びっしりと層をなした蝉しぐれが、地面をたたく夕立のように、耳の奥にしのび入る。
過剰な陽の光は白く庭を染め、松の深緑、萩の浅緑、萌黄がかった竹の色と、とりどりに匂う草木を、まぶしいばかりに縁どり、きらめかせていた。
御簾を上げ、一歩ひさしの間に入ると、蝉の声は耳鳴りを残して遠ざかり、光の残像が、白と朱の斑点になって目をくらませた。
静まりかえった几帳の奥から、ほのかに、荷葉香がただよってくる。
備前は、手の甲を汗ばんだ額にあて、しばらく、薄闇に瞳を凝らしていた。
(いく度となく……、こんなことがあったような気がする)
ふと、そんな錯覚におちいった。
くまなく白昼の光に照らされた庭園と、ちりひとつなく整えられたほの暗い室内。
一条室町殿のたたずまいは、時からとり残され、この世の営みからはずれた場所であるかのように、備前の思いを、重なりあった記憶の迷宮へたゆたわせるのだ。
「備前……」
年齢のおとろえを感じさせない、張りのある声だった。
備前は、はっと気をとり直し、手の切れるような几帳の生絹に、指をそわせる。
濃い群青で海、銀砂で波しぶきを表わした金屏風を背に、皇太后宮忻子は、ゆっくりと顔を上げ、煙るようなかすかな笑みを、備前に向けた。
純白の単に、ごく淡い、少し黄味のかんだ水色の衣。
その上にたっぷりと打ちかかった髪は、銀の筋をまじえ、灰色にくすんでいる。
それにもかかわらず、忻子の肌は老いをよせつけず、白い陶器のような艶をたもっていた。
「ごぶさたいたしまして……」
そう挨拶しながら、備前は、つい昨日も訪れたばかりのような、そんな気分になっていた。
「師長公……、妙音院の一周忌は、無事すみましたか?」
感慨のにじんだ忻子の声に、備前はうなずき、大きくため息をつく。
「去年、最後にお会いしたとき、師長さまはおっしゃっておられました。院がお崩れになって、もうわれわれの時代は終った、今度はわたしの番だと。まこと、まるで前駆を務められるように実定公が逝かれ、そして院のご崩御。師長さまは、その後を追われるかのように、逝かれました……」
淡々と続く備前の声に、忻子は、すっと目を細める。静まりかえった忻子の瞳に、かすかな感情の波立ちがあった。
去年、つまり建久三年(一一九二)春、後白河院の崩御は、たしかに、そのままひとつの時代の終りだった。
行きあたりばったり、八方破れの治天の君ではあったが、とにもかくにも後白河院は、四十年近く朝廷をささえ、君臨し続けたのだ。
相前後して世を去った左大臣実定、妙音院師長は、いわば、自らの生きた時代の象徴に殉じたといえるだろう。
幕が下り、すべてが終った後に、取り残された者の寂寞感。
備前は、汗のひいた肌に、冷えびえとしたものを感じた。
高らかな蝉の声が、遠い幻のように聞こえる。
「本当に、櫛の歯がぬけるように……、ねえ。わたくしも、もう長くはないのでしょう」
忻子はおっとりとした声で、そう言った。
「とんでもございません。宮さまには、まだまだ先がございます」
備前は確信を持って、そう答える。
左大臣実定は、忻子の同母弟であり、実家、徳大寺家の大黒柱だった。名ばかりの皇太后として老境にいたった忻子にとって、その逝去は、精神的にも経済的にも大きな衝撃であったはずだ。
しかし、後白河院の崩御はどうだろうか?
