簡単だけど大切なこと |
はぁ…。 金蝉は本日何度目になるか分からない溜息をついた。 とにかく机の上に山積みになった書類を片づけようと、もくもくと目を通しては決済の判押していく作業をしているのだが。 気が付くと金蝉の視線は部屋の右隅へと向いてしまう。 「…おい」 不機嫌そうに金蝉は部屋の隅へと声をかけた。 「………。」 悟空は金蝉に背を向けて丸くなったまま返事もしない。 「おい、猿!」 少し大きな声で呼んでみるが、悟空は返事もしなければチラリと振り返ることさえもしなかった。 さすがに金蝉もキレかかり、額にピキッと血管が浮く。 朝からずっとこんな状態なのだ。 とにかく悟空が何を拗ねているのか理由が分からない。 それならと、理由を問いただそうとするのだが、いくら声をかけても返事はおろかこちらを見ようともしなかった。 これでは金蝉でもどうしようもない。 「ったく、いい加減にしやがれ悟空!」 部屋の隅で悟空がビクッと身体を震わせた。 それでも金蝉を見ようとはしない。 金蝉は諦める様に深々と溜息をついた。 ガタッと大きな音を立てて椅子から立ち上がると、入口の扉まで歩いていく。 「ずっとそうしてろ。俺は知らん…」 部屋から出ようと金蝉がドアノブに手を掛けた時、 「ぅえ…っく…」 悟空から小さな嗚咽が漏れた。 驚いて金蝉が振り返ると、相変わらず背を向けたまま膝を抱えて悟空が震えている。 「ひっく…こんぜんのばかぁ…」 ようやっと悟空が口を開いた。 金蝉は額を抑えながら悟空へと歩み寄ると、その場へしゃがみ込む。 「悟空…」 優しく声をかけると、宥める様に悟空の頭を撫でた。 「うぇ…っ…こんじぇんっ…」 顔を涙でビショビショに濡らしながら悟空は金蝉へとしがみ付き、途端にわーわーと激しく泣き出す。 金蝉は苦笑しながら悟空を抱き締めて、ポンポンと背中を叩いた。 「仕方ねーな…一体どうしたんだ、今日は?」 金蝉は悟空を抱え直すと、顔を覗き込んで視線を合わせる。 「ら…てっ…らってぇ…」 しゃくり上げながら悟空は金蝉を見上げた。 「ほら、居なくなったりしねーから、少し落ち着け」 悟空が落ち着くまで、金蝉は抱き締めながら何度も髪を撫でる。 暫く宥めていると漸く悟空の泣き声も治まった。 「それで?一体何が気に入らねーんだ?」 つい、金蝉はいつもの調子で詰め寄る様な口調になってしまう。 「ふぇっ…」 またもや大きな金色の目にぶわっと涙の粒が浮かび上がった。 金蝉は慌ててポケットに手を突っ込む。 「おい、口開けろ」 言われるとおり悟空が口を開くと、金蝉がポイッと何かを投げ入れた。 「んー?あっま〜い!リンゴ飴だ〜♪」 嬉しそうに悟空はモゴモゴと口を動かす。 すっかり涙も引っ込んだ様だ。 最近金蝉は悟空を宥める為に飴玉を常備している。 何よりも食べ物を優先する悟空には効果覿面の必須アイテムになっていた。 おかげで今日も役に立った。 「だからな…ずっと朝から何を拗ねていたんだ?言われなければ俺もどうしたらいいか分かんねーだろ?」 今度は悟空を刺激しない様に、努めて穏やかな口調で問いかける。 「だって…金蝉いなかった」 ぷくっと頬を膨らませて悟空が睨んだ。 「……は?」 訳が分からず金蝉は眉間に皺を寄せる。 今日は出かけてもいないし、朝からずっとこの執務室で仕事をしていた。 「何言ってんだ?俺はずっとここで仕事してただろ?」 「…いなかったもん」 更に頬を膨らませて悟空はむっと金蝉を見つめる。 金蝉はズキズキと痛む頭を押さえながら途方に暮れた。 覚えもない言いがかりをつけられてもどうすればいいのやら…。 「だって…朝起きたら金蝉いなかったもんっ!」 