泡沫の薔薇に



 『ゴンドラの唄』をご存じでしょうか。

 命短し恋せよ乙女 赤きくちびるあせぬ間に
 赤き血潮の冷えぬ間に 明日の月日のないものを

 命短し恋せよ乙女 いざ手をとりてかの舟に
 いざ燃ゆる頬を君が頬に ここには誰も来ぬものを

 命短し恋せよ乙女 波にただよう舟のように
 君が柔手をわが肩に ここには人目のないものを

 命短し恋せよ乙女 黒髪の色あせぬ間に
 心の炎消えぬ間に 今日は再び来ぬものを

 作曲は中山晋平 作詞は吉井勇で、大正時代に大ヒットした流行歌です。
 ゴンドラの唄というくらいですから、ヴェネツィアに関係した歌なんだろう、というくらいは、すぐに察しのつくところですが、意外な話が、塩野七生の「わが友マキアヴェッリ」に載っていました。
 マキアヴェッリは、ルネサンス期のイタリア、花の都フィレンツェに生まれた人です。
 そのマキアヴェッリが幼かったころ、フィレンツェの事実上の支配者はメディチ家で、当主は、ロレンツォ・イル・マニフィーコ、ロレンツォ豪華王と呼ばれますが、彼は卓越した政治家であると同時に、詩人でもありました。
 そのロレンツォの残した詩の中で、Trionfo di Bacco e Arianna(バッカスの勝利)と題されたものは、もともと謝肉祭の歌として書かれました。フィレンツェだけではなく、広くイタリアで愛唱され、謝肉祭が観光名物ともなったヴェネツィアでは、ずいぶん後世までも歌い継がれていたというのです。

 Quante bella giovinezza, che si fugge tuttavia!
 Chi vul esser lieto,sia: di doman non ce certezza.

 青春は麗し されど疾く去り行く
 楽しむ者は楽しめ 明日の日は定めなければ

 これは歌い出しなのですが、ゴンドラの唄によく似ています。
 ここから、塩野氏は推測します。「上田敏か誰か、ヴェネツィア旅行をした日本の文人が聴き知り、日本にもどってきて話したのが、吉井勇にヒントを与え」、ゴンドラの唄が生まれたのではないか、というのです。
 これは、半ばあたっているのですが、半ばはずれています。
 塩野氏は、「大正時代に流行ったというこの歌を、私がはじめて知ったのは、黒澤明監督の『生きる』を見たときだった」と述べていて、この歌が生まれた経緯を、よくご存じないようなのです。
 ゴンドラの唄は、そもそも劇中歌でした。
 大正4年(1915年)、芸術座で初演された新劇『その前夜』で、ヒロインを演じた松井須磨子が歌ったものなのです。
 現代でいえば、映画やドラマの主題歌、テーマ曲が大ヒットするようなものでして、演出家の島村抱月と松井須磨子のコンビは、すでにこの前年、トルストイ原作の『復活』の劇中歌『カチューシャの唄』で、成功をおさめていました。
 『その前夜』の原作は、ロシアの文豪ツルゲーネフの長編小説で、1860年に発表されました。
 ヒロインは、ロシアの令嬢エレーナで、祖国解放のために戦うブルガリア人留学生インサーロフに恋し、秘密のうちに結婚して、ロシアを離れます。二人は、オスマントルコ支配下にあるインサーロフの祖国ブルガリアをめざすのですが、その前に立ち寄ったヴェネツィアで、インサーロフは病に倒れます。
 原作に、『ゴンドラの唄』が出てくるわけではありません。
 恋人たちは、前途への暗い予兆を感じながら、凋落の都ヴェネツィアを楽しもうとするのですが、そのときのエレーナの台詞が、こうなのです。
「ねえ、カナル・グランデ(運河)を、舟でいってみない? わたしたちはここに来てからろくにヴェネツィア見物をしていないのよ。そして晩には劇場に行きましょう。桟敷の切符が二枚あるの。新しいオペラをやってるそうよ。ねえ、今日という日をおたがいに捧げ合うことにして、政治だの戦争だのはみんな忘れて、たったひとつのことだけ知っていることにしましょう。わたしたちが生きて、呼吸していて、そしてふたりとも永久に結ばれていると考えているということだけ。ねえ、よくって?」
 そして、二人が見たオペラは、1853年、実際にヴェネツィアで初演されたヴェルディの『椿姫』でした。
 歌劇『椿姫』といえば、『乾杯の唄』が有名です。

