虫愛ずる姫君 十二章

 平治二年は、年明けそうそう、永暦元年と改元された。
 平に治まるという元号に反して乱の勃発があったことを、きらったためである。
 一月十八日、備前は局でひとり、師長の手紙に見入っていた。
 本来若御前に宛てられたものなのだが、若御前は気分がすぐれないからと、ろくろく読みもしないで備前に返事をまかせた。

 琴詩酒の友皆我を抛つ、雪月花の時に最も君を憶う。

 萌黄の薄様にしたためられた師長の手紙は、白楽天のその一句でむすばれていた。
 備前はため息をついて、御堂の方向へ視線を遊ばす。
 まだ風は冷たかったが、陽射しはやわらかく、空の青はきらきらとした華やぎをはらみはじめていた。
 早咲きの梅の香が、さえざえと空気を染めている。
 遠い土佐の春はどんなふうだろうかと、ふと備前は思う。
(もっとも君を憶う……、か)
 備前は、その言葉にたくされた師長の心境を、切実に感じた。
 君とは、若御前であると同時に、京の都そのものではないだろうか?
 肌が記憶している都の四季、かつてなれ親しんだ生活様式。
 そして、それらをともに楽しむにふさわしい女。
 すべては理想化され、よりなつかしく、より美しく、心のうちにたえがたい渇望を産む。
(……雪月花のときに。だけど、都の雪は……)
 備前は、馬蹄にふみにじられ、重く鮮血をすった二十日前の雪を思った。
 雪景色のまぶしいような日だった。
 白昼に行われた合戦だっただけに、男童や雑色たちは、保元の折りをうわまわる興奮を見せて、見物に出かけて行った。
 勢ぞろいした武者たちの鎧のとりどりの縅の色目、金銀の趣向を凝らした兜の飾り。
 白銀の世界を背景に、色彩がみだれとび、駿馬がいななく。
 高々と上げられる名乗り、矢のうなり、白刃のきらめき。
 それは、見物の第三者にとって、華麗ともいえる光景だった。
 押しよせる平家を源氏がむかえ撃ち、当初、合戦は大内裏を舞台に行われた。
 やがて平家の軍勢は波のように引いて源氏をさそい出し、源氏はそのまま六波羅に押しよせた。
 しかし、坂東を基盤とする源氏の軍勢は、最初から動員の数で平家に劣り、しかも二条帝が平家のもとへ駆け込んだとあっては、頼政、光保のひきいる摂津源氏の加勢はありえない。
 多勢に無勢の戦いの結果、午後には、源氏の敗北が決定的となった。
 若御前は、取りみだすこともなく、静かに男童たちの報告を聞いていた。
 いや、あまりに静かすぎると、そのとき備前は思った。
 今度の合戦でもっとも京童の注目を集めたのは、大内裏の待賢門から二条堀河にかけての戦いだった。
 劣勢の中での義平の奮戦は、だいぶん尾ひれがついているのではないかと思うほど、派手に語りはやされた。
 男童たちの話に悪源太の名が登場するたびに、備前はぎくりとして、若御前の顔を盗み見た。
 若御前は、かすかにまぶたをぴくつかせてはいたが、それでも、その凍りついたような表情をくずさなかった。
 感情を見せたのはただ一度、夜に入って、六条堀河の源氏の館の焼き討ちを聞いたときである。
 戦い終わって、生き残った源氏の兵たちは散り散りに落ちて行き、義平もまた父や弟たちとともに落ちたと、噂は伝わっていた。
 平家は、信頼など、朝敵となった乱の首謀者の館を焼き討ちにかけ、もちろん義朝の館も例外ではなかった。
「なんでも、館には遊女腹の義朝の娘がおりましたそうで、持仏堂で手をあわせたまま、郎等に命じて自ら首を打たせたそうでございます」
 胡蝶の話に、若御前は瞳を閉じ、
「そう。あの子が……」
 と、深くくずれ折れるように、ため息をついた。
 翌日、信頼が捕まり、六条河原で首を斬られた。
