虫愛ずる姫君 十一章

 ふいに、牛車の動きが止まった。
「どなたのお車か?」
 坂東なまりの野太い声がひびく。
 続いてかん高く、男童の説明が聞こえた。
 再び牛車が動きはじめ、備前は振動を身体に感じながら、ほおっと大きく息をつく。
「まったく、なんてことでしょう。大内裏で田舎武者の誰何(すいか)を受けるなんて……」
 備前は、思わずそうぐちった。
「なんてまあ……、あの連中のものものしいこと!」
 胡蝶は、くすくすとおもしろそうに笑いながら、物見に顔を押しつけて外を見ている。
「まさか、そこら辺の連中にまじって、あの男もいるんじゃないでしょうねえ?」
「あの男とは、義平さまのことでございますか?」
 胡蝶は、笑い顔をそのまま、備前をふりかえる。
「そうよ。まったく姫さまは、なにを考えていらっしゃることやら……」
 備前は、扇のかげで、もういく度目かのため息をついた。
 ここ数日、若御前は御堂に閉じこもりきりだった。
 連夜義平が訪れているだろうことは、胡蝶のあわただしい動きから、備前にもさっしがついた。
 今朝早く、若御前はひさしぶりに西の対へ姿をあらわし、文机にほおづえをついて、なにごとか考え込んでいた。
 純白の重ねの上に、ふわりと着流した薄紅梅の小袿。
  みだれ髪をかきやる、繊細な指の動き。
ひと目見て、備前は胸を突かれた。悩ましげなその姿態には、濃く情感がにじみ、むせかえるように、生身の女を感じさせられたのである。
(いったい……、あの田舎武者のなにがここまで、姫さまを変えるのかしら?)
 備前の胸を激しく焦がしたのは、嫉妬に近い感情だった。
「おや、備前。ちょうどよかったわ」
 気配に気づいた若御前は、たちまちその動作に、いつものはぎれのよさを取りもどした。そして、とんでもないことを言い出したのである。
「胡蝶といっしょに内裏へ行って、ちょっと様子をさぐって来てくれないかしら?」
 備前は、あんぐりと口をあけた。
「さぐるって、いったい……、それはなんでございますか?」
「中御門の小母さまをたずねて、ついでにおまえの妹のところへ顔を出してくればいいのよ。なにか新しい話がきけるでしょう?」
 若御前は、平然と言いつのる。
 しばらくためらったのち、ついに備前は、口に出した。
「あの男のためでございますの?」
 若御前は、軽く肩をすくめ、沈黙をまもった。
 備前はいら立ちと不満に心をふさがれながらも、結局、若御前の言葉にしたがったのである。
(あんな男のために、なんだってわたしが、こんなことを……)
 現実に、大内裏をかためる坂東武者の誰何の声を聞き、備前の憤懣は高まっていた。
 胡蝶は、そんな備前の様子を、笑いをこらえて見ている。
「義平さまは、おそらく、こんなところにはいらっしゃいませんわ」
「え?」
「義平さまは、くさっておいでですの。ほんとうは、清盛たち、熊野詣での平家の一行を都の外でお討ちになりたかったのに、信頼が認めなかったらしいのですわ。その話をしていらしたときの、姫さまと義平さまの会話ったら、もうおかしくって、わたくし……」
 胡蝶は笑いに身をふるわせて、言葉をとぎらせた。
「どういう会話だったの?」
 備前は、興味を持って聞いた。
「あれはどういう男なんだって、義平さまは信頼のことをたずねられたのですわ。姫さまのお答えときたら、こうですの。院のお気に入りの男妾よ、ほかに取り柄はないわね……」
 身ぶり手ぶりをまじえての胡蝶の熱演に、備前もあやうく吹き出しかかった。
「そのあとがまた、傑作でしたわ。男を抱いてなにがおもしろいんだって、義平さま。姫さまったら、知らないわよ、わたしは男じゃないもの。あなた、叔父さんを殺す前に聞いてみたらよかったのに……、ですって」