 友よ いま飲み明かそうよ 心ゆくまで
 誇りある青春の日の楽しいひと夜を
 若い心には 燃える恋心
 やさしい瞳が 愛をささやく
 またと帰らぬ日のため 盃を上げよ

 ああいつか過ぎてゆく 若い日は短い

 この世の命は短く 空しく過ぎてゆく
 ねえ だから今日も楽しく過ごしましょう
 このひと時は ふたたび来ない
 そのうちいつか過ぎてしまう
 若い日は夢と はかなく消えてしまう

 ああ この世の命は短く 空しく過ぎてゆく
 またと帰らぬ日のために盃を上げよ

 青春の日は とても短く
 この喜びの いつまでも長く

 ああ よろこびの まねくところ まねくところも
 時は 時はすぎてゆく
 人の世の命 人の世の 人の世の命は
 はかない夢 はかない夢 はかない はかない
 夢とすぎてゆくよ

 これは、青木爽の訳詞ですが、エレーナの台詞に、ぴったりと重なりますね。
 ツルゲーネフの原作に、『乾杯の歌』の歌詞が引用されているわけではないのです。しかし原作の読者は、明日が知れない恋人たちが『椿姫』を観劇する場面で、エレーナの台詞にかぶせ、この歌詞を思い浮かべずにはいられないでしょう。
 『椿姫』の原作は、フランス人のデュマですが、それを歌劇に仕立てたヴェルディはイタリア人で、初演は実際にヴェネツィアの劇場です。
 そもそも『乾杯の歌』は、イタリアルネサンスに生まれた謝肉祭の歌の歌詞を下敷きに、作られたのではないでしょうか。
 しかし『ゴンドラの唄』を作詞した吉井勇が、『乾杯の歌』を知っていたかどうかとなると、微妙です。
 歌劇『椿姫』の日本初公演は、大正7年(1918)。つまり、『ゴンドラの唄』が作られて、3年後のことなのです。
 吉井勇は、明治19年(1886)生まれ。祖父の吉井友実は、薩摩討幕派の志士で、幕末京都で活躍しますが、公卿とのつきあいが多く、趣味人だったようです。維新後は宮内庁関係の職歴が長く、華族令により伯爵に列せられます。つまり勇は、新興伯爵家の三代目なのですが、10代のころから歌を作り、明星派の歌人となります。
 与謝野鉄幹が主宰する歌誌『明星』は、明治33年(1900)に刊行されますが、その中心となったのは、鉄幹との恋を遂げた与謝野晶子です。日露戦争前夜、34年に出された晶子の個人歌集『みだれ髪』は、明治の青年たちを虜にし、浪漫主義のうねりをつむぎだすのです。
 明星派、浪漫主義の歌人としては、吉井勇のほかに、石川啄木、北原白秋などをあげることができます。
 余談ですが、当時、佐渡の中学生だった北一輝も、昌子の華麗な歌に酔った一人です。
 さて、その明治の浪漫主義なのですが、そのバイブルのようになっていたのが、森鴎外初期の作品群なのです。
 森鴎外は、文久2年(1862)、つまり幕末の動乱期に津和野の藩医の家に生まれ、明治5年(1872)、10歳のときに上京。東京大学医学部で学び、軍医となります。明治17年(1884)、22歳で衛生学を学ぶためドイツに留学し、4年ほど在欧して帰国の後、軍医勤務の傍ら、東京美術学校の美学講師を勤め、文芸活動をはじめます。
 明治22年(1889)、訳詩集『於母影(おもかげ)』を発表したのをかわきりに、『舞姫』『うたかたの記』『文づかい』と、矢継ぎ早に、ドイツを舞台にした恋愛小説を発表します。いずれにも、ドイツの女性と日本からの留学生が登場し、わけても『舞姫』は、鴎外自身の恋愛体験を下敷きにしたものといわれます。しかし、下絵にはなっているのかもしれませんが、文語調の美麗な文体でつづられた物語は、現実感の薄い、詩のようなロマンスです。
 鴎外はその後、長く創作を中止し、翻訳と評論に力をそそぎますが、24年からとりかかったアンデルセン原作『即興詩人』の翻訳は10年の長きにおよび、単行本にまとめて発行されたのは、明治35年(1902)のことです。しかし、日清戦争をはさんだ10年間、鴎外自身の主宰する文芸誌『しがらみ草紙』で連載していましたので、すでにそれまでに、浪漫主義に傾倒する若者たちの愛読書となっていました。与謝野晶子も少女期に『しがらみ草紙』を愛読し、鴎外が描く、欧州浪漫主義の世界に憧れた一人です。
 その『即興詩人』に、ゴンドラの唄とよく似た歌が、紹介されているのです。

