路面電車のある街角 - Osiwiecim:Poland -

- アウシュヴィッツ強制収容所を訪ねて -
Auschwits - ナチス強制収容所 -


The voice of thy brother's blood crieth unto Me from the ground...
--- Oswiecim Poland 2003 ----

誰もが一度は耳にしたことがある「アウシュヴィッツ」。
私がその存在を知ったのは高校を卒業してしばらくした頃。
名古屋城にほど近いなんだかの文化会館にて、アウシュヴィッツ展が開催されていた記憶がある。
何でも、戦争の時代、強制的に労働させられ、そして無念にも多くの人の命がここで失われたという。
私は、ベトナム戦争や湾岸戦争と同じような、過激ドキュメンタリーのようなレベルで受け止め、その深くを知ろうとはしなかった。

その頃の私にとって、アウシュヴィッツよりも、
ハーブスのミルクレープを食べて微笑み、夜景の見えるバーでカクテルの味を覚える時間が大切だった時代。
そんな贅沢な時間や願望が許される時代に生まれ、生きている私自身と、このアウシュヴィッツで人生の時を過ごした人々の世界はまるっきり違っていた。

重々しい雨雲が広がる天気の悪い朝、
クラクフの駅裏から曇りのとれない湿っぽいバスで1時間半揺られ、たどり着いた街「オシヴィエンチム」。
ここはクラクフから見て、南西の方向にある。
泥炭質の痩せた土地は荒涼としており、
踏みしめた土は黒く、粘土のように執拗に私のスニーカーにへばりつく。


ARBEIT MACHT FREI -働けば自由になる-

この旅の中で私が一番訪ねてみたかったのが、このアウシュヴィッツ強制収容所。
「アウシュヴィッツ」という名はポーランド固有の呼称ではない。
第二次世界大戦中、ドイツ軍に占領されたポーランドという国の片隅にある、オシヴィエンチムという名前の小さな街。
1940年、ドイツ軍は、この街を「アウシュヴィッツ」と名づけ、そこに強制収容所を造った。


Bの文字はなぜか逆さま。
それはこうして踏切の旗に隠れるから?

このアウシュヴィッツ強制収容所は、その後約5年間、ナチスドイツによって運営され、多くの政治犯、ソ連軍の捕虜、およびユダヤ人が送り込まれたホロコーストの悲劇の舞台となる。

 


有刺鉄線には高圧電流が流れていた

この収容所が設立された当時は、一階建ての建物が14棟と、二階建ての建物が6棟。
しかしその翌年より、一階建ての建物は囚人の労働力によってすべて二階建てに改築され、そして新しく8棟の建物が増築される。
最終的にアウシュヴィッツには30棟の建物と管理棟、厨房などからなる巨大なコミュニティとなり、最大2万8千人、平均して13,000〜16,000人の囚人が入居していたそう。
これらの敷地内は自由に歩くことができ、また当時囚人房であった建物の中に入り、展示されている史料を閲覧することができるのだけれど、 真剣に廻れば、1日軽く過ぎてしまうくらいの膨大なホロコーストにまつわる史料の展示量に呆然とした。
雨は容赦なく折りたたみの小さな傘を打ち付けている。


そこかしこにある見張り台と
整然と並ぶ囚人房の数々。ここは「病院」。

収容所の入り口には「ARBEIT MACHT FREI」とプレートが掲げられている。
これは「働けば自由になる」という意味。
毎日、このアーチをくぐってたくさんの囚人が強制労働にかり出され、そして、「自由」への憧れとともにこの門をくぐる。
なんて皮肉な毎日なのだろうか。
門をくぐれば自由がそこにあるのにという気持ちを胸に、見張り台からゲシュタポが監視するこのアーチの両脇では、収容所の音楽隊が、囚人の行進のための行進曲を演奏していた。


囚人房の入り口

私がこのアウシュヴィッツにおいて一番に驚いたことは、この歴史史料を保存し、後世に残すために、たくさんの基金がドイツから送られ続け、それをもとに運営されていること。
そして、この博物館を訪れる人々は、ドイツ人が最も多いということ。
ドイツ軍が行ったホロコースト、その時代を忘れないために訪れるドイツ人。
歴史的な意義はともかく、ハワイの真珠湾を訪れないまま、海辺でリゾートして美味しいものを食べて街を闊歩する私を含めた日本人。
戦争という言葉が遠い昔の時代の遺物となった私たちとは対極に、ドイツではこの戦争を、今でも個人個人が真正面から捉えている。
ドイツ人にとっての第二次世界大戦は、国と国との戦争だけではなく、
国民の中での戦争でもあるという、非常に複雑な背景を持っている。


