焦燥   佐野田 紫sama
 なぜこんなことになったのか分からない。
 あの男に裏切られた。それは自分が招いた、仕組んだことかも知れなかったが。
 …あの男が美奈子を凌辱した。そこまでは覚えている。
 混乱する晴家の前で憤怒もして見せた。その感情に偽りがあったとも思えない それにしても、どうしてこんな事になってしまっているのか。
 この指はなんだ。見覚えのある白くて長い美しい指。
 いや、見覚えのあるなんんてものじゃない。この指は、自分が愛した指。
 この髪も、この頬も、両腕で掻き抱いたやわらかな腕の感じも…
 俺が愛した身体だ。
 
 美奈子…。

 俺が愛した身体だ。知ってる。喉からほとばしりそうなこの声にも覚えがある。ただ愛しいこの胸が、今は驚愕に震えている。だがこれは美奈子じゃない。この崩れそうに不安な感情は美奈子のものじゃない。

 「俺」だ。

 俺がここにいる。この体の中にいる。震える指の感じも、それを黙視できる瞳も、美奈子のものなのに見つめているのは…俺…
「…は…」
 言葉がつなげない。人の喉ではないみたいだ。そんなはずはない。今生で誰よりも、誰よりも愛した女の身体だ…なのに…。成人換生したことなんて何度もある。いつも戸惑ったけれど、今度は違う。今までのどんなものとも違う!
「あああっ!」
「景虎!」
 獣の声だ。声色は美奈子のものなのに! 晴家の声も聞こえている。聴覚はちゃんと機能している。なのに…!
 ここには理性が存在しない!
「何を…したのよ。」
 晴家が叫んだ先に、男の昏い目が在った。
 男は俺を見つめたまま、静かに言った。
「そんな風に言われる筋合いはないな。俺は俺に与えられた使命を行使しただけだ。」
 光を宿さないまま、その瞳がそう告げた。憤怒は頂点に達した。怒りで失命出来そうなほどに…。
「…おまえだけは、絶対に許さない!」

 知らぬ間に夜が来ていた。
 なぜだか、晴家の用意していた部屋に居た。一人で居たい気もしたのだが、晴家が離してくれそうになかった。
 だいぶ頭は落ちついて居る。状況はつかめた。異質なのは、腹部に時々感じる鼓動だけ…。
「大丈夫? 景虎」
 心配そうに晴家が見下ろしている。差し出された茶だけを受け取って返事はしなかった。
「景虎…景虎、あのね…」
 涙交じりの声色に顔を上げると晴家が目に涙をためて、両手を組み合わせて耐えている。
「晴家」
「あたし、あたしね…ごめんね。あのとき…直江に言い返せなくて」
「……」
「…いいかえ…す、言葉がなかったの…。だって、私たちあなたを失う訳には行かなかったのよ」
「…晴家…?」
「直江のしたことを…認めない訳にはいかなかったのよ…だって、ごめんね。許してね景虎。あなたを死なせてあげられない私たちを許してね…」
 ついに晴家は両手で顔を覆い泣き伏した。差し伸べてやる手が…しろくて…混乱する。俺はどこに居るんだろう…美奈子はまだこの身体の中にいて…この手を差し伸べているのは美奈子なんじゃないかと、錯覚する。
 俺にはそんなに寛容じゃない。晴家…おまえに手を差し伸べてやることなんて俺には出来ない。これは美奈子の消滅を認めようとしない自分が作り出した幻想だ。
 美奈子が死んだ。みなこがいなくなった。みなこがしょうめつした…。
 あの男を挑発した。わかっていてやっていた。もてあそんだ。捨てる気なんかなかった。干からびるまであの男を…死ぬまであの男を…。
「…う…」
「…景虎?」
 腹の中で鼓動が騒いでいる。慈しむものなんかいないのに…おまえを生んでくれるものなんか…もう…。
「独りに…なりたい」
「…え?」
「独りにしてくれ…頼む」
 うなずいて晴家が出ていった。腹の中の烈情は治まりそうになかった。