 朱の唇に触れよ 誰か汝(そなた)の明日猶在るを知らん
 恋せよ 汝の心(むね)の猶少(わか)く 汝の血の猶熱き間に
 白髪は死の花にして その咲くや心の火は消え 血は氷とならんとす

 来たれ 彼(かの)軽舸の中に
 二人はその覆(おほひ)の下に隠れて 窓を塞(ふさ)ぎ戸を閉じ
 人の来たりうかがふことを許さざらん

 乙女よ 人は二人の恋の幸をうかがはざるべし
 二人は波の上に漂ひ 波は相推し相就き
 二人も亦(また)相推し相就くこと其波の如くならん

 恋せよ 汝の心の猶少く 汝の血の猶熱き間に
 汝の幸を知るものは 唯だ不言の夜あるのみ 唯だ起伏の波あるのみ
 老は至らんとす 氷と雪もて汝の心汝の血を殺さんが為に

 ヴェネツィアの里謡、つまり民謡として、作中に出てくるのですが、これはもう、文体のちがいをのぞけば、そっくりでしょう。
 大正4年(1915年)、『ゴンドラの唄』を作詞した当時、吉井勇は文芸誌『スバル』主催者の一人でしたが、この『スバル』は、明治浪漫主義の流れを受け継いで創刊されたもので、鴎外も主な執筆者です。吉井勇は、鴎外に直接承諾を得て、『ゴンドラの唄』を作詞した可能性が高いのです。



 アンデルセンは現在、童話作家としてのみ知られていますが、『即興詩人』は、イタリアを舞台にしたロマンティックな恋愛小説で、彼の出世作でした。
 1805年、デンマークの貧しい靴屋の息子に生まれたアンデルセンは、当初俳優を志し、次いで劇作家をめざし、資産家や王室の援助を得て、教育を受けます。劇作をはじめ、詩集などを出していた20代の後半、1833年に、国王からの外遊資金を受け、イタリアを旅行しました。そのときに着想を得て、2年の後、1835年に『即興詩人』が刊行されます。
 これが、欧州各国語に訳されて評判を呼び、なかでもドイツではひろく愛読されました。
鴎外のドイツ留学は、刊行からおよそ50年後のことなのですが、作中、イタリア各地の名所旧跡を解説し、美しく描き出していることから、現在の観光案内書のような役割も果たし、版を重ねていたのです。
 主人公で即興詩人のアントニオと、薄倖の歌姫アヌンチアタの悲恋の物語は、波瀾万丈にすぎ、ご都合主義が目につきはするのですが、今なお、この物語に魅力をそえているのは、イタリアの風景と歴史の華麗な描写、そして、作中のヴェネツィア民謡、謝肉祭の歌に象徴される、歌姫のはかない運命なのです。
 中世からルネサンス期にかけてのイタリアは、ヨーロッパ文化の中心地であったわけなのですが、18世紀に至ってもその残光は残り、老いてなお優雅な貴婦人のように、欧州の富裕層、知識層の旅情をそそりました。当時の旅行とは優雅なもので、長期滞在し、現地の有力者や知識人と社交を重ねるのが常です。
 ゲーテのイタリア旅行は、18世紀末のことです。古代ローマ、そしてルネサンスの芸術に彩られたイタリアは、ゲーテに深い感興を与え、『イタリア紀行』という旅行記が書かれましたが、それだけではなく、他の作品の中にも、イタリヤは濃く影を落としています。
 「君よ知るや南の国、樹々は実り花は咲ける……」という堀内啓三訳で有名な『ミニヨンの歌』は、そのゲーテの小説「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」の中の詩で、イタリア生まれの少女ミニヨンが、故郷への想いをうたうのです。
 現在知られているミニヨンの歌は、フランス人のアンブロワーズ・トマが、オペレッタに仕立てた中のアリアですので、もとはフランス語訳で歌われるのですが、ドイツ・リードとしての作曲もありますし、ヨーロッパでひろく愛唱されたわけです。
 19世紀初頭、1816年には、ゲーテのイタリア紀行が英訳され、その年、バイロンもイタリアに滞在し、詩を作ります。
 19世紀のイタリアは、さらなる浪漫に彩られていたわけなのですが、そのイタリアの中でもヴェネツィアには、特別なイメージがありました。
 ヴェネツィアは、中世からルネサンスにかけ、オリエント交易で栄え、香料や豪奢な東洋の贅沢品を、長くヨーロッパ全土に供給し、ヨーロッパ文化の中心にありながら、どこか異国情緒ただよう、強大で豪奢な都市国家、と見られていたのです。
 イタリアが衰退にむかった後、18世紀にいたっても、ヴェネツィアは都市国家として独立を保ち、オペラや演劇にかけては、歌手の養成、劇場数や上演回数、その質においても一流のものであり、そういった観劇や賭博など、豊かで、洗練された享楽を提供していました。
 しかし18世紀末、フランス革命と近代国民国家形成のうねりは、この長い伝統を誇る共和国を、滅ぼしてしまったのです。
 1797年、ヴェネツィア共和国は、ナポレオン率いるフランス革命軍に降伏し、占領されます。根こそぎの略奪で、価値の高い美術品はフランスに持ち去られました。
 ナポレオン没落の後も共和国は復活することなく、1814年から1866年、つまり、ちょうど明治維新の2年前まで、オーストリア領でした。
 したがって、バイロンやアンデルセンが訪れたころのヴェネチアは、優美で魅惑的な面影を残しながらも、凋落のイメージが強かったのです。
 バイロンは、ヴェネツィア滞在中の手紙に、こう記しています。
「私は彼らのゴンドラのメランコリックな陽気さを愛し、彼らの運河の静けさを愛します。町の明白な退廃さえ嫌いではありません。その消え失せた衣装の奇異を哀惜はするけれども」
 そして、『チャイルド・ハロルドの巡礼』第四歌では、こう歌い上げました。

