あなたへの月(猫てんのわがまま)



…何となく通りかかったら目に付いた。
捲簾は誘われるように足を向ける。

「へぇ〜、こんな場所あったんだ」

そこは病院の裏手にある小さな中庭だった。
のんびり散歩する程広くはなく、だけど手入れの行き届いた芝生に草花。
二人掛けベンチがちょこんと置いてあるだけ。
それでも昼過ぎの陽射しは春先らしい心地よさで。
誰も居ないベンチへ腰掛けて捲簾はぼんやり空を仰いだ。
今まで何で気付かなかったのか。

「…それだけ余裕無かったんだよなぁ」

捲簾は自嘲するように儚い笑みを浮かべて視線を落とした。
この庭への入口は殆ど毎日通り過ぎている。
天蓬が入院している病棟へ向かう途中にあった。
本館の側には入院患者の散歩コースにもなっている広々とした庭がある。
歩道には桜が植えられていて、ついこの前まで美しい花を満開に咲かせていた。
車椅子に乗った患者やリハビリがてらに散歩している人達をよく見かける。
来客用の駐車場横にあるその場所は捲簾も知っていた。
猫になった天蓬が倒れていたのもその庭の植え込みだ。
大抵の入院患者が利用するのはそちらの大きな庭の方らしく、この小さな中庭に捲簾以外の人影は無い。
「天気いいなー…」
穏やかに吹き抜ける風はもう暖かかった。
さわさわと整えられた木々が葉を揺らしている。
この庭だけ時間から取り残されたように、のんびりとした空気が流れていた。
何だか妙に懐かしい感じさえする。

こうしてまた何も考えず穏やかな時間が過ごせるなんて。
1年前なら考えもしなかった。

天蓬を事故に奪われて。
あの頃は生きることを止められなかったけど、ただ生きようとは思わなかった。
だけど諦めることは出来なくて。
その綺麗な瞳は二度と開かない。
捲簾を見つめて嬉しそうに笑いかけることも無い。
抱き締めて『愛してる』と囁いてもくれない。
それでも捲簾より少しだけ低い温もりだけは全然変わらないから。
想いを断ち切ることさえ許してくれない。
ただ横たわって眠り続ける天蓬をどれだけ恨んだか。
心が張り裂けそうな程恋い焦がれたか。

あの気持ちはきっと天蓬にだって分からない。

「あ…れ?捲簾。こんな所に居たんですか?」
物思いに耽っていた捲簾は突然呼び戻された。
ゆっくり振り返れば、車椅子に乗った天蓬が嬉しそうに頬笑んでいる。
「あれ?もうリハビリ終わったのかよ?」
捲簾が眉を顰めて語気を強めると、天蓬がちょいちょいと腕を指差した。
「もう1時間経ってますけど?」
「へ?あれ?マジでっ!?」
「捲簾がお迎えに来てくれなかったから、てっきり仕事に戻っちゃったのかと思いましたよ」
ビックリして目を丸くする捲簾に苦笑した天蓬は、座っているベンチまで車椅子で寄ってくる。
天蓬が少し首を傾げて、マジマジと腕時計を確認している捲簾を覗き込んだ。
「どうしちゃったんですか?何かありました?」
「あー…そんなにぼんやりしてたつもりなかったんだけど、さ。なーんか天気いいし、此処って気持ちいいから、ついつい」
「そうなんですよねぇ…ここ昼過ぎになると丁度陽射しが差し込んで暖かいから。僕もたまに何をする訳でも無いんですけど、のんびり日向ぼっこしちゃうんですよ」
天蓬が空を見上げながら小さく笑うと、捲簾も成る程な。と頷く。
二人の間を穏やかな風がそよいで、僅かに木漏れ日が揺れた。
双眸を和ませ口元に笑みを浮かべる捲簾を、天蓬が嬉しそうに見つめる。
「捲簾…何かこうして二人っきりでのんびりしてると思い出しませんか?」
「んー?何を?」
「前に…捲簾が…僕が猫の時、デートに連れてってくれたじゃないですか」
「お前が猫の時…にか?」
捲簾はきょとんと瞳を瞬かせ、暫し考え込んだ。
天蓬が猫だった時、当然だがそうそう外へ連れ出すことは無かった。
日中ならともかく、特に月の輝く夜に人間の姿へ戻ると分かってからは、尚更遠出で連れて歩くことは出来ない。
せいぜい自分の事務所か金蝉の動物病院、後は近所のペットショップぐらいだ。
猫の『てんぽう』とデートと称して出かけたのなんて、こうして戻る前に釣りへでかけたことと…後?
「まだ分かりませんか?ヒントはニャン・ニャン・ニャーン♪ですよ?」
「ニャンニャンニャーン?って…ああっ!思い出したっ!!」
「あの日もまだ冬なのに今日みたいな暖かいイイ天気でしたよねぇ」
当時を思い出した捲簾を見つめながら天蓬が嬉しそうに笑う。

