虫愛ずる姫君 一章

 久寿二年(一一五五)の十月も終りに近く、中御門京極にある蜂飼大納言宗輔の館では、薄縹の瑠璃のような空に、なごりの紅葉が、茜、朽葉の深い色あいをちりばめていた。
 池は広く豊かに水をたたえ、鏡のように色彩をうつして、西の対の近くまで迫っている。
 木々にはおもむきのある古木が多く、年を経た築山の岩肌も、深い味わいを見せている。
 滝の落とし方といい、苔や下草の生えぐあいといい、わざと少し荒れた風情につくってあるのが、かえってゆきとどいた心づかいを感じさせる庭だ。
 西の対のひさしの間では、うら若い女房が数人、その風雅な庭に目もくれず、笑いさざめいていた。
 床には、赤、青緑、蘇芳、紫、萌黄と色とりどりの綾錦が出し散らかされ、極彩色のつややかな照りに、どの顔も華やいでいる。
 さかんに口は動かしながらも、ある者は針を使い、またある者はあれこれと布を折りあわせてみたり、間近にせまった五節の準備に余念がない。
「わたし、知らなかったわ。きのう、中納言中将(師長)さまが母屋の方にいらしてたのですって?」
 ひとりの女房が話はじめると、すぐに、もうひとりが応じる。
「あら、あなた、知らなかったの? それはお気の毒さま。ま、知ってたところで、どうなるってもんでもないけどねえ」
「まったく殿さまは、どうしてわたしたちを呼んでくださらないのかしら? 母屋の方は年寄りばっかりでしょう? 中納言中将さまも、ご退屈なさると思うわ」
「あなたがいれば、退屈なさらないとでも言うの? だいたいあの方は、筝の琴の秘曲がお目当てで、殿さまを訪ねて来られるのよ。こんなところの女房なんて、目じゃないわね」「そうそう、内裏でも誘う女房はたくさんいるのに、鼻もひっかけられないとか……」
「あら、わたしは、結構お相手なさるって聞いたわよ。ただねえ、目的を果たされた後のおあしらいが冷たいって噂だけど。女より楽器の方を、よっぽど大切になさるんだそうよ」
「きっと中納言中将さまは、筝の琴の名手、なんていうのにお弱いんでしょうねえ。ああ、ああ、もったいない、もう少しねえ、うちの……」
 そこまで話して、鼻の頭にそばかすの浮いた女房は、ぴったりと言葉を切った。小さく舌を出して、几帳をふりむく。
 ほんのりと明りをやどした練り絹の帳を、全員が、盗み見た。
 くっくっく……と、女房たちの声にならない笑いが、空気にこもる。
 若御前は、几帳のかげで、ふん、と鼻を鳴らした。
 聞くまでもなく、女房の言葉の続きはわかっていた。
「うちの姫さまが、まともでいらしたらよかったのに」というわけだ。
(まともでいらしたら、どうだっていうの? よくもまあ、ばかなことを言うもんだわ)
 と、若御前は思った。
 中納言中将師長は、左大臣頼長の次男である。
 十八歳の若さで中納言、つまり、貴族の中でも上層の、わずかな人数しか任じられない公卿につらなっているわけで、しかも近衛の中将として、行事の折りにはきらびやかな武官姿を見せる。
 それは、名門の子弟にしか許されない特権であり、若い女房が騒ぐのも、もっともなことではあった。
 若御前は、さっきから、聞くともなしに女房たちの話を聞いている。ここのところひんぱんに師長が父のもとへ来ているらしいのを、彼女も気にしていたところだ。
 もっとも、若御前の関心は、女房たちのそれとはまったくおもむきがちがう。
 どうしてこの時期に? と、疑問がわくのだ。
(いくらなんでものんきすぎる。中納言中将は、ばかなのかしら?)
 そう考えて、若御前は、形のいい小鼻をわずかにふくらませた。
 この夏、十七才の若さで近衛帝は臨終の床に伏し、奇妙な噂が世間をかけめぐった。
 近衛帝の病は、左大臣頼長の呪詛によるもの、というのだ。ごていねいにも、愛宕山の天狗の像に釘を打って呪ったのだと、見てきたような解説までついている。
(ばかばかしい、なにが呪いよ。関白だわ。関白のしわざにちがいない……)
 若御前が決めつけたのも、無理はなかった。関白忠通と左大臣頼長の兄弟は、ここ数年、激しく、摂関家の跡目を争っている。

 争いの根は深いが、もとはといえば、関白忠通に長く男子の跡取りがなかったことに原因があった。
 忠通と頼長は、親子ほども年のはなれた異母兄弟である。
 父親の忠実は、関白職を忠通にゆずって宇治に引退したのち、頼長をもうけた。
 頼長は、若いうちから数人の男の子に恵まれ、師長もそのひとりだ。はじめて男子の孫を得た忠実は、頼長の息子たちを溺愛した。
 幼くして母親を亡くした師長などは、祖父忠実の手もとで育てられたほどである。
 当然のなりゆきとして、前関白忠実は、跡継ぎのない兄の忠通から弟の頼長へ、さらにはその息子たちへ、関白職は引き継がれるものと定めた。
 当初は、忠通もきげんよく、これを了承していた。
 ところが、思いがけなく忠通に男子が誕生し、事態は紛糾した。
 忠通にしてみれば、生まれたばかりの息子の行く末が気にかかる。弟に関白をゆずってしまえば、自分の血筋にそれが帰ってくる保障はないのだ。
 ちょうどそのころ、近衛帝は元服をむかえようとしていた。そこで、摂関家の異母兄弟は、藤原氏が代々くり返してきたお家芸に勝負をたくすことになった。
 つまり、娘を後宮に入れ、皇室の外祖父となって地位を固めようとしたのである。
 あいにく、ふたりとも年ごろの娘に恵まれず、ともに北の方の実家の娘を養女にむかえ、持ち駒とした。
 まず、左大臣頼長の養女多子が入内して皇后となり、次いで、関白忠通の養女呈子が上がって中宮となる。
 なにしろ、どちらの妃が先に皇子を産むかが、勝敗のわかれ目だ。
 ようやく十二歳になったばかりの近衛帝の後宮では、優雅な作法と華やかな衣裳のかげで、昔ながらの陰湿な争いがくりひろげられた。
 これは、貴族社会をまっぷたつに割る事件だった。