 ヴェネツィアでは もう
 タッソの詩句を歌い交わすこともなく
 歌をなくしたゴンドラ漕ぎが ただ黙々と船をこぎ
 町の館が水辺にくずれおちてゆき ィ
 音楽が奏でられないこともある そういう日々は 過ぎ去ったのだ
 それでもまだ 美しさはここにある

 そのおよそ20年後、アンデルセンの『即興詩人』には、こんな感慨が述べられています。
「我は心裡(むねのうち)にヱネチアの歴史を繰り返して、その古の富、古の繁華、古の独立、古の権勢乃至(ないし)大海に配すという古の大統領(ドオジェ)の事を思ひぬ」
 栄華は古のものであり、過ぎ去ったのです。ゴンドラの描写は、さらに憂愁を帯びます。
「われは始てゴンドラという小舟を見き。皆黒塗りにして、その形狭く長く、波をきりて走ること弦を離れし箭(や)に似たり。逼(せま)りて視(み)れば、中央なる舟房にも黒き布を覆へり。水の上なる柩(ひつぎ)とやいふべき」
 主人公のアントニオが、かつて恋した歌姫、アヌンツィアタに再会するのは、このヴェネツィアです。ローマでの青春の日、花のような美貌と豊かな美声で、聴衆を熱狂させ、栄華の盛りにあった歌姫が、病んでやつれ、声の艶と豊かさを失い、喝采を受けることもなく、ヴェネツィアの劇場で歌っていたのです。
「されど薔薇は既に凋(しを)れ、白鵲(くぐひ)は復た歌はずなりぬ」
 アヌンツィアタの姿は、ヴェネツィアそのものを体現しているということもできますし、この世のはかなさ、美の凋落の悲哀を歌い上げるのに、ヴェネツィアほどふさわしい舞台はなかった、ともいえるでしょう。
 アンデルセンの『即興詩人』から、さらに20数年の後、ロシアの文豪ツルゲーネフが『その前夜』を書くわけなのですが、ツルゲーネフは『即興詩人』を読んでいたのでしょうか。
 読んでいたと、考えた方がいいように思われます。
 『その前夜』の恋人たち、エレーナとインサーロフは、『椿姫』を見た後、ゴンドラでホテルに帰り、その世、インサーロフは死んでしまうのです。ゴンドラはまさに、「水の上なる柩(ひつぎ)」でした。
 そして『即興詩人』は、国としての独立を失ったヴェネツィアの悲哀を、くり返し描写しています。
 祖国ブルガリアのオスマン・トルコからの独立を悲願とする志士、インサーロフの死の舞台として、昔日の栄華の日々に、そのトルコと対峙し続けながら、凋落の姿を見せるヴェネツィアは、いかにもふさわしかったのでしょう。
 『その前夜』執筆当時、イタリアは長年の民族運動を実らせ、統一を目前にしていました。
 そのイタリア独立運動の象徴となっていたのは、ヴェルディの歌劇『ナブッコ』の合唱、「行け、思いよ、黄金の翼にのって!」でした。『ナブッコ』は旧約聖書を題材にしていて、「思い」とは、祖国を追われたユダヤ人の思いなのですが、それがイタリアに重ねられ、独立賛歌となったのです。ミラノに続くヴェネツィア初演においても、観客総立ちの合唱となり、オーストリアへの抗議が示されました。
 しかし、イタリア統一運動は紆余曲折をくり返し、停滞を余儀なくされていた時期に、ヴェルディは『椿姫』作ります。
 ヴェネツィアがオーストリアの支配を脱し、統一イタリアと合体したのは、明治維新直前のことでした。
 