 若御前はあいかわらず寡黙だったが、なぜかこのときだけはひと言、いつもの若御前らしい言葉をもらした。
「あのばかが死んでも同情はしないけど、仮にも公卿の地位にあったものを、衆人環視の河原に引きずり出して見世物にするとは、まともなやり方ではないわ」
 備前も、これには大きくうなずいた。
 保元の乱の折りには、武者でさえ、人目につかぬところで斬ったはずである。

 年が明けて、落ちていった義平たちの動静が、都人の耳にとどいた。
 一行は、平家のかためた関所をさけ、雪の山道を東へむかった。
 吹雪きにはぐれる者、落ち武者狩りにあって命を落とす者を出したあげく、美濃の国の青墓からはそれぞれ別行動をとり、義平は北国街道へ向かったと、もっぱらの噂である。
 義朝は尾張で、裏切りにあって殺された。
 一月九日、義朝の首が京の都にとどき、引きまわしの上、獄門にかけられた。
 若御前は、無表情なまま、なにも言わずにこの話を聞いていたが、どうやら義平が無事らしいと知ったときには、さすがに、かすかなほほえみを見せた。
 備前がなにより気をもんでいるのは、あの合戦の日以来、ぱったりと御堂から琴の音が聞こえなくなったことである。
 いったい、若御前は御堂に閉じこもってなにをしているのかと、思いあまって胡蝶にたずねた。
「経を読んでいらっしゃいます」
 それが胡蝶の答えだった。
 まさか、あの長い時間ずっと経を読んでいるわけでもあるまいと、ついに備前は御堂に足を運んだ。
 妻戸をたたいても答えがない。
 遠慮がちに戸をすべらせて、備前は息をのんだ。
 若御前は、仏画の前に手をあわせ、一心に祈っていたのである。
 まつげが影を落とす半眼、透きとうるような肌の色。
 冬空にそびえる純白の峰を思わせるような、きびしい姿だった。
 結局そのとき、備前は声をかけることもなく、御堂をあとにした。
(雪月花が変われば、君も変わる……。鄙の地にいてそれをご存じない師長さまは、果たして不幸でいらっしゃるのかしら?)
 備前はそう考えて、苦笑した。
 師長は、おそらくまだ、今度の事件を知らないでいるだろう。
 いや、たとえ知ったにしても、なんの実感も持てないだろう。
 ざらついた空気にむしばまれていく都を知らず、若御前の変化を知らず、心のうちにあたためた甘美な過去を、現実にあるものと思い込むことができる……。
 いったい、どう返事を書けばいいものかと、備前は思案にくれた。
 目の前に、ふいに黒い影が落ちて、備前は顔を上げた。
「まあ、乳母どの……」
 重い身体を引きずるように、弁の乳母が立っていたのである。
「備前どの……、ちょっと、よろしいですかの?」
「はあ、なにか?」
 そう答えたものの、備前はあまり、話をしたい気分ではなかった。
 しかし弁の乳母は、どっかりと腰をおろす。
「姫さまには、近ごろいったいどうされたのか、備前どのにはご存じないですかの?」
 予想どうりの問いだった。
「はあ……」
 あいまいな備前の返事に、乳母は重くるしいため息をつく。
「男でございましょうな?」
「は、はあ……」
 備前には、ほかに答えようがなかった。
 目を伏せて沈黙をまもる備前を、乳母は上目づかいに見つめて言う。
「今度の騒動に関係した男かとも思うたのですが、まさかあの姫さまが、信頼や成親のような男に思いをよせられようはずもなし……、わたくしには見当がつかぬのですよ。教えてはくださらんか? 備前どの。たとえ相手がどのような男であろうと、姫さまの望みがかなうよう、わたくしにできることはしてさし上げるつもりですゆえ。いまのような姫さまは……、見ておられませぬ」
 思いつめたような乳母の声音に、備前はたまらず、首を横にふる。