アウシュヴィッツの構造図

もちろん、ドイツ軍の強制収容所はアウシュヴィッツだけでなく、他各地にたくさん存在した。
ポーランド北部のトレブリンカ、ルブリンのマイダネク。
ドイツにおいては、ベルリンのザグゼンハウゼン、ミュンヘンのダッハウ、ヴァイマールのブーヘンヴァルト、ハンブルグのベルゲン・ベルゼン。
オーストリアのマウトハウゼン。
他にもたくさんの強制収容所が存在し、今も残っている場所が多くある。
これら多くの収容所の史料についても、アウシュヴィッツに展示されているものは少なくない。

たくさんの収容所がある中。
このアウシュヴィッツはその中でも最も大規模な収容所であった。
最初はポーランド国内のみの政治犯を収容するための刑務所であったはずのこの施設は、まもなくヨーロッパ各地のユダヤ人、ロマ(ジプシー)らを収容する施設となっていく。

地形的に、ポーランドはヨーロッパ諸国のほぼ中央に位置しており、また国土地形も平坦で、ヨーロッパ諸国からの捕虜や囚人の移送に最も適していた。
北は英国、南はトルコから、多くの人々が搬送されてきている。
そして、オシヴィエンチムの街は土地が痩せている泥炭地であり、このあたりに住み着く人が少なかったため、大きな敷地を確保できたからこそ、大きな収容所を造ることができたからだといわれる。
このアウシュビッツから数キロ離れた所には、
アウシュビッツよりはるかに大規模な「絶滅収容所 ビルケナウ」が存在する。


- 焼け野原・・・Warsaw 1944 -

このホロコーストに関しては沢山の意見があり、またアウシュヴィッツで行われていたと、「一般的に認知されている」事実について、私はここで「言われている」ことを鵜呑みにはできないと思う。
そう覚悟してきたはずのアウシュヴィッツ。
この施設を歩きながら、心の中では、常に衝撃と同情と悲しみ、そして猜疑と論理的検証など、様々な感情がずっと体中を渦巻き続けている。

まず、この左側の3枚の写真が、囚人の生活の場。
囚人はまず最初にここに到着すると、囚人番号を登録し、役割と部屋をあてがわれるまで、何もない殺風景な土間のような部屋で少しのわらと一緒に眠ったそう。
そして、囚人番号を腕に刺青として刻まれ、写真をとり、囚人房があてがわれる。
そのときから囚人は名前を剥奪され、一生消えない刺青による、腕に明記された「囚人番号」というコードにより識別されていた。

殺風景な部屋には小さな三段ベッドが、人がやっと通れるくらいの間隔で並べられている。
ここに来る前、アウシュヴィッツに収容されていたイタリア系ユダヤ人のアウシュヴィッツ解放までの回顧録を読んでいたのだけれど、それだけにこの部屋があまりにも生々しかった。

そのユダヤ人は、伝染病にかかったために病院と呼ばれる場所で暮らしていたが、1つの部屋に3段ベッドが4個。その中にチフス患者もコレラ患者も区別せず隔離されていたそう。
こんな間隔のベッドで様々な病原菌とともに日々を送ったと考えると正直、硬直して眉をひそめずにはいられない。
なお、「病院」では1つの寝台に1人があてがわれていたが、囚人房 においては1つの狭い寝台を寝返りさえ打てない複数人で共用していたと言われている。


囚人に対し、1日に与えられる食事

このアウシュヴィッツは、各地にある強制収容所の中でも大変りっぱできちんとした近代的な設備を備えていたといわれる。
これは、この後に行く「ビルケナウ」を見てきたから感じる感想であって、この写真を見る限り、きっと他の人はそうは思わないと思う。悲惨なイメージを感じさせるだろう。
洗面室は合理的にできており、収容人数が適切で、きちんと水さえ通っていれば比較的快適だったのでは?とも感じさせる。
トイレは個室ではなく、トイレットペーパーを設置する場所らしきものもなく、ただ、便座がむき出しのまま並んでいるだけ。
しかし、きちんと水洗トイレになっていた。
各房には、このような生活施設が一律に、几帳面なドイツ人の設計らしく、整然と並んでいた。
けれど、私は刑務所の生活というものを知らないけれど、日本にある刑務所なんかも、こんな状態なのではないかと想像する。個室にこもることにより、何か悪さをしないように、トイレは開放式になっているだろうし、独房に安息の設備は不要だろう。
当時が戦時下という背景も考えると、特別に立派な施設であったであろうことは否めない。