 ところで、ヴェネツィアの謝肉祭の歌は、塩野氏のいうように、ロレンツォ・イル・マニフィーコの作詞なのでしょうか。ロレンツォが後援していたフィレンツェの詩人、ポリツィアーノの作だという説もあるようなのですが、中世からルネサンスにかけて、「花の命は短いのだから、今を楽しめ」という無常観は、かなり広範にひろまっていたようなのです。
 Carpe diem(カルペ・ディエム)、「一日の花をつめ」というラテン語の句は、古代ローマの詩人、ホラティウスの詩句です。

 だから 君には賢明であってほしい
 酒を漉し 短い人生の中で
 遠大な希望を抱くことは慎もう。

 なぜなら、僕らがこんなおしゃべりをしている間にも
 意地悪な時は 足早に逃げていってしまうのだから
 今日一日の花を摘みとることだ
 明日が来るなんて あてにはできないのだから

 ルネサンスに生まれた謝肉祭の歌が、この古代詩の最後の数行を下敷きにしていたのは、たしかなことでしょう。
 そして、このCarpe diem(カルペ・ディエム)は、バロックの底に流れていた、Memento mori(メメント・モリ)、「死を思え」という警句につながります。
 「朝は薔薇、夕べは死」、つまり、「咲き誇る薔薇の花、乙女の青春の美しさも、束の間のものでしかない。死を思えばこそ、いまを楽しもう」という無常観です。
 イギリス・ルネサンスの詩人、エドマンド・スペンサーは、16世紀末に『妖精の女王』という長編叙事詩を書きます。その中のThe Song of Rose『薔薇の歌』は、Carpe diem(カルペ・ディエム)を歌い、長くイギリスで愛唱されました。

 こんな風に一日は過ぎ去り
 こんな風に 人の一生は その葉の緑は 蕾は
 そして花は過ぎてゆく
 多くの美女の そして多くの恋する男たちの
 寝床を飾り 閨房を飾るために求められた花も
 ひとたび凋めば二度と咲くことはできないのだ
 だから 春の盛りの過ぎぬ間に 薔薇の花を摘むがいい
 花のおごりを散らす老齢がすぐにやってくるからだ
 まだ時がある間に 恋の薔薇の花を摘むがいい

 ルネサンスの中心は、イタリアです。
 しかも『妖精の女王』は、16世紀初頭、イタリア人ルドヴィコ・アリオストロが書いた長編ロマン詩『狂えるオルランド』の英訳に誘発され、作られたものです。
 したがって、Carpe diem(カルペ・ディエム)を歌うことが、最初に流行ったのはイタリアであったかもしれないのですが、しかし、もとが古代ローマの詩であってみれば、そうではない可能性もありますし、どちらにせよ、ルネサンス期から、ヨーロッパ全域で、Carpe diem(カルペ・ディエム)は文芸の一つの観念としてあった、とはいえるでしょう。
 シェイクスピアは、エドマンド・スペンサーと同じエリザベス朝の人ですが、イタリアを舞台にした劇をいくつか残しています。「ロミオとジュリエット」がそうで、イタリア中世の都市国家ヴェロナを舞台に、憎しみあう名門二家の男女の悲恋を描いたものです。
 1968年(昭和43年)、イタリア人のフランコ・ゼフィレッリ監督が映画化したのですが、無名の十代の新人を主役に使い、中世建築をそのまま背景として、評判を呼びました。
 ロミオとジュリエットが、初めて出会い、恋いに陥る宴会の場面で、吟遊詩人がバラードを歌い、ニノ・ロータによるその歌の哀切なメロディーが流れる中、シェイクスピアの台詞そのままに、若い二人は恋を語らうのですが、Eugene Walterによるというその歌の歌詞が、典型的なCarpe diem(カルペ・ディエム)、Memento mori(メメント・モリ)なのです。

 What is a youth?  Impetuous fire.
 What is a maid?  Ice and desire.
 The world wags on.