「乳母どの……、してさし上げられることは、なにもないのですわ」
 じっとそそがれる乳母の視線を、備前はさけるように、梅ぞめの自分の袖口に見入った。
 細められた乳母の目は、飼い主を失った動物の目のような光を、たたえていたのである。

 その夕方、若御前は珍しく西の対に帰って、写経をしていた。
 縫いものをする数人の女房たちは、借りてきた猫のようにおとなしい。
 なにが起こったのかは知らなくとも、若御前の精神の緊張を感じ取り、はれものをさわるように息をひそめているのである。
「姫さま、姫さま! ああ……」
 突然、胡蝶の鼻にかかった声が、しんと静まりかえった室内のひびきわたった。
 女房たちはぎくっと、おびえたように顔を見合わせる。
 ころがりこんできた胡蝶は、まっすぐに女房たちの間をつっ切り、若御前の几帳の前に身をなげだした。
「胡蝶、なにかあったの?」
 さっと練り絹の帳をはらい、若御前が姿をあらわした。
 胡蝶は若御前の白絹の衣裳に取りすがり、身をふるわせる。
 若御前はかがみこんで胡蝶の肩を撫でながら、義平に関することだと直感した。
「なにが……、なにがあったの? 胡蝶、言いなさい!」
 胡蝶は涙にうるんだ目で若御前を見上げ、かぶりをふる。
「あちらへ行きましょう」
 若御前は胡蝶を引きずるように、渡殿の方へ向かった。柱のかげにかくれ、あたりに視線をくばって、だれもいないのをたしかめる。
「さあ、お話しなさい」
 若御前の必死の形相にうながされ、胡蝶は、ようやく話しはじめた。
「きょ、きょう……、三条烏丸の景住どののところへ出かけたのです。前に行ったとき、しばらく顔を出さないでくれって言われていたのですけど、なにか義平さまのことで新しい情報が聞けるかもしれないと思って、つい、出向いたのですわ。そしたら……」
 声をつまらせた胡蝶の肩に、若御前の指がぎゅっと食い込んだ。
「そしたら?」
「とても近よれないんですの。ものすごい数の鎧武者たちが路地にあふれて、そのうち見物人も出てきて……、す、すさまじい騒動でした」
「いったい、なんの騒動なの? いくら源氏の郎等だったとはいえ、景住くらいの身分の者が追及を受けることはないでしょうに」
「姫さま、義平さまは京に……、景住の家にいらしたのです!」
 若御前は、一瞬、頭の中が空白になったように頼りなげな表情を見せた。
 そして次の瞬間、夜叉のようにまなじりをつり上げる。
「なぜです!」
「な、なんでも……、こ、これは平家の下っぱから聞き出した話でございますが、清盛の命をねらっていたんです。わたし、わめき声の聞こえる方向を目ざして必死になって人をかきわけたのですけど、なにも見えませんでした。だけど、その後すぐ……、景住どのが引かれて行くのは、見たのです。あの人、斬られます! 斬られてしまうのですわ!」
 胡蝶は、うめくように声を上げて泣き伏した。
「義平さまはどうされたのです? 胡蝶、答えて!」
 若御前は、泣き続ける胡蝶の背を、激しくゆさぶる。
「平家の兵を二、三人斬り伏せて……、無事逃げられたと、そういう噂でございます」
 か細くかすれた胡蝶の涙声に、若御前は、ほうっと全身の力をぬいた。
 胡蝶の背を撫でさすりながら、若御前の胸に、切なくうらみが走る。
 北国街道に思いを馳せ、心を凍りつかせていたあいだ、義平は、ほんの目と鼻の先にいたのだ。
(なぜここへ……、わたしのところへ、来てはくれないのかしら?)
 うずく思いに全身をつらぬかれながら、若御前は、御堂へ向かった。
たそがれの青い闇に、梅の花の濃い紅色がにじんでいる。
(わたし……、夢を見ているのではないかしら?)
