日本男色模様
日本の男色といえば、寺院の稚児か、武士の衆道かを思い浮かべるのが普通ではないでしょうか。
かつては、「日本の男色は女色を禁じた仏教寺院にはじまる」などということがいわれておりまして、男色は女色の代替え品的存在とされていましたが、それは、西洋的な価値観からの評価にすぎません。
キリスト教圏における男色というのは、過去において、あきらかに悪であり罪であり、近代にいたっても、変態性欲、つまり病気だと評価されていました。
だからこそ、西洋文明圏では、公然と、深刻に、「同性愛差別をなくせ」などという運動が、繰り広げられることとなりました。
現代に生きる私たち日本人も、この西洋的な価値観を受け入れていますので、ほんの百年数十年前までの日本では、男色はけっして日陰の存在ではなく、きっちり、社会制度に組み込まれた行為だったと聞きますと、信じられない思いがいたしますし、想像もつかない異世界のようです。
しかし、どうやら、そうだったようなのです。過去の男色は、現代のホモセクシャル、ゲイとは、少々、ちがうものです。
なにがちがうかといいますと、一番ちがいますのは、大方、バイセクシャルだということです。女がだめで、あるいは女がいやで男相手、というわけではないのです。
ちゃんと家庭をもって子孫を残して、それとは別に男色がある、という感じでしょうか。ともかく、欲張りです。
つい先日も、週刊誌に、武田信玄が男に書いたラブレターの発見記事が乗っていまして、中世から戦国時代、江戸時代初期くらいまでの男色は、やたらに目立ちます。
来日したイエズス会の宣教師が、それを嘆いたりしますが、もちろん、それ以前からも、日本列島では男色が盛んでして、一般にあまり知られていないのですが、院政期の男色は、唖然とさせられるほどのものです。
平安時代の貴族社会に、まったく男色がなかったわけではないのですが、寺院の稚児を別にすれば、それほど目立つものではありませんでした。
それが突如、華々しく流行りはじめたのは、72代白河帝のころからです。
もちろん、この白河帝もバイセクシャルでして、年をとってからはロリの気もあり、孫ほども年のちがう女の子に手をつけたあげく、孫の鳥羽帝の正妃にしてしまい、「叔父子」を産ませるんですね。
つまり、鳥羽帝にとっては自分の正妃が産んだ子ですが、実は祖父の種なので叔父。この叔父子が崇徳帝となったことから、確執が尾を引き、やがて保元の乱が起こります。
保元の乱といえば、このとき、崇徳帝と組んで敗死した左大臣藤原頼長というお公家さんが、「台記」という、すさまじいばかりの男色日記を残しています。
いえ……、別に頼長は、男色日記のつもりではなかったわけでして、そもそも上流貴族の公卿日記といいますのは、子供や孫に、宮廷行事や人間関係、政界遊泳の参考資料となるよう、書き残すものなのです。
つまり頼長は、乱脈な男色行為を、少しも恥とは思っていなかったわけでして、恥どころか、そこに政治的行為である側面を意識していればこそ、子孫のために書き残したのでしょう。
どうやら彼は、受け攻め、両方をこなすリバーシブルであったらしく、といいますか、当時の男色は、一般にリバーシブルであったようなのですが、相手は、身分の上下をとわず多数おります。
日記に、相手の実名を記している場合もありますが、「権中納言」だとか、役職名で書いてあったりしますので、いったいそれがだれなのか、五味文彦東大教授が、「院政期社会の研究」(山川出版社)という学術書で、しごくまじめに、ご研究なさっておられます。
で、ともかくこれが、すさまじいのです。父親のお古あり、正妻の兄弟ありで、男だけの3Pになったりもしまして、ただただ、呆然とするばかりです。
なによりも異常に思えるのは、頼長が、ことさらに、成り上がり者だと軽蔑するような相手を選んで、関係を結んでいる点です。
「頼長の男色行動の基底には憎しみさえもがあった、と言えるであろう」と、五味先生。
左大臣といいましても、お雛さまの左大臣を思い浮かべては、イメージがちがいます。
頼長は、けっこう若いのです。
藤原氏の中でも、その頂点に立つ摂関家の血筋ですから、17歳の若さで内大臣となり、30歳で左大臣、死去当時、まだ37歳でした。
「今鏡」という書物には、なかなかの美形だったと記されております。
さて、五味先生によりますと、このころの政治上の事件には、かならずといっていいほど男色がからみます。
なにしろ、帝をはじめとして、上皇、摂政関白、大臣、ほとんどすべての貴族がバイセクシャルでして、しかもたっぷりと私情をまじえて、えこひいきの人事を行いますから、当然といえば当然のことなのです。「夜の関白」とか「男のおぼえ」とか「君臣の交わり」とか、やっかみとともに、皮肉がとびかったりもします。