 手を。
(男の人なのにずいぶんきれいな手をしてるのね)
頬に伸ばして…こう…
(いつでもあなたのそばにいるあの人。あの人がなにからなにまでお世話してるからかしら…?)
 両手で、顔を包む。
(どうしてかしら)
この感触を知っている。
(あなたは少しもあの人を信じてないのね)
眉に触れる。鼻に触れる。目に触れる。
(なぜ、そんなに見ようとしないの?)
髪を梳く。
(愛されているのに…)
「俺が愛しているのはお前だ」
(優しい人だわ。とても真摯なひと)
「お前は何も知らなかった」
(あの人をもっとちゃんと見てあげて)
「なぜそんんな事が言える?」
(泣いているから…)
「そんな権利は奴にはない!」
「…俺にも、ない。」
 手を滑らせて鎖骨に触れる。この感触にも覚えがある。一度かけ顔を埋めて泣いたことがある。許してくれと、誰か俺を許してくれと、声をあげて泣いたことがあった。
 柔らかな胸が受けとめてくれた。癒されるような感覚だった。
 溶けてゆく感覚は、子宮を彷彿とさせた。ここに居ろと言ってくれた。心地よくて…幸せで…安心で…どんなに言葉を綴ってもあの場所に帰れない。
 守りたかった。いつまでもあの場所に居たかった。
 なのに…
 壊したのは俺自身。心地よいものを何一つ手放そうとしなかった。ほんの少しも緩和してやろうとしなかった…俺自身だ。
 結果的に全部壊れた。
 あの男はもう俺に執着はしないだろう。こんなに無様な男に誰もついてきやしない。
 ここで終わる。
 父上の期待にも応えられない。
 最初から期待なんかされてなかったのかもしれない。家督争いで敗れた惨めな息子に、過分な期待など抱いてはいなかっただろう。
 上杉のため…。荒れ狂った怨霊大将に罪を自覚させる為。そんな理由だったのかも知れない初めから。…だったらもう十分だ、もう俺は死んでもいいはずだ。
 視界に入ってくるものに、殺傷能力のあるものを探す。
(あなたをまだ死なせるわけにはいかないの)
 知った事じゃない。もうどうだっていい。今までだって生きてなんかいなかった。あの世に行く権利をもう手に入れてもいい筈だ!
「何をしているんですか?」
「……!」
「何を、探しているんですか?」
 …月が見ている。
 凍りついた鋭い刃だ。闇を背負って…俺を威圧する。
「死ぬつもりだったんですか?」
「…もう、関係ない」
「私のしたことを、なんだと思っているんですか」
「…使命なんて、言うつもりじゃないだろうな」
 それだけは言わせない。これは鬼の所業だ。人としてやってはいけないことだった。
 思った通り直江はほんの少したじろいだ。だが、光の宿らない瞳で俺を見据える。
「そんな言い訳をするつもりはない」
「…正直に言ってみろ。怨恨でしたと、憧憬からだといってみろ!」
「やはり、分かっているんですね」
「……」
「あなたはすべて分かっていた。わかっていて俺を放し飼いにした。しかし狡猾でしたよ。すべてあなたの思う通り、あなたの思いどおりに事が運んでいった。」
「月」…に。
「その女まで利用するとは思わなかった。救われて居るんだと思っていた。けれどあなたはそれでも俺を放そうとしなかった!」
刺し殺される。
「その期待に応えてあげますよ。そんなに俺を離したくないなら。もっと縛り付けたらいい。その身体でね。」
「…直江っ」
「肉体的には申し分ない。なにしろあなたが愛した女だ。とても美しい。俺は好きですよ。その女が」
「よるな直江!」
「余計な抵抗は止した方がいい。その女の体に傷をつけたくなかったらね。…安心して、天国へ…いかせてあげる」
 論理なんか求めてはいけなかった。この男は夜叉だ。人でないものだ。暗闇から手だけが伸びてくる。俺を導く。…そう、行くべき所は分かっている。このオレも…人ではないのだから。