 A rose will bloom  It then will fade
 So does a youth.
 So does the fairest maid

 若さとはなんだろうか? 激しく燃える炎
 乙女とはなんだろうか? 氷と熱い情
 世は移ろいゆく

 薔薇は咲き そして枯れる
 若さもまた束の間に消え
 乙女もまた老いゆく

 いいかげんな上に、下手な訳で失礼します。
 この主題歌は、当時の日本で、かなりヒットしたようなのですが、日本語の歌詞はありません。
 しかし、大意はまさに、ヴェネチアの謝肉祭の歌であり、スペンサーの『薔薇の歌』ではないでしょうか。
 『ゴンドラの唄』の下敷きに、鴎外訳の『即興詩人』があることまではたしかですが、アンデルセンが記したヴェネチアの謝肉祭の歌が、だれの作詞であるかという探求は、あるいは無駄なことであるのかもしれません。
 ところで、明治の『即興詩人』、大正の『ゴンドラの唄』、そして昭和の『ロミオとジュリエット』の主題歌、と並べてみますと、西洋のCarpe diem(カルペ・ディエム)の観念は、日本人にとって、非常になじみやすいものだったのではないでしょうか。
 考えてみますと、「世は移ろう」という無常観は、日本においても、中世文芸の主潮となった観念でした。
 13世紀、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶ泡沫(うたかた)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人住みかと、またかくのごとし」と述べる鴨長明の『方丈記』が思い起こされますし、14世紀、吉田兼好の『徒然草』には、「人はただ、無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり」、そして「ただ今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし」と記しています。
 「世は移ろうものだから、今現在の思いを大切にするべきだ」というのですから、これはもう、そのまま、「今日の花を摘め」でしょう。
 そして、16世紀初頭に編纂された『閑吟集』には、こんな歌があります。

 くすむ人は見られぬ
 夢の夢の夢の世を うつつ顔して
 なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ

 ただ人は情あれ 槿(むくげ)の花の上なる露の世に
 だだ人は情あれ 夢の夢の夢の
 昨日は今日のいにしへ 今日は明日の昔

 ちょうど、ロレンツォ・イル・マニフィーコが謝肉祭の歌を作ったと同じころの俗謡と思われますが、「この世ははかない束の間の夢なのだから、分別くさい顔をしていないで楽しみましょう」というこの歌も、そのまま、Carpe diem(カルペ・ディエム)であるでしょう。
 鴎外が10年の歳月をかけて『即興詩人』を訳し、そしてそれを、明治の若者たちが熱く受け入れたのは、もちろん、近代西洋の文化の香気に、触れることを歓迎したからではあるでしょうけれども、そこに通底する情緒がなじみ深いものでなければ、共感を呼ぶことはなかったのではないでしょうか。
 『即興詩人』を愛読し、浪漫派歌人の旗手となった与謝野晶子は、後に、『徒然草』の名現代語訳を残しているのです。



