これは、「戦争論(1)戦後責任」とも関わりのあるテーマです。
経済について話している中、ドルを買うべしか、ユーロを買うべしか?という点で意見が対立した。
現在、年頭よりブラジル通貨レアルの切り下げと変動相場制への移行と、ブラジル経済が破綻している中、IMFはさらにブラジルに対し、さらなる融資を決定した。
やっぱり、世界の機軸通貨、ドルが中南米金融不安で暴落するのがコワイから、ほぼアメリカ主導のIMFがタイやインドネシア以上に中南米に多くをつぎ込むのは大国のおごりだなぁと、私は感じている。だからこそドルは今でもそこそこの水準を維持することができているのだ。
けれど、次第にユーロランドの統合通貨ユーロが動き始め、私個人としては、ドルとユーロの2本柱の通貨が今後の世界経済において機軸となるのではと漠然と考えている。
そんな経済の話から、大陸の話に突然話が飛んでしまった。
「まぁ、そういう背景(IMFのブラジル融資による米国経済への飛び火の懸念回避)はあるけど、私はユーロには将来的な展望があると思ってるの」
「でも、自分に言わせればユーロはあぶなっかしい。何たってフランスとイギリスは犬猿だし、東欧は特に、元々社会主義国だから、足を引っ張りそうだね。ヨーロッパ合衆国となるならば話は別だけれど、やっぱり経済的にも活発な大国のドルだよ」
「それもそうね。でも所詮アメリカは島国と同じよ。異文化が混在した大陸で育くまれてきた欧米諸国には底力があると思う。それらが手を組んで、本気で立ち上がったら、アメリカがかなう相手じゃないと思うわ」
「アメリカも、大陸だよ?」
「そうなんだけど・・・私の中ではユーラシア(アジア)大陸だけが大陸だと思ってるのよ。アメリカ大陸・南アメリカ大陸・アフリカ大陸・オーストラリア大陸。全部島国と同じよ」
「どうして?」
「それぞれの大陸ごとに、似通った文化があるでしょ。要するに大陸のカラーがかなり統一されてるの。その中で、全く異なる異文化が混在し、その異文化の歴史を今も受け継いでるのはユーラシア大陸だけじゃないかと私は思うのよ。そういう面で、私の意識の中で大陸たるのはユーラシア大陸だけなの。アメリカとカナダって文化や政治的背景なんか、似てるでしょ。なんとなくひとくくりにできる。中南米もそうでしょ。他の大陸も・・・。
その中で、ユーロの発足したヨーロッパ諸国は、異文化の混在した大陸の中で、それらのカラーを失わず生き抜いてきた国々の連合のひとつとして、本当の意味での国家としての強さを秘めてると思うのよ」
ばかげてる考え方?
これは、アメリカ大陸は米国でしかなく、南アメリカ大陸は中南米でしかなく、アフリカ大陸はアフリカでしかなく、オーストラリア大陸はオーストラリアでしかない。しかし、ユーラシア大陸は、ロシアであり、ヨーロッパ諸国であり、インドであり、中国であり、イラン・イラクである・・・という、私独自の視点だ。
私の感覚的にはそう思っている。物理的な土地の面積や国家の数ではなく、大局的な民族の文化を大陸の基準としてとらえてるという考え方には、当然多くの反論があろうが、あくまでも私の中での価値観ということを前提にこの話を読んで頂きたい。
「でも、日本は歴然とした島国だよね。しかも、どのカラーにも属さない。良くも悪くもかなり独特の文化を抱く島国」
今日は、私の考える島国日本の文化についての端的な特徴と、その所感を、ここで語ってみる。
(1)歴史・地理的背景について
日本は紛れもない島国である。
大地に、国境線の存在しない島国。
だからこそ、自分たちの民族の文化を自分たちだけで護ることができ、それを比較的長い期間、保ち続けることができた。日本の歴史、そして文化は、島国であるからこそ大切に護られてきたのだ。
単一民族(厳密には微妙に違うかな)の国であり、更にそれを統括する制度「天皇制」。
その微妙なバランスが、日本を独特の文化に仕立てあげてきた。
しかし、まったく文化の断絶があったわけではない。
古くは、「遣唐使、遣隋使」に知られるよう、隣国との海を渡った交流が存在する。
隣国に留まらず、オランダをはじめとする西洋など、多くの文化的な国際的交流が行われてきた。
他国の優れた文化を取り込む日本の柔軟さにはただ脱帽である。それは今でも生きている。
それらの交流は、長崎の出島などから始まり、ごく限られた地域においての部分的な開国であったと聞く。
しかし、そこから一旦日本に異文化・異風俗が広まり始めると、政府はそれを取り締まった。
隠れキリシタンを取り締まっていたことから始まる、島原の乱に代表されるよう、その過激さはすさまじい。