 長い、覚めることのない悪夢の中を、果てしなく歩き続けているような気がする。
 一歩一歩渡殿をすすむ自分の足が、他人のもののように思えた。
 若御前は、御堂に入り、ほとんど自分のしていることを意識しないまま、仏画の前にすわった。
 闇の中で、瑠璃の壺に活けられた梅の花が、濃く薫った。
 さえざえとしたその薫りの中に、ふと異質なものがただよい、若御前は顔を上げた。
 ふりかえるより早く、全身を汗と馬具の匂いがつつむ。
 強く、かたい鋼鉄のような腕に後ろから抱きすくめられ、若御前の身体を、快いしびれが走りぬけた。
 ものも言わず、若御前は義平にむしゃぶりつく。
 熱く脈うつ首筋にほおを押しつけ、ざらついた麻の衣裳の下の筋肉に、腕をまきつける。
 義平もまた、細く、やわらかな若御前の肉体を、命綱ででもあるかのようにかき抱いた。
 義平のくちびるが、若御前のなめらかな首筋を這う。
 若御前は、荒い手ざわりの義平の髪をつかんで、そのくちびるを求めた。
「生きて……、いたのね」
 若御前が最初に口にした言葉が、それだった。
「ああ」
 義平は、冷たく、さらさらと、絹糸のように指に触れる若御前の髪を愛撫しながら、答えた。
「なぜ、もっと早く、来てくれなかったの?」
 甘く、蜜のように全身をとかしながら、若御前が聞いた。
「おまえに会うと、動く気がしなくなる」
 義平は、のどの奥で笑った。
 おたがいの唾液がまじりあい、おたがいの手がおたがいの素肌をさぐる。
 身体の芯に灼熱のものがはじけ、若御前は脈々と指の先まで、生気がほとばしるのを感じた。
「これから……、どうするの?」
 若御前は、白蛇のように義平に身体をからみつかせたまま、聞いた。
「さあな」
 義平の目は、ぼんやりと宙にすえられている。
 若御前は突然半身を起こし、闇をすかして、義平の視線を捕らえた。
「坂東へ、行きましょう」
 きっぱりとした、口調だった。
「行きましょう?」
 義平は、みだれかかる若御前の髪をかきやり、けげんな面持ちを見せた。
「そう。いっしょに……」
「しかしおまえ、青海波も蒼海波も区別のつかない田舎で、妾になるのはいやじゃなかったのか?」
 義平の声には、ふくみ笑いがこもっている。
「まじめに言ってるのよ、わたし。坂東には奥方がいるから、それで……、迷惑なの?」
「迷惑なわけがない。それに、妻もいない」
「いない?」
「ああ、実家に帰った。新田は領地のことで近くの豪族ともめていてな、おれが加勢しなかったものだから、娘を帰せと言ってきた。帰りたければ帰れと言ったら、帰ったんだ」
「だったら、問題ないじゃない。行きましょう」
 若御前は、決然と行った。
「おまえ、つくづく変わった女だな。そんなことが、できるわけがない」
「なぜ?」
「第一、関所は平家の兵がかためている。間道を行くしかないんだ。おまえの足で……」
 若御前は義平のくちびるに指をあて、言葉をさえぎった。
「だからこそ、わたしがいる方が安全なんじゃないの。逢坂の関は、牛車で越えればいいのよ。太政大臣の娘の石山詣でを、だれがあやしむでしょう」
「まさか……、おれも牛車に乗るのか?」
「そうよ。主上なんか、女にばけて牛車に乗ったのよ。あなたに女装しろとは言わないわ」
 義平は、全身をふるわせて笑った。
「それからどうする?」
「そうね……、夜叉王に案内を頼むわ。夜叉王は、若いころから間道を歩きまわっているのよ。もしも坂東が安全じゃないっていうのなら、奥州まで行ってもいいし、ほとぼりがさめるまで、夜叉王といっしょに山で暮らしてもいいじゃない」
 熱に浮かされたように、若御前はしゃべる。
「おまえ……、本気で言ってるのか?」
 義平はゆっくりと半身を起こすと、両手で若御前の冷たいほおをつつみ、近々とその顔を見た。
「本気でなければ、こんなことは言わないわ」