 とうとう備前は、声に出して笑った。
 近衛帝の御代、故左大臣と帯刀先生義賢の男色の話は、むろん備前も知っていた。
「姫さまとあの男は、いつもそんな調子ですの?」
「いえ……、そうでもありませんわ」
 胡蝶は、ぽうっとほおを染めて、ふくみ笑いをもらす。
 胡蝶の様子から、二年前に目撃したふたりを思い出し、備前はまたも不愉快になった。
 胡蝶は、ふとまじめな顔になり、その色の薄い瞳をまっすぐに備前にむけた。
「わたくし、左馬頭(義朝)がばかなのだと思うのですわ。姫さまのおっしゃられる通り、信頼についていたのでは、源氏にろくなことがございません。ですが義平さまも、お父上にさからうことはおできにならないようで、結局清盛たちは、無事帰京してまいりましたでしょう? 姫さまは、義平さまのお立ち場に胸を痛めておいでなのです」
 備前は、深くため息をつく。
 とても胡蝶のように、若御前の心境に共鳴する気にはなれなかった。
 朔平門で車を降りて、宗子の局へむかいながら、備前の足どりは重たかった。
 しかし、派手な萌黄の重ねを着込んだ宗子は、意外なほどのよろこびを見せて備前をむかえる。若御前からのあいさつの言葉を伝える間も、にこにこと、やたらにきげんがよかった。
「まあ、あの子も気がきくこと。陣中見舞いにあなたをよこしてくれるなんて、ねえ。ところで備前どの、見たでしょう? ほんとうに、世も末ですわね。むさくるしい鎧武者が、このようなところまでのさばるのですから……」
 ようするに宗子は、遠慮なくぐちをこぼせる相手が欲しかったらしい。
 備前はそれをさっして、勢いこんだ宗子の弁舌におとなしく耳をかたむけた。
「だいたい信頼は、中宮権大夫(中宮府の次席長官)でもあるのですよ。わたくし、腹にすえかねて言ってやりましたの。中宮さまにはご不快のご様子、すぐにご退出のことおはからいください、と。あの男妾ときたらどうでしょう。こんな物騒な時期に、行啓(中宮の外出)などとんでもないことで、などと、しゃあしゃあとぬかしますの。物騒な時期もへったくれも、自分がそうしているのではありませんか! 信頼のやつ、姫宮さま(中宮乙姫宮)をここへ足どめしておけば、門院(美福門院)もお手の打ちようがあるまいとにらんでいるのでしょうよ。まあねえ……、わたくしも、これが信頼の一存に出たことならばあきらめもつきます。ばかにつける薬はないと申しますからね。大きな声では申せませんが……、まったく主上も考えのないことをなさったものですわ。浅はかな坊門の局のたくらみなぞをまともにお取り上げあそばして、ねえ。信西を殺したまではようございましたが、調子に乗った男妾では、信西より始末が悪いではありませんか! 思いどうりにことが運ばないのに腹を立てられて、主上は黒戸の御所にお引きこもりですのよ」
「主上が、黒戸の御所に!?」
 備前は、おどろいて聞いた。
「そうなのですよ、備前どの。額に青筋を立ててかんしゃくを起こされ、側近以外はいっさいお近づけにならないのです。主上も、無責任なことをなさるではありませんか! このように姫宮さまをまきこんだあげく、ですものねえ。しかたがありませんからわたくし、坊門の局を問いつめましたの。あの女の申すことといえば、もう少しお待ちくださいの一点張りですわ。今度の公卿詮議で信西の息子たちを流罪に追い込んだら、かならず次の手は打つと、まあ、そんな約束はしておりましたけどね。わたくし、言ってやりました。まさか、信頼の大臣大将承認と引きかえではありませんでしょうねえって。齢七十を越したわたくしの父(宗能)が大臣就任を果たさずにおりますのに、あのようなものが大臣だなどと! ふざけるにもほどがありますわ。だいたいあれの身では、公卿につらなるのさえすぎた昇進でしたのにねえ。備前どの?」