ところで、一般に、貴族と武士は対立しているもの、というイメージがあると思うのですが、武士の中でも、源平の中心にいる武家の頭領は、いわゆる受領層、つまり中下級の貴族なのです。
それで、つまるところは、上流貴族のお相手を務めておりまして、木曽義仲のお父さんが左大臣頼長と関係しましたことは、はっきり日記に出てきますし、源頼朝も少年のころ、後白河帝(崇徳帝の弟)の相手をした可能性が高いと、五味先生はおっしゃっておられます。
後白河帝が、またこれ、すさまじいお方で、平治の乱(頼朝や義経のお父さんが死ぬ騒動)の原因には、このお方の度を超えた男色がからんでいます。父の鳥羽帝の晩年のお気に入りにも手をつけておりますし、手当たり次第なのでは、といった感じさえしてきます。
武士といえば、源氏の頼朝だけではなく、平家の方も、平重盛とその子息の資盛、親子どんぶりで後白河院の愛人だったといいますから、これはもう、ただただ絶句してしまいます。
そもそも平清盛のお父さんは、白河帝に体を差し出し、平家興隆のきっかけをつくったようですし、院政期における武家の台頭は、一面、男色にささえられています。
男色の歴史を見ていきますと、武の時代といいますか、争乱が多くなると同時に、男色も華々しくなってくるような気がいたします。
院政期もそうですし、中世から戦国にかけては、まさに男色の花盛り。
江戸時代、元禄すぎて次第に下火になった男色が、幕末でまた盛り上がる、というのもありますが、これはまた、薩摩や土佐という、男色最盛地帯の下級武士が活躍したという、特殊事情もあるかもしれません。
しかし、です。戦闘と男色には、かなり普遍的な関連があるようです。
本来、戦闘行為と性の快楽は、重なるものを持っているのではないでしょうか。
「男だけでつくりあげられた戦士の集団には、つねに潜在的に同性愛の原理につらぬかれているのだ、ともいえる。未開社会の戦士集団であろうと、ギリシアやローマの古代帝国の軍隊であろうと、中世の封建社会にできあがった騎士道や武士道の世界であろうと、ことの本質は変わらない。戦士たちは、たがいに同性愛的な友愛の精神に導かれ、自分の生命をいとも簡単に投げ出して、自分の恋の相手に殉ずることをも、いとわなかった」
というような、言葉もあります。
これは、おそらく、近世初頭まで、つまり、第一次世界大戦までの戦闘においては、かなり普遍的な現象だったのではないでしょうか。
しかし、日本の場合は、より濃厚に、近世までそういう傾向があったように見受けられます。
民俗学者フリードリヒ・クラウスは、1907年に刊行した「信仰、慣習、風習から見た日本人の性生活」の中で、日清・日露戦争における日本軍にふれ、「男子同性愛が兵士や士官の間に非常に蔓延していることは、他のことから裏書きされた。皮相な観察者さえも、日本の兵士たちが、われわれ一般人よりもはるかに情愛がこもり、友情的な態度でお互いにつきあっているのに、驚くだろう。兵士同士の愛の絆の強さこそが、清やロシアを相手に日本兵が勇敢に戦った最大の背景ではなかったか。彼らが死を怖れなかったのは、たんに戦闘精神や死を軽んずる考えの発露ではなく、他の兵士にたいする激しい愛の感情からなされたものである」というようなことを、のべているそうです。
その明治へと続く、幕末ですが、坂本龍馬を筆頭に、幕末維新期における土佐郷士の活躍は有名です。
土佐というところは、郷士、つまり土着の武士と、上士、つまりお城勤めのサラリーマン武士の対立が激しくて、郷士たちは勤王党を結成し、脱藩して倒幕を志したのです。土佐藩そのものの姿勢は、ぎりぎりまで幕府よりでした。
ところで、この土佐の郷士と上士の対立を激化させた井口村事件が、実は男色がらみなのです。
この事件は、土佐勤王党史をはじめ、龍馬の伝記など、土佐の幕末を描いたものにはかならず出てきまして、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」でも取り上げられています。
事件を簡単にのべますと、中平忠一という若い郷士が、ちぎりをかわした少年・宇賀喜久馬と夜道を歩いていて、鬼山田という上士につきあたります。
酒が入っていたこともあり、殺傷沙汰となって、忠一は鬼山田に斬り殺されます。喜久馬は、忠一の実家に知らせに走り、忠一の兄がかけつけて、鬼山田を斬り殺します。
これが、郷士VS上士の大騒動に発展するのですが、司馬氏の「竜馬がゆく」では、中平忠一の男色について、「愚にもつかぬ男で、衆道にうつつをぬかし」と、決めつけています。
しかしこれは、司馬氏らしくもない認識不足といいますか、いかにも娯楽小説らしい表現、というべきでしょう。
忠一と喜久馬との関係が、「衆道にうつつをぬかし」などというものではなかったことは、安岡章太郎氏の「流離譚」(講談社文芸文庫)により、知ることができます。