 多子は閑院流徳大寺家の出身、呈子は大宮大納言の娘と、どちらも藤原氏の名門を実家にしている。
 それぞれの実家、それにつらなる親戚縁者までが、全力を上げて応援に乗り出した。
 しかし、後宮での争いは、中宮呈子、ひいては関白忠通の陣営に、一歩有利だった。
 その理由を説明するには、皇室の内情を語る必要がある。皇室には、摂関家に輪をかけて根深い火種が、くすぶっていたのだ。
 そもそも、近衛帝が帝位についたのは、わずか三歳のとき。異母兄の崇徳帝を引きずりおろしての即位だった。
 もちろん、幼い帝に、兄への敵意や即位の意志があろうはずはない。すべては父の鳥羽院と、母の美福門院がお膳立てしたことだ。
 鳥羽院には、先に待賢門院という正后があった。閑院流藤原氏出身のこの女性は、のちのちまで語り草になるほどの美貌の主だったが、あろうことか、鳥羽院の祖父、白河院のお手つきだった。
 鳥羽院は、長男の出生に疑惑を抱き、生誕の瞬間、「叔父子」と叫んだという。つまり表向きは自分の子だが、実は祖父の種で叔父、というわけだ。
 さらに鳥羽院の屈辱を深めたのは、祖父の指図で、この叔父子、崇徳院に帝位を奪われたことだった。
 白河院崩御と同時に、鳥羽院は報復を考えはじめる。待賢門院を遠ざけ、若い美福門院に寵愛をそそぎ、ついに近衛帝の誕生を見た。
 あとは、かつて自分の受けた仕打ちを、崇徳院にそのまま返すだけだった。
 待賢門院の腹には、崇徳院以外にも皇子はあったのだが、すべて無視された。
 周到な下工作がなされていたにもかかわらず、この無理押しは、貴族社会に大きな波紋を投げかけた。
 待賢門院の実家、閑院流諸家の不満を封じるために、ついには呪詛事件がでっちあげられる。待賢門院は出家に追い込まれ、失意のうちに崩御した。
 つまり多子皇后は、左大臣頼長の持ち駒であると同時に、閑院流藤原氏の巻き返しの旗頭であったわけで、おまけに、大叔母にあたる待賢門院に生き写しの美貌だった。
 かつての競争相手にそっくりの嫁が、美福門院の気に入ろうはずはない。中宮呈子擁立には、美福門院も一役買ったのである。
 というのも、美福門院は、関白忠通の北の方と従姉妹にあたり、呈子とも血縁だった。
 後宮における、母后の発言力は大きい。近衛帝がまだ幼いともいえる年齢であってみれば、なおさらのことだ。
 中宮呈子の方に、皇子誕生の確率は高そうに見えた。
 そんな状況の中で、前関白忠実の怒りが爆発した。
 頼長を偏愛する忠実は、忠通が約束をたがえて関白職を引かないことが、すべての争いの原因だと見た。
 しかし関白職は、朝廷の官職であり、いくら前関白とはいえ、忠実の一存でどうこうできるものではなかった。
 そこで忠実は、氏の長者の地位を、忠通から取り上げて頼長にわたし、さらに鳥羽院に願って、文書内覧の宣旨をも、頼長のために勝ち取った。
 文書内覧は関白の特権であり、藤原氏の氏の長者は、摂政関白の職についた者が兼ねるしきたりとなっている。
 左大臣頼長がそのふたつを手に入れたことで、忠通の関白職は、名ばかりのものになった。
 結局、近衛帝は、皇子を残すことなく崩御した。
 そこへ、呪いの噂である。
 愛息の崩御に動転した鳥羽院は、噂をまるごと信じ込み、激怒した。ちょうどそのとき、北の方の喪で公の場に出れなかったことも、左大臣には不運だった。
(まったく、左大臣の北の方も、とんでもないときに逝去したものだわ)
 と、若御前は嘆息する。
 皇后多子は、皇子を産むことなく未亡人となり、その存在は政治的な意味をなくした。
 さらに、北の方が急逝したことで、閑院流徳大寺家が左大臣頼長に義理を感じる必要は、まったくなくなってしまったのだ。
 名門徳大寺家という強力な味方を失った左大臣は、ついに失脚に追いこまれた。新帝は左大臣を疎外して選ばれ、関白忠通は、内覧の特権を取りもどした。
 左大臣はいま、一族とともに、宇治に閉じこもっている。
 兄弟がみな出仕を取りやめている中で、ひとり師長だけが、朝廷へ顔を出しているのだ。
 鳥羽院の寵愛が深く、また祖父忠実の養子になっていることからそれが許されるのだが、前関白忠実の立場も、今はあやうい。
 関白の位や内覧の宣旨は、治天の君である院によって与えられるものだが、氏の長者はちがう。摂関家内部の問題であり、内覧を止められようが籠居しようが、左大臣が氏の長者であることに、変わりはない。
 藤原氏の氏の長者の地位には、名誉だけでなく、膨大な荘園が付属している。摂関家の富の大半は、いまも左大臣が握っているのであり、弟をひいきする父の忠実に対して、関白忠通の憎悪の種は、消えていないのだ。
 こういう状況の中で、筝の琴の秘曲がどうのこうのと、無力な蜂飼大納言を追いまわしている師長が、若御前には信じられなかった。
 ただ宗輔は、前関白忠実と個人的に親しく、また、一本気な左大臣の性格に好意をよせてもいたので、世間からは、左大臣派と見られていた。
 つい去年のこと、右大臣の席があき、関白が大宮大納言を推薦したのに対して、左大臣は宗輔を推したという経過もある。
 大宮大納言は中宮の実父だ、いや、蜂飼大納言の方が年も上で大納言になったのも先だと、関白と左大臣はいがみ合い、鳥羽院も結論を出すことをひかえた。
 いまだに、右大臣の席はあいたままである。
(新帝の大嘗会の舞姫奉仕がわが家にまわってきたのも、つまるところ……)
 若御前の思いは、そこへ飛んだ。
 五節の舞姫は普通四人だが、新帝即位の年にかぎり、公卿の家から三人、受領の家から二人の五人が出る。その公卿分のひとりに、蜂飼大納言が選ばれた。
 結局これは、「左大臣派をはなれて新しい体制を認めよ、さもなければ身があやういぞ」という鳥羽院の忠告だと、若御前は受け取っている。
 宗輔は、今年七十九歳。最年長の公卿であり、かつては鳥羽院の笛の師でもあった。