「この体に触るな」
 驚くほど冷静に、言葉は口から出て来た。
「触らないでくれ…」
 直江が手を伸ばした。それを避けるように少しづつずり下がると、部屋の壁沿いに敷かれた寝具に当たった。
「…ほんの少しでいい」
 窓からの月の光の逆光で、直江の表情が見えない。なぜだか、恐怖を覚えない自分がとても不思議に思えた。
「あなたに触れさせて」
「だめだ…きっと」
きっと今の俺は…お前を拒めない。
 なぜだろう。きっとお前も自分も許す気なんかこれっぽっちもないのに…。もう、俺は何も受け入れる気なんかないのに、どうして…。
「どうして…来た?」
「景虎様」
「どうしてお前はここにいる?」
 顔が見たい。お前が今どんんな表情をしているのか見たい。
「俺がいなくては上杉が成り立たないなんて…そんなのは詭弁だろう。お前はいつだって俺から離れたがっていた。こんなざまの俺には、お前はもう興味がないはずだ。見えてるんだろう、知ってるんだろう俺のことなんて、全部っ…」
 伸ばされた腕が、宙で止まっている。やはり触れられやしない。この男はやっと気づいたんだ。俺の正体を…。
「わたしが…見えますか?」
 手のひらを返して…直江はすくい上げるように頬に触れてきた。
「私にはよく見える。月は…今夜は私に味方してくれる…やっと鎧を脱ぎましたね」
 触れた手が首を経由して髪をなでた。手の感触が首を通り過ぎたとき…恐怖は一気にやって来た。
「あなたが謙信公の息子でいるためには…強靭な精神と肉体が必要だった。そうでなければ夜叉衆をここまで育て上げることは出来なかった。すべてはあなたの功績だ。私はそんなあなたを尊敬し…いつだって憧れていました。」
 手が…髪をつかんだ。
「けれど本当のあなたはそんなもの必要なかった。あなたが求めていたのは従わせてくれるものだった。導いてくるものがあなたには必要だった。」
「…それは、お前じゃない」
「そうかもしれない。そう、今夜の事はすべて忘れるべきだ。これから行うことはあなたのためなんかじゃない。俺の為に、俺自身の為にやるんだ」
「離せ直江!」
 抵抗を試みたがおそかった。髪をつかんだ手を振り払おうと左手に力を込めておどろいた。こんなに…!
 こんなに…弱い…。
「むだな抵抗はおよしなさいと申し上げたはずです。その体で私に勝てるはずがないでしょう。」
「…くっ!」
 放った念波はあやまたず、直江の肌を傷つけた。焦げたような傷痕に鮮血が浮かび上がったが直江はひるまない、それどころか…
 一瞬なにが起こったのかと思った。
 行為が信じられなかった。振りかぶった右手が頬を打ち、横倒しに倒された。瞳が乾くほど長い間瞬きが出来なかった。月は奴の見方だ。奴の表情も、真意も、この行為でさえすべて隠すつもりだ。
 これは呪縛なのか…声を上げることが出来ない…
「むだなあがきをするから…」
 直江は左手で俺の両手を待ちあげて寝具に縫い付けた。膝で片足を押さえつけられると、上半身は封じられ、許されたのはわずかに片足と、首の自由だけだった。
 落ちてくるくちづけをかろうじて拒んだ。右手であごを捕らわれる。
「う、ぐ…っ」
 殴られる感じがした。気持ちがわるい。輪郭を崩す勢いの舌の攻防がずいぶん長く続いている。顔が濡れている感じがする。涙なのか唾液なのかもう見当がつかない。
「……っ!」
ほんの少し唇の勢いが弱まったと思った瞬間、下半身に体温を感じた。
「よせえっ!」
手が下肢を這いまわっている。肉を寄せ集めようとする感触が気持ち悪い。嘔吐にも似た感じが胸を駆け上がった。本当に吐き出してしまえば楽になるのに…。
 頭と腕が別の生き物のようだった。片足で抵抗を試みると、耳に差し込まれた舌で感覚を遮られる。どちらに反応しているのか分からない。ただ、どうしようもなく不快なのが、自分の呼吸がやけに大きく聞こえることだ。これじゃまるで…!
「そんなに気持ちいい?」
 直江の顔がはっきりと見えた。