「は、はあ。たしかに……」
 備前のあいづちに、宗子は満足そうにほほえんだ。
「まあ、それはともかくとして……、坊門の局だの、主上の取りまき連中の言うことでは当てにもなりませんが、ついきのう、三条内大臣(公教)がささやかれましたの。乳母どの、もう少しのご辛抱ですぞ、と。あの方が保障されるのですから、なにか策を練っているのは事実なのでしょう」
「まあ、三条内大臣が……」
「そうなのです。おわかりでしょう?」
 備前は、無言で大きくうなづく。
 閑院流の三条内大臣は、後白河院の後宮に娘の遙子を女御として入れ、荘園記録所の長官にすわっている院政派の重鎮である。
 その内大臣が動き出したということは、信頼一派の逸脱を押さえるために、とりあえずは院政派と二条派が手をむすんだということなのだ。
(いや、待って。これはもしかすると……、水面下で、多子太皇太后の入内がかなり具体化しているのかも知れないわ)
 口に出しては言わなかったものの、備前は、そこまで考えた。
 忻子にも遙子にも、皇子が産まれる可能性はほとんどないと言っていい。
信 西亡きいまとなっては、多子に望みをかけて、閑院流をあげて二条派にねがえることもありうるのだ。
(中宮さまには……、まったく、ご災難としか言いようがないわね)
 二条帝の後宮にかかわることだけに、中宮の乳母である宗子に聞かせられる推測ではなかった。
 宗子は、そこまで考えがまわらないらしく、
「内裏の女房たちも、目立たないように宿下がりをはじめたらしいですよ。なにが起こるのやらわたくしは存じませんが、武蔵どのにたしかめてごらんなさいな」
 と、愛想よく話を打ちきった。
 さっそく妹の武蔵の局にまわると、あわただしく手まわり品をまとめている最中である。
「お姉さま、ちょうどよろしかったわ。手伝ってくださるでしょう? 宿下がりを許されましたの」
 ちゃっかりと言う妹に、
「また、どうしていまごろ宿下がりなの?」
 と、備前はさぐりを入れた。
「そんなこと、存じませんわ。合戦でもはじまるんじゃありませんの?」
 いやにあっさりと、武蔵は言う。
「合戦、ですって! この内裏でですか?」
「お姉さまったら、そんな大きなお声を出さないでくださいな。壁に耳あり、ですわ」
 そう備前を制したあと、武蔵は声をひそめてささやいた。
「この間から、ひそかに帥の局がまいっているんですの」
「帥の局って……、清盛の妻じゃない!? 内裏へ来てるっていうの?」
 おどろく備前に、武蔵はうなずいて先を続ける。
「そうなのですわ。一応あの方も、主上の乳母どののおひとりですもの。でもねえ、これまであまりお顔もだされなかったものが、という気もしますけど、必死なのでしょうね。仲のおよろしくなかった坊門の局におべっかを使い、土佐の局まで持ち上げて、懸命に工作してまわっているようですのよ。主上も、平家の軍勢をお味方にされる決心をつけられたのではないかと、わたくし、思いますの」
「お味方にされるといっても、坂東武者がこのように内裏にあふれていては、どうしようもないではありませんか?」
「それはそうなんですけど……、主上は、ときどき突拍子もないことを思いつかれますからねえ。なんとかなさるおつもりじゃあございませんの?」
 武蔵は肩をすくめ、備前はうなった。
 宗子と武蔵の話を総合すれば、だいたいの図式は見えてくる。源氏の武力を味方につけながら信頼一派は孤立し、ほかの勢力は手をむすんで、平家を使おうとしている。
 当然のことながら、平家もまた、この機会を積極的に利用しようとしている。
(つまりは……、どういう形にしろ、血を見ずに事件の解決はないってことかしら?)