いまなお、院が忻子の唯一の背の君であることに疑問の余地はない。
しかし、別居は三十年の長きにおよび、院は忻子を忘れ、世間もまた、忘れていたのだ。
院の訃報に接したときにも、忻子は髪をおろすでなく法要を営むでなく……、しかし、だれもそれを非難する者はなかった。
(もしかすると宮さまは、これで、やっと心の自由を取りもどされたのかもしれない……)
忻子の、白いふくよかなほおを見つめながら、備前はそう考えた。
一見、おだやかで淡々とした忻子の胸に、強烈な誇りが埋もれていることを、備前は知っていた。
いや、むしろその誇りゆえに、忻子は血飛沫ながらも、無表情な仮面の下に生きたのだ。
たしかに後白河院は、型破りの帝王だった。
そして、小弁の局というとるに足らない身分の女に、愛情をかたむけもした。
しかし小弁の局が、国母から皇太后へ、あげくの果てに建春門院と院号を賜るまでに成り上がったのは、院の、そのいささか気違いじみた惑溺にのみ、原因があってのことではない。
保元、平治とうち続いた戦乱は、世の中を変えた。
小弁の局は、当時勢いに乗りつつあった武門平家にゆかりの者であり、いわばその旗頭となってのし上がったのだ。
押しのけられたのは皇后忻子個人ではなく、名門徳大寺家、いや、摂関家をもふくめた藤原氏のすべて、であった。
法皇の意志である前に、それは時代の変容とでもいうほかない出来事だったのだが、愛憎よりも誇りに執着し通した忻子にとっては、かえって屈辱の念が深かったようだ。
小弁の局、建春門院平滋子は、栄華の盛り、平家の全盛期に病に倒れた。
全身に腫れものが出て、膿と血にまみれ、苦痛にさいなまれた最期だった。その死にざまは、しげく人の口にのぼり、忻子の御所でも、よるとさわると女房たちがささやきかわしていた。
そのとき、備前は見たのである。そ知らぬふりをして、その実、忻子の口もとに、ほくそ笑むような、晴れ晴れとしたような、なんとも不気味な表情がひらめくのを……。
それは、次の瞬間目の錯覚かと思ったほど、つかの間のものだった。
しかし、その印象を備前は、真っ白な紙の上に蛾がとまったことを残された鱗粉で知るように、まぶたの裏に焼きつけていた。
ふだん、人形のように端然とかまえた忻子だけに、かいま見た感情の生々しさ、激しさは、備前の胸を刺しつらぬいた。
建春門院が逝き、西海の果てに平家一門が亡び……、しかしもはや、時の歯車が元にもどることはなかった。
院のそばには、つぎつぎと寵姫がときめき、忻子は無視され続けた。
忻子にできた抵抗は、自らも院の存在を、架空の人物かなにかのように無視してしまうことだけだった。忻子の御所では、できるかぎり院の話題を持ち出さないことが、長年の礼儀のようになっていた。
それがこの一年、忻子の口から、なにげなくふと、院の思い出話が聞かれるようになったのだ。そしてそのことに、備前は忻子の安らぎを見たような気がした。
考えてみれば、院の崩御によって、やっと忻子は、無視され続ける正妻の立場から解放されたのだ。
「ほんとうに、宮さまには、これからでいらっしゃいますわ」
重ねて言う備前に、忻子は軽く苦笑し、ふいに顔をそむけた。
その白い、脂肪の乗ったふくよかな手を、かたわらの紫檀の机にのばし、草紙筥のふたを開ける。
梨地の金粉が、ほのかにゆらめいて、光った。
「右中将が届けてくれたのですよ。弟の遺品の中から出てきたらしくてね……」
忻子が差し出したのは、若苗色の羅で装丁された、薄手の草紙だった。
『虫めずる姫君』と書き流された題字が、強く、備前の目を射た。
右中将公繼は、故左大臣実定の子息であり、忻子には甥にあたる。
(虫めずる姫君!? まさか? だけど実定公の遺品といわれるなら、もしかして……)
