夜に抱かれて   佐野田 紫sama
 脈が、いつもより速い気がする。
 持て余した手を窓ガラスにつき、高耶は小さく息を漏らした。
 体温の伝わる手のひら部分と息が、超高層のホテルの窓をくもらせる。
 窓の外には夜景が広がっている。真夜中を過ぎようというのにいつまでも衰えない夜。そしてその中に、無表情な男の顔を映し出す。
「おまえは…夜のようだ。」
「………」
「暗くて…静かで…隙を見せると、吸い込まれる。」
 男は口の端をほんの少し吊り上げる。
「不敵な…顔だ。」
「…あなたがいるからだ。」
 男は高耶に近づき、その顔に片手で触れる。高耶は平静を装い男を見つめ返す。
「こわいんですか」
「…どうして。」
「唇がふるえてる」
 思わず唇に力を込めると、男はいよいよ優位に立ったように嘲う。
「あなたはそんなふうに、気持ちよく俺をつけあがらす。わざとですか?」
「そんな挑発には乗らない」
「挑発してるつもりなんかない。俺にそう見えるだけだ。あなたはいつも欲しがっている。されたがっている。そんなに苛めて欲しいの? そうなら素直に言えばいいのに、あなたはいつも俺にそう仕向けさせようとする。」
「………」
「そして俺も、そんなに理性的な人間じゃない。」
 男は高耶の襟首をつかみ、乱暴にシャツを引きずり降ろす。麻の布地に肌を擦られて、高耶は顔をしかめた。
 ウエストの部分で止められたシャツは、巧妙に高耶の両腕の自由を奪う。
「…そんな顔をして…」
 両肩をつかまれて、乱暴に歩かされる。そのままベットに押し倒されると、顔を背ける間もなく男が覆いかぶさってくる。
「直江っ!」
「…あなたの手口は分かっているつもりなのに…やっぱり俺はそれに乗ってしまう。」
「ふっ…!」
「おかしいですね」
 男の手が脇腹のあたりを、そろりと撫でる。息を詰めて高耶は声が上がりそうになるのを耐える。
「…シャツを…とい…て…」
「できない」
「…どうし…て…」
「あなたは獣だから油断がならない。武器はひとつでも少ない方がいい…なんて言い訳もありますが、拘束したあなたを見ていたいと言うのも本音です。」
「…変態…っ」
「そうですね」
「こんなのは…嫌だ…アっ…」
 片手が胸にたどり着く。もう一方はすっぽりと高耶の首をつかみ、必死になって殺している声を手のひらで感じ取っている。
 すべて見られている。どんなに隠しても見透かされている。
「チャンスをあげましょうか。」
「……」
「口づけしてあげるから俺を捕まえて。あなたのご自慢の牙で噛み千切ってしまえば、きっと…殺せますよ。」
 見下ろした顔の脅えた瞳を捕らえて、男はまた微笑する。そのまま性急に口づけは降って来た。
 巻き込まれる!
 そんな余裕は少しもない。蹂躙される。
 暴れまわる舌について行けなくて、息までもって行かれる。まるで玩具扱いだ。
 優しさがない。認めてもらえない。こっちが殺される!
 ……殺されて、いい。
 捕まって拘束されて、騙されたまま…死んでしまいたい。この腕の中で…。
 この腕が本物でなくてもかまわない。眠ってしまいたい。拘わって欲しくない。舌を引きちぎって欲しいのは自分の方かもしれない。そんな思考に促されるように高耶は舌を差し出す。もっとぐちゃぐちゃにして欲しい。何も考えられなくなるほど…形を留めなくなるほど…。
 抵抗をやめ協力的になった高耶の体から、男はいったん唇を離す。呼吸を許しをもらい、高耶は咳き込みながらはげしく喘いだ。
「そんなふうに…許さないでください…」
 悲しい声に、高耶は息を整えながら男に顔を向ける。
「あなたには…かなわない」
 男はそっと高耶のシャツを直してやる。うでをまくり、ひじのあたりについてしまった紅い跡に口づける。
「…許して…ください…」
 その腕に、大切そうに、愛おしそうに頬を寄せる。手首に、平に、指に。触れるだけのキスを繰り返す。
「直江…」
 名前を呼ぶことしかできない。それしか浮かばない。どう言葉をかけてやればこの男を癒せるのか、高耶にはわからない。
 拘束は苦痛じゃない。欲求は気持ちがいいと…そう言ってしまえばよかったのか。
 だけどどんな言葉も、人に真っすぐ伝わったためしなんかない。この男だってそうだ。そうに違いない。
 期待は…しない方が利口だ。
「高耶さん」
 なにも言わない代わりに、高耶は男の唇に自分のそれを寄せる。未来を描けないのなら、現実を貪るしかない。
「欲し…い…」
 消え入りそうな声で高耶がつぶやく。唇に伝わる振動で、嘔吐しそうな衝動を注ぎ込む。男は高耶を掻き抱き、ジーンズの中からシャツを引きずり出す。盲人のように背中に手を這わせ、唇で髪を撫でまわす。
「…なおっ…」
 荒々しくジーンズのジッパーを下ろし、下着の上から股間をまさぐる。狂ったように白い胸に華を咲かせながら…
「ひぃ…ああああああ…」
 声を殺せない。どうだっていい。聞かれてもいい。どうせ相手も狂ってる。理性がない。本能しかない。神に背く行為だと人が罵れば、そんな奴らには唾を吐きかけてやる!
 正気が見つからない!
 男の行為は獰猛だった。相手が壊れても気が付かずに抱き続ける。そこに自分しか存在しないように。
 相手の声は必要じゃない。高耶の声はすでに涸れてしまっている。揺さぶられて飲み込みそこねた唾液が頬を伝う。顔色が蒼白になる。このままでは死んでしまう。たぶん本当に死んでしまう。
 絶叫を合図に男が達する。
 受け止めて、獣は目を細める。その瞬間に最後の意識を使い果たし、崩れ落ちる。
「…高耶…さ…」
 荒い息をつきながら男は呼びかけた。
 まぶたは開かない。
 肢体に散らばった華とおびただしい精液が、事の狂乱さを訴えていた。
「高耶さん…」
 何度か頬をたたくと、高耶は目を開けた。何か言おうにも声を出すのが苦痛なほどだ。つらそうに小さな息を繰り返し、また目を閉じた。
「景虎様…っ」
 男が肌に触れる。それがたまらなく嬉しかった。
 微笑を浮かべた頬に涙が伝う。男はそれに口づけし、それを高耶の唇に移す。
その唇が、声には出さず、言葉を紡ぐ。

      愛している。

 これが欲しかった。ぬくもりが欲しかった。これしかいらない。これしか欲しくない。 羨望でなくていい。尊敬なんかいらない。理由なんかなんでもいい。理由がないならそれでもいい。もっと…
…求めて欲しい。
 得るものがなくなるまで…すべて取り込まれるまで… おまえなしで生きられなくなってしまうまで…。
 …生の尽きる…瞬間まで…。
「直江…」
 かすれた声で、もう一度男の名を呼んだ。
 男は高耶の髪をすき、もう一度深く口づけた。

 夜に抱かれて…
 二つに重なったシルエットが今、
 眠りを求めるように…




 夜を貪る…。