 備前の胸は、暗澹とした思いに染め上げられた。
「姫さまには……、心安らかなお知らせとはなりませんわね」
 帰りの牛車の中で、ぽつりと胡蝶がつぶやく。
 備前は軽くうなずいて、顔をしかめた。
 あんのじょう、備前と胡蝶の報告を受けた若御前は、沈痛な面持ちを見せた。
「それじゃあ、清盛が信頼に名簿を提出して臣従を誓ったっていうのは……、おそらく、三条内大臣のさしがねだったのね」
 眉間にしわをよせて、若御前は言う。
「清盛が信頼に臣従!? 姫さま、それは……」
 備前は、口ごもった。若御前は片眉をつりあげ、しばらく備前の口もとを見すえいたが、やがて口もとに苦笑を浮かべた。
「そう。本気じゃないにきまってるわ。だけど三条内大臣が仲立ちすれば、信頼は信じるでしょう。だまされたとも知らずにあのばかは、平家への攻撃を禁じたらしいの。信頼と手を切らないかぎり……、源氏に打つ手はないわね」
 投げやりにそれだけ言うと、若御前は薄紅の衣をひるがえし、席を立った。
 若御前は、大きな矛盾にひき裂かれていた。
 義平が戦いをいどもうとしているのは、事実として平家でありながら、真のねらいは、彼女の属する世界への挑戦なのだ。
 理性で考えれば、容認できることではない。
 しかし、武者である義平の敗北は、簡単に死につながる。
 一応、表面の敵が平家であるだけに、若御前は胸にわだかまる抵抗感に、目をつむることを自分に許した。

 その夜、若御前は義平に告げた。
「どうしてもあなたがお父上に逆らえないっていうのなら、主上と院と……、たしか院は、一本御書所におられるのでしょう? ともかくおふた方の動きを、しっかり見張ることね。ほかにどうしようもないわ」
「おれにできることじゃないな」
 義平は、しぶい顔で言いすてる。
「たしかに、無位無冠のあなたじゃあ殿上もできないし、しかたがないわね。だからこういうときのために、さっさと仕官しておくべきだったのよ。いえ……、今度の騒ぎであなたのお父上が播磨守になったとき、あなたにも任官の話があったそうじゃない。なぜ受けなかったの?」
「宮仕えはごめんなんだと、何度も言ったろう?」
「こうなったら、ごめんじゃすまないわよ。でも、いまさら言ってもはじまらないし……。そういえば、たしかあなたの弟は、主上の蔵人をしていたのじゃなかったかしら?」
 義朝の正妻の息子が内裏務めをしていると、若御前はつい先日、備前から耳にしていた。
 母親が上西門院(後白河院の同母姉)の女房だった関係から、かつては門院の蔵人を務め、最近、二条帝の蔵人になったというのである。
「頼朝のことか? その通りだ。あいつは都育ちだからな。しかしまだ日が浅いし、いまのところ、主上のそばには近よれんらしい」
「主上はまだお若いから、あちらの方の趣味をお持ちじゃないしねえ。弟じゃなくて、妹を女房に上げとけばよかったのに」
 ため息まじりの若御前を、義平はしげしげと見た。
「おまえの話を聞いていると、朝廷というところは、色ごとと乳母だけで動いているみたいだな」
「そう。けっこうそれだけで、動いているのよ」
 若御前は、皮肉にひきつった声で笑った。

 それから数日が立ち、平治元年の十二月二十五日は、朝から雪が降っていた。
 夜に入ってなお、ほの明るい雪雲の空に雪は舞いつづけ、世界は、白く、やわらかな綿帽子に、ふんわりとおおわれた。
 若御前は、静まりかえった御堂に、梨地蒔絵の火桶を抱いて、ひとりすわり込んでいた。
 おそろしいほどの静けさに、じんと頭の芯がしびれ、息苦しささえ覚える。
 火箸の先で、炭火の白い灰を、いら立たしくかき落とした。
 息を吹きかけると、ぱっと赤く火の色が目にしみる。
 ぐっと内臓をえぐられるような、なんともいえない心細さ。