あやしいほどに備前の動悸は高まり、若苗の、しなやかな絹地をてのひらに感じたとき、骨ばった彼女の手はふるえていた。
忻子は、そんな備前の様子を興味深げに見守りながら、つぶやいた。
「右中将も、わたくしがこんなものを好きだと知っていますからね」
料紙は、それほど凝ったものではなかった。薄い卵色の地に、金の切箔と野毛がほどよく散っている。
備前の視線を釘づけにしたのは、その見返に描かれた、少女の絵姿だった。 桜だろうか、若葉を青々としげらせた大木にほど近く、ひさしの間の御簾を上げて、少女が身を乗り出している。
いかにも優美な構図でありながら、少女の小袿は地味な香染めで、袴は、男もののような白の切り袴だ。しかも少女が手にした白い扇の上には、毛虫が四、五匹も、身をくねらせている。
小首をかしげて毛虫に見入る少女の姿態といい、毛虫の気味悪くうごめくさまといい、実にたくみな線描だった。
少女の顔は、似絵の手法で写実的に描かれている。黒々と目立つ眉毛、乱れた頭髪。その投げやりな身だしなみにもかかわらず、目鼻立ちは細工もののように華麗で、くちびるを彩る一点の紅が、あでやかに匂い立つ。
「隆信どのですね! 隆信どのがこれを……」
備前は、四十年は若返ったように、声をはずませていた。
「そう、絵も文も、右京大夫(隆信)の手でしょう。似ていますか?」
「似ているもなにも、そっくりですわ。まるで、若御前が生きて帰られたような……」
『虫めずる姫君』という題字を見た瞬間から、胸のふるえるような予感が、備前にはあった。
しかし、忻子の御所でありし日の若御前に、それも四十年前、出会った当時のその姿にめぐり会えるとはあまりに思いがけなく、備前は目頭に熱いものを感じた。
「読んでごらんなさい。短いお話だから……」
忻子に言われるまでもなく、備前の目は、むさぼるように墨跡を追っていた。
蝶めずる姫君の住み給ふかたはらに、按察使の大納言の御むすめ、心にくゝなべてならぬさまに、親たちかしづき給ふ事かぎりなし。この姫君のの給ふ事………
(蝶がお好きな姫君のお隣の館に、按察使大納言の姫君が住んでいらっしゃいました。容姿は、めったにないほどすぐれた姫君でしたので、ご両親は、とても大切に育てておられたのです。ところが、この姫君のおっしゃることが、ちょっと変わっていました……)
若御前の父親、蜂飼太政大臣宗輔は、当時たしかに大納言だったが、按察使ではなく民部卿だった。
そして母北の方は、若御前誕生と同時に世を去っている。
しかしあきらかに、『按察使の大納言の御むすめ』で『虫めずる姫君』なる主人公は、若御前その人だった。
ほかにどこの姫君が、人のいやがる毛虫を集め、
「蝶ばかりありがたがる方がおかしいのよ。この毛虫が、蝶になるのですからね。なにごともその根本をたずね、変化していくさまを見守ることにこそ意味があるわ」
なぞとの給うだろうか?
そしてまた、ほかにどこの姫君が、『あざやかに気高く、はれやかなる』美貌を持ちながら、髪はくしけずらず、眉もぬかず、歯黒めもつけず……、白袴をはいた奇妙な恰好で、文を書くのにカタカナを使ったりするだろうか?
(隆信どのは、あまりあからさまにならないように、細かな点はわざとちがえて書いたのだわ。それにしてもまあ、見てきたようなことを……)
と、備前は舌をまく。
隆信自身は、右馬佐として物語に登場する。妙な贈物で姫君をからかってみたり、のぞき見してみたりと、それはそのまま、隆信のしたことである。
しかし、のぞかれたと知って騒ぐ女房たちに、「さとってしまえば、この世に恥ずかしいものなどないわ。人の世は、夢幻のようにはかないもの。なにが良い、なにが悪いといって、そんな規準は時が立てば変わるんだから」などと説教する姫君の言葉は、いったいどこから思いついたものだろうか?