戦国時代の鉄砲技術にみられるように、日本は他国のおいしい面を上手に取り込むのが得意だった。
ただ、これは何も日本に限ったことではないが。
しかし、その反面、何より自国の文化や風俗を重んじ、異文化に染まることを恐れていたのである。
島国という地理的条件がそれを助長していたことはいうまでもない。鎖国という政策はそれを逆手にとったやりかただ。
ヨーロッパ諸国においては、隣国間にて、文化、あるいは国境、民族問題などを包括した多くの国家的闘争が起こっており、諸国も日本のように、異文化に染まることを恐れ、また自国の国益を主張していた。今でもそれは歴然としてある。そして、ときに侵略、思想の剥奪、そして植民地化が行われていた。
日本の何よりも大きい特徴は、侵略され、植民地化された経験がないということである。
思想を剥奪された経験がないのである。
だからこそ、良くも悪くも日本は古来の文化を未だ保ち続けることができてきたのだ。
(2)大和魂について
日本人には、よく言われる勤勉さとともに。「大和魂」という独特の民族的意識がある。
中でも、論理より美学を重んずる。それらの「美学」は私たちが意識せずとも生活に未だ根付いているのではないだろうか。
武士道では「武士に二言はない」「雨が降っても軒先を借りず歩く」「道はまっすぐ歩き、曲がり角では直角に曲がる」
そのような日常のごくあたりまえの事に対する美学・信念という独特の意識が、はるか昔から根付いているのだ。
これらは、国際的な文化の視点からみて、一種、独特のものであり、その意識が個としての誇りに直結している。
大局的な言い方で、「恥の文化」とも言われる。
戦国時代以後、武士においては「切腹」という行為が存在した。
切腹というのは、武士が何も言わずに、ただ己の身だけを犠牲にして責任をとるという考え方の顕著に顕れた一番わかりやすい例だ。それは、どこを探しても日本独特の民族風俗であると思う。
「生き恥をさらし続けるくらいならば、死を」
潔い。しかし、ある意味では楽な、逃げをとる姿勢ともとれる。
責任問題の所在をすべて自分が背負い、死というかたちでナァナァにすることにより、その責任を回避する。
そして、死という重い道を選んだことで、他の人もその責任回避について追求しない。そこで完結してしまう体質が、日本にはある。
青島東京都知事の時もそうだったことが、記憶に新しい。今でもその意識は歴然として存在しているのだ。
何もかも自分で背負う体質。最後に立場がますますやばくなったら逃げる切腹習慣。
それはある視点、利己主義の典型的なかたちである、他人を追求しない、自分を追求する。
それは結果的に自己に重い鎧をきせ、自己というレベルを国家としての意識までに引き上げることをしない、個としての「自己完結」の美学でもある。
つまり、その問題に対して、組織というネットワークにおける視点が存在しないのだ。
しかし、だからこそ生きている日本のすばらしい面も存在する。
勤勉であるということは、個としての意識がそれだけ高いということである。
物事に対して、当たり前のように自分の持てるエネルギーをそそぎ込むこと。
それらが無意識に出ている。働き過ぎの国と言われるが、それは個としてのエネルギーが個人の目標に向かって一直線に伸びているという事に他ならない。そして、それをできる人間は「誠実」であると言われる。そしてそれもまた、美学である。
多くの日本人は、自分たちのおかれた環境や政策に対して、そのまま従うことが多い。
身近な問題に対しても、批判こそあれ、時間がたてばそのありのままを受け入れ、自分の中の器の枠をそのガイドラインに沿って広げるだけのことが、当たり前であるという意識。
やるべきことを、自分の手によって面倒みる。ありのままを受け入れ、それを処理するのは個人なのだ。
ありのままをありのままに受け入れる体質。それは、曖昧体質にも通ずる。
器が広い、ありのまま体質。あるがまま体質。
それらはすべてにおいて、良くも悪くも、集団という視点より個としての視点に重きをおいていた大和魂と呼ぶに他ならない。
(3)宗教と文化について
日本の文化は、宗教的な背景によって培われている部分が多く存在する。
日本の宗教は、今でこそインドより渡来した仏教徒が多く普及しているが、日本という国家としての存在は古代より代々続いた神道を礎としている。天照大神を代表し、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の武勇伝でもある日本書紀から、その歴史は始まっている。
