハッキリ言え」
甘粕は大吾に向き直って歩みを止めた。
大吾は逡巡するように俯いていたが、意を決して甘粕を見上げる。
「あのさっ…手ぇ、繋いでもいい?」
甘粕が驚いてまじまじと大吾を見つめる。
『抱きついたりキスしたり勝手にしてくるクセに、何で手ぇ繋ぐのにわざわざ真剣な顔で訊いてくるんだ?わっかんねー奴だな』
かと言ってどーしたものかと、甘粕は考える。
何も答えない甘粕に大吾は哀しくなって俯く。
「あ…別に…ヤならいいんだ…ごめん…」
最後の方は消え入りそうな声で大吾は謝った。
何も言ってくれない甘粕に、大吾の不安はどんどん膨れあがる。
無理を言って甘粕に嫌われたんじゃないかと、大吾は泣きたくなった。
大吾の様子に甘粕は小さく溜息をつく。
「…ほら」
俯いた大吾の目の前に甘粕は右手を差し出した。
大吾は弾かれたように顔を上げ、甘粕の顔と掌を交互に見る。
「何だよ、繋がねーのかよ」
機嫌の悪そうな甘粕の声に、大吾は首をぶんぶんと振った。
「やだっ!つなぐもんっ!!」
大吾はドキドキしながら差し出された甘粕の手をそっと掴んだ。
「あまかすの手って大きいな…それにあったかい」
嬉しそうに大吾は甘粕を見上げた。
「そりゃー、大人だからな」
甘粕は大吾の手をぎゅっと握り返すと、ゆっくりと遊歩道を歩き始めた。
「そんじゃさ、おれも大人になったらあまかすぐらいでっかくなれるの?」
目を輝かせながら大吾は甘粕に尋ねる。
大吾の顔を見ながら甘粕は少し考えてみた。
「そうだなぁ…まぁ遺伝とかもあるし。でも大吾は標準より手も足も大きいみたいだから、割とデカくなるんじゃねーの?」
甘粕はとりあえず一般論を言ってみる。
「ほんと?そんじゃおれ、あまかすよりもでっかくなるかなぁ〜」
大吾は笑いながら甘粕を覗き込む。
「あ?何だと?」
不機嫌に甘粕の眉が吊り上がった。
「どーせならあまかすよりでっかくなりたいなーって」
大吾は甘粕の横でぴょんぴょんと跳ねてみせる。
「ざけんな、オレだって標準よりは大分デカいんだよ。それにオレよりデカい嫁さんなんてぜってーヤダね…っ!?」
甘粕は自分の失言にはっと気付き口を継ぐんだ。
『チョット待てっ!オレ今何を言って…』
無意識について出た自分の言葉にすっかり動揺して、いやな汗が額を伝う。
恐る恐る大吾の方を伺うと、驚きで大きな目を更に見開いて呆然と甘粕を見上げていた。
ひたと目が合うと、嬉しそうに満面の笑みを浮かべて甘粕の腕にしがみついてきた。
「おいっ!何しがみついてんだっ!?」
甘粕が慌てて大吾を引き離そうとする。
「そんじゃ、おれあまかすよりちょっと小さくってもいーや」
大吾は甘粕の腕に甘えるように懐いた。
「そしたらあまかすもらってくれるんだろ?」
大吾は幸せそうにニッコリと微笑む。
「あっ、あれはっ…ものの例えだっ!」
相当動揺しているらしく、甘粕の受け答えも意味不明だ。
それから甘粕が何を言おうと大吾の耳には入らないらしく、上機嫌で繋いだ甘粕の手を大きく振りながら歩いた。
嬉しそうな大吾を見ていると、ムキに言い訳するのもバカらしくなる。
『ま、そのうちイヤでも分かるようになるんだからいっか』
甘粕は大きく溜息をつくと開き直った。
「おい、そんで大吾の家はどっちなんだよ?」
肝心の送り先を本人に確認する。
「えっとねぇ…あっちのほう!」
大吾は遠くにボンヤリと見える住宅街の方向を指さした。
「…めだかヶ浜の方か?」
甘粕が目を丸くして大吾を見る。
「うん、そうだよ?」
甘粕の驚いている理由が分からず、大吾は首を傾げた。
何か思案しているように甘粕は眉を顰める。
「あまかす?どーしたの??」
大吾が心配そうに甘粕を見上げた。
「あ、何でもねーよ。んじゃ、行くか」
大吾の手を握り直すと甘粕は歩き出した。