「父親はどうするんだ? 置いていって平気なのか?」
 義平の、静かな、そして真剣な口調に、若御前はひるんだ。
「へ、平気じゃないわ。だけど……、あなたを失うことには耐えられない」
 若御前の声が、涙にうるむ。
 義平は、胸に熱いかたまりが突き上げてくるのを感じた。
 それをのみ下だし、次に口を開いたとき、義平の声には、やわらかな、真綿でくるみこむようなやさしさがあった。
「山の中では、琴も弾けないぞ。おれは管弦のことは知らんが、おまえにとって琴を弾くのがどういうことなのか……、わかるような気がする。うまく、言葉では説明できんがな。人間の本性は、そう簡単に変わるもんじゃない。おれのそばにいれば、いずれおまえは苦しむだろう。そんなおまえを、見たくはない」
 あまりにも思いがけない、義平の言葉だった。
 どうしようもなく引かれ続けながら、若御前は義平を、まったく異質な世界の人間だと観念していた。
 理解しようと思わず、まして理解されようとは思ってもいなかった。
 しかしいま義平の言葉が、まっすぐに胸の奥底にとどき、琴線をえぐる。
 若御前は生まれて初めて、まったくの他者が自分の中に深く侵入し、しかもそれがかけがえのない存在であることを、はっきりと自覚した。
「わたしはそれでも……、あなたが欲しい」
 深い苦痛をにじませて、若御前は言った。
「ここへ来たのが、まちがいだったな」
 義平の声には、自嘲のひびきがあった。
「そんなことは言わないで! 第一あなた……、わたしと行かないなら、ほかにどうするっていうの?」
「さて、どうするかな。とりあえず、飯でも食って考えるさ。なにかあるか?」
 突然の申し出に、若御前は赤くなってうろたえた。
「あ、あら、ごめんなさい。気づかなかったわ。胡蝶が……」
 言いかけて、はっと景住のことを思い出し、若御前は口をつぐんだ。
 景住が捕らえられていることを、義平は知っているのだろうか? 知っているにしろ、死んだと思っているにしろ、あまりそのことを、義平に思い出させたくはなかった。
「胡蝶が寝込んでいるの。わたし、ちょっと行って、だれかに見つくろわすわ」
「ああ、そうしてもらえるとありがたい」
 義平は、闇の中でほほえんで、若御前を見送った。
 息をきらせて若御前が駆けもどったとき、御堂の中はからだった。
 しんと人気のない闇の中に、のこり香だけが濃くただよっている。
 若御前はあきらめきれず、庭へとび出して、低く義平の名を呼んだ。
 東の空にやっと顔を出した宵待ち月が、白い光を投げて、木々の影を落とす。
 流れ落ちる滝の音が、耳鳴りのようにひびき、張りつめた神経をたたく。
 しめり気をおびた大地にひれ伏し、若御前は細い指先で地面をかきむしった。

 それから七日がすぎ、備前は西の対のひさしの間で、『源氏物語』を書き写していた。
 蜂飼太政大臣家には、宗輔の母方から伝わった古い原本があるのだ。
 巻々によって紙の色を変え、豪奢に装丁されたその本は、かつて御堂関白道長の娘の手もとにあったもので、紫式部が直接書いたとも言われていた。
 女房たちは、低い声で、それでも興奮を押さえきれず、明日にせまった太皇太后多子の入内について噂し合っている。
「やっぱり、美人は得よねえ。一度でもむつかしいのに、二度も帝のお后になれるなんて」
「でも、なんだか変じゃない? 太皇太后のまま入内なさるわけでしょう。そんなのって、聞いたことがないわ」
「中御門の宗子さまは、さぞ、ご不満でいらっしゃるでしょうねえ……」
 備前は、とっくに予想していたことであり、口をはさむ気もしなかった。
 いまになって考えてみれば、二条帝は、これを強行したかったがために、後白河院の口を封じようと、信頼をたきつけたような気さえする。
 もしそうだとすれば、あまりにも考えのないやり口だったと、備前は思った。