この神道の、特に際だった特徴として、「天照大神」は存在するが、それを唯一神として崇めているのではないという意識が挙げられる。それは、キリスト教におけるキリスト、イスラム教におけるアラーのような存在とは明らかに違うものであると私は考えている。
この日本古来の宗教の趣旨の要点について簡単に私なりの見解を説明する。
- 日本古来の神は、神という名こそあれ、その存在が個の行動として何者をも束縛するものではないこと。
- すべての生きとし生けるものは神の恵みであり、人間はそれを享受する立場でしかないという意識。
- 自分の命は自らのものでなく、太陽を象徴する、天照大神に護られているからこそ、自分が生きうることができているという感謝。
- 自分の能力は天からの備わりものであるという意識。
- 自然崇拝。
- 裁きという名のガイドラインが存在しない、性善説に裏打ちされた宗教観。
その中でも、もっとも重きをおいているのが、自然崇拝という意識である。
映画「もののけ姫」にも、その意識ははっきりと描かれている。
それは自然回帰ともいえる、「大いなる大地の恵み」に対する感謝の念。あるがままの境遇の中で、至極シンプルな「生への感謝」という、はぐくまれた自然を尊ぶ独特の信仰体系。
(ただしこれは他の宗教を崇める国からみれば、レベルの低い信仰らしい)
でも、その「神」というものには 唯一神というものが存在せず、どちらかというと、「神は自分の心が決める」という感覚ではないだろうか。
「天照大神が、自然を守ってくれる。守ってくれることに感謝しましょう」というのが、日本古来の宗教の原点ではないかと私は思う。
そのような視点を意識してる日本人がどれだけいるだろう。
キリスト教においては、「人間は神の子であるからして、それに恥じない行動をしましょう」とし、ローマ法王が代々続いているように、行動を裁くガイドラインが存在し、行動を宗教に裏付けされた心によって裁き、懺悔をする。
イスラム教においても、「目には目を、歯には歯を」というように、裁きの文化が根付いている。
そして、それらの宗教はすべての生活、善悪の価値観の礎を担っているのだ。
日本においては、その「裁きの文化」が存在しない。
宗教に裏打ちされた善悪の価値観の意識も、曖昧だ。
これは、戦争論(1)でも指摘したように、「自らを省みて裁くことをしない」という事実の、明らかな宗教的裏付けではないだろうか。
おかしなことを自ら裁こうとしない。おかしなことに気づこうとしない。
外圧でしか、変革を行うことができなかった。
そして、外圧を当たり前のようにすんなりと受け入れ、自国の文化としてしまう器の大きさ、すなわち「なじみやすい体質」。良くも悪くもそれは日本独特の風潮ではないかと私は思う。
次に、自らの能力は天からの授かりものであるという、「謙譲の美学」。
日本人は、謙虚だ。たとえ口先だけであっても。明らかに自らの努力で勝ち得た栄誉に対して、多くの日本人はこのような台詞を述べるであろう。
「周りの暖かいご指導とご尽力の賜です」
自分の力だけでここまで来れたのではないという、天からの恵みに感謝するという意識が、このような風潮にも顕れている。
また、千利休の遺した「茶道」には、日本人の美学が総結集されており、その中でもその神道に通ずる論が生きている。
私が昔習っていた、茶道裏千家の「ことば」。
これは、いつもお稽古の前に必ず、皆で朗読する習慣のあった茶道の心得のようなものである。
私たちは茶道の真の相を学び、それを実践にうつして、
たえず己の心を省みて一碗を手にしては多くの恩愛に感謝を捧げ、
お互いに人々によって生かされていることを知る茶道のよさを、
みんなに伝えるよう努力しましょう。
一、他人をあなどることなく、いつも思いやりが先にたつように
一、家元は親、同門は兄弟で、共に一体であるから誰にあっても合掌する心を忘れないように
一、道を修め、なほ励みつつも初心を忘れぬように
一、豊かな心で、人々に交わり世の中が明るく暮らせるように
これらは、個としての向上、感謝の美学、謙譲の美学が色濃く顕れたものだ。
そして、この「ことば」以外にも、私は多くの千利休の教えを、茶道を続けた3年間のうちに多く学ぶことができた。
どれもが、精神論であり、美学が先に立つ文化。それは、日本の神道によって裏打ちされた歴史に深くつながりがあるのだ。
例えば茶の湯の会を催すときに活ける生け花。自然にあるがままに。その季節のその花をあるがままに活ける。
茶道の所作には、流れるような規則があり、それらどれ1つとってみても、無駄な動きが存在しない。
