反近代の夢想
〜The Lord of the Rings(指輪物語)によせて〜


 いつか、どこかで見た夢の風景のように、崩れ落ちるニューヨークの摩天楼。
 テレビ画面でこれを見たとき、心の片隅で、なにか爽快なものを感じた人は、多かったのではないでしょうか。
 人事だから、というわけではなく、いえ、人事ではないからこそ、そうであったはずなのです。実のところ、アメリカの人々こそ、心の奥底では、そうだったでしょう。
 人は誰しも、破壊願望を持っています。子供が積み木の家を壊すように、自らを縛るものすべてを壊してしまえたら、これは爽快なことでしょう。
 しかし、現実には不可能だから、私たちは、虚構の世界でその夢を満たします。
 近代という時代の歯車は、超スピードで慣れ親しんだ世界を破壊し、突進してゆきます。私たちは、その歯車の速度に遅れることを恐れ、日々走り続け、そうすることで得られる安楽にどっぷりとひたっているのですが、やはり心の片隅で、その歯車を、呪わずにはいられないのでしょう。
 「近代化」は止まるところを知らず、「グローバル・スタンダード」などという怪しげな名称のもとに、世界中をかけめぐっているのですが、それは別に、イスラム世界のテロリストではなくとも、呪いたくなる側面を持っています。
 「グローバル・スタンダード」がもたらすライフスタイルの変容を嫌う動きは、開発近代化に燃えた途上国よりもむしろ、ヨーロッパで目立ちますが、貿易センタービルは、その「グローバル・スタンダード」の象徴ともいえる存在だったでしょう。

 『名ごりの夢』という聞き語り本が出版されたのは、ちょうど太平洋戦争開戦の2ヶ月ほど前のことでした。
 語り手は、今泉みね。
 徳川将軍家の蘭医・桂川家の娘として、安政2年(1855年)、幕末の江戸に生まれた女性です。
 みねは、維新後、落ちぶれた桂川家から、元佐賀藩士で新政府出仕の今泉利春に嫁ぎますが、司法畑にいた利春は反政府運動にもかかわり、みねが獄中に差し入れにいくようなこともありました。
 昭和になって、80を越えたみねの少女時代の想い出を、孫たちが聞き書きしたものが、この『名ごりの夢』なのです。
 花のお江戸から飛行機が上空を飛ぶ東京へと、みねの生きた時代は、すさまじいスピードで流れました。
 「私の幼いころのすみだ川は実にきれいでした」と、みねは、消え果てた江戸の光景を、夢のようになつかしむのです。
 「水晶をとかした」ようなすみだ川の水面に屋根船が浮かび、櫂のしずくがきらめき、三味の音が流れる、幻の江戸。
 近代という時代の歯車は、幼いころになじんだ美しい光景を、破壊して行き過ぎます。それを私たちは、「進歩」と呼んできたのですが、ふと立ち止まったとき、その「進歩」に、思わずため息がもれるのを、とめようもありません。

 The Lord of the Rings、『指輪物語』は、現代ファンタジーの古典的存在といえるでしょう。中つ国(ミドルアース)を舞台として、小人やエルフ、オーク(鬼)、竜、魔法使いたちが活躍する神話的世界でありながら、そこにはたしかに、現代の世界と重なるものがあります。
 著者は、J.R.R. トールキン。1892年(明治25年)生まれのイギリスの言語学者です。
 この3部にわたる長編ファンタジーは、1965年、ペーパーバックとなってアメリカで出版され、爆発的なベストセラーとなりました。英語圏の出版界で、ファンタジーがジャンルとして確立したのは、この成功によるものです。
 そればかりではなく、現在のゲームにおいても、指輪物語的世界観を基本にしたものは、数多いのです。
 主人公は、ホビットと名づけられた小人族のフロド。
 小人といっても、ホビットは人間の親族で、ヨーロッパ中世の田園を思わせるような暮らしを営んでいます。そのホビットの郷士のような家系に生まれたフロドは、思わぬ事から、すべてを統べる指輪の所有者となり、その指輪を消滅させるため、ホビット、魔法使い、人間、エルフ、ドワーフ小人という、それぞれの種族から選ばれた仲間たちと、冒険の旅に出ます。
 中つ国は、「旧大陸北西部」の上古とされているのですが、トールキン教授は、古エッダなどの北欧神話、ケルト神話などを主な下敷きに、まったく独自の神話世界を作り上げたのです。
 中つ国には長い長い歴史があり、今があり、未来があります。
 指輪消滅の旅は、世界が闇の勢力に支配されることをくいとめるためのものでしたが、それは一方で、大規模な戦闘ともなり、そして、否応もなく世界は変わるのです。
 闇の勢力の手先がホビット庄になしたことは、緑豊かな木々を刈り、機械仕掛けと噴煙で、田園を台無しにすることでした。
 主人公たちの活躍でそれはくい止められ、ホビット庄はもとの姿を取り戻し、再びのどかで豊かな暮らしが帰ってくるのですが、しかし、時代の流れは留めようもありません。
 美しいエルフたちは、はるか西方、海の彼方へと去り、指輪所持者だったフロドも、ともに中つ国を離れるしかありませんでした。
 トールキン教授は、指輪物語が現代の寓意や風刺と見られることを、いやがったそうです。
 1960年代といえば、東西冷戦のただ中。「闇の勢力とは共産圏を現す」というとらえ方もあったそうですし、「ナチスドイツでは?」というような見方もされたそうです。
 トールキン教授の息子は、第2次世界大戦でイギリス軍に入隊していましたが、その息子にあてた教授の手紙があります。