 それよりも、御堂からほとんど出てこようとしない若御前のことが、重く心にのしかかる。
 義平が都に潜伏していたと噂が流れたころから、若御前はまったく西の対に帰ってこなくなっていた。どうやら食事もろくろく取っていないらしい様子に、備前は胸を痛めたが、ただひとつの救いは、夜叉王が館に姿をあらわし、御堂に顔を出していることである。
 おそらく、義平のゆくえを追う相談をしているのだろうと、備前はさっしをつけた。
(いくらかでも、姫さまの気がまぎれるといいのだけど……)
 そう考えて、備前は筆をとめ、自分自身にうなずいた。
 そのときである。
「姫さま、姫さま! おやめくださいっ! 姫さまっ!」
 胡蝶の絶叫がひびき、簀子縁をゆるがすように駆けぬけて行く人影があった。
 女房たちは顔を見あわせ、備前はすばやく、御簾を上げて簀子縁に出た。
 目の前にせまった胡蝶の姿に、備前はあっけに取られて息をのむ。
 紫の単の前をはだけ、白い豊かな胸乳を見せて、狂女のような形相で、胡蝶は走っていた。
 そのはるか前方、主寝殿にいたる渡殿を、若御前は駆けている。
 胡蝶の衣類を着込んだらしく、桜の衵を頭に引きかづき、丈の短い柳の重ねから、白い素足がむき出しに見える。
「な、なにをしているのです!?」
 備前は胡蝶に追いすがり、紫の単をつかんだ。
 薫衣香がむせるように香る。
 若御前の単だった。
「ああ……、止めてください! は、はやく、姫さまを……」
「いったい……」
「ろ、六条河原へ、ひ、姫さまは……」
「六条河原!」
 備前の胸は、さわいだ。
「あ、あの方が、平家に……」
 胡蝶の言葉はほとんど意味をなさず、しかしそれだけで、備前にはわかった。
 義平が平家に捕らえられ、おそらく、これから六条河原で斬られるというのだろう。
 それを知った若御前が、胡蝶の衣裳をうばって、駆けつけようとしているのだ。
 備前は、とっさに若御前の後を追った。胡蝶がそれに続く。
 ふたりが厩に駆け込んだとき、すでに若御前の姿はなかった。男童がひとり、ぽかんと口をあけてつっ立っている。
「姫さまは……、姫さまはどうされました?」
 備前は、男童をゆすぶらんばかりに聞いた。
「はあ、若さまの馬を引き出され、乗っていかれましたが……」
「すぐにお後を追いなさい! なんとか、お引き止めするのです」
「そんな……、無理ですよ。ものすごい勢いで、とび出していかれましたものなあ。あの馬があんなに走るのを、初めて見ましたよ」
 のんびりと言う男童に、備前はじだんだをふんだ。
「じゃあ、さっさと牛車の用意をして! たったいま、すぐによ!」
 そう命じると、今度は胡蝶をふりかえる。
「はやく、衣裳を着てきなさい。行きましょう、六条河原へ」

 若御前は、必死で葦毛の馬の背にしがみついていた。
 富小路を南へ、方向としてはまちがっていないものの、馬を制御することができない。
 すさまじい勢いで、地面が後ろへ流れていく。しかし、恐怖はまったく感じなかった。
 綾小路との交差点にさしかかったとき、子どもが前にとび出した。
 思いきり引きしぼった手綱に、馬はいなないて後ろ立ちになる。
 次の瞬間、若御前の身体が、馬の背からずり落ちた。
 片手で手綱に、片手でたてがみにしがみついたが、馬はそれをきらってとび跳ねる。
つ いに若御前は胴から地面に落ち、馬はそのまま、蹄の音をのこして駆けていった。
 若御前は、泥をはらおうともせず、よろめきながら立ち上がった。
 馬を追うことは、あきらめていた。
 自分の足で前へ進むしかない。
 胴ににぶい痛みが走り、身体の動きがぎこちなかったが、若御前は全力で駆けた。
 素足が土をけり、桜の衵がなびく。じっとりと汗のにじんだ額に、黒髪がへばりついた。