安岡氏は土佐郷士の家の出身でして、宇賀家の遠縁です。
親族などから、「宇賀のとんと(稚児)の話」として、喜久馬が中平忠一に準じて切腹したいきさつを、聞かされていました。
喜久馬は、切腹したとき、わずか13歳でした。
宇賀家の親族は、みなで喜久馬に、「腹を切っても痛いというて泣いちゃいかん、みっともないきに泣かれんぜよ。泣いたらとんとじゃというて、またてがわれるきに」と、いってきかせたそうです。
つまり喜久馬の切腹、忠一への殉死は、親族全体から認められ、励まされる行為であり、二人の関係は、双方の家族から認められ、郷士社会も公認したものであったわけです。
物理学者で随筆家の寺田寅彦氏は、喜久馬の甥にあたりまして、寅彦氏の父が、弟の喜久馬を介錯したそうです。
薩摩士族の男色というのも有名なのですが、薩摩、土佐という土地柄は、士族の勇猛で知られますので、これは戦士の集団における同性愛、ととることもできるでしょう。
氏家幹人氏の「武士道とエロス」(講談社現代新書)によりますと、
「性愛を伴う義兄弟の関係は、戦国から江戸初期の武士社会において、ほとんど習俗といえるほど日常的に観察されたらしい。とりわけ西南日本では、この風潮が遅くまで残ったようである」
ということなのですが、またそれは、「けっして薩摩と土佐に特有なものではない」という氏家氏のお話です。
その例としてあげられておりますのが、会津藩の正史「家政実紀」に記された、天明元年(1782)、江戸時代後期の事件です。
会津藩士の青年5人が、藩の勘定頭の自宅を訪れ、仲間の一人がその家の息子とちぎりを結びたいと申し込みます。それに父親は、丁寧に応対して、「息子はまだ若いから」と断ったというだけの事件なのですが、現代の感覚からすれば、?????な話です。
いったい、この「習俗としての男色」というのは、なになのでしょうか?
実はこれには、なんと、縄文時代からの長い歴史があるようなのです。
神話学者・吉田敦彦氏の「昔話の考古学」(中公新書)に「石棒とメラネシア原住民男性器および精液崇拝」という章がありまして、それによりますと、中期以降の縄文遺跡に、「石棒」と呼ばれる男性器を象った石製品や、注ぎ口が男性器の形をした土器が、出てくるのだそうです。
でー、これらの石器や土器なのですが、通過儀礼(イニュシエーション)、つまり若者に大人の仲間入りをさせるための男性の成年式の儀礼の中で、使われたと推測されています。
現実に、これらに酷似した用具を使った通過儀礼が、メラネシア原住民の間で見られるたそうでして、男児に男性としての成長を遂げさせるためには、精液の寄与が絶対に必要だと考えられていたのです。
つまり、少年が大人になるためには、肛門、あるいは口腔性交により、精液をそそぎこまれる必要があった、ということのようです。
こうした習俗としての男色は、どうも、南方的、海洋文化的なものであるらしく、中国大陸では、江南で目立ちますし、高麗、百済、新羅という古代朝鮮半島三国のうち、その記録が残るのは、支配者層に南方文化的な要素が強い、新羅のみです。
新羅の花郎(ファラン)集会は、名門貴族の子弟の中から選ばれた15、6歳の美貌の少年を中心とする、青年戦士集団でして、義兄弟的な同性愛が、ごく普通に営まれていたといわれます。
日本の古代に、文献資料として、男色の記録は少ないのですが、万葉集には、それらしき歌が散見されるそうですし、ヤマトタケルが女装してクマソタケルを討つお話は、あきらかに男色を暗示しています。
習俗としての男色は、はるか縄文の昔から、脈々と日本列島で生き続け、中世から近世初頭にかけては、数多くの男色物語も生まれました。
「安寿と厨子王」のお話が、実は、厨子王のシンデレラ物語であることをご存じでしょうか。
明治になって書かれた森鴎外の「山椒大夫」では省かれていますが、姉のおかげで山椒大夫一族の迫害の手から逃れた厨子王は、天王寺の童子となり、百人の稚児の中から都の貴族に選ばれて、養子となります。
中世の稚児が男色の対象であり、養子とは、男同士の結婚の形であったことは、いうまでもありません。
このお話は、もともと、説教節とよばれる語り物だったわけでして、庶民が聞いて楽しみました。聴衆の大半は、女子供だったでしょう。
つまりこれは、「やおい」ですね。「やおい」の歴史も古いのです。
弟のために命を捨てる安寿には、弟の大津皇子の死を嘆いた大伯皇女の姿が重なりますし、「兄弟を守護する姉妹の霊能」の、中世の姿でしょう。
「習俗としての男色」と「姉妹の霊能」は、ともに南方的な文化要素ですし、日本列島では、終始、南方文化的な要素が強かったわけです。
そこらあたりから、女が男同士の恋愛物語を好むやおいの伝統も生まれた、というのは、やおい女のいいわけでしょうか(笑)