囚人の履く木靴

けれど、ここは刑務所という役割を超えて、政治犯や戦犯(捕虜)だけでなく、罪も犯していないユダヤ人やロマらが容赦なく強制的に収容されていたところだったのだ。しかも収容人数を遥かに超えて・・・。

一日に与えられる食料は、パンを1斤と小さなバター、
そして、具がほとんどないスープ、コーヒーと呼ばれる茶色の液体がお椀に1杯ずつ。
その摂取カロリーは1300〜1700Kcal。
普段の摂取カロリー量が極端に少ない私から見れば十分なカロリー量なのだけれど、肉体労働をしていたら多分キツイ。
それ以前に、ここに収容されていた人はヨーロッパ人であり、普段は平気で3000Kcal以上、日常的に摂取しているような肉食人種だもの。この量じゃ飢えても仕方がない。
囚人たちは薄いパジャマのような青と白の縞の囚人服に、靴は基本的に革靴もしくは木靴をあてがわれる。
木靴で山道を超え、クワを振りかざしつつ労働するのはどれほどつらいことだろうと想像すると、その木靴の前で硬直してしまった。
この靴のために、爪がはがれ、慢性的な足の傷に悩む人が後をたたなかったそう。


ゲシュタポの管理棟と収容所の間には有刺鉄線が

見張り台が各地に点在している

二重の有刺鉄線には、220Vの高圧電流が流れる

囚人たちの衣服・・・当時のものをそのまま展示

輸送されてきた人々の鞄には名前が

夥しい数の靴。子供のも混じってる。

もはや針金の山としか思えない眼鏡の数々

たくさんのブラシ類

松葉杖や義足、義手の山


収容所で最期を終えた囚人の遺骨の粉

たった(?)5年足らずの期間、休まず稼動していたこのアウシュヴィッツ強制収容所。
おそらく、戦争がさらに長引いていたら。
もしくはドイツ軍が勝利していたら。
この5年はさらに長いものになっていただろう。

ここに送り込まれるユダヤ人たちは、基本的に皆、「季節労働者」としての意識をもって、アウシュヴィッツのゲートをくぐったのです。

荷物はトランク1個だけ、またその内容物も重量も厳密に決められており、この荷物を片手に家族でアウシュヴィッツ行きの機関車に乗り込む人々。
「荷物にはきちんと名前を書いてホームに置いておくこと。あとで荷物だけを輸送します」
この言葉を信じて、彼らのトランクには、真っ白な文字でくっきりと、何度もなぞって消えないように名前と住所を深く刻み込むがごとく記したトランクの数々。
これは、収容された人々の手に戻ることはなく、ユダヤ人警察やゲシュタポの手により中身を改められ、金目のものは選別し、そして、ものの種類によって区分けされた。

このアウシュヴィッツ第5ブロックには、そのトランクの数々、そして、その中から選別された、ありとあらゆる囚人の手回り品が展示されている。
この数があまりにも膨大で、半端じゃない、まさに「山」といってよい量。これでも氷山の一角なのだろう。
人ひとりの靴なんて、せいぜい1人分が25*8*5センチのスペースしか有しない。
それが、奥行き4メートル、幅20メートル以上の広大な展示ケース、それも同じくらいの大きさの展示ケース2箇所に、底が見えないくらいにびっしりとこんもりと山になっている姿には、ただ硬直してじっと立ちすくむことしかできなかった。
少なくともトランクは、囚人のすべての量ではないけれど、この靴は、この収容所に入るために履いてきた靴。このゲートを通ったすべての人々の靴の数だと思われる。
この中には、童謡に出てくるような小さな赤いストラップの靴や、古びてはいるものの可憐なサンダルがちらほらと目につく。
女性として、戦時中でも、たとえ貧困にあえいでいても、ステキな靴を履いてかわいく着飾りたい、着飾らせてあげたいという気持ちが痛いほど感じられて、ただただせつなかった。


たくさんの食器の海

山のような眼鏡。それは、ただ針金が山のように積み上げられたスクラップの場所にしか見えない。
けれど、この1つ1つは、間違いなく眼鏡であった。
ここへ連れられてきた人々は、眼鏡も取り上げられたのか。
そして生々しい姿をした松葉杖や義手、義足の山。
ここに連れられてくる身体障害者は、まず、装用具を取り上げられたの?