「我々はサウロン(闇の勢力)を指輪によって征服しようとしているのだ。そして我々は、それをなしとげるだろう。だがその報いは、おまえにもいずれわかるだろうが、新しいサウロンを生み出し、人間とエルフを少しずつオーク(鬼)に変えてしまうということだ。とはいえ現実の物事は物語の中ほどわかりやすくはないし、我々はそもそもの初めから、味方の中に大勢のオークを抱えているのだ」

 エルフの女王・ガラドリエルは、フロドから「指輪を差し上げます」といわれながら、指輪所持者となる誘惑に耐えます。
 すべてを統べる指輪は、だれが持っても、世界に恐怖をもたらすのです。
 闇もオーク(鬼)も、だれの心の中にも存在します。
 近代化の負の側面は、正の側面と一体であり、私たちはおそらくだれもが、その利便を歓迎し、迎合しているわけですから、負の側面のみを取り上げて、自分を被害者とするのはおかしなものです。
 指輪物語の世界は、たしかに、私たちを近代化の息苦しさから解き放ってくれる壮大な夢なのです。しかしまた、それは「時代は変わらずにはいない」という、透明な哀しみを歌い上げる夢想でもあります。
 1960年代のアメリカで、指輪物語が聖書のように読まれたのは、近代化の牽引車であるアメリカでこそ、近代化の息苦しさがもっとも耐え難かったからでしょう。
 19世紀末ヨーロッパでの中世趣味や東洋趣味、手作り工芸の芸術化の波も、反近代の夢想でしょうし、思春期をその時代のイギリスで過ごしたトールキン教授は、その夢想に、たしかなリアリティを持たせて、指輪物語の世界を構築してくれました。
 一つ不思議なことは……、いえ、不思議ではないのかも知れませんが、指輪物語における男女の恋は、いかにも伝説じみて、リアリティと切実さを持ちません。恋よりも男同士の友情を切なく感じるのは、読む者の邪心でしょうか。
 フロドと従者サム。エルフの王子・レゴラスとドワーフ小人の王子・ギムリ。
 いえ、邪心ではないでしょう。トールキン教授は、たしかに男同士の友情の方を、情感豊かに描いているのです。

 ついに日本でも公開となりました映画、The Lord of the Rings第一部ですが、この時期に、欧米でこの映画が大ヒットとなったことは、象徴的です。制作に7年の歳月をかけ、貿易センタービル崩壊直後の公開となりましたのも、なるべくしてなったことなのでしょう。
 映画を見てあらためて、「男の友情の情感」は、この物語を貫いているのだと感じます。
 それは、だれもが感じることのようでして、映画のパンフレットに、荒俣宏氏が、以下のような文章を綴っていました。
「この映画を観て、あらためて分かった。トールキンの『指輪物語』の主題が“兄弟の友情”にあったのか、と。闇の力に抗して世界を護るのは、ふつうなら“愛”だ。けれども愛は独占心が強くて、結局は魔法の呪縛に近い。この人も愛するが、あの人も愛したい、という博愛は、愛の独占欲と相容れない」
 男女の愛、肉親への愛は、簡単に憎悪に転じえます。
 独占欲とは、結局のところ、自らの遺伝子へのこだわりでしょう。たしかにそれは、魔法の呪縛なのです。
 トールキン教授は、人の子の愛の葛藤を極力排除して、物語り世界を構築していますので、男女の恋に切実さとリアリティーは、なくて当然なのでしょう。
 映画のレゴラスとギムリは、原作の描写が省略されていて、以降に期待、という感じですが、指輪仲間の人間同士、アラゴルンとボロミアの関係は、原作以上の情感で描かれていました。

 映画を見終わって、続きの公開を待ち遠しく思いつつ、やはりふと、考えてみずにはいられません。
 私たちは今、どこへ向かおうとしているのかと。  

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