St.Valentine's princess



久しぶりに部屋から出てきた天蓬は、両手に書類の束を抱えて執務棟へ向かっていた。

カラッコ☆
カラッコ☆
カラッコ☆

回廊に軽快な便所ゲタの音が響いている。
「はぁー…イイ天気ですねぇ。こんな日は日向ぼっこしながらゆっくり本が読みたいですv」
…昨夜100冊読破したことはすっかり忘却の彼方らしい。
軍舎から執務棟への連絡通路に入ろうとした天蓬は、ふと歩みを止めた。
途端に顔から表情が消える。
神経を研ぎ澄まさせて、慎重に周囲を探った。
「何だか…アッチコッチから視線が飛んでくるんですけど?」
正体不明の不躾な視線に、天蓬は不快感も隠さず顔を顰める。
フワフワ〜ッとした視線が、先程から絶えず追いかけてくる気がしてならない。
天蓬は背筋が痒くなるような薄気味悪さに溜息吐くと、足早に執務棟へと入った。

すると。
途端に不快な視線はピタリと途切れる。

「…訳分かりません」
天蓬はガシガシと頭を掻いて、壁に凭れ掛かった。
久しぶりに部屋から出たので、何だか時間から取り残された気になる。
それはそれで一向に構わないが、この奇妙な空気の変化は一体何だろうか。
平素から天蓬は望まなくてもヒトの視線を惹き付ける『華』があった。
天界随一と言われる頭脳に、秀麗な美貌。
誰もが自分の元へと、公私共に天蓬を手に入れたいと望んでいる。
天蓬本人に取っては有り難迷惑甚だしいが、幼少の頃から今までずっとそんな状況だったので、あしらい方も慣れていた。
それとは別に負の感情も付きまとう。
羨望するあまり妬みや憎しみを向けられることも多かった。
下手に馴れ馴れしくされるぐらいなら、いっそ憎まれた方が対処もしやすい。
完膚無きまでに相手を叩きのめせば済む。
憧れと憎しみ。
そう言う意味合いの視線は分かるのだが。

…この甘ったるいほんわか雰囲気は何なんでしょうか?

考えたところで分からないので、さっさと執務室へ赴き誰かに確かめようと、また天蓬は歩き出した。
執務棟の正面玄関前を通り過ぎようとした時、視界の隅に何だか見慣れないモノが見える。
思わず立ち止まって、天蓬はグルンと首を回した。
「こんなモノ今まで在りませんでしたよねぇ?」
キョロキョロと辺りを確認してから、おもむろにナゾの物体へ近づいた。

木製のロッカーのようなクロゼットのような。
上下二段に扉が付いていて、どういう訳か自分の名前まで書かれている。
しかもピンクの字でハートマーク付き。
この筆跡には見覚えがあった。

「捲簾が買ってきたんでしょうか?ロッカーを??」
天蓬は興味津々でパカッと蓋のような扉を開けて、中へ頭を突っ込み観察する。
ロングブーツでさえ入る大きさなので、下駄箱だとは思いつかないようだ。
しげしげと眺めてから、天蓬は元通り扉を閉めて首を傾げる。
突然執務棟の玄関脇に設置されたロッカー?らしいモノ。
捲簾とは顔を合わせていたが、特に何も言ってなかった。
よく見れば下の扉には捲簾の名前も書いてある。
「困りました…僕としたことが。全っ然分かりませんねぇ」

愛する可愛い僕の捲簾に係わる(らしい)コトなのにっ!