女性の髪の毛の山

髪の毛で織った布地

「働けない人は、到着と同時に、そのままガス室送りになってまず殺されました。」

そして、歯から金歯を抜き、軍用の加工製品にするための原材料として装用具を外し、転用していたという。

女性は、このアウシュヴィッツに到着したと同時に長い髪の毛を切られ、その髪の毛はまとめて倉庫に保管される。
これをどうするかといえば、織物やマットレスの原料に転用するためなのだ。
このアウシュヴィッツには、解放前にまだ手をつけていなかった長い白髪化した髪の毛と、その髪の毛で織りかけていた布もが展示されている。

正直、人間に対して、まるで家畜の「食べられるところ」のような目を向けながら「選別」を行ったという感覚は、あまりにもそら恐ろしい。
けれど、これが「アウシュヴィッツ強制収容所」だったのだ。

このアウシュヴィッツ強制収容所に入るにあたって、「囚人番号」という名前をつけられ、写真を撮られる。
その囚人番号を腕に刻み込まれた後、まずは囚人たちの体を消毒し、今まで着用していた服を取り上げ、囚人服に着替える必要があった。
これが、アウシュヴィッツへの最初の儀式だった。
しかし、与えられた下着や衣服は、何ヶ月かに1回行われる交換の日まで、ずっと着のみ着のままで、また洗濯をすることも許されなかった。
そのために、チフスやカイセンが流行し、非常に不衛生な環境の中で密着して生活を行わなければいけなかったことは想像に難くない。
これが、アウシュヴィッツの生活への第一歩だったという。

      地下牢

立ち牢

たんぽぽやシロツメクサが咲く、緑の美しい芝生は青々としており、ここアウシュヴィッツにも、日本より1ヶ月遅れの春の訪れの予感を感じさせる。
きっと、こう自然や四季を感じる余裕が持てる自分こそが、「平和」のなかに住んでいる紛れもない証明なのだろう。


地下牢の明り取り窓

そんなシロツメクサの咲く向こうに、地下牢へ続く明り取り窓が見える。

このアウシュヴィッツ強制収容所には、中にまた「刑務所」なる建物が存在していた。
囚人たちが罪を犯すと、そこで懲罰が行われる。
しかし、ここでいう「罪」とは、ほんのわずかの些細な事。
落ちているりんごを拾うこと。
労働時間中の排泄。
自分の金歯を抜き取り、一切れのパンと交換すること。
そんな些細な、取るに足らない行動により、ゲシュタポは彼らを処罰する。
鞭打ち、そして腕から体を吊るす。過重労働や懲罰点呼、食料の減量など。
そして、特に重い罪であると判断された場合は、第11ブロックにある特別懲罰房に連行される。

あるものはこの地下牢に入れられ、そのまま餓死をするために、ゴミ箱のようなトイレと明り取り窓しかない小さな部屋で最期の余生を送った。
あるものは立ち牢に入れられ、1m四方も大きくない、窓も何もない、真っ暗な隙間の中で、ずっと立ったまま飢えと疲労と狂気で死んでいった。
この立ち牢は、現在は構造がわかるよう、右側の写真のように上部のレンガが外して展示されている。
しかし、これは天井まで隙間なくレンガが張り巡らされ、一番下にはまるでストーブの火入れ口のような入房口がついており、そこから中に潜り込まなければならない。
そして、その牢屋の中には、人間が4人、詰め込まれる。
真っ暗で、座ることもできないこの狂気の牢屋で、人々は立ったまま息絶えていった。


死の壁へ続く門

死の壁

このアウシュヴィッツでは、人間がありとあらゆる方法で殺されていった場所でもあった。
第10ブロックと第11ブロックの中庭は、門をもち、高い壁で向こう側が見えないような行き止まりの造りを成していた。
ここは、死刑執行の広場。
この広場の一番奥の突き当たりには、分厚くて黒い頑丈な壁が鎮座しており、これを「死の壁」と呼ぶ。

牢屋のある、収容所内の「刑務所」である第11ブロックの建物には、裁判を待つ囚人が放置され、そして、そこで死刑の判決を受けた人々は、裸になってこの壁の前に連行されます。
そして死刑囚は、この黒いブロックの前に後ろ向きに立ち、
そのまま、後頭部を一気に銃で打ち抜かれて、息絶えたという。

このブロックの前にはポーランド国旗とともに夥しい花束やろうそくが供えられ
壁に触れてみれば堅く、そして儚かった。
ここで死ぬ自分を心のなかで想像すると、とても想像がつかない、ただぞっとしてひたすら胸がつまった。