 人のいい、浮き世ばなれした長老の立場を、鳥羽院が気づかったとしても、不思議ではない。
(ありがたい、と思えというのかしら? ばかばかしい。五節の舞姫には、やたらに費用がかかるわ)
 若御前は、眉をしかめて、文机の上の訴状に目を落とす。年貢の一部を免除してもらいたいと、因幡の荘園から言ってきたものだ。
(この不作続きに代替りだなんて、迷惑な話よね。うちが困るだけじゃない、即位式にしても大嘗会にしても、やたらに経費がかかるんだし、それを押しつけられたんじゃあ、諸国に不満がわくのも無理もない。新帝の前途も多難だわね……)
 若御前は、ひたいにかかる黒髪をはね上げ、考え続けた。
 新帝の擁立は、難渋した。まず候補に上がったのは、崇徳院の皇子・重仁親王と、雅仁親王の御子・守仁親王である。どちらも、鳥羽院には孫にあたる。
 常識的に考えれば、重仁に軍配が上がる。
 守仁は、皇孫ではあっても皇子ではなく、皇孫の即位は、近来あまり例がない。
 しかし重仁は、治天の君である鳥羽院の気に入らなかった。
 母親の身分が低いこともあったが、それよりも、「叔父子」の子であることに、鳥羽院はこだわっていた。叔父子の子は、直系の血族ではない。
 雅仁も、崇徳院と同じく待賢門院を母としているが、鳥羽院の種であることに疑いはなかった。したがって守仁は、正真正銘の孫というわけだ。
 おまけに守仁は、早くに母を亡くし、美福門院の養子になっていた。
 美福門院と関白も強く守仁を押し、大勢は決まった。
 守仁の妃には、美福門院の実子、乙姫の宮槇子内親王を迎えることが決定され、これは鳥羽院にとっても、実の孫と実の娘が天子と后の位にすわることであり、満足のいく処置だった。
 しかし、やはり皇孫の即位には問題がある。また、二十九歳の父親・雅仁をさしおいて、十三歳の子・守仁が即位するのはおかしいと、異議を唱える者もあった。
 もっともな意見ではあり、結局、とりあえずは雅仁の即位を認め、守仁には、東宮として近い将来の即位を約束するという妥協案で、決着を見た。
 後白河帝の誕生である。
(まあねえ……、徳大寺家のことを考えれば、うまい手ではあったわね)
 若御前は、皮肉な笑いをもらす。
 今の今まで、左大臣と手をたずさえてきた閑院流徳大寺家は、待賢門院が閑院流の出身であったことから、崇徳院の後楯ともなりかねない存在だ。
 関白にしても、また鳥羽院、美福門院にしても、左大臣・崇徳院・徳大寺家の三者がひとまとまりの勢力になることだけは、どうしてもさけたい。
 その点、後白河帝は、崇徳院と同じ待賢門院の腹である。
 後白河帝の妃に、多子の姉・忻子が上がることを条件に、徳大寺家は、左大臣を、そして崇徳院をも、見すてたのだ。
(だけど、これでまた新しい火種ができたとも、いえるわけよ。忻子姫が皇子を産めば、東宮との対立は避けられないもの。だいたい、後白河帝の即位は、だれが最初に思いついた案なのかしら? 鳥羽院でないことは、たしかね。あれは帝の器ではないって、常々言っておられたっていうから。美福門院とも思えないし、関白か、あるいは徳大寺家の方から働きかけたか……)
 若御前の思考は、そこで中断した。

「姫さま、姫さま! そこにおられるのでござりましょう?」
 重たい声がひびきわたり、若御前は大きくため息をついた。弁の乳母の巨体が、几帳をゆるがし、練り絹に描かれた水鳥が、おどろいたように跳ねる。
「うるさいわねえ、考えごとをしてるっていうのに……」
 若御前は目を閉じて、額に手をあてた。
「姫さま! ああ、ああ、ほんとに……、まだそんな恰好を! きょうは、中御門の宗子さまが、新しい女房とやらをつれて参られるのでございりまするよ。せめて、せめて、お髪なりとお整えあそばせと、あれほど申し上げたではござりませぬか!」
 若御前は、大げさに耳をおおい、目を閉じたままである。
 乳母は、不満げにほおをふくらませ、几帳の外の女房たちにむけて、がなりたてた。
「左近、兵衛、おまえたち、いったいなにをしていたのです? さあ、はよう、この間こしらえた紅葉の重ねを、姫さまにお出しして……」
 若御前は、女房たちが動き出す前に、きっと乳母をにらみ、宣言した。
「いやよ。あんな下品な赤、着るつもりないわ」
「下品とはまあ、姫さま、紅もみじのどこが下品でござりまする? 紅は高貴な色、姫さまならば、きっと似合われますとも! 一度でようございます。お手を通して……」
「きらいなものは、きらいなの。おだてても、むだよ」
 若御前は、言いすてて、きゅっとくちびるをひきしめた。
「なにがおだてでござりましょう。姫さまのお美しさは、持って生まれられたもの。そのように頑固でさえいらっしゃらなければ、女御に上がられようが、后に立たれようが、恥ずかしくないほどでござりまするに、ああ、もう、どこでどう、お育てまちがいましたことやら……。これ以上、宗子さまなどにばかにされるのは、がまんなりませぬ!」
「ねえ、ばあや、いいかげんにしてよ。わたし、いそがしいんだから……」
 うんざりした若御前の口調に、乳母は、語気を荒げた。
「なにがそんなにおいそがしいのです! 五節の舞姫の準備をお指図くださるわけじゃなし、殿さまと若さまのご衣裳にいたしましても……」
「もう、ばあやったら、そんなことどうでもいいわよ。衣裳の色が赤だろうが黄だろうが、多少はげちょろげていようが、なんだっていうの? だいたい、うちみたいな貧乏公家が五節の舞姫なぞ押しつけられて、問題はどうやって費用を捻出するかよ。それでさっきから、悩んでいるんじゃないの。因幡からは年貢をまけてくれって言ってくるし……」
 若御前はぴらぴらと、訴状をふってみせた。
「ああ姫さま、そのようなことは、良家の子女の心配なさることではありませぬ。家司におまかせになればよいのです!」