気付いてくれない金蝉に焦れて、悟空が真っ赤な顔で叫んだ。 そういえば、と金蝉は今朝のことを思い返す。 朝、いつも悟空を起こさない様にしながら、静かに金蝉は起床する。 手早く身支度を整え、執務室で仕事の準備して自室へ戻ると、丁度悟空の起床時間だった。 寝ぼけている悟空を待っていると何時までたっても動かないので、金蝉は小言を言いつつ身支度を手伝っている。 それが毎日の日課だった。 しかし、今日は違っていた。 今朝、いつもの様に執務室へ行き、本日中に決済しなければならない書類にざっと目を通すと、金蝉へ回されるべきでない書類が入っていたのだ。 放っておけば入れ違いで別へ回ってしまっている書類が何時戻ってくるか分からない。 面倒だとは思いつつも、手元に来ている書類を持って観世音菩薩の元へと突っ返しに行ったのだ。 今度はそこで他の書類はまだ回されていないと言うので、文官が探している間ムリヤリ菩薩に茶をつき合わされた。 漸く見つかった書類を持って執務室へと戻ると、思いのほか結構な時間が経っていることに気付く。 一度自室へと戻ろうかとも思ったのだが、この時間なら悟空も起きて部屋付きの女官達が身支度を手伝っているだろうと、そのまま仕事の準備を始めてしまった。 そうして自室に戻る頃には朝食の時間も過ぎていて… 悟空は金蝉のベッドの上でふて腐れていた。 「今日は仕事の書類に不備があったんだ…それに、仕事前には1度戻っただろーが」 女官達が世話していると思ってはいても、結局は気になって確認しに戻ったのだ。 「こんぜん…忘れちゃってるんだ…」 悲しそうに呟くと悟空は俯いてしまう。 金蝉にしがみ付く悟空の小さな掌が震えている。 忘れてる?一体何が!? 表情には出さないが内心金蝉は大慌てで、何か見落としていることがあったのかと思い返す。 朝起きて、身支度をして、執務室で準備をして、自室に戻って悟空を起こして、それから… 「………あ」 簡単なことだった。 とても簡単で、ものすごく大切なこと。 「…悟空」 頭上から聞こえてきた金蝉の優しい声に、悟空は顔を上げた。 ふと悟空の視界が大好きな金色で覆われる。 見惚れていると悟空の唇に柔らかで暖かい感触が重なった。 突然のことに悟空が驚いていると、すぐにその感触は離れていく。 ぽけっと自分を見上げる悟空に、金蝉は微笑んだ。 そして、 「今日は『おはよう』のキスをしていなかったんだな」 金蝉の言葉に悟空はパァっと陽が差した様に笑顔をこぼすと、嬉しそうに金蝉へと抱きつく。 「そうだよっ!『あいさつはたいせつな生活の基本なんですよ〜』って天ちゃんも言ってたんだからな!それなのに金蝉忘れちゃうんだもんっ!!」 頬を染めながら、悟空は拗ねる様に唇を尖らせた。 「…悪かったよ。でもな、それならお前の方からすればいいだろう?」 金蝉は苦笑しながら悟空の膨らんだ頬を指で突っつく。 「え…だって…いいの?」 金蝉は人に触れられることが好きではない。 いつも側にいる悟空は良く知っていた。 大好きな金蝉に嫌われたくないから、悟空は金蝉が手を差し出さない限り、自分からは極力触れない様にしていたのだ。 悟空の戸惑いの一言に、金蝉は悟空に気遣わせていたことを知る。 「…お前だけはいーんだよ」 金蝉は照れを誤魔化す様に、強めの力でガシガシと悟空の頭を撫でた。 「えと…じゃぁ、俺から金蝉にチュウしていいの?」 金蝉を伺いながら悟空は小さく首を傾げる。 凶悪な程の可愛いさに金蝉の理性がグラグラと揺れた。 「ああ、別にお前がしたいと思った時にすればいい」 金蝉に言われて悟空はじーっと考え込む。 「んーっと…それじゃぁ」 ちゅ。 