私は残酷な考えといわれようが、
このアウシュヴィッツ強制収容所で、人間の尊厳さえも失う生活を強いられ、やせ衰えて苦しみながら生きながらえるより、あるいは立ち牢の光さえ届かない、座ることさえできない狭い世界で、ただひたすら苦しみながら死を待つより、こうして一気に銃殺してくれたほうがずっといい。少なくとも私だったらそのほうがいい。
この壁の前で、そんな事を考えた。
けれど、これは恐ろしい考え方だ。
普段でも想像がつかない、恐ろしい「銃殺刑」が、より幸せな生き方であり、死に方だなんて、
相対的にでも、一瞬でも、そう感じてしまう自分が、心底、そら恐ろしい。
この赤いレンガに覆われたこの重々しい建物たちの中の世界は、私の中の価値観も、冷静な常識も、何もかも奪ってしまう狂気の世界だったのだとしか思えない。


絞首台

囚人には、毎日点呼が行われる。
そこで、ゲシュタポは囚人の数を数える。
その点呼の時間、移動絞首台、もしくは集団絞首台が中央に設置され、そこで「みせしめ」のための死刑執行が行われていた。

3人の脱走者を助けた、そして、収容所周辺に住む一般の市民とコンタクトを持っていたという疑いを受け、1947年春、12人のポーランド人がこの絞首台に吊るされたそうである。

几帳面なドイツ人は、日本人と気風が似ていると良く比喩される。
そう考えると、恐ろしい妄想が・・・。
「おい、お前今日のノルマは300人だったはずだが、点呼の結果数が合わない。243人の計算になるが、本当にお前は300人ヤッたのか?」
「・・・すみません・・・」
「だからお前は使えないんだよ。300人だ。他のやつはきちんとノルマ達成してるんだよ?何でお前はそうなんだ?いいな、明日は350人に増やす。きちんとノルマを達成しろ!」
「はい・・・」
こんな風に機械的に事務的に、人の命が扱われたと、たとえば聞かされたとしても、
きっと納得してしまう、そんな空気がここアウシュヴィッツにはある。
こうして家族もなにもかも引き離し、そして人の命を軽々しく処刑してきたナチスドイツ。
その実態は、一人の人間であり、組織に属する社会人。家に帰れば息子がいて、休日は息子と一緒に遊びもする父親だったりするのだろう。
そんな「普通の人」がここアウシュヴィッツに配属され、着任し、ナチスの考えをただひたすら職務に従って実行してきただけに過ぎない。

戦争は、そして組織は、何もかも人間としての感覚を麻痺させる。


追悼

アウシュヴィッツを語る際、避けては通れないファクターとして、「ガス室でのガス殺」が論議される。

結論として言えば、私の中ではガス殺に関しては否定派であり、現場を見た今も変わらず否定派である。

このガス殺に用いられた薬品、チクロンBといい、シャワーを浴びるのだと騙されて連れられいった何もない部屋。
ここに人々を詰め込み、密室となったところに、天井からこの薬剤を投入し、人々は苦しみながら死んでいった、と説明されている。

しかし、実際、このガス殺が行われたことを示す科学的・論理的証拠が未だに見つかっていない。ありとあらゆる文献を探し始めて間もないこともあるけれど・・・。

まず、アウシュヴィッツではこのように説明される。
囚人たちの髪の毛は織物に転用され、その髪の毛の中から、「チクロン化合物に毒性をもたらすシアン(青酸ガス)が検出された」という。
けれど、検出されたからといって、それがガス殺の明確な証拠にはなりえないと私は思う。
実際、この「チクロン」は、倉庫などに対して、害虫や病原菌の駆除・消毒の目的で、戦時中は広く使われていたものである。
あれほどたくさんの人間を収容所内に収容し、チフスやカイセン、しらみが大流行する中、ゲシュタポは自分たちが接する、処罰のために肌に触れることがあるかもしれない囚人たちに対して、消毒を行わないことは考えられない。
ほっておけば自分も感染するのだから。


チクロンBとその薬剤の結晶

使い切られたチクロンBの缶

シャワー室ともガス室といわれている部屋

もちろん、自分には危害がないのであれば、囚人たちの部屋に対して、常識以上の量の消毒薬を散布することはありえるだろう。そのために、髪の毛に残留物が残存していても不思議はない。