どうりで懐かしい感じがした訳だ。

「また…捲簾と一緒にあの場所へ行きたいです」
「そうだなぁ…お前が退院したら、てんぽうも連れてみんなで行こっか?」
「…あのチビ猫はどーでもいいです」
プッとわざとらしく頬を膨らませて拗ねる天蓬に、捲簾は仕方なさそうに苦笑いする。
柔らかな陽射しと澄んだ風に包まれ、捲簾は穏やかにあの日を思い返した。






それは突然だった。

「捲簾っ!明日どこか遊びに連れてって下さーいっっ!!」
「……………はぁ??」
夕食後のコーヒーを用意していた捲簾は、突拍子もない我が侭を言う天蓬を驚いて振り返る。
何でいきなりそんなことを言い出すのか。
「明日っ!お天気も良いですし、出かけましょうっ!!」
「…何言っちゃってんの?お前」
捲簾が溜息混じりに呆れて言い返すと、天蓬はしなやかな尻尾をブンブン振り回した。
「明日がいいんですっ!」
「無理。却下」
「お願いしますぅ〜どーしても明日捲簾と遊びに行きたいんですぅ〜」
「んなこと言ったって。明日平日だぞ?俺は仕事があるし」
「ソコを何とかっ!」
「おいおい…」
しつこく食い下がって駄々を捏ねる天蓬に、捲簾は首を捻るしかない。
当然天蓬だって捲簾に仕事があるのは知っている。
前もって強請るならまだしも、つい先程まで遊びに行きたいなど全然これっぽっちも言ってなかったのだ。
唐突に何かを思いついたとしか考えられない。
当然、そんな我が侭に捲簾がうんと首を縦に振ることは出来ないだろう。
ふんぞり返って尻尾を振り回す天蓬の背後ではテレビが点いていた。
ちょうど夜のニュース番組がやっている。
「何?テレビで何かやってたのかよ?」
ゆっくり視線を天蓬へ戻せば、コクリと力強く頷いた。
「やってました。僕は初めて知りましたよ。明日が僕の日だなんてっ!!」
「は?お前の日ぃ??」
祝祭日ならまだしも、天蓬の日?
何時からこの国はそんなモノを制定したんだ?
ますます訳が分からない。
唖然とする捲簾に背を向けた天蓬が、ダダダっとリビングのローボードへ走っていった。
置いてあった卓上カレンダーを掴んで、また勢いよく駆け戻る。
「コレですっ!ほらっ!!」
目の前に差し出されたカレンダーへ捲簾は視線を落とした。
それはいつも買い物しているペットショップで貰った今年のカレンダー。
今日は21日月曜で、明日は22日。
本来なら何てコトはない日付のはずだが、そこには記念日を示す文字が。
「何コレ?猫の日ぃ〜??」
「そうですっ!明日は僕の日だったんですっ!いうなれば猫にとってのひなまつり…ん?僕は男だからこどもの日ですかね?とにかくっ!猫を可愛がる日なんですよっ!!」
「何で明日なんだよ?」
「それは…明日は2月22日。2…にゃん…で、にゃんにゃんにゃーん♪で猫の日なんですって〜♪」