小さな掌が金蝉の頬を包み、柔らかい唇がふんわりと触れた。 「こんぜん…大好きぃ…」 真っ赤に頬を紅潮させ、悟空は恥ずかしそうに金蝉へとしがみ付くとその肩口に顔を伏せる。 ぷちん。 金蝉の理性が呆気なく限界を超えた。 悟空をしがみ付かせたまま立ち上がると、もの凄い勢いで自室へと向かう。 「こんぜん〜どうしたの?どこいくの〜??」 「…部屋に戻るんだよ」 「んー?なんで?お仕事は??」 「休憩だ!」 「そっかぁ〜。あ、じゃぁ一緒にお昼寝するの〜?」 切羽詰まった金蝉の様子には全く気付かない。 対照的に悟空の方は呆れるぐらい暢気だ。 バタンッ! 結局、夕方まで自室の扉は鍵が掛けられ、閉ざされたままだった。 くすくすくす… 何か訳の分からない箱を弄りながら、天蓬は楽しげに笑っている。 「おーい、一人で何笑ってんだよ。気持ち悪ぃな」 書類を片手に捲簾は入口から声を掛けた。 「おや?捲簾いらっしゃい」 天蓬はニッコリと振り返る。 その耳にはヘッドフォンが掛けられていた。 「何聴いてんだぁ?随分と楽しそうじゃねーの」 捲簾は天蓬へ近付くと、その手元を覗き込む。 「いえね…随分と金蝉も変わったなぁ、と思いましてね」 「あー?金蝉??」 訳が分からず捲簾は首を捻った。 「あの金蝉が口説き文句を口にするなんて…一体どんな顔して言ってるんでしょうねぇ」 ますます天蓬の言葉の意味が分からず、捲簾は困惑した様な顔をする。 ふと、視線の先には見慣れない箱。 天蓬の耳にはヘッドフォン。 と、いうことは… 「まさか天蓬お前っ!盗聴してんのかっ!?」 捲簾が確信して大声で叫ぶ。 「そんな〜、盗聴なんて人聞きの悪い。可愛い悟空が毎日楽しく暮らせてるか心配なんで、様子を気にしているだけですよ〜」 のほほんと何でもないことの様に天蓬が答えた。 「世間ではソレを『盗聴』って言うんだよ。ったく、いくら何でもやって良いことと悪いことっつーのがあるだろうが!人のプライベート監視するなんて最悪だぞ!いいか、すぐにやめろよなっ!!」 捲簾が憤慨して天蓬に詰め寄る。 「そうですねぇ…ちょっと僕も人が悪すぎましたか」 天蓬はヘッドフォンを外しながらポリポリと頭を掻いた。 捲簾は安堵の溜息をつくと、天蓬の足下の箱へと視線を落とす。 「分かったなら、後で金蝉の所から盗聴器はずしてこいよ。俺は黙っててやるから」 「そうですね…金蝉の所は簡単に外せますから」 天蓬は捲簾を振り返るとニッコリと笑った。 「あ?金蝉のところは…って??」 何か含んだ様な天蓬の言い方に、捲簾はとんでもなくイヤな予感をおぼえる。 天蓬は微笑みながら、足下にあった箱を手前の机上に置いた。 そして、手前のスイッチをカチッと上げる。 一瞬箱が明るくなると、そこに映像が映し出された。 その画面を見て、一瞬捲簾の眉が潜められる。 どこかの部屋の寝室が映っていた。 そのベッドの配置、装飾品、家具の配置は… 「いやぁ〜、これ設置するの大変だったんですよー?」 天蓬は人の悪い笑みを浮かべながら捲簾を見つめる。 「てっめーっ!天蓬!ふざけやがってーーーっっ!!」 乱暴に手元の書類を投げつけると、捲簾は大慌てで部屋を駆け出していった。 くすくすと楽しげに笑いながら天蓬はディスプレイを眺める。 暫くすると画面に捲簾が現れ、こちらに向かって悪態を付いている姿が映し出された。 捲簾の姿が大映しになると、ブチッと唐突に映像が途切れる。 天蓬は小さく溜息をつくと、スイッチを切った。 「今更ハズしても遅いんですけどねぇ…フフフフ」 楽しげな天蓬の手元にはビデオテープがある。 捲簾がそのテープの存在を知るのは大分後のことだった。 |