すっかり手にした書類のことも忘れて唸っていると、執務室から出てきた部下達に発見された。
天蓬を見つめて部下達が顔を引き攣らせる。

「…今度は元帥か。下駄箱の前に正座して何されてるんだろう?」
「…いちおう声掛けないと不味いよな?元帥が持ってるアレ、今日提出の書類だろ?」

部下達は顔を見合わせて溜息吐くと、恐る恐る声を掛けた。
「あのー?元帥〜何なさってるんですか〜?」
「あぁ…ちょっと聞きたいんですけどね?」

…聞いているのはコッチの方なんですが。

つつつと冷や汗を流しつつ、部下達が愛想笑いを浮かべる。
しかし天蓬はあっさり部下達の言葉を聞き流して、じっと前を眺めてコックリ首を傾げた。
「コレって何でしょうか?名前が書いてあるので僕と捲簾のだって言うのは分かるんですけどね?」
今度は捲簾専用の扉をパカッと開けて、顔を突っ込んだ。
やっぱり自分の方と同様、取り立てて物珍しくもないただの箱だった。
「あぁ、それは大将が先日お作りになった下駄箱ですよ」
「下駄箱…何ですかコレ?」
部下の説明に天蓬はキョトンと瞬きをする。
何でいきなり下駄箱なんか必要になったのか。
しかも自分と捲簾の分だけ。
それどころか部下の話では捲簾自身が作ったらしい。
「???」
ますます分からなくなって扉をぱかぱか開けていると、部下達も一緒に首を傾げた。
「自分達も大将から何で下駄箱がいるのか聞いてないんですよ。伺っても教えて貰えませんでしたから」
「ふ〜ん…捲簾のことだから何か理由があるとは思うんですけどねぇ」
さすがの天蓬も『ヴァレンタインデーにプレゼントする捲簾お手製スペシャルエクセレントスィートチョコレートケーキを渡すために作った愛の下駄箱vvv』とは気付くはずもない。
とりあえず捲簾本人から直接聞いた方が良さそうだ。
それに理由はどうあれ、捲簾が作った下駄箱なら大事に扱わなくてはいけない。
天蓬は立ち上がって、ホコリの付いた白衣をパタパタ叩いた。
開け放した扉を閉めようとした天蓬は、ふいに動きを止めて何事か思案する。
「下駄箱と言うからには、履き物を入れて置いた方がいいですよね?」
「は?あ…そうでしょうけど」
上司の言葉に言い淀んだ部下達の視線は、足許の便所ゲタへと注がれた。
天蓬の場合、愛用している便所ゲタそのものが既に内履きと同じだ。
普段からそのまま外にだって出ているのに、今更どうするのだろう。
やはり設置されたからには、きちんと靴を履いて此処で履き替えるようにするのか。
部下達もどう返せばいいか逡巡していると、天蓬は突然その場で履いていた便所ゲタを脱いだ。
そのゲタをそのまま捲簾特製下駄箱へと入れて扉を閉める。
さすがに部下達は驚いて、真ん丸く目を見開いた。
「あのっ!元帥…足許はどうされるんですか!?」
そのまま書類を持ってスタスタ歩き出す天蓬へ、我に返った部下達が慌てて声を掛ける。
「え?こういう時を考えて、執務室に便所ゲタの予備が置いてありますから大丈夫ですよ〜」

…こういう時ってどう言う時だろう?

部下達が唖然とするのも気にせず、天蓬は靴下のままどんどん歩いていく。
「ところで捲簾はどうしてますか?今日の予定は」
「大将ですか?今日は有休ですが?」
「…何ですって?」
ピタッと天蓬の足取りが止まった。
グルンッと身体ごと回転して、背後の部下を振り返る。
「捲簾は有休なんですか?今日?」
「は、はいっ!先週から申請されてましたが…何か?」
「おかしいですねぇ…僕は捲簾から何も聞いてませんが?」
「え?元帥お聞きになってなかったんですか?」
「昨夜も僕の部屋に捲簾来ましたけど…特に何も言いませんでした」
何やら怪しい雲行きになってきた天蓬の雰囲気に、部下達の表情に怯えが走った。
蛇に睨まれた蛙宜しく、じりじりと冷や汗を流して恐怖で硬直する。
「捲簾が僕に内緒で有休を取るなんて…何処で何をしているやら」
底冷えする程低い声音に、部下達がガタガタ震え上がった。