 そのころ、備前と胡蝶の乗った牛車も、飛ぶように東京極大路を走りはじめていた。
 激しい振動に身をまかせ、舌を噛みそうになりながら、備前は胡蝶から、義平が捕まるまでのいきさつを聞き出した。
 義平は、若御前と別れたのち山中に潜伏し、東近江を目ざしたが、つい今朝方のこと、逢坂の関に近い山の中で、平家の軍勢にさがし出された。
 斬り合ううちに負傷し、ついに捕らわれたのである。
 夜叉王の探索がおよぶ、直前のできごとだった。
「父の手下が報告に来たころには、義平さまももう、六波羅の方に引かれておいでだったのです。六条河原で斬られなさると知らせがくるまでに、時間はかかりませんでしたわ。こうなってしまっては、いずれ姫さまのお耳にも入ること。噂がひろまるひと足さきに、父は……、姫さまにご報告してしまったのです。ああ、そんなことしなければよかったのに!」
 胡蝶はそう言って、激しく泣きじゃくった。
 五条坊門にさしかかるころには、人の往来が増えて、がくりと牛車の速度が落ちた。
 平家の下人の処刑をふれて歩く声が、大きく聞こえてくる。
 備前は思わず、耳をふさいだ。
 いままで義平に、なんの親しみも抱いていたわけではない。
 しかし、若御前が自分を失い、狂うほどに求めている男だと思うと、胸がしめつけられるような痛ましさを感じた。
 牛車がとまり、備前は胡蝶をつれて降り立つ。
 河原には、はや人垣ができていた。
 ふたりは人込みをかきわけ、若御前の姿を求める。
 こづかれ、怒鳴られながら最前列に出て、やっとのことで備前は、若御前の桜の衵を認めた。
 泥にまみれ、小きざみに身体をふるわせているその姿に、備前は茫然となった。
 若御前は、備前と胡蝶の存在に、まったく気づきもしなかった。
 若御前は、引かれてきた義平の姿に、食い入るように見入っていたのである。
 義平の藍染めの麻の上衣は、大きく裂けて汗と泥によごれ、腕の傷は手当ても受けずに、どす黒く血をこびりつかせている。
 縄目を受け、ほおはやつれたようにそげ落ち、鋭いあごの線は不精髭におおわた、凄惨な姿だ。
 しかし、その顔は傲然と上げられ、大きな二重の瞳には、強い力がみなぎっていた。
 若御前は夢遊病者のように、足を義平の方へふみ出しす。
「姫さまっ!」
「お、おやめ下さい」
 備前と胡蝶は、同時に叫んでいた。
 ふたりがかりで取りすがり、のしかかるように若御前を押しとどめる。
 悠然と見物人を見わたしていた義平の目が、若御前の姿にとまった。
 義平はうなずいて、笑った。
 胸の中に清水がしみ通るような、清冽な笑顔だった。
 処刑人が刃を高くふりかぶった。白昼の陽射しが、まぶしく反射する。
 群衆は息をつめ、あたりは水をうったように静まりかえり、息苦しいまでに空気が張りつめた。
「姫さま、み、見てはなりません!」
 自分の顔にのびてきた備前の手を、若御前はじゃけんにはらった。
 白刃がひらめき、血しぶきが飛ぶ。
 そこに集まっていただれもが、骨のきしむ、にぶい音を聞いたような気がした。
 刃は勢いあまって、肩に食い込んでいた。
 低いうめき声が、義平の口からもれる。
 額に脂汗をにじませながら、彼は処刑人をふりかえった。
「しっかりやらんと……、ばけて出るぜ」
 義平は、傲岸な笑みを見せてあざけった。
 低いどよめきの中に、野次がとびかう。
 大きく肩をあえがせ、ひと呼吸いれた処刑人の顔は、蒼白だった。
 再び刃が上がり、うわずったかけ声とともに、一閃する。
 若御前は、化石のようにつっ立ったまま、見ていた。
 自分を愛撫した男の首が、鮮血とともに河原にころがり、急速に色を失っていくのを……。
 胴をはなれた首は、不気味な物体と化し、それが義平だということを、若御前の感覚は受けつけなかった。
 しかし、それでも彼女の目は、異様なまでに大きく見開かれ、網膜にすべてを焼きつけていた。