「家司にまかせっぱなしで、それでわが家は、五節の費用にも苦労するようになったんじゃないの。ちゃんと見てなければ、ごまかすのが人の常。それくらいは、ばあやにもわかるでしょう?」
 白髪の乳母に向かって、若御前は、子どもにとき聞かすように言う。しかし乳母も、負けてはいなかった。大きく息を吸いこみ、理路整然と反論をはじめる。
「たしかに、殿さまが、そういうことに疎くていらっしゃるのは、困ったことでござりまする。しかしでございますよ、姫さま。大納言として朝廷にお努めの殿さまあればこそ、荘園もこちらに年貢をおさめてくるのですよ。多少のごまかしなぞ、問題ではござりませぬ。かしこい姫さまには、それくらいおわかりになられましょう? 殿さまがおられるうちは、ようございます。ですが、殿さまももうお年。夫もなく子もない女の行く末に、ろくなことはござりませぬ。姫さまももう、婿を取られておかしくないお年頃なのですから、少しはご自覚いただきませんと。殿方と申すものは、やはりこう、世間知らずの……、芸事にすぐれた、なよやかな姫君を好まれるものです。姫さまは、筝の琴にたぐいまれなご才能をしめされ、香を合わせるにも、なみなみならぬご趣味をお持ちではござりませぬか。ほんのちいと身なりをお整えあそばし、お歌や書の手をご練習なさるくらい、なにほどのことでございましょう? さすれば、おせっかいな宗子さまも……」
 若御前は、馬耳東風を決めこんでいたが、筝の琴のひと言で、顔色を変えた。
「わたしは、他人の思惑にかまけて、筝の琴を弾いてるんじゃないわ。和歌だってねえ、時候のあいさつ程度のものなら、詠まない方がましよ。それに、字がきれいな人間にろくなのはいないじゃない。腹黒で、無能な関白とか……」
「姫さま! 関白殿下に対し、なんということを申されるのです。いくら……」
「あら、事実じゃない? 自分の息子に関白職を伝えることだけに夢中で、大局的にものを考えない。見ていてごらんなさいよ、摂関家の行く末にろくなことはないから」
 ついに乳母のぐちは、落ち着くところへ落ち着いた。
「まことに……、なぜ姫さまは、若君にお生まれあそばされませなんだ? さすればわたくしも、このように気をもむことはありませなんだに……」
 若御前は、ふふんと、鼻で笑う。
「男に生まれて、どうしろって言うのよ。朝廷に出仕して、儀式のたびに右向いたり左向いたり、退屈この上ないわ。おまけに、院に抱かれてご機嫌を取るようなこと、このわたしに、しろとでもいうの? くだらないったら、ありゃしない」
「なんとまあ、下種なことを! そのようなことで昇進をはかるのは、受領でございましょう。ちゃんとした家柄の若君は……」
「おや、左大臣が失脚あそばしたのに中納言中将が出仕しているのは、鳥羽院と寝たからだってもっぱらの噂よ。兄さまの出世がおそいのも、それができないからじゃないこと?」
「姫さま! そ、そのようなことをあからさまに口に出すのは、下々のすること。上つ方では、あったことも知らぬ顔を通すのが、礼儀と申すものでござりまするよ。まして、ご結婚前の姫君が……」
 乳母は、ゆっくりと首を左右にふり、絶句した。
 若御前は、花が咲くようにほほえむ。
「ああ、結婚ね。さっさと婿を取っても、ばあやみたいに、夫にも子にも先立たれることがあるじゃないの。結婚したからって、なにも将来が保障されるわけじゃないわよ」
「なにをおおせあそばされます? 先立たれたのは不幸かもしれませぬがな、わたくしには、姫さまがおられます。ほんにもう、老い先の望みは、ただただ姫さまの……」
「そんなもん、望まなくていいわよ。わたし、尼になるわ。ばかな夫の相手をしたり、出来の悪い子を案じたりするより、どれほどましな生活が送れることか……」
 ほがらかに言う若御前に、乳母は、せいいっぱいの皮肉をこめて反撃した。
「尼になられて、四天王寺で物乞いでもなさりますのか?」 「しつこいわねえ、ばあやも。ああ、ああ、物乞いでもなんでもするわよ! わたしひとりが食べていくくらい、なんとでもなるわ。そのために、荘園の管理もしてるんだし……」
 若御前は言葉を切ると、視線を宙にすえる。次に口をついて出た言葉は熱をおびていた。
「まあねえ……、そりゃあ、受領のまねはできないわよ。でもなんとか、もう少し本格的に、唐との交易に手を出せないものかしら? ほら、安芸守(平清盛)なんぞごらんなさい。父親の代からの交易で、たいした蓄財よ。今度の舞姫だって、ここぞとばかりきんきらきんに仕立ててくるにちがいないわ。まったく、五節なんて全部受領にまかせとけばいいのよ。ほら、大もうけしている信西あたりに、やらせるべきだわ」
 乳母はつい、若御前のペースにのせられてしまう。
「なんでございます? その信西というのは……」
 若御前は、嬉々として解説しはじめた。
「あら、知らないの? 今上(後白河帝)の乳母、たしか紀伊の局とかいったわね、それの夫でね、鳥羽院に取り入って、二年前から筑紫の後院領の采配をふるってるわけよ」
「ああ、少納言入道でございまするか。あの坊主が後院領を采配するのに、なんの不思議がありましょう。下衆の世すぎなぞ、姫さまのお気にかけられることでは……」
「筑紫の神崎は、唐との交易の中心地よ。平家があずかって財をなした荘園を、今度は信西があずかって、さかんにあちらの商人と会ったりしているんだから、気になるわよ。まったくあの男、機を見るに敏っていうか、以前は左大臣のところによく顔を出していたのが、最近は関白にごまをすって……」
 そこまで言って、若御前はふいに黙りこんだ。
「そうか! わかったわ。信西よ、信西だったんだわ!」
 手を打って、若御前は叫ぶ。乳母の出現で中断された考ごとの、答えが出たのだ。
 今上、後白河帝のかつぎ出しを最初に考えたのは、鳥羽院でも美福門院でも関白でも、また徳大寺家でもなく、少納言入道信西ではないのか?