「あの女もあなたほどは乱れてくれませんでしたよ。同じ身体なのにね。なるほど、確かにあの女は淑女だった。あなたとは違ってね」
「なおえ…っ!」
「かわいらしい…声だ」
 …そう。
 耳に届くのは女の声だ。なんて響きの悪い。
 美奈子の声が思い出せない。これは違う。これは別物だ。しかしそれが耳に届くたびに自分の声帯が震えているのを感じてしまう。そのたびに吐きそうになる。狂いそうになる。なんど…何度そう思ったかしれない。だが俺は狂わない。この精神はそれほど強靭なのか、それほど図々しいのか。けれど…
 俺がなにをした…。こんな責め苦を受けなければならないようなことをして来たのか…
 憧れていたくせに、焦がれていたくせに、その欲望も押し殺して尽くしてきた。自分を見せたことなどなかった。そのために…なにをした…。 俺は…なにをした…?
 恨まないように人を見下してきた。自分を嘲笑する奴らをすべてくだらない人間だとさげすんできた。そうすれば傷つかなかったから。自衛のつもりで踏みつけて来た。反復が殻をつくって、殻が俺を覆い隠した。みんながだまされる。心地いい。俺を踏み付けて来た奴等、馬鹿にした奴等、笑った奴等を…
 ほんものになんか、なれるわけがないのに…
 息をしていても死霊だ。この生のために生まれて来た奴等にかなうわけがなかった。
 やっとわかった。いまごろわかった。
 秩序を乱しているのは俺自身。
 人と名乗るのがいやだ。いっそ塵と呼んでくれたほうがまだましだ。むしろそのほうが堂々としていられる。
 塵のような人間…。分からないのはお前だ、なおえ。
 お前に愛されてることなんて知ってる。けどどうして…お前は知っているはずなのに、こうしてどんどん俺を暴いていけるのはお前だけなのに…。裸を見ても、肉を見ても、細胞まで覗いても…お前は俺を見続けることをやめない。
 どうしてだ…飽きないのか、まだ飽きないのか、続きがあるとでも思っているのか?
 でも、もう終わり。お前の探している宝はここにはない。見当違いだ。さっさと見切りをつけて去って行けばいい。
「…ふっ…!」
 中に指をつき入れられて息が止まった。苦しいからじゃない。視界が白くなりかけたからだ。目を開けていられない。涙がたれているのが分かる。直江の腕はもう俺を拘束していない。そんな必要もない。今止められたら気が狂うのは俺の方だ。
「う、あ、あ…」
 声を殺すのが精一杯で身体をセーブなんて出来ない。出し入れされる快感に自分の手が押さえられない。男の手をつかまえて押し止どめる。
「ふあ…っ!」
 女神を凌辱しているのはこの俺だ。直江が犯した行為よりももっと酷い、もっと卑猥なやり方で…
もう、許しは乞えない。
 男が腰をすすめる。もう言い逃れは出来ない。俺は待っていたのだ、泣きながら…この瞬間を。
「ああ…っ!」
 想像を越えていた。直江の行為は感情のすべてだった。怒りと憎しみと、憧れと、飢えと、喜びも悲しみもすべて…これが最後の晩餐であると雄弁に語っていた。
 律動に時間を忘れる。揺れている景色が脳震盪を起こさせる。わけがわからない。だたもうすこし、もう少しだけ…この瞬間を永遠に…!
「……っ!」
 吐露したものを飲み込む。あまさず、かき集めるように身体が応えた。萎えてしまった直江のものを、いつまでも下半身が離さない。
 そこだけが…痙攣したかのように力を抜かない…。
「景虎様…」
 まだだ…まだ終わっていない。まだ、終わらなくていいんだ。
 直江の顔を見つめる。今、初めて見たような気がする。
 優しい男だ。知っている。だから、だから俺は…
 触れたかった。腕を持ち上げようとしたが力が入らなかった。指先のサインを読み取って、直江が動いた。
 背中をすくい上げて、抱きすくめられる。
 直江…お前は本当に…本当の馬鹿だ…。
 こうなってもてもまだ分からないのか。ここには何もないのに…
 …いや、ちがう。
 美奈子がいる。
 直江がだきしめているのは美奈子の身体だ。聖母のからだ。だから…

