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芦原さんは言いました

”別に気が重いって程の事でもねぇんだけどさ、”
 それでも、検討が終わると、用事があると言ってはさっさと帰ってしまっているのは、やっぱり気が重いってことなんだろう、と、和谷は考える。
 進藤ヒカルと塔矢アキラの対局見たさに、わざわざ塔矢先生の碁会所に、言わば押しかけに来ているようなものなのに、こんな態度は無いぜ、と自分でも反省してるし、次こそはちゃんと付き合おうと決意するのだが、塔矢アキラを見る度に、その決意はあっという間に鈍ってしまい、結局、ろくに目も合わせない、話しもしない内に帰り仕度を始めてしまうのだった。
 一緒になることの多い伊角は、ある時は残り、ある時は和谷に付き合って席を立つが、ことの成り行きを案じているのは確かで、
「何か、塔矢のことで気にかかることがあるのか?」
と、何でも相談に乗るぞとの姿勢で臨まれた和谷は、返って説明が付かず、俯いてしまったのだった。
 塔矢アキラに和谷の反発心を柱とした様々なもやもやは、森下師匠の打倒塔矢門下のスローガンのせいというよりは、自分自身の在り方のせいだと思う。
 ごくごく普通のサラリーマン家庭に生まれ、一度も一軒家暮らしなどしたことのない公団暮らし、玄関は狭くてごちゃごちゃしていて、部屋のあちこちに簡易物入れと化したスーパーのポリ袋や菓子の空き缶が転がっている。そんな家でいつも声を張り上げ小言を言う母親は、見るからに元気で働き者で頼りになるけど、あまり身なりに構わない。そりゃ着飾る時は着飾るけど、何となく張りきりすぎって感じで、浮いて見えてしまう。でもそれは、他の奴の母親と同じってだけで、自分の母親だけが特別って感じじゃない。
 和谷はそんな普通な家で普通に育っている内に、碁に出会い、15歳でプロ棋士になるという普通でない人生に足を踏み入れることになったのだった。
 でも、塔矢は違う。
 棋界の獅子と呼ばれたタイトルホルダーの元に生まれ、家は当然一軒家。聞くところによれば豪邸で、庭はプロの庭師でなければ手入れの出来ない代物らしい。そんな家を取り仕切っている母親は棋界でも有名な美人で、もの静かな声で話す上品な人だという。塔矢のことアキラさんって呼ぶんだぜ、と進藤から聞いた時、和谷は正直言って目を回した。
 自分の息子をさん付け、土曜ワイド劇場にしかそんな家庭は存在しないと思っていたのに。
 塔矢アキラは、そんな普通じゃない家で、あらゆる意味で普通じゃなく育ち、13歳でプロ棋士になるという普通じゃない人生を着々と歩み続けているのだった。そう、おかげで棋界のサラブレッド、貴公子、若武者、それらの普通なら笑っちゃうようなフレーズがサマになるどころか、当たり前過ぎて意味がない程、塔矢アキラの人生は浮世離れしていた。
 そんな塔矢アキラに一通りでないわだかまりを抱いて何が間違っているというのだろう、何のこだわりもなく話が出来る奴の方がどうかしている、進藤とか、進藤とか、進藤とか。それに伊角、あの塔矢アキラに対してさえ、年上というだけで、碁を離れればお兄さんスタイルを貫ける伊角は凄い。自分なんかは、越智みたいに己からは近寄らないようにすればいいのだろうが、それも出来ない。やっぱり、少しでも強くなりたいから。
 だから、今日こそは塔矢と普通に話してこの気分から解放されようと思ったのだが。