 今上の乳母の亭主であってみれば、もっとも利益を得る立場だ。
(なるほどねえ。信西の悪知恵だったんだわ。でも、前少納言風情で、おまけに出家した身に、なにほどのことができるっていうのかしら……?)
 若御前は、乳母の存在などまったく忘れ去って、考えこんでいる。
 乳母の苛立ちは、つのった。
「もう! お気がちがわれたのですか、姫さま!」
 若御前は、黙れというように、ひらひらと白い手をふって、まるで相手にしようとしない。
 その、くっきりと刻んだように美しい横顔を見つめて、乳母は頭をかかえた。
(まったく、どこでどう、お育て方をまちがえたのか……)
 乳母が、もういく度目かのため息をついたとき、几帳の外で声がした。 「乳母どのは、こちらへこられませんでしたか?」
 東の対の女房、大夫の声だ。
 重い腰をゆっくりと上げながら、乳母は叫んだ。
「いますよ、ここに。なんぞ、用ですか?」
「ああ、乳母どの。いくらおさがししても、若さまの御太刀が見あたりませんのです。それに、襪(靴下)の色はなに色がよろしいのでしょう? 礼服のきまりなぞ、わたくしにはわかりかねまして……」
 几帳のむこうで、大夫はせわしなくしゃべり続ける。
「御太刀? よく調べたのですか? 螺鈿蒔絵のものですよ」
 乳母の声に、突然、若御前が反応した。
「ああ、兄さまの飾太刀なら、ここにあるわよ」
 身軽に動いて、若御前は、ほのかに金粉の光る梨地の二階厨子から、太刀を取り上げた。
「なんでこんなところに、若さまの御太刀がございまする?」
 若御前の手にした螺鈿の飾太刀に、乳母は、いぶかしげに目をほそめる。
「なんでって、兄さまが置いてったのよ」
 そう言いながら、若御前はすらりと、太刀をぬいた。
 白刃が、するどい光をはなつ。
「な、な、なにをなされます!」
 ぎょっとする乳母に、若御前は、片手で鞘を持ち、片手で太刀をふりかぶった。
「ほら、こうやってね、太刀のかまえを研究してたの。盗賊が入ったとき便利でしょ?」
 乳母は、あっけに取られて息をのみ、その一瞬の沈黙をぬって、
「姫君! 姫君はおられますかあ!」
 せいいっぱい張り上げた少年のどら声が、遠く庭先からひびいた。
「あ、あ、あんまりです、姫さま! な、なにをとち狂われて、武者のまねなぞ!」
 騒ぎはじめた乳母をしりめに、若御前は、ぬき身の太刀をさげたまま、几帳の外へ出る。
「ひぃ〜い!」
 几帳のすぐ脇に立っていた大夫が、悲鳴を上げて、腰をぬかした。
「ほら、持っていきなさい」
 若御前は、白刃を鞘におさめ、後ろをふり向いて、乳母に押しつける。
「姫さま! ま、まったく、大夫の腰が立たなくなったら、いかがあそばされますぞや?」
 乳母は、憮然として、言いつのった。
 縫い物をしていた女房たちは、笑いを押さえきれず、華麗な綾錦の色彩につっぷして、身体をふるわせている。
 若御前は、そ知らぬ顔で、その間を縫って簀子縁に出ると、庭先にいる小舎人童に声をかけた。さっきの、どら声の主である。
「おや、ケラ男、口のまわりにいっぱい、いいものつけてるわね。夜叉王にもらったの?」
 ケラ男は、大きく舌を出して、口のまわりの蜜をなめ、にんまりと笑う。
「へへへ……。姫君、夜叉王が、蜂の世話が終わったと申しておりますよ」
「あら、胡蝶はどうしたの? 知らせに来るように言ってあったのに」
「さあ、胡蝶さんは、ずっと見かけませんでしたが……」
「まあいいわ。すぐ行くからって、夜叉王に伝えなさい」
 そのまま簀子縁を歩きかけて、若御前はふと引きかえし、廂の間をのぞいた。笑いころげていた女房たちが、おどろいて若御前を見上げる。
「左近、おまえねえ、中納言中将の愛人に志願するのは勝手だけど、気に入られようとて、筝の琴を練習するのだけは、やめといてね。おまえの琴を聞くと頭が痛くなるもの」
 若御前は、晴れやかな声に、とろけるような笑顔をそえて、それだけ言ってのけた。
 言われた左近は、そばかすの浮いた鼻の頭まで、赤く染める。
 一段と声高く笑いはじめた女房たちを置いて、足どりも軽く、若御前は北面へむかった。
 東の簀子縁で、若御前の足がとまる。萌黄の衵につつまれて、髪の赤っぽい、大柄な女童がうずくまっていた。
「胡蝶、こんなところでなにをしているの? 夜叉王が来てるっていうのに……」
 若御前を見上げた胡蝶の目は、赤く充血している。
「胡蝶、泣いていたの?」
「だ、だって……、あ、あんなの、と、父さんなんかじゃない……。し、死んでしまえばいいんだっ!」
 胡蝶は激しくいうと、くちびるを突きだして、すすりあげる。
 若御前は、胡蝶のほおに流れた涙を、細い指でふきとり、静かにいった。
「なにをいうの。また、だれかがくだらないことをいったの? 夜叉王は、ちょっと毛色がちがうだけで、いい父さんじゃない。さ、いきましょう。夜叉王は、おまえに会うのが楽しみなのよ」
 若御前に手を引かれ、しぶしぶと、胡蝶もあとに従う。
「ほら、今度はどんなおみやげを持ってきてくれたか、おまえ、楽しみじゃないこと?」
 続いた若御前の言葉に、ようやく、胡蝶のすすり泣きはとまった。

 一方、蜂飼大納言館の母屋の一室では、備前が、白菊重ねの自分の衣裳を、落ち着きなくいじっていた。