ただ、静寂があり、さりげない自然を尊び、ありのままの美しさを自らの心の中で悟ろうとする、わびさびがある。
それらはまさに茶道における、そして日本人の文化的意識の根底にある意識。
それは「美学」なのだ。
(4)ユーラシア大陸を考える
島国日本の固有の文化は、大地に国境線のない島国であったからこそ我が国の祖先がそのほとんどを純粋に培うことができたということに他ならない。
しかし、大陸の国々は、大地に国境線があり、国境を守るという意識があり、隣国の動向、そしてその均衡を常に意識していなければならなかった。海を隔てた隣国しか存在しない我が国と違って。
こと、ユーラシア大陸には多くの民族、宗教、芸術、文化、政策が混在している。
西は英仏をはじめとするEU諸国より始まり、中近東、インド、中国、韓国と延びる。
また北欧諸国にロシアも存在している。
それらは皆異なった宗教、民族風俗、社会体制を持ち、必死の思いで守り続けるしかなかった自国の誇りがあり、長い歴史の中で、その文化を時としてやむを得ず迫害・略奪される闘争も数多くあった。
今のユーラシア大陸諸国の文化はそんな中でかろうじて生き延びている固有の民族文化なのである。
それらへの努力の大きさは、おそらく日本の比ではないだろう。
常に、国境線に目を光らせ、国際社会の中での自国の立場を意識した外交を行う必要性があり、それが自国の栄枯の運命を決定づける。だからこそ、それが当然の意識だったのではないだろうか。
島国日本が、他国を侵略するという、明らかな国際的国境問題を露わにしたのは、ごく近代である。
それは、西郷隆盛の「征韓論」から動き出した。(と記憶する。間違いがあれば指摘してください)
国際交流の歴史は古いが、国際社会としての自国の立場を考える歴史は、日本は本当に浅いのだ。
日本は戦国武将の領地争いに代表されるよう、他国との領土争いなどより先に、国内の武将の中での領土争いが盛んに行われていた。それらは個のエネルギーに、より近いものである。なぜなら、戦国武将もすべて同じ法のもと、天皇のもとに統治されており、その立場的なものは同列なのである。
しかし国際社会においては、どの国も違った法のもと、違った支配者のもとに統治されており、隣国関係は同じ高さで見ることはできない。立場は同列ではないのだ。
そのような国際社会における視点に対して、日本はまさに手探り状態で近代社会に突入し、朝鮮戦争、日露戦争、太平洋戦争と続いていったのである。そして敗戦後、世界中を敵に回し、今もその処理は終わっていない。
これは国際世界における立場的意識の軽薄さをも、また物語っている。
「人類皆兄弟」という言葉がある。
これを額面通りに受け取っているのは日本だけではないだろうか。
人類皆兄弟。しかし、育った環境や文化、価値観に加え、自国の立場を常に意識しなければならない。
国際社会において、同じ視点で他国を見るのは間違いである。自国の文化を礎として見るのではなく、それぞれの国々の文化や立場を意識して、それを礎に他国を理解していかなければならない。
その意識は、日本が島国であるからこそ、まだまだ到底大陸の国々に及ばないと考えるのは私だけだろうか。
そして、その意識を常にはるか昔から民族の価値観の1つとして備えてきた、様々な文化の混在した大陸の国々には、外交政策、国際社会を相手とした経済、政治において、底力があると考えるのは私だけだろうか。
社会主義国家と民主主義国家が共存し、異なった宗教がそれぞれを支配するユーラシア大陸。
私は、培われてきた日本独自の文化をこれからも守ることとともに、その混沌としたカオスのような大陸の歴史に、多くの学ぶべきことを見いだし、考えたい、考えてほしいと思う。
今までの歴史上の経験を、これからの未来に生かしていくために。
(5)おわりに
このテーマは戦争論同様、語りきれなかった事が多く、やや偏った(批判的?)視点になってしまった。
もっと深く、テーマを掘り下げて色々な視点での意見を書きたかったが、あまりに大きな範囲を含むテーマなので、自分の文章力と量がそれに追いつかず、少し偏りのある尻つぼみに終わった気がする。
私の考え方って右翼的?左翼的?保守派?リベラル派?
自分でも自分の意識がどれに属しているのか良くわからないし、その知識もお粗末なもので申し訳ないと思う。
他の語りにも言えることだけれど、私自身の考えは正しいものと断言する気はないし、その考えを人に押しつけるつもりはない。ただ、自分が感じたことや考えたことを、言葉というかたちで残しておきいというだけで、何の政治的他意もないことをここでお断りしておく。 |