 備前は、なにも見なかった。
  若御前の肩に顔を押しあて、しっかりと目を閉じていた。
津波のようなざわめきと、胡蝶の声で、はじめてすべてが終わったことを知る。
「か、帰りましょう。は、はやく……、姫さま」
 備前の歯はカチカチと鳴り続け、とどめようもなく声がふるえた。

 その夜、若御前は高熱を発した。
 十日ほどの間、このまま逝ってしまうのではないかと周囲をはらはらさせたが、厚い看護と若御前自身の若い体力が、勝った。
 二月もなかばをすぎたころには起き上がれるようになり、同時に季節は、盛りの春をむかえた。
 桜の花が咲きそめ、やがて薄紅を掃いた雲のように枝をおおいつくした。花びらが数知れず、きらきらと陽光に輝き、音もなく、流れるように舞いしきる。池をうめ、地面を染め、風に舞い、心をさわがせた。
 そんなある日、夜叉王が、白い、大きな包みをかかえて、若御前の前にあらわれた。
 御堂のまわり縁で、若御前はそれを受け取り、もの問いたげに夜叉王を見る。
 湖のように深い、青い目が、無言のうちに、若御前の問いに答える。
 白麻の包みをとく若御前の指は、小きざみにふるえた。
 それは、白木の箱に収められた義平の骨だった。
 夜叉王は、処刑場から胴体を引き取り、獄門にかけられていた首を盗み出して、荼毘に付したのだ。
 若御前は、白い、ざらざらとした手触りの、大きな頭蓋骨を取り出し、一心に見つめた。
そ の眼窩の空洞に、処刑場で、最後に見せた義平の笑顔が重なる。
 そのとき、あの日以来、からからに干上がっていた若御前の目に、熱い涙が帰った。なえ果てていた彼女の心は、ほとばしるような感情に満たされる
 義平その人であるかのように、骨を胸にかき抱き、次から次へとこみあげてくるむせび泣きをこらえようともせず、若御前は、涙の心地よさに全身をゆだねた。

 やがて陽がかたむき、局で縫いものをしていた備前は、はっと針をとり落とした。
 いったい、なん日ぶりのことだろう? 若御前の弾く、澄みきった琴の音が、遠く御堂から聞こえてくる。
 とるものもとりあえず、備前は渡殿を走った。近づくにつれ、琴の音色は、凄絶なまでにとぎすまされ、それでいて甘美な夢のようにひびく。
 金色の夕日に染まる桜ふぶきの中を、備前は花びらをまといつかせ、息せききって急いだ。
 若御前は、背筋をのばして、『橋姫』にむかっていた。
 洪水のような落日の光に、精巧な螺鈿細工が虹をはなつ。
 琴爪をつけた指は、すべるように十三本の絹の絃をかなでる。
 備前は、妻戸を開けはなち、ひと目若御前を見て、その場にくずれ込んだ。
 白綾の表にほんのり紫を透かした小袿の肩で、若御前の豊かな黒髪は、ぷっつりと切られていたのである。
 仏画の前の床には、薄紫の絹がしかれ、まだ命あるもののように、つややかに長い髪の毛がうねっていた。
「姫さま……」
 かすれた備前の声に、爪音がとまる。
 若御前は静かに顔を上げ、ほほえんだ。
「尼になるのよ。前から決めていたことではあるし……」
「で、ですが、姫さま……」
 備前は言葉を失った。
「消そうと思っても、目に焼きついてはなれない光景って……、あるものなのねえ」
 うるんだ声でそう言って、若御前は、黒漆の机の上の白木の箱に視線を送った。
 備前は、萌黄の絹のそでを口に押しあて、嗚咽をこらえる。
 若御前はひっそりと笑い、長いまつげをしばたいた。
 人さし指で、琴の絃を一本、高らかにはじく。
「琴の音は、残らないわ。わたしが死んだら、わたしの音は消え失せる。だけど、それでいいのかもしれない。いえ……、その方がいいのよ」
 若御前は、全身を夕日の黄金に輝かせ、歌うようにそうつぶやいた。

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