 室内を見わたしてみれば、さすがに調度類は凝っていて、几帳や壁代の軸にも、見事な螺鈿がほどこされている。が、そこに張られているのは、夏の料の、それも萎えて、裾濃の色のどこかさめた生絹なのだ。
 冬の初めの透明な陽射しに、床をおおった埃がしらじらと浮き上がってさえ見える。
 備前にしてみれば、ひろげた青緑の単にほこりがまつわりつくのも気になるが、それよりも、目の前にいる大納言の局宗子の、神経質に扇の骨をもてあそび、眉間にしわをよせた、苛立ちのさまがうっとうしい。
「いつまで待たせる気でしょう。まったく、この家ときたら……」
 宗子は、そんな備前の気持ちに気づくこともなく、聞こえよがしに文句を言う。
 備前が近衛帝のもとへ内裏女房として上がった当初から、宗子は、近衛帝の同母妹・乙姫宮槇子内親王の乳母として、宮中でも重々しい存在だった。
 しかし備前は、ごく最近まで、ろくろく宗子と話をしたこともなかった。
 もともと宗子は、上流貴族の出身である。
 宮仕えに出て、受領の婿をむかえているのは、どうやら富を望んでの世すぎらしいが、名門意識は人一倍強く、賀茂神官の娘にすぎない備前なぞ、まともに相手にするような人柄ではないのだ。
 その宗子に、つい先日、備前は突然呼び出されたのである。
「いえねえ、備前どの、あなたが内裏に残ることを断わったと聞きましてね……。これから、どうするおつもりなの?」
 宗子は、気味が悪いほど愛想よく、話の口火をきった。
「はあ、先帝(近衛帝)の一周忌をむかえますまでは、このまま引きこもってと……」
 てっきり、東宮妃を予定されている乙姫宮槇子内親王の女房に誘われるのだと思い、備前は言葉をにごしながら、断るつもりで身がまえていた。
 ところが、宗子が持ち出したのは、意外な話だった。
「ねえ備前どの、今度の大嘗会の五節に、うちの父(中御門宗能)と、京極の小父(蜂飼大納言宗輔)が舞姫をさし出すのは、御存じでしょう?」
 五節の舞姫のことは、備前も耳にしていた。しかし、それがいったい自分になんの関係があるのか、備前にはかいもく見当もつかなかった。
 ただ、京極の小父、つまり蜂飼大納言宗輔の名が出たことが、ふと気になった。
 さっぱり性格が似ていないため、備前は忘れていたのだが、宗子の血筋は、宗輔にごく近しい。
 宗子の父・権大納言中御門宗能は、宗輔の甥であると同時に、義理の兄にあたる。つまり宗輔は、宗能の妹、つまり自身の姪を、北の方にしていたのだ。
 もっとも、その北の方はとうに亡くなっていて、宗輔自身も、もう八十に手が届こうかという老人である。
 貴族仲間では相当な変人で通っているのだが、備前はかねてから、そのひょうひょうとした人柄に、愛嬌を感じていた。
 しかも宗輔は、当代きっての筝の琴の名手でもある。
「実はねえ、気のきいた女房がいなくて、小父の家で難儀をしているらしいの。普段ならわたくしも手伝えるんだけど、家のほうも五節でしょう? 姫宮の方も大変な時期だし、そこへ持ってきて、子供が患いなどしましてね。ともかく、そんなこんなで……、ちょっと手伝ってもらえないかしら? なにも堅苦しく考える必要はないのよ。ほら、いい機会じゃないの? あなたの筝の琴は小父もほめていたし、秘曲の伝授を願うなら、ねえ……」
 宗子の言いぐさに、備前は心を動かさざるをえなかった。
 筝の琴の正当な流儀は、皇室から一部の上流貴族にのみ、伝えられてきた。
 今の世に、秘曲をすべて極めているのは、蜂飼大納言宗輔ただひとりと言われている。
 親子でも、筋が悪ければ秘曲までは継承されないものである。まして身分の低いよそ者がそれを教わるとなると、その伝承者を主人としているかなにかで、それもよほど腕を見込まれなければ、無理なのだ。
 宗輔がほめていたなどと、どうせ宗子の作り話だろうと思ったものの、それでも備前は、うれしかった。
「まあ、ほめていただいていたなんて、身にあまる光栄ですわ。ですが、大納言さまは、中納言中将さまにさえ、教えしぶっていらっしゃるとか。とても、わたくしなぞ……」
 宗輔が、左大臣頼長の次男、師長の求めにもぬらりくらりと応じないのは、有名な話だ。
 備前は、師長自身の口から、さんざんぐちを聞かされていた。
「ホホ、たしかに小父は教えないでしょうけど、そうあきらめたものでもないですよ。聞いてないかしら? 若御前のこと」
 備前はおどろいて、宗子の顔を見た。
「ええ、お聞きしたことはございます。ですけれど姫君は……」
 若御前は、蜂飼大納言宗輔がその晩年に恵まれた、最愛のひとり娘である。
 なにしろ深窓の令嬢のことであるから、どうやら……、と前置きがつくが、すこぶる変わった噂がささやかれている。
 どうやら、毛虫を集めるのが趣味らしい……。
 どうやら、男装を好むらしい……。
 貴族の姫君として、とても考えられないことばかりだ。
 若御前という変わった呼び名自体、若君のような姫君だというので、まわりがそう呼びはじめたものという。
 その珍妙な姫君が、どうやら筝の琴の名手であるらしいという話も、一部にはある。
 しかし、にこにこと毛虫を愛でる男の子のような少女が、大人もおよばない腕で、筝の琴の秘曲を弾きこなすなどと、ちょっと信じられないではないか?
