冬の風物詩   佐野田 紫sama
 東京都・池袋。
 午後7時の帰宅ラッシュに辟易しつつ、男は放り出されるように西部池袋口から出て来た。
 男の名は直江信綱。知る人ぞしる上杉夜叉衆の一員である。
 ともあれ乗り換えもせずに、すんなり池袋に居を構えるなどとは東京に住む者にとっては、羨ましいことほかならない。
 それでいて顔をほころばせながらそろそろ華やいできた繁華街をものともせず直進する彼の姿には腹が立つこと意外なにもない。
 しかしそれも仕方のないこと。四〇〇年もの片思いを経て手に入れた恋人の待つ部屋に向かうとなれば、看板を掲げて誘うおにいちゃんたちも、銀座界隈とは違う下品なおねえちゃんたちの手招きも彼の目には入らないことだろう。
 繁華街を抜けて3分ほど行った所に彼等の愛の巣はある。7階建てのマンション、2LDK。家賃一八万7千円なり(水道光熱費含む)このささやかな(彼にしては)愛の巣を維持するために、今日も彼は働いてきた。とは言え身内の手伝い。社会生活における重要な人間関係のない職場で、これもまた羨ましいことに彼はかなりの高収入を得ている。
 しかし彼の幸せはこれだけには止まらない。
 家に帰ると、温かい部屋と食事が待って…。いや、カギを開けて入った部屋には明かりは灯っていなかった。仕事帰りで冬の寒さに晒されてきた身には結構寂しいものがある。
「高耶さん…?」
 同居人(と言い張っている)の指定したシステムキッチンの装備された台所を抜けると、確かに何か調理された形跡はある。台所自体はきれいに片付いていたが、香りがする。今日の夕食はビーフシチューらしい。
「高耶さん…。」
 返事はない。更に奥のリビングへと入って行くと、やはり部屋は寒い。寒いが、不思議な赤い光が部屋中央でほのかに灯っていた。 そこに最愛の人を見つけると…直江は静かにほほ笑んだ。
 居候の(あくまでも言い張る)仰木高耶は明かりのない真っ暗な部屋で…。
 コタツに、寝ていた。
 無論暖房を完備した部屋であるにもかかわらず、冬はコタツだ! と主張する高耶に逆らえず、急遽ビッグカメラで購入したばかりの品である。ふとんも買い物上手の高耶がうまいこと買って来た安物なので、赤い光はふとんを通して部屋全体の陰影を浮かび上がらせている。
 それにしてもなんて愛らしい姿なのだろう…と直江はため息をついた。
 半開きの唇、男にしては長めの睫。無造作にほうり出されたしなやかな腕の先には大学検定受験の分厚い本。開襟のパジャマの襟から覗いた鎖骨はどこまでもなまめかしく、面倒臭がってよく拭かなかったのだろうと思われる髪からしたたった滴が、体を沈める大型クッションを濡らしている。
 直江はいたずら心を起こして、胸部にかかったふとんをひょいと、捲り上げた。そこにはパジャマのズボンに覆われた伸びやかな脚が
「……!」
 年甲斐もなく直江は鼻血を噴きそうになった。脚は、ズボンに覆われてはおらず、トランクス一枚がたよりなげに秘密の場所を守っていた。
 おそらく暑くなって無意識に脱いだのだろう。よく見るとズボンは脇からコタツの外へと押し出されていた。
 とはいえ。
 直江は捲り上げたそのふとんを下ろせずにいた。
 無防備すぎる格好。
 欲情をたぎらせる下からの(しかも赤い)照明。
 これはもう本日のメインディシュ、どうぞいただいちゃって下さい。の世界である。
 はたから見たら何と哀れなことか、コタツで眠る幸せな少年のかたわらにうずくまるスーツ姿のおやじ。たとえ彼等が実の親子であったとしても兄弟であったとしても、まずまともな光景ではない。
 しかも直江は、しきりに高耶の顔と下半身とを見比べている。尋常でない危なさである。これではまだ何かしてくれた方がマシだといえよう。
 その期待に応え。直江は起用に腹筋で自分の体を支え、空いている右手で高耶の股間に手を伸ばした。もう少しで手が届く…その瞬間。
「ん…。」
 かすかに高耶が身じろぎし、直江の方へ体を反転させた。左手であるはずのふとんを探る。
 驚いて直江が布団を放した。ぱさ、とふとんが降りて来た感触に高耶が目を覚ます。
「…おかえり…。」
 うっすらと瞼を開いて高耶はそう呟いた。どうやらまだ完全に覚醒してはいないらしい。そのまままた瞼を閉じてしまう。
 さすがの直江も毒気を抜かれた。そう思ったら腹もすいてきた。直江は今度こそ本気で高耶の体を揺さぶった。
「高耶さん、高耶さん。眠いのならベットへ行って下さい。こんなところで寝たら風邪を引きますから…。」
「う…ん。」
 生返事をしながらも、高耶はくしゅっ、と小さくクシャミした。言わんこっちゃない。と直江がコタツから高耶を引きずり出す。コタツからはみ出していた上半身は随分と冷えきっている。
「ご飯が…シチュー温め直して…。」
 これだけ動かされているのに高耶がはっきり覚醒する様子はなかった。これも偏に自分への信頼からくるものなのだろう。と思ったら、直江は笑いが止まらなくなった。
「フフフフ…」
「へへへへ…」
 高耶も合わせて笑っている。はっとして直江が顔をのぞき込むとかなり紅潮している。どうやら信頼いかんは関係なく本気でラリっているようだ。
「た、高耶さん…!」
「なーんかぽかぽかしてあったかいぞお。やっぱり冬はコタツだよなああ。」
 いやな予感がして振り向くと、赤い照明の中で、コタツの上に五〇〇 の缶ビールが3本ほど転がっていた。
「高耶さん…。」
「うん、うう…ん…。…なーおえっ、なんでしょ。」
「まったく…あなたって人は…」
「んふふふふふ…だっこ。」
 すでに横抱きにしていた高耶の腕が、直江の首に絡み付いてきた。耳元に熱い吐息が吹きかけられる。…こうなってしまうと、呆れるより、怒るより…。
 かわいいっ!
「高耶さんっ!」
 一八〇の長身のそれの6割を占める長い脚で3歩ほどあるくと、直江は寝室の引き戸を脚で開け、高耶をベットへ放り投げる。すかさずその上からのしかかった。
 くしゅん。
 直江の下で、高耶がまたくしゃみをした。直江は一瞬動きを止め、仕方ないといったふうに高耶の上から退こうとした。そのとき。
「寒い。」
 直江のコートの襟を高耶がつかんだ。
「掛け布団がない。」
 そう言うと無理やり直江を引き寄せようとする。たいした力ではなかったが、そのまま退いてしまうには忍びなくて、直江は黙って引き寄せられてやった。
「…あたたかい…。」
 その呟きを聞いてしばらくすると、再び寝息が聞こえて来た。直江の方はため息をつくと、そっと高耶から離れ布団を掛け直した。寝室の明かりを消して、リビングにもどり明かりと暖房を点け、コンロに乗ったままのビーフシチューに火をかける。作ってからそんなに間もないのだろう。ナベはすぐに煮立ってきた。
「本当に、仕方のない人だ…。」
 そう言っては見たものの、直江の顔には微笑が浮かんでいた。
 シチューを皿に盛って、台の上のビールを片付けると、高耶の使っていたクッションの上に腰を下ろし、コタツに脚を滑り込ませた。 電源を切り忘れたコタツが、一日中歩き回った脚を暖めてくれる。
「確かに…冬はコタツだな…。」