 許される。

(ちゃんとみて)
 見ている。
(もっとちゃんとあの人を見てあげて…)
 目に映るものは首筋。抱きしめながら何度も何度も抱えなおすように直江は俺を味わった。体が震えているのは泣いているからなのか…胸の振動が俺の体に染みてゆく…お前は今何を感じてる…? お前は今なにを思ってる?
 なんでもいい。
 おまえのことなんかどうでもいい。
 ただ少しでも長く…この瞬間が続くように…そんなことを俺は考えていた。
 そのことだけを、ねがっていた…。

 それからのことを私が語ってもよろしいでしょうか
 私ですか? 私は誰でもありません。強いて言うならあなたと同じ者です。
 彼らという存在を知りながら、彼等には決して関われない。あなたと同じ物です。
 もしそこに、一つの小さな石としてでもいい存在出来たなら。風でもいい。存在することが出来たなら…
 決して彼を行かせはしないのに…
 私はこの目で見、この耳で彼らの声を聞きながら、そう、まるでそれをスクリーンで見ている人間のように…そんな風に私はそんざいしています。
 私の口から、一体どれだけのことを伝えられるのか分かりませんが…けれど知っていて欲しくて、こうしてつたない文章を書き続けています。
 決戦の朝、あの人は言いました。
 目前には草千里が広がっていました。今と同じく、涅槃像はゆったりと横たわっていました。
 太陽はゆっくりと、砂千里の方から登り、光と共に霧を草千里に運んで来ました。
 まよえ…と。大自然に言われているようでした。
 凍った土が、がりりと音を立てました。あの人は少し躊躇して、それでも2歩3歩と歩いて行きました。
 凍りついた空気に…少しずつ色がついてゆきました。世界が始まっていくのです。
 灰色を帯びていた山並みが、鮮やかなグリーンへと変わっていきます。雲が通るたびに表情を変え、世界が動いていきました。
 緑色の腕がありました。
 中岳を中心に2本の腕が草千里と抱えていました。
 あの人は深呼吸して言いました。
「抱かれている…」
 傍らには男の姿がありました。
 両腕を広げてもう一度深呼吸し、その腕で己を抱き締めるあの人の姿を、じっと見つめていました。
 あの人が振り返って男を見ました。
 さげすむでも哀れむでも、威圧するでもなく。ただ真っすぐに男を見て、そして何も言いませんでした。
 霧があの人を包んでゆきました。いいえ。包もうとして何かに弾かれるように霧散してゆきました。
 それは霧ではなく、不浄霊のようでした。
 あの人の清浄な気に触れて浄化してゆく霊たちがそんな風に見えているようでした。