ゴイン☆

「…ただのゴロ合わせじゃねーか」

テーブルに突っ伏した捲簾のこめかみがピクピク引き攣る。
そんな下らない理由で突発的に仕事を休める訳が…。

「ダメですか?」

明日はアポ入ってないんだよなー…。

「どーしてもっ!明日捲簾とデートしたいんですっ!!」

明日中締め切りの仕事って…。

「折角猫の日だし…僕明日は猫なんだし…でも…捲簾…お仕事ありますよね?やっぱり迷惑ですよね?我が儘言える立場じゃないんですもんね…」

あーもうっ!何で明日って日に限って大した仕事がねーんだよっ!?

先程までの勢いは何処へやら。
ぽつぽつと話ながら耳をペッタリ寝かせた天蓬が、寂しそうに俯いた。
長い尻尾もだらんと力なく垂れ下がる。
捲簾は仕方なさそうに溜息を零して、落ちた前髪を掻き上げた。

「…午前中は仕事の確認しなきゃなんねぇけど、午後からならいいぞ」
「え?でも…無理しなくてもいいですよ?」
「猫の日なんだろっ!だったらお前の好きなように付き合ってやるつってんのっ!!」
「けんれーんっvvv」
喜びで尻尾を振りたくった天蓬が思いっきり突進してくる。
「嬉しいですっ!嬉しいですぅ〜〜〜っっ!!」
「あーもうっ!分かったって…くすぐってぇよっ!」
ガッチリ抱きついた天蓬は捲簾の頬へ、スリスリと猫耳を擦り付けてきた。
猫だろうと何だろうと、結局捲簾は天蓬に甘えられると弱い。
「んで?デートしたいって大騒ぎするからには、どっか行きたいとこがあんだろ?」
「さすが捲簾…ですが、直ぐにバレちゃうのは何だかつまんないですねぇ」
「バレねーとでも思ってんの?俺がお前のことで?」
口元に笑みを浮かべて額をぶつければ、照れ臭そうに天蓬が微笑んだ。
天蓬がこんな表情を見せるのは捲簾にだけ。
優越感に捲簾の独占欲が満たされる。
抱きついている天蓬をそのままソファまで、運んで膝の上に抱え直した。
視線を上げると微笑んだ天蓬が捲簾の唇に柔らかなキスを落とす。
「僕ね?捲簾に逢いたくてこのマンションに向ってたとき、見つけた場所があって」
「ふーん…それ何処?」
「公園なんですけど。あんなに広い公園がこの辺りにあるなんて全然知らなかったんですよね」
「公園ねぇ…んじゃピクニックでもすっか?」
「お弁当作ってくださいね?」
「おうっ!でもさ、そんな健全なデートなんか…もしかして初めてじゃねーか?」
「え?でも…前に何度か釣りに出かけたことあるでしょう?」
「それは金蝉や悟空とか、事務所の連中も一緒だったじゃねーか」
「そうでした」
天蓬と以前の職場で出逢って恋人になってからも、大抵は買い物か夜飲みへ出かけたりレイトショーを見に行ったりと、街中でデートばかりしていた。
ちょっと車で遠出して釣りが趣味の捲簾に付き合うこともあったが、大抵は誰かしら誘って大人数だったり。

「…何か新鮮でいーかも」
「僕…ちょっとドキドキしてきました」

二人は顔を見合わせ、同時に噴き出した。
「アッハッハッ!なぁ〜に緊張してんだよっ!」
「捲簾だってっ!ほっぺた赤らめたりしちゃってっ!」
一頻り笑い合った後、互いをぎゅっと抱き締める。

「デート、しましょうね?」
「ん…でも『てんぽう』とだけどな?」
「もう…僕は僕ですって」
「分かってるよ!弁当いーっぱい作って持ってこーな?」
「おやつもお願いします」

抱き合ったまま二人は楽しそうに明日の予定に思いを馳せた。



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