 漠然とした、それでいて狂おしいほどの不安にとらえられ、生まれて初めて若御前は、すがれるものならばか細い一本の糸でさえも、祈り求めたい気分になっていた。
 みだれかかる黒髪をはらい、三幅の仏画をふりあおぐ。
 阿彌陀如来の優美なさとりも、普賢菩薩のあでやかな微笑も、不動明王の燃えるような怒りでさえも、若御前にははるかに手のとどかない、遠い世界にあるように思えた。
 胸につき上げてきたかたまりが、のどもとにわだかまり、ついに熱いものが瞳を満たした。
 音もなく、若御前のほおを涙がすべり落ちる。
 妻戸をたたく音が、低くひびいた。若御前は涙をぬぐおうともせず、その方向を凝視する。
 義平だった。
「雪が、ひどかったでしょう」
 若御前は、ほんのりとほほえんで、やわらかな声で言った。
「ああ」
 義平の手の動きにつれ、はらはらと雪がふり落とされる。
 濃紺の直垂に残った白い雪は、じんわりと溶けて灯火にきらめいた。
「おまえ、泣いていたのか? なぜ?」
 義平の氷のような指が、若御前のほおの熱い涙をぬぐった。
「知らないわ」
 若御前は、笑った。
「燈暗うして、数行虞氏が涙……、か?」
 そう言いながら義平も、くすりと笑い声をもらす。
「夜深けぬれば、四面楚歌の声。あなたもけっこう、縁起でもないことを言うわね」
 若くして天下に武勇を鳴りひびかせた項羽は、やがて武運つき、垓下に追いつめられる。
 包囲軍が楚の歌をうたうのを聞いて、彼は、自分の領国が征服され、敗北が決定的となったことを知る。
 かたわらの虞美人は、愛する男の悲運に涙を流した……。
 古代中国、『史記』に描かれた英雄の悲劇の最期に、題材をとった歌だ。
 若御前の顔から笑いが消え、義平も表情をひきしめた。
 ふたりはすい寄せられるように抱き合い、おたがいを求めた。
 義平の腕に抱かれたまま、若御前は夢を見ていた。
「降れ降れ、粉雪……」
 父親のひざの上で、歌っている自分がいる。宗輔が笑い、幼い自分が笑う。舞う粉雪が桜ふぶきに変わり、明るい、きらきらとした空気が肌によりそう……。
 ずっとこのままでいたい、この夢を見続けたいと、若御前は夢の中で思った。
 コツコツ、妻戸をたたく音が夢にひびを入れる。
 身体を、そして心を、あたたかくつつんでいたものが遠のいていき、薄寒い思いに、若御前はいやいやながら、瞳をひらいた。
 寒いのも道理だった。
 義平はすでに腕枕をぬき、半身を起こして身がまえていたのだ。
 単調に、コツコツという音が続く。
「だれ? 胡蝶なの?」
 若御前は声をしぼり出した。
「……いや、わたしだよ、若御前」
 俊通の声だった。
「兄さま!? なんだってこんな夜中に……」 若御前はうわずった声を上げながら、あわてて衣裳を身につける。
「起きているんだろう? ちょっと、いいかな……」
「だめよ。寝ていたの」
「父上から言いつかって、話があるんだ」
「待って! すぐ出ていくから……」
 悲鳴に近い声を上げて、若御前は妻戸へ急いだ。
 まわり縁に一歩ふみ出すと、雪まじりの寒風が身をさす。
 かまわず若御前は、後ろ手に妻戸をしめ切った。
 闇の中に、かろうじて俊通の輪郭が見てとれる。
「なんのご用なの、兄さま? あすでも間に合うでしょうに……」
 若御前は、不きげんな声で聞いた。
「いや、間に合わないんだ。これから父上は、六波羅へ行かれる。それで……」
「ろ、六波羅、ですって!」
 若御前はそう叫んだきり、しばらく、あとを続けることができなかった。細い指で白くなるまでのどもとを押さえ、あえぐように、次の言葉を口にした。
「平家の本拠地へ……、夜中に、お父さまが? なぜ?」
「主上と院が、六波羅へ御幸あらせられたんだよ。中宮もごいっしょされている。公卿にもおめしがあったんでね」
 俊通の声は、どことなく勝ちほこったひびきを持っている。