 無理だった。
 塔矢がおかっぱの髪の先をひらひらと泳がせながら歩いているのを見た途端、いつもと同じく決意は萎えてしまった。
 何とはなしに、あの髪型には反発心が湧く。
 いや、何とはなしにではない、絶対なのだ。
 あの世間に広く認知されている割には、した日には笑いを誘ってしまう、おかっぱという髪型、それが何の笑いも突っ込みも入れられることもなく――和谷は確信している、小学校から高校の今に至るまで塔矢アキラは、おかっぱが理由でいじめられたことも笑われたこともないだろう――誰からも違和感を持たれることなく受け入れられているという事実。それがまるで、塔矢アキラの非凡さを物語っているようで、和谷には、おかっぱという髪型自体がというアキラの人となりの象徴のようにすら思えるのだった。
 だから、あのなびく髪を見た途端、反発心が湧いたということは、塔矢自身に反発する気持ちが解けないということなのだった。
 我ながらしつこい、けど、仕方ない。
 和谷は結局、今日も塔矢とろくに顔を合わさず、検討が終わった途端、席を立とうとしたのだが。
「和谷くん、もう帰っちゃうのォ?」
背後からいきなり声をかけられてしまった為、座り直す羽目に陥ってしまったのだった。何故なら、声をかけたのは芦原で、何も考えてないかのようにいつもにこにこ笑ってるこの人に和谷は弱い。何故弱いのかというと、
「オレ、昼飯食い損ねちゃってさ、何か腹に入れたいんだよね。皆もそろそろ何か食べたい頃だろ」
食事なら食事、映画なら映画、と何も考えない笑顔で強引に誘ってくれるからだった。そして、和谷は断れた試しがない。
 そーいや、何で今までこの碁会所でこの人に会ったことが無かったんだろーな、この人のホームベースだろーに。
 しかも、塔矢と進藤の対局を見ていた訳でもない、まるで終わった頃を見計らったように現れたのだ。
 興味ねーのかな?
 首をひねったところで目の前の人の笑顔は変わらない。
「じゃ、オレ、ラーメンがいいな」
碁筍に碁石を収めながら、進藤が無邪気に声を上げた。
「ラーメン、いいねぇ、アキラはどうだい?」
芦原に話を振られ、塔矢が首を傾げる。まるで、そんな固有名詞初めて聞いたなって風情で。和谷は急に不安になった。
 ラーメン、食ったことあるんだろーか、こいつ。いや、芦原さんがわざわざ聞いてるんだからあるんだろー、きっと。あぁ、けど!
 和谷にはラーメンをすすってる塔矢アキラも、ラーメン丼を持ち上げている塔矢アキラも想像出来ない。
 和谷がイメージする塔矢アキラとは、一点ものの立派な食卓に並んだ懐石料理に古風な作法――って思いつかないけど――で箸を運んでるとか、真っ白なリネンのテーブルクロスのかかった立派なテーブルに並んでいくフルコースに何の迷いもなくフォークとナイフを――だって、いっぱい並んでいるはずだ、知らないけど――入れていくとか、そんな感じなのだ。そんな塔矢が、ラーメン?まさか、フォークで巻き取りながら食うんじゃねぇだろーな、スパゲティみてぇに。
 うっかり想像し、頭が真っ白になってしまった。
 ラーメンはいかん、ラーメンは。
「そう?和谷君はラーメンって気分じゃないんだ」
芦原に言われ、和谷は我に返った。知らない内に声に出していたらしい。
 危ねぇ。
 ひやりとした和谷の胸の内も知らず、大好きなラーメンを阻まれた進藤がムッとした顔で軽く睨んでいた。
「そんなに嫌がることないじゃん」
「オ、オレ…」
「三日位、続けて食っちゃったんだろ。一人暮らしだとよくあるよねぇ」
「そうなんだ」
 頼むから真剣な顔で頷かないでくれ、塔矢。
「オレなら一週間でも平気だけどなァ。じゃ、回転寿司は?」
気が利いてるぞ、進藤。寿司は庶民のごちそう、金持ちの普通食だ。
 そのはずなのに、塔矢はまた首を傾げている。
「回転寿司って、回るんだよね」
「回らない寿司は高ぇぞ」
「うん、なのにどうして回る方が安いんだろうね。変じゃないか?」
 一瞬、皆、固まってしまった。
 確かに回すって手間の分、回さないより高くなるというのは、正しい考え方だけどォ…?
「それはさ、アキラ…」
素早く立ち直り教えるのは、さすが年長者、というより門下の先輩。
「回すのは機械がするから人件費がかからないせいなんだよ。人が回せば、そりゃ高いだろーさ」
 …芦原さん、それ違うと思うんだけど。
「そうだね」
なのに塔矢は納得している。進藤も頷き、
「そうだよ、20人も人雇ってさ、一人一皿持たせてずっと回って歩いたって、暑苦しいだけじゃん」
 …し、進藤?
 オマエはオレのダチだと思ってたのに。
 いきなり遠くへ飛び去った友を思い、和谷はまた頭が真っ白になった。
 待ってくれよォ。
「マックでよォ?何だ、オマエ、マックに行きたかったのか」
 進藤が下から伺うように、和谷の顔を覗き込んでいた。
 和谷はまた口を動かしていたらしい。しかし、進藤が意味を取り違えてくれて良かった。
「マックかァ、ずいぶん行ってないなァ、アキラもあれから行ってないだろ」
 あれから!?
 塔矢が頷くより先に、和谷と進藤は声に出していた。
「オマエ、マック行ったことあンの!?」
進藤の問いに塔矢はいささかムッとしていた。
「ボクだって行ったこと位あるよ」
「そーなの?オマエって、あるのも知らないと思ってた」
「そんなことないよ、お父さんに連れて行ってもらったもの」
 ……塔矢は他人の心臓を止めるのが好きなんだろうか?
 和谷も進藤も、再び凍りついてしまった。
 あの塔矢行洋が、棋界一古風な、息子の幼い日の授業参観にすら、カジュアルな装いの若い父親達に混じって渋い和装を通していたというあの塔矢行洋先生が、マクドナルドにご来店あそばしていたとは…!
「よ、よく行ったのか?」
 初めて、この碁会所に通い出してから、ようやく初めて、和谷はまっとうに塔矢を見て、聞いたのだった。
 その事実に気付いていたのかいなかったのか、はたまた気にしていたのかいなかったのか、塔矢はちょっと目を瞬き、
「一度だけだよ。まだ小さな頃、緒方さんも一緒に」
「未だに語り草だもんな」
 隣で芦原はケラケラ笑っていたが、進藤の目がもの問いたげに動くと笑いをおさめ、話し始めてくれた。
「俺も緒方さんから聞いた話なんだけどさ」