 明治元年は1868年。
 すでに幕末から、西洋近代の技術を学ぼうとする日本人は、禁制の網をかいくぐって、欧米へ留学していたのですが、国としての日本の置かれた状況は、なによりもまず、技術と実用知識を必要としていましたし、文芸、芸術などというものに目を向ける余裕は、しばらくの間、ありえないことでした。
 鴎外のドイツ留学が明治17年(1884)。
 ちょうどこの前年、東京では鹿鳴館が出来上がり、初めての舞踏会が催されました。当時の欧米の外交には、いまだ色濃く、上流階級の社交の要素が残り、西洋文化全般にわたる教養なくして、欧米列強と円滑に交際していくことは不可能に思われたわけです。
 鴎外が留学した当初の在独公使は、青木周蔵でした。
 青木周蔵は、弘化元年(1844)生まれですから、鴎外より18歳年長で、このとき40歳でした。
 長州の村医者の息子でしたが、長州閥の引きで、明治元年(1868)、ドイツに留学。6年間滞在する間に、勝手に医学から政治学へ転向を果たします。外交官となった周蔵は、33歳のとき、ドイツ貴族の令嬢と結婚し、「独逸の化身」といわれたほどのドイツ通でした。
 その青木公使が、「衛生学を学びに来ました」と挨拶する鴎外に、こう言ったのだそうです。
「足の指の間に下駄の緒挟みて行く民に、衛生論はいらぬ事ぞ。学問とは書を読むのみをいふにはあらず。欧州人の思想はいかに、その礼儀はいかに、これだに善く観ば、洋行の手柄は充分ならむ」
 ドイツかぶれの傲慢と受け取れなくもないのですが、それよりもむしろ、「これからは、こと細かな技術よりも、西洋の文化そのものを学ぶことが大切」という、外交官としての自らの体験から生まれた親身なアドバイス、と見るべきでしょう。技術といい、実用知識といい、当然のことながら、それを生んだ社会、文化と、無縁には存在しえないのです。
 青木公使の痛切な言葉に、鴎外の目は、ごく自然に西洋の社会文化、そして芸術、文学に向かった、といえるでしょう。
 18世紀末に起こったフランス革命とナポレオン戦争は、王家と貴族が民族を超えてパワーゲームを演じていたヨーロッパ全土で、民衆のナショナリズムを覚醒させ、近代国民国家の形成を促しました。
 このナショナリズムは、ラテン語による欧州共通の古典を否定し、自国語の文芸を称揚する民族感情を加速し、さらに、それぞれの民族独自の文化や歴史、神話を掘り返し、新たな自国文化の概念を形成しようとする動きともなったのです。
 19世紀の欧州を席巻したロマン主義は、こういったナショナリズムの勃興に呼応していましたので、ケルトやゲルマンの神話、文化の再発見、尊重といった現象をも、引き起こしました。
 それが19世紀も後半になりますと、近代産業の進展にともない、一直線に加速していく工業社会の味気なさ、息苦しさから、近代を律する合理主義への懐疑が強まり、神々もまた自然の一部であったケルト、北欧の文化は、失われゆく自然と過去の優美へのノスタルジーとも重なったのです。
 ルネサンスは、「人間と自然との発見」と定義され、例えばフィレンツェ、ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』や『春』のように、ギリシャ・ローマの多神教の神々の世界を題材とした絵画が描かれますが、一神教の神が、「不変の真理」とともにある唯一絶対の神であるのに対し、多神教の神々は、移ろう自然の体現者であり、滅びの悲哀と無縁ではないのです。
 『バッカスの勝利』と題された謝肉祭の歌が、イタリア・ルネサンスに生まれたことは、けっして偶然ではないでしょう。
 そしてイギリス・ルネサンス、『薔薇の歌』で知られる『妖精の女王』は、ケルト伝承に根ざしたアーサー王物語を題材にしています。
 中世ヨーロッパのキリスト教は、先行した異教の神々を聖人として取り込み、異教の祝祭を自らの祝祭に改変して、多神教の世界観を内包していたのですが、ルネサンスは、その内包された部分にスポットライトを当て、Carpe diem(カルペ・ディエム)の歌を生んだのでしょう。
 19世紀末、鴎外が留学した当時のヨーロッパでは、再び、その多神教の世界観が浮かび上がっていました。
 鴎外の『うたかたの記』は、ドイツの美術学校でモデルを勤める美しい少女と、日本人留学生との悲恋を描いたものなのですが、あまりにもリアリティに乏しく、むしろ背景につかわれた実話、バヴァリアの狂王、ルドヴィヒ二世の投身自殺の方が、印象に残る作品です。
 実のところ、鴎外は、留学2年目の1886年(明治19年)、ミュンヘン滞在中に王の自殺を知り、衝撃を受けているのです。
 バヴァリアは、ミュンヘンを首都とするドイツ南部の王国で、この当時はドイツ帝国の一部になっていましたが、いまだ独自の外交権や軍事権を残してもいました。
 1864年、19歳で即位したルードヴィヒ2世は、国民が驚嘆するほどの美貌の主でした。『ローエン・グリーン』や『タンホイザー』、『ニーベルンゲンの指輪』など、ワーグナーの壮大なドイツ中世英雄歌劇に惚れ込み、その庇護者となります。
 ドイツ中世の英雄伝承は、いうまでもなく、北欧神話、ゲルマン神話の世界観とともにあるものですから、ルードヴィヒ2世はまさに時代の子だったわけなのですが、その耽溺は異常なもので、やがて、小王国の味気ない現実の治世から逃避するかのように、夢想にのめりこみ、その夢想の舞台の書き割りのような城を次々に建設して、財政を傾けます。
 『うたかたの記』には、「王の繁華の地を嫌ひて、鄙(ひな)に住まひ、昼寝(い)ねて夜起きたまふは、久しき程の事なり」と記されていますが、王はついに、スタルンベルク湖畔のベルク城に幽閉され、その数日後、湖に入水して果てます。
 その死によって、王はまさに、世紀末の神々の黄昏(たそがれ)を体現する存在となったのです。
 鴎外が『うたかたの記』で描きたかったのは、なによりも、19世紀末欧州の夢想の中にあろうとした狂王の姿であり、事件に接した自らの強い感慨、ではなかったのでしょうか。
 ヒロインの少女は、スタルンベルク湖畔で、金髪を風にかびかせ、こう言うのです。
「人生いくばくもあらず。うれしと思う一弾指の間に、口張りあけて笑はずば、後にくやしとおもふ日あらむ。けふなり。けふなり。きのふありて何にかせむ。あすも、あさても空しき名のみ、あだなる声のみ」
 ドイツといい、イタリアといい、早くから、豊かな民族文化を育みながら、その歴史的な要因により、近代国民国家の形成は遅れました。
 同じように日本は、すでに江戸時代、国学の勃興をみて、民族意識を深めながら、極東に孤立していたがために、性急に伝統を捨て、西洋近代を受け入れざるをえなかったわけです。
 『即興詩人』も『うたかたの記』も、明治の日本人にとって、理解しやすい背景を持っていたともいえるでしょう。
 明治19年(1886)、ちょうどルードヴィヒ2世が世を去ったその年、石川啄木は、岩手県の寺に生まれました。啄木の思春期は、浪漫主義全盛の中にあり、明治36年(1903)、17歳の年、『明星』に発表した詩には、次のような一節があります。