「そんな、ばかなこと! だって、内裏には源氏の兵が……」
「主上は女房に変装されて、見張りの目をごまかされたらしいよ。中御門の小母上もいっしょだったというから、傑作な話だね」
 若御前はくずれるようにその場にすわりこんだ。
 闇を透かし、まじまじと兄を見つめる。
「兄さまは、事前に知っていたのね。主上がなにをたくらんでおられたかを……」
 俊通は、沈黙で答えた。
 若御前は、きっと兄を見すえる。
「きのう聞いたときは、知らないっておっしゃったわ」
「教えていたら……、なにが起こったのかな」
 そう言いながら俊通は、若御前の後ろの妻戸に、からみつくような視線をすえた。
「なにも起こりはしないわ」
 若御前は、すくっと立ち上がり、俊通の方へ一歩足をふみ出す。
「だけどわたくし……、一生兄さまを恨むわ」
 低い、落ち着きはらった若御前の声だった。
 しかし、その顔からは血の気が引き、目は気ちがいじみた光に満たされている。
 俊通はたじろいで、一段階をおりた。
 にらみ合ったふたりの上に、雪が降り続ける。
「俊通、いったいなにをしておるのじゃ。おお姫や、こんなところで風邪をひくではないか……」
 宗輔の声に、若御前は、はっとわれを取りもどした。
「お父さま……」
 直衣を着込んだ宗輔の小柄な身体が、階の下にあった。
「姫や、話は聞いたかの? どうやら物騒なことになりそうじゃて、おまえもいっしょに来てくれたらと思っての」
 宗輔は、哀願するように言った。
「わたくしが、六波羅へ、でございますか?」
 若御前は、かん高い笑い声をひびかせた。
「お父さま、それはおかしゅうございますわ。娘をお供に主上のもとへ参上されるなんて、前代未聞じゃありませんこと? もの笑いの種になりましてよ」
「宗子もあちらにおることじゃし、非常の折りじゃて。かまうまい」
「六波羅へは兄さまも参られるのでしょう?」
「もちろんじゃ」
「こういう折りに、館をからにするわけには参りません。わたくし、ここにおりますわ」
「しかしのう、もしも合戦ということにでもなれば、坂東武者は火つけが得意じゃて……」
「お父さま、ご心配なさらずとも、わたくしの身に坂東武者の危害はおよびません。そうでしょう、兄さま?」
 俊通は、答えなかった。
「だいたい、危険だからって、公卿がみな娘をつれて押しかけたら、六波羅は足のふみ場もなくなりますわ。お父さまこそ、お気をつけて、お風邪をめされないように行ってらっしゃいませ。お兄さま、早くお父さまをおつれして」
 がんとして動こうとしない若御前に、宗輔もしぶしぶとあきらめ、俊通とともに去った。
 ふたりの後ろかげが、ぼうっと灯籠に照らされた渡殿をまがり、消えるや否や、胡蝶がとび出してきた。
「姫さま! 義平さまは……」
「ああ、胡蝶……」
 若御前は、片手を額にあて、片手で雪の降りつもった欄干にすがった。
 すでに、冷たさは感じなくなっていた。
 ふと目を凝らすと、胡蝶のそばに男が立っている。
 最初は景住だろうと思ったが、なんとなく、雰囲気がちがった。
「御曹司はおられましょうか?」
 低い、抑揚の少ない声だった。
 若御前が答えるより早く、ガタリと妻戸があいた。
 御堂の明りが、ほの白く雪景色を照らし出す。
「義澄か?」
 義平の声に、若御前はふりかえった。
 逆光の中に浮かび上がった義平の影は、すでにきっちりと衣服を整えていた。
「御曹司、聞かれましたか?」
「たったいま、盗み聞きしたところだ。まあ上がれ」
 義平は義澄にそう言って、若御前の冷たい肩を抱いた。
 若御前は、義平の腕のぬくもりにうながされるまま、なにも考えることができないで、御堂へ入る。
 義平は、若御前を火桶のそばにすわらせると、愛撫するような手つきで、若御前の漆黒の髪にからみついた雪をはらった。
 義澄は、ためらいながら御堂に入り、妻戸のそばにかしこまる。