 おそらく、宗輔のすぎた身びいきだろうと、師長などは断定していた。
 宗子は、そんな備前の反応など予測ずみらしく、大きくうなずいて、先を続けた。
「そう、たしか十四だったかしら……。小父に言わせるとあの子は天才だそうでね、あの子にだけはもう、秘曲をすべて伝授し終えているはずよ。それに……、あなたに頼みたいのは、なによりその若御前のことなの。叔母が……、つまりあの子の母親が早くに死んで、甘やかしすぎたとでもいうんでしょうかねえ。小父もあのとうり変わり者だし……」
 秘曲をすべて? まさか……、と思ったものの、親族の宗子の口から、それもごく冷静に告げられると、ひょっとすると、という気もしてくる。
「だからね、備前どの、あまりかたく考えず、若御前のお相手役といったところで……」
 このとき、備前の胸に、ふと、まだ見ぬ若御前への、好奇心がよぎったのは、事実である。
 それにつけ加えて、筝の琴の秘曲の伝授という欲もあった。
 これで師長を出しぬけるかもしれないと思うと心がはずみ、とても断る気にはなれなかったのだ。
 しかし、いざこうして出向いて来てみると、うまく宗子にまるめこまれ、おばけ屋敷にでもつれ込まれたような気がする。
 備前と宗子が通された部屋のあたりには、しんと人気もなく、御簾ごしの陽射しに、ただ埃が舞うばかりである。
 突然、せわしない衣ずれの音が、備前の耳をとらえた。御簾が上がり、
「あれまあ、まあ、すっかりお待たせしてしまいましたなあ」
 あられたのは、ごわごわとした上衣を大層に着込み、白髪をなびかせた老女房だった。逆光のため、その顔の表情まではわからなかったが、かなり大柄な女だ。
 しかし……、なにより備前が驚いたことには、老女はその手に、螺鈿の太刀をひっ下げていたのである。
 備前は、あっけにとられて、紫檀の鞘に埋め込まれた貝の肌の、虹の輝きに見入った。
「いったい、その太刀はなんですの?」
 大納言の局宗子が、大きなため息とともに聞いた。
「はあ? いや、わたくしとしましたことが、これは失礼を……」
 老女は、あらためて自分の手にしたものに気づいた様子で、あわてて太刀を置き、くどくどと弁解をはじめる。
「いえいえ、新帝の御即位式も明後日にせまりましたしなあ。殿さま、若さまの礼服なぞをおそろえいたしておりまして……。まったく、礼服には泣かされまする。何十年に一度しか用がありませんものを……」
 宗子は、苛立ちの色もあらわに、それをさえぎった。
「ああ、もう結構よ。いそがしいのはどこも同じです。さてと……、こちらが前にお話した備前どの。こちらは、弁の乳母。若御前の乳母ですけど、古くからこの家にいた人でね、家の中のことはみな、この人が取り仕切っています。ま、そいうことで……」
 備前と乳母を交互に見くらべつつ、早口に紹介し終えると、宗子はさっと立ち上がった。
「おや、お帰りでございまするか? 姫さまにはお会いあそばされずに……?」
 乳母は、あわてたように、宗子を見上げる。
「こんな折りにあの子の顔を見ては、頭痛がひどくなるばかりです。備前どの、くれぐれも頼みますよ。今度来たときには、まともな恰好の若御前に会わせてください。ああ、それから乳母どの、今は夏ではないのですよ。いいかげん生絹の几帳はおやめなさいな」
 すてゼリフのようにそれだけ言うと、宗子の櫨紅葉の目の覚めるような黄色は、軽い衣ずれの音を残して消えた。
 あとに残された二人は、しばらく口もきけず、向きあっていた。
「いや、なにからお話すればいいのか……、備前どのと申されましたな?」
 無意識なのか、弁の乳母は飾太刀をひろいあげ、しきりになでさすりながら、ぼそぼそとしゃべり始める。
 備前はうわの空で、ただまじまじと、乳母の染みの浮いた手の甲を見つめていた。
「……それでわたくし、北の方さまとは姉妹のようにさせていただいていたのです。殿さまもあれで男でございますから、あちこちお子もおつくりあそばしましたが、結局は北の方さまのもとに帰られて……。ところが、最初のお子さまをほんの四つの折りに亡くされて以来、北の方さまにはお子が恵まれませんので。殿さまが家女房にお産ませになったお子を引き取られたのが、東の対の若さま、俊通さまでいらっしゃいます……」
「ああ、左少将さまでございますのね」
 ようやく見知った人物の名が乳母の口にのぼり、備前は素早く、口をはさむ。
 若御前の異母兄、左近の少将俊通は、無口な、目立たない青年だった。そう見苦しい容姿でもないのだが、どことなくもっさりとしていて、影が薄い。
 もう二十代も後半の年頃というのに、定まった妻もなく、女房と浮き名を流したためしもない。
 近衛府の次官(中将・少将)という派手な職にありながら、その品定めが仕事のような内裏女房の話題にも、ほとんどのぼらない人物だった。
 備前は、ぼんやりとした記憶をさぐり、俊通の顔の輪郭を思い浮かべようと、眉間にしわをよせた。乳母は、視線を伏せたまま、かまわず話を続ける。