 ──その時、何の用事があったのかは忘れたけど。
 行洋先生は、アキラと緒方さんを連れて歩いていたんだ。丁度、昼過ぎでね。昼食をと思っても、これと言って店のないところだった。で、そんなところにマックの看板だけがデカデカと立っていたんだよ。
「ここは食事をする店らしいね、緒方くん」
「はい、先生。ハンバーガー店です」
「ハンバーガー?」
 言って先生の目は空を見上げ、かすかなかすかな記憶の底を辿っているようだったけど。
「ああ、明子の言っていたあれか」
小さく呟くのを聞いた緒方さんは、先生の言う「あれ」が、マクドナルドだったのかハンバーガーだったのか、判らなくてちょっとぼけらっとしてしまったそうだ。
「キミはよくこういう店に来るのかね?」
「自分では。しかし、学生としてのつきあいもありますから」
何て言ったらしいけど、緒方さん、その頃中学生でさ、つきあいったってどうせデートがほとんどだったろーに。あの人、あれでどーいう訳か昔から女の子にもてるんだよね。でさ、他に入る所もなし、入ったんだよ、そのマックに。
 もちろん先生はいつも通りに渋い鬱金色の着物姿でさ、中学生の緒方さんはさすがにまだダブルスーツじゃなかったけど、白のスーツを着ててね、で、アキラはお子様用の紺のスーツだったから、店中の視線が一斉に集まっちゃってさ。
 うん、そーなんだよ、バイトの女の子がひきつった顔に必死で、それでもマニュアル通りに笑顔をうかべてさ、聞いたね。
「いらっしゃいませ。ご注文は何に致しますかァ?」
「ふむ、やはりハンバーガーだろうか。種類がいろいろあるようだが、緒方くん、頼んでくれないか?」
 緒方さんは頼んだそうだよ。後ろじゃひそひそ、どういう人達なのか詮索してたってさ。そりゃ、碁の先生とその生徒なんて思いつかれもしないよねぇ。
 それで店の子は相変わらずマニュアル通りでさ、
「ご一緒にポテトはいかがですかァ?」
「ポテト?あぁ、揚げいものことかね?」
 女の子、固まっちゃってねぇ。
「そうです先生。やはり付け合わせは必要でしょう」
 そこでレジの女の子が動かなくなっちゃったのは、緒方さんのせいだと思うんだ。白スーツで秘書みたいなしゃべり方する中坊って、絶対変だよねぇ。それでもどうにか立ち直ってさ、
「お飲み物はァ?」
「煎茶もほうじ茶もないのだな。コーラというのはジンジャーエールのようなものだったか」
「さ、さァ?」
マニュアルの営業も大分怪しくなったけど、どうにかオーダーを終えてね。トレイをもらった先生は、最後に言ったそうだよ。
「ところで緒方くん、これは、ナイフもフォークもなしでどうやって食べるんだね?」
「そ、それは…」
 さすがに緒方さんも言葉に詰まっちゃってね。そこにひょこっとアキラが割って入って、
「大丈夫だよ、お父さん。洋食屋さんでもお箸があるはずだよ。お姉さん、お箸を三つ下さい」
 無邪気なアキラの瞳に射抜かれたお姉さんは、マニュアルの限界を悟ったそうだよ。