 若御前は、初めて義澄の顔を、灯火の明りで見た。
 年齢の見当のつけづらい顔立ちだった。浅黒い肌の張りから二十代前半かと思うが、表情は三十代といっていいほどに老成している。
 くちびるからあごのあたりが、どことなく義平に似ていた。しかし、受ける感じはまったくちがう。義平が火炎なら、義澄は大地のように静まりかえった雰囲気を、持つ男だった。
 義澄は目を細め、もの珍しさ半分、値ぶみ半分といった表情で、義平に抱かれた若御前と、きらびやかな室内を見くらべている。
「義澄は、おれの母方の叔父にあたる」
 耳もとにささやかれた義平の言葉に、若御前は無言でうなずいた。
「御曹司……」
「かまわん。この方は、このお館の姫君だ」
 義平の言い方には、からかうような調子があった。
 義澄は、淡々と応じる。
「それでは……、さっきの老人は蜂飼太政大臣というわけですか」
「うむ。どうやら、戦になりそうだな」
「御曹司、そのことですが、ただちに内裏へ帰って、頭の殿(義朝)に進言を願いたい。夜が明ける前に六波羅に焼き討ちをかける以外、こちらに勝ち目はありませんぞ」
 それまで、黙ってふたりのやり取りを聞いていた若御前が、義澄の言葉に、はじかれたように立ち上がった。
「六波羅を、焼き討ちですって! お父さまをとめなければ……」
「待て!」
 義平は、若御前の薄紅梅の衣をつかみながら、顔は義澄の方へ向けていた。
「義澄、おれもそう思う。しかし、主上のいる場所を焼き討ちするという案に、父上が同意されると思うか?」
「されませんでしょうなあ」
 義澄は、表情を変えずに言う。
 若御前は、落ち着きを取りもどして腰をおろしながら、あらためてふたりの会話に、背筋の冷たくなるものを感じていた。
 義平と義澄。
 坂東育ちの主従は、まったくと言っていいほど、朝廷の権威を意識していないのだ。
「あたりまえですわ。主上に刃を向けるなんて、そんな常識はずれなこと、許されるはずが……」
 ひきつった声で、口をはさんだ。
「ようするに、だれかを頭にすえればいいわけだろう? いまの主上がいなくなればなったで、ほかにいくらでも皇室の血を引いた人間はいる。しかし、京住まいが長びくと、それがわからなくなるらしいな」
 傲然と言いはなつ義平を、若御前は、驚愕に目をむいて見上げる。
 義平の口もとに、苦笑がのぼった。
「心配するな。父上は宮仕えが長いしな、こんな考え方はされない。やりたくとも、六波羅の焼き討ちは無理だよ」
「しかし御曹司、信頼とやらにじゃまされて、みすみす清盛の入京を許してしまい、今度はこの始末ですからなあ。頭の殿のお許しがなければ、われわれだけでも……」
「義澄、おれは父上にさからう気はない。勝敗は時の運というからな、やれるだけのことをやるまでだよ。そろそろ、行こうか」
 すくっと立ち上がった義平に、若御前はしがみついた。
「待って! なにも不利とわかっている合戦をすることはないじゃない。あなたは、三条殿の焼き討ちにも加わってなかったんだし、このまま坂東へ帰ればいいわ」
「そういう考え方も、ありますなあ」
 義澄がぼそりと、そうもらした。
「ばかなことを言うなよ。戦をする前に逃げ出すなぞ、考えられん。たとえ不利でも、やらねばならんことというのは、あるさ」
「それもそうですな」
 無表情のまま、義澄はあっさり同意した。
「それにおれは、合戦が好きだしな」
 義平は、目じりにしわをよせて笑い、若御前の華奢な手をつかんだ。
「いい夢を見せてもらった」
 耳もとにささやく義平の熱いと息に、全身の和毛がさか立つ。
 いく度も唾液をのみ込み、それでも若御前は、声を出すことができなかった。

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