何せ捲簾は良くモテる。

本人にその気がなくても、ダダ漏れしている悩殺フェロモンに引き寄せられる連中が男女問わず後を絶たない。
西方軍へ来る前は、艶っぽい浮き名は垂れ流し状態。
実際それが原因で、東方軍から西方軍へ『移籍』と言う名の厄介払いをされたようなもんだ。
現在は天蓬の愛するハニーで、そういったコトも無いが油断は禁物。
周りの方が黙って指を銜えて捲簾を放っておくとは思えなかった。
嫉妬で真っ黒い気を放ち始める天蓬を、部下達はおろおろしながら眺めるだけで逃げることさえ出来ない。
「貴方達…捲簾から有休の理由を聞いてませんか?」
殊更優しげな声が部下達の恐怖を倍増させた。
しかし尋ねられれば黙って無視する訳にはいかない。

「え…えっと、ですね?お前理由聞いてないか?」
「へっ!?俺?え…理由ですよね?な…何だっておっしゃってたかな?」
「バカ!お前が届け受け取ったんだろ!何でも良いから思い出せっ!!」
「そんなこと言われたって〜」
部下達が互いを肘で突っつき合っていると、天蓬の笑顔が益々禍々しく輝いてきた。

こっこここここ恐いですっ!元帥ぃ〜っっ!!!

涙目になって部下達が、捲簾から有休届を受け取った日を必死の形相で回想する。

「………あ、そうだっ!」

部下の一人が何かを思いだしたらしい。
「昨日大将から有休を取るからって、昼に訓練棟で戦闘シミュレーションした時言われまして。どこか旅行でも行かれるんですか?って窺ったんです。そしたら…」

『んー?1日じゃ旅行になんねーだろ?』
『それもそうですね。じゃぁ城下へ買い物にでも行かれるんですか?』
『そ。結構買うモノがあってよ〜。チョコも結構量必要だし、可愛いラッピング用品も欲しいしさ。それに普段使わねーような材料もあるんだよな〜ラズベリーとか』
『……………チョコ、買われるんですか?』
『やっぱさ〜本命には愛の手作りチョコだよなvvv』
『そ…そうですね。頑張って下さい…大将』

部下は『男前で格好いい大将が手作りチョコをっ!?』と大層衝撃を受けたので、その時の話を無意識に頭の隅へ追いやっていた。
「捲簾が…チョコを?」
そこで漸く天蓬はさっきから感じていたほわわ〜んと甘ったるい空気の原因を思い出した。

明日はヴァレンタインデーでしたねぇ。

どうりで鬱陶しい秋波が自分に向かってビシビシと飛んでくる訳だ。
暢気に考えていると、肝心なことに気付く。
「ちょっと待って下さい。捲簾は本命に愛の手作りチョコを作るって言ってたんですねっ!?」
物凄い形相で回廊を戻って詰め寄る天蓬に、部下達は腰が抜けてひっくり返った。
「大切なことなんですよっ!どうなんですか?捲簾は言ってたんですよねっ!?」
「はいっ!大将はチョコを手作りするから、城下へ買い出しに出かけてるそうですーっっ!!」
部下達が半泣きになって訴えると。

ぽわわわわ〜んvvv

一気に緊張した空気が霧散した。
「そうですかー…捲簾が僕に愛の手作りチョコをvvv」
天蓬の周囲がキラキラとピンク色に輝き出す。
呆然と見守る部下達の前で、天蓬はふふふっと含み笑いを零しながらクルクル回った。
「もぅっ!捲簾ってば何て奥ゆかしいヒトなんでしょうねっ!きっと僕に内緒にして驚かせようとしてるんですねぇ〜可愛らしいったらっ!」
白衣の裾を広げて踊り回る天蓬が、急に動きを止めた。
そのまま『ん?』と何やら首を捻る。
「チョコは分かりますけど…下駄箱は何の意味があるんでしょうか?どう思います?」
いきなり話掛けられても、部下達はただただ首を横へ振ることしかできない。

天界の至宝と誉れ高い優秀な天蓬の頭脳でも、『チョコは下駄箱へ入れて渡す!』という乙女の法則は情報として入って無かった。
故にチョコと下駄箱の関連性は分からず終い。

天蓬は捲簾に確かめることも出来ずに、1日悩んで仕事にならなかった。



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