「それで、箸はなかったんだ」
 芦原の長い語りを聞き終えた進藤が着地したのはそこだった。
 和谷はそれよりその後、マックで黙々と食事をしたであろう塔矢先生御一行の方が気になった。
 皆、ビビりまくってたろうな。
「うん、その時お父さん、羽織の上にケチャップ落として、お母さんに怒られてね。もうああいう店には行かないって」
「怒る?オマエの母さんでも怒るのか?」
 和谷は、また塔矢を見て、おそるおそる聞いてしまった。マックのハンバーガーでケチャップを落とすってのも信じられねーけど──きっと、ほんとに食べ慣れなくて変な食い方してたんだろーな──そんな間抜けなシミ作って、棋界一の美人妻に怒られるタイトルホルダー。じんわりと抜けている。
「怒るよ。シミって時間が経つと落とすの大変だから」
「へぇ」
 驚いて目を見張る。隣で、進藤と芦原が合図らしき目線をチラと交わしたのを、和谷は見逃さなかった。
 あの二人って、そんなに親しかったっけ?
「じゃ、マックに行こうぜ、塔矢の再デビュー!」
「再デビューって何?進藤」
「ま、いいからいいから。和谷くん、行くよ」
 進藤と芦原の勢いにのまれる形で、和谷は何となく塔矢と一緒に、出口へと押し出されていった。エプロン姿のお姉さんが、お客さん達が皆、にこにこして、若先生とお友達が出かけていくのを見守っているのが目の端に映って、扉の向こうに消えた。

 和谷は知らなかったけど──

「和谷ってさァ、塔矢の前だと何であんななんかなァ。ほんとはいい奴なんだぜ」
「あはは、和谷くん、自分でも持て余しちゃってるよーだね」
「芦原さんも、伊角さんと同じこと言うんだ」
「うん、アキラはよくあーいう反発のされ方するんだ。ほら、好きな女の子に意地悪ばかりする男の子っているだろ。あんなもんさ」
「うーん」
「進藤はアキラと同じで、好きになったらまっすぐ追いかけてくタイプだから、ちょっとわかんないか。ははは」
「うーん」
「とにかくさ、今度一緒にごはん食べてみようぜ。今度いつ、和谷くんと来る?」
「来週の月曜」
「じゃ、オレ仕事終わったら行くよ」

 ──そして、和谷は引っかけられたのだった──
─ fin. ─■■

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