「さようで。ところが、なんと不思議なことでございましょうなあ。ご結婚以来何十年も立ちまして、もう北の方さまのお髪にも白いものが目立とうかというころ、突然ご懐妊あそばされ、そしてお生まれになられたのが、姫さまでございます。さすがに高齢のご出産がたたられたのか、乳母や、姫を頼むとわたくしの手を握られ……、北の方さまはそのままはかなくなってしまわれました。まこと、生まれたときから珠のようにお美しい姫さまで、わたくしの力がおよばずお育て方をまちがえたにいたしましても、宗子さまなぞにあのようなことを言われる筋合いはございませんので。北の方さまの姪御で、殿さまにもご血縁とは申せ、宗子さまは母方のお品が落ちまする。ごきげん取りに乳母に上がってみたり、金に目がくらんで受領を婿にむかえてみたりと、なさることも到底、良家の子女とは思えませんので……」
 ようやくのことで備前は、弁の乳母が結局なにを言いたいのかを、さとった。
 昔かたぎのこの乳母どのは、やり手の宗子を快くは思っていないのだ。その宗子の紹介であるがため、どうやら備前にも不信の念を抱いているらしい……。
「わたくし、宗子さまとは、それほどお親しくしていただいていたわけでもございませんのよ。ただ……、筝の琴を少々たしなみますので、前々からこちらのお館につてがあればと望んでおりました。どうぞよろしくお引きまわしください」
 備前はやわらかな微笑みを浮かべ、まっすぐに乳母を見た。
 筝の琴、の一言で弁の乳母の表情はやわらぎ、細い眼がいっそう細くなる。普賢菩薩の図に描かれた象の瞳のようだと、備前は思った。
「ほんに、筝の琴にかけましては姫さま、だれに引けを取るものではございません。いえねえ、わたくしも年を取ってしまいましたし、なにかとゆき届かず……、姫さまのためにも、お若い、しっかりとした方が来てくださるのはありがたいことと思っているのですよ。ともかく……、ご案内いたしましょう」
 これは……、と備前はおどろいた。
(単純というか……、宮中では、とても考えられない人のよさだわ)
 どうやら、拍子ぬけするほど簡単に、乳母の信頼を勝ち得たようなのである。

 若御前の住む西の対の屋は、小寝殿といえる規模で、大きく庭に乗り出している。静まりかえった主寝殿にくらべ、どちらが館の中心かわからないほどしつらいもよく、足を踏み入れたとたん、ざわざわと人の気配が感じ取れた。
「姫さまは、まだ帰られませんのか?」
 弁の乳母は、廂の間をのぞき、縫い物をしている四、五人の女房に、声をかけた。
 女房のひとりが、好奇心まる出しの視線を備前に走らせ、うわの空で答える。
「はあ、北面に行かれたままでございますが……」
「やれやれ、それでは、夜叉王と……」
 乳母は、しばらく何事か考えていたが、やがて決心したように、備前を見る。
「どっちみち、いずれはおわかりになることですしなあ。まあ、あまり驚かれますな」
 なにを驚くなというのか、おおげさな、と備前は首をかしげつつ、たくましい乳母の後ろ姿にみちびかれ、縁側を北にまわった。
「姫さま!」
 匂欄にもたれた、薄卵色の袿のほっそりとした後ろ姿を、最初備前は、少年のものだとばかり思い込んでいた。
 黒髪はたっぷりと、丈にあまるほどに打ちかかっているのだが、端は不ぞろいで、無造作に束ねてある。
 袴も、白っぽい切り袴なのだ。
 ただ、衣服に焚きしめられた薫衣香の、つやめいて、不思議に甘い薫りが、少年の育ちのよさを語っていた。
「なんなのよ、ばあや」
 その後ろ姿がふりかえり、その言葉で若御前と知れたとき、備前は思わず眼を見はり、開きかかった口に、手をあてた。
 これが十四、五の姫君とは、とても信じられるものではない。その切れ長の瞳は、恐れげもなくまっすぐに人を見つめ、髪をかきやる動作もきびきびと、男君のそれである。
 そしてなによりも……、抜いて作り眉にせず黒々と自然のままの眉毛、歯黒めをつけずまっ白に輝く口もと。
 男君でも入念に化粧をする者の多い昨今、あまりといえばあんまりのことだ。
 しかし備前は、いったい、自分が驚いたのはその妙な風体なのか、それにもかかわらずはっと息を呑む若御前の美しさなのか、決めかねていた。
 乳母の、「珠のようにお美しい」と言った言葉は、決して嘘ではなかった。
 細く通った鼻筋といい、黒目勝ちのすずやかな目もとといい、名工が、細心の注意をはらって刻み込んだような顔立ちである。舶来の白玉を思わせる肌は、透明感を持ち、白粉の必要をまったく感じさせない。
 気品高く、へたをすると冷ややかに見えかねないほど鋭利な美貌なのだが、人形のような口もとの、下くちびるがふっくらとやわらいで、甘く、人を誘いよせる華やぎをも、かねそなえている。
 しばらく、呆然と若御前に見とれていた備前は、若御前が身じろぎした瞬間、その後ろにかくれていた人物を視線のはしに入れ、今度はたえきれず、へたへたとその場にくずれこんでしまった。
「お、鬼……」
 われ知らず、ふるえ声が口をつき、顔から血の気が引いていく。
 白昼の庭先に突っ立ているそれは、獣めいて、なんとも異様な大男である。
鼻は天狗のように大きく高く、眼窩は落ちくぼんでいる。
赤 らんだ肌を取りまく髪も髭も、雪のように白く、それが波打ち、渦まいているのだ。
 しかし、なによりも気味が悪いのは、その瞳だった。空の色そのままの瑠璃の青が、毛深い眉毛の下からこちらをにらんでいる。
 化け物は軽い会釈をのこして姿を消し、ふとわれにかえった備前の耳に、若御前の澄んだ声がひびいた。
「鬼、ねえ。夜叉王が逃げちゃったじゃないの。紫髭緑眼の胡人を知らないの?」

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