 ああ今、来たりて抱けよ 恋知る人
 流転の大波 すぎ行く虚(うつろ)の路
 そよげる木の葉ぞ幽(かす)かに落ちてむせぶ

 この3年後、啄木は、「ワグネル」の思想に傾倒します。「ワグネル」とは、ルードヴィヒ2世が庇護し、パトロンとなったワーグナーのことなのですが、当時の日本は、ようやく歌劇というものの上演が始まったばかりであり、ワーグナーの壮大な楽劇を見ることは、できなかったはずなのです。
 しかし、なぜか明治のワーグナーは、ニーチェなどと並んで、音楽家としてではなく、思想家として語られる存在でした。
 この明治39年(1906)、日露戦争が勝利のうちに終結し、近代国民国家としての日本は、急坂を登りきりました。なりふり構う余裕もなかった猛進は、終わりを告げたのです。
 すでに幕末からロシアの南下政策に直面し、それに代表される露骨な西洋諸国の領土欲を怖れ、独立を保ち、列強に伍そうと、やみくもに急いだ近代化でした。
 怖れ続けた欧州の大国に、まがりなりにも勝利をおさめ、もはや、亡国の不安はなくなりました。
 しかし、足をとめ、あらためて自国を見つめ直す余裕を持つと、そうして得たものの貧しさに愕然とし、なにか大切なものを永遠に失ってしまったような、得体の知れない喪失感が時代を覆います。
 日露戦争後の気分は、世代によって、多少のちがいがあったように思われます。
 維新前後を肌で知る、鴎外から上の世代のそれは、虚脱感といえるでしょう。
 一方、生まれたとき、すでに大日本帝国が確立していた啄木たちの世代にとってのそれは、幻滅だったといえるのではないでしょうか。
 鴎外の世代は、自らの内に残された日本的なるものに、癒しを求めることができました。以降の鴎外が、創作の題材を日本の過去の歴史に求めるようになったのは、ごく自然な回帰だったでしょう。
 しかし、啄木たち、青春に大きな幻滅を味わった世代は、回帰する場所を見出しえず、さらなる幻影を求めて、彷徨うしかなかったのです。
 そして10余年の月日が流れ、『ゴンドラの唄』が流行った大正4年(1915年)。この前年、欧州では、第一次世界大戦の火ぶたが、切って落とされていました。
 18世紀末、フランス革命にはじまった近代国民国家形成のうねりは、19世紀いっぱい、遠く極東の小国までも巻き込む百年の激動となり、この20世紀初頭、欧州伝統社会に最後通告を突きつける戦火が、燃え広がっていたのです。

 命短し恋せよ乙女 赤きくちびるあせぬ間に
 赤き血潮の冷えぬ間に 明日の月日のないものを

 『ゴンドラの唄』は、その戦火から遠く、極東に鳴り響いた挽歌でした。


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