いかにも若御前らしい言いぐさだが、そんな細々とした言動まで知る機会は、隆信にはなかったはずだった。
「右馬佐と一緒に姫君をのぞき見するこの中将という男、弟ではありませんか?」
備前が読み終わるのを待ちかねたように、忻子は聞いた。
「ええ、そうでした。たしかに、実定様でございますわ。あの頃、実定様は十八歳のお若さで、たしかあの後すぐ、左中将になられたのだと記憶しておりますが……」
実定十八、師長十九、若御前十五、自分と忻子は同い年の二十三、そして隆信も当時、十五くらいではなかっただろうか……。備前は、頭の中でそれぞれの年齢を数え上げ、そして、はっと思い当たった。
「いったい、隆信殿は、いつこれを……、この物語と絵を書かれたのでしょう?」
「さあ……、弟が持っていたものですからねえ。あまり世に知られてないところを見ると、そう前のことではないと思うけれど……」
なんということだろう。隆信は、十五かそこらのころ、かい間見ただけの若御前の素顔を、何十年も経たのち、息をしているかと思うほど見事な似絵に、仕上げたのである。
(隆信どのの本質は……、なにを差しおいてもまず、絵師なのだわ)
備前は、大きくうなずく。
歌人としても、あるいは物語の作者としても、隆信の評判は高い。
気のきいた歌を詠み、さまざまな女たちとやり取りを重ね、高貴な女性と浮き名を流し……、いってみれば、王朝の過去の優美をなぞるように生きてきた隆信である。これまで彼の手になった物語は、その色好みの人生の延長にあり、『虫めずる姫君』の作者を連想させるようなものではなかった。
しかし、絵師としての隆信は、まさに『根本を訪ね、冷静に観察することこそ大切』という姫君の言葉そのまま、なのではないだろうか?
いまでこそ、似絵の名手としてもてはやされ、さまざまな貴紳の肖像をものにしている隆信だが、かつて彼の絵は、多くの批判を受けた。古典的な引目鉤鼻をはなれ、どんな高貴な人物の場合でも表情をあるがままに写すというその手法が、あまりに生々しすぎるというのである。
絵巻好きの後白河院が、斬新な美意識の持ち主であり、隆信の才能を引き立てたからこそ、世に受け入れられたのだ。
つまり隆信は、自らの心の奥深くにひそんでいた伝統への反発を、『虫めずる姫君』に投影したのではないだろうか?
そう考えてはじめて、納得がいく。
「これを読んでいると、この姫君が琴を弾く姿なぞ想像もできませんね。若御前は名誉の琴弾きと言われた方なのに……」
忻子の正直な感想に、備前は思わずほほえんだ。
たしかに、その通りである。毛虫を集めて喜ぶ男装の姫君が、十三弦の名手だなぞとだれが思うだろう?
「ねえ備前、読ませてくれませんか?」
「はっ?」
「若御前のことを書きためていると、聞きましたよ」
思いがけない忻子の求めに、備前はうろたえた。
「そ、それは……、書いていると申しましても、わたくしのは単なる覚書きでございまして、ただ事実だけを……」
「そう、その事実を読んで見たいのです。以前からそう思っていたのだけど、この『虫めずる姫君』を読んで、ますます思いがつのりました。妙音院も逝かれ、はばかる筋もなくなったのではありませんか?」
忻子は、備前の手から草紙を受けとり、宝物のようにそれを撫でた。
備前は、忻子のしなやかな指に見え隠れする、『虫めずる姫君』という文字から、視線をはずすことができなかった。
備前が若御前の前半生をつづったのは、妙音院師長、ただひとりのためだった。師長の逝去に際して、燃してしまおうと思ったものを、なぜか備前は思いとどまり、今また新たに、続きを書きはじめた。
だれのためでもない、自分自身のために……。
「備前、わたくしはこの姫君が……、若御前がうらやましいのです」
忻子は、描かれた少女のすこやかな美貌に見とれつつ、ため息をつくようにそのひと言をもらした。
しんと胸にしみ透るような、忻子の口調だった。
「近いうちに、お持ちしてみましょう。つたないものではございますが、お気晴らしくらいにはなるかもしれません……」
約束の言葉が、とっさに、備前の口をついて出た。
(もしかするとわたしちは、だれもがみな、胸に『虫めずる姫君』である部分をかかえて生きたのではないかしら?)
備前は、言いつくせない思いを込めて忻子を見つめ、そして静かに、瞳をとじた。