 先頭は壮絶でした。
 ナンバー2と呼ばれた彼が、念波の連打戦のなか、あの人の前に回り込みました。
 驚いてあの人は彼の肩を押しのけようとしましたが、その肩は動きませんでした。自分に非力さにあの人が歯噛みしていると、彼はいつもの挑戦的な笑みをつくって言いました。
「不思議なもんだなあ、中身はおっかねえお前だって分かってるのに、そーんな華奢な肉体に入られっと、こう、身体が勝手にさ、かばいたくなっちまうんだよ」
 振り返って、彼は笑いました。あの人は言葉が返せず、目を開いたまま彼を見つめていました。
 護身壁を突き抜けて、彼の身体がだんだんと血に染まってゆきました。しかし彼は決してそこから退こうとはせず、あの人の盾になり続けました。
 がくんと膝をついて…彼が呟きました。
「ちく…しょおっ、おれァもう金輪際…おまえらの面倒なんか御免…だからなあっ…」
 そうして、彼は崩れ落ちました。あの人は必死で護身壁を張り続けながら、男の名を呼びました。
「直江、直江! なおええええええっ!」
 叫びは男に届きました。ほかの者にも届きました。けれど誰一人としてあの人に駆け寄ることは出来ませんでした。
 皆必死でした。自分の身がどうなろうともあの人に駆け寄りたくて、あの人を守るべく襲いかかる念波をかいくぐり、あの人の下へ行こうとしました。けれど、敵も必死でした。
 森蘭丸を筆頭とする織田の軍勢は、草千里の美しい緑の大地をめくりあげながら、あの人の元へと迫ってくるのです。
 大将として、あの人は応戦するべきでした。けれどあの人は、体温の下がってい行く彼の身体をかき抱いて、じっとうずくまっていました。
 念が火花のようにあの人の護身壁のまわりで弾けました。しかし、いくつかのそれは護身壁を貫き、あの人の体を傷つけてゆくようになりました。
「景虎ァっ!」
 猛攻にもかまわずに、彼女は駆けて来ました。
 顔に腕に、いくつもの裂傷を受けながら、それをかばうこともせずに視線だけで不浄霊群を威圧しました。
「信長を倒して!」
 思わず顔をあげたあの人に、彼女は血のたれた頬を一度ぐいと拭うと、声を張り上げました。
「もう終わりにしたいの!」
 彼女は敵に背中を向け、真摯にあの人を見つめました。
 彼女の背後でいくつもの火花が上がりました。しかし、一つといって彼女の体を傷つける事は出来ませんでした。
 風が…あの人の背後から、砂千里へ向かって吹き抜けました。
 あの人は彼に視線を落とし、そっとその頭を地面に落とすと立ち上がり、前方を睨みつけました。
 眼光だけで弱い不浄霊が抜けていくのを男は見ていました。
 大将の瞳を取り戻したあの人を確認して、彼女は下がりました。
 あの人は前衛を指揮する森蘭丸のその奥を、じいっと睨みつけました。
「信長ァっ!」
 あの人の髪が風にあおられてうねりました。
 敵は呼ばれたその瞬間に、味方さえも押し潰す強烈な霊気を発しました。
 あまり大柄ではないその身体が、闇色の霊気に包まれて、そびえる阿蘇の山々よりも大きく見えました。
 けれどあのひとは…
 あの人も、決して劣ってはいませんでした。


 二つの山がありました。

 そこに大きく根を張って、頑として動かない。誰にも侵すことの出来ない、制することの出来ない二つの山が、そこに存在していました。
 唾液を呑む音が、男の耳にやけに大きく響きました。
 空気が凍っていました。音がありませんでした。腕もあの人も、力が満ちるのを待っているようでした。
 先に動いたのは敵の方でした。
 人とは思えない咆哮を上げると、赤い光を握って肘を後ろに大きく振り上げました。
「おおおおおおおおおおおっ!」
 あの人は…そのときあの人の顔には笑みが浮かんでいました。
 哄笑でも蔑視でもないすがすがしいまでの笑顔。…男はそれに見覚えがありました。
 そしてその瞬間、背筋を冷たいものが駆けてゆきました。
「景虎様!」
 水で作られているかのようなその剣は、あの人の手で氷に形を変えました。
 あの人は動きませんでした。ゆっくりとした動きで剣を上段に構えると、前触れで襲いかかる細やかな念を余すところなく受け取りました。真紅に染まった女の体は、それでも瞳だけは力を失わず、やがて来る赤い珠に向かって剣を振り下ろしました。
 
 その瞬間世界は白に染まりました。
 なにもかもが白に包まれてゆきました。
 黒い土の上に、一つだけ影がありました。彼自身も酷い怪我をしていましたが、何とか腕を動かして状況を確かめようとしました。
 触れるものは、なにもかもが焦げていました。一つとして水気を感じる者はありませんでした。
 ただ…空だけが水を湛えていました。
 彼はそこへは行けませんでした。かわいたまま、生きているものを探しました。
 涙は出ませんでした。そんな水分は残っていませんでした。声も出ませんでした。身体の中に溜まったものを吐き出す手段は、一つもありませんでした。
 空が色を変えるまで…彼の悲鳴はやみませんでした。
 そして私はなにもできずに、彼を見ていました。

 そうやって…

 私の焦燥は続いて行くのです。
 物語の終わりまで続いてゆくのです…