そして、問題のガス室の構造。
これは、広さ20畳程度の部屋で、コンクリートに埋め尽くされ、毒ガスが漏れないようなつくりになっている。
「ガスが漏れないようなつくり」なのだ。

これは、ガス殺ができたとしても、そこに残った死体の処分は誰がするのかという問題を疑問に感じずにはいられない。
ここには換気装置があると言われているけれど、どうやったらこの部屋の換気が完全にできるのだろうか?空気の停滞した半地下のこの部屋で・・・。
始末をしなければガス室は再度使うことはできない。
何十人もの人間がたくさん殺されたのであれば、その死体の始末は誰が行うのか。
こんな換気の悪い部屋に生きている人間が入って、死体を残らず運び出すことが可能なのか。
ゲシュタポかもしれないが、当時の状況からして、囚人の一部にそれらを始末させたと考えるのが妥当である。
けれど、その「始末をした」と答える人間が今だ一人も見つかっていない。
始末をしたものは、次のガス室送り?
しかし、それ以前に、アウシュヴィッツは5年の年月を経て「解放」されている。
最後のガス室始末者はどこにいるの?
そういう人間が1人でもいれば、その信憑性を信じるが、それが見つかっていない。
このチクロンBは、確かに人間を殺傷する能力は持っている。
けれど、戦時下に、わざわざ戦時下に不足しがちである薬品を使って人を殺すなんて無駄なことをするのだろうか。
このアウシュヴィッツはもとより、アウシュヴィッツの近くにはもっと巨大な収容所「ビルケナウ」があり、
そこでも伝染病や寄生虫は大発生していたはず。
このガス室に何キロものチクロンを投入して人を殺すよりも、チクロンは「駆除薬」として、本来の用途のため、不足がちであったと考えたほうが妥当であり、そんな薬品を人を殺すために使って何の意味があるというのか。
過酷な衛生環境の中、ほっておけば死んでいくような人々に対して。
餓死牢までを備えた、この施設で。
ドイツ軍は、当時の日本軍と同様、戦況が悪化するにしたがってどんどん物資が不足して、苦しい思いをしていたのではないの?
日本よりも先に降伏した、この国が。

ビルケナウにて、「ガス室は証拠隠滅のために破壊された」と紹介しているけれど、
普通、証拠隠滅をするならば、何の用途に使われていたかも明確でないガス室よりも先に、チクロンBを処分すると考えるのが妥当。
それが、このアウシュヴィッツにはきれいに大量に手付かずで残されている。
すなわち、「隠滅する必要のなかったもの」であるということ?
そしてその大量の死体はどうしたの?

この後に訪れた死体焼却炉。
この焼却炉は小規模なもので、一日に350人の遺体を焼いていたと言われる。
一説によれば24時間フル稼働で稼動していたという。


囚人の写真

この戦時中に、大量に一気に焼くための燃料の不足は深刻だろうことが想像に難くないが、それでもドイツ軍は、一気に大量の人間をガス殺して、
一気に焼却炉で焼き続けたのだろうか。
それができないならば、火葬ではなく埋葬するのだろうが、
その、「埋葬した遺体」におけるチクロンBの明らかな影響は未だに見つかっていない。

少なくとも、私はアウシュヴィッツにて行われていた「ガス殺」については、肯定できる論理や証拠にまだ出会っていない。すなわち現時点、私は否定派である。

けれど、このアウシュヴィッツで行われたすべてを否定しているわけではなく、
そのガス殺などの疑問点を除外して考えたとしても、
この広大なレンガ造りのコミュニティにおいて、人間以下の扱いをうけ、想像がつかないほどに肉体的、精神的な苦しみを深く与えたナチスという組織があったという事実は肯定し、また犠牲者に対して深い黙祷を捧げたい。
けれど、根拠のない、本当かどうかも分からない事について、あたかも「本当にあったかのように」説明する人々、そして本当に根拠に基づいて納得しようとはせず、人にそういわれたからそう信じるという風潮は私は受け入れることができない。
ただそれだけのこと・・・。

大量虐殺工場といわれるアウシュヴィッツ。
それに対しても私は肯定しきれない。
ユダヤ人の一方的に受けた迫害。
これに関しても私は肯定、同情しきれない。

それと同じ視点が、南京大虐殺や朝鮮半島問題などからも垣間見えてくるように思う。
矛盾の多く垣間見えるアウシュヴィッツの中には、まだまだ分からないことがたくさんある。
正直、私の中で、なかなか答えも見出せない。

重々しい気持ちで、雨のアウシュヴィッツを後にした。