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塔矢家の事情(一)

 ボクが十五になった春に、父が逝った。
 去年の春に初めて倒れたが、そのときはほどなく回復し、新たな仕事を得て、日本と中国を忙しく行き来するまでになった。プロ棋士として現役は退いたものの、仕事に打ち込む姿はいきいきと輝いていた。まさかたった一年で再び倒れるとは、そのまま末期を迎えようとは思わなかった。
 現役時代は五冠を手にし、神の一手に最も近い男として碁界にその名を馳せていた父である。その葬儀は、恐ろしく大がかりなものになった。棋院の職員さんや父の門下の人たち、友人たちが懸命に働いてくれて、なんとか一連の式を乗り切った。そのなかに、ボクが生涯のライバルと心に決めた彼の姿もあった。
 進藤ヒカル。
 彼とは不思議な因縁で結ばれている。お互いに引きずりあい、突き飛ばしあうようにしながらプロ棋士の世界に転がり込んでいった。お互いのどちらかが欠けても、今の自分たちはなかったと思う。永く正式な対局の機会を持てないまま反目しあっていたが、半年程前に手合わせをして全力をぶつけあってから、嘘のように和解した。相変わらずケンカというか言い争いはよくしたが、次に会えばお互いそんなことは気にも留めていなかった。同年代の、そんな風につきあえる友人を今まで持たなかった、持つ必要を感じていなかったボクにとって、彼という存在はとても新鮮で興味深いものだ。
 彼は、ボクの両親の覚えもめでたかった。
 特に父は、彼が棋士の道を歩み始めた頃から気にかけていたようだ。彼のほうでも、友人の父・棋界の大先輩という以外に何か特別な感情を抱いているように見えた。時々、進藤と父の間に、実の息子であるボクすら入っていけないような一種濃密な雰囲気を感じることもあった。何か、ボクとはまた違った形の因縁があったのかもしれないが、父が亡くなってしまった今となっては知る由もない。進藤がいつか話してくれることがあれば別だが、それはあまり近い将来ではないと思う。
 一方、母とは特別因縁があったようすはない。以前父が倒れたときに病室で会ったのが、初対面だったと聞く。ボクと同い年のプロ棋士であり、ボクや父の口から度々名前が挙がっていた、ということから、またたくまに母の中で顔と名前が一致したようだ。その後、うちに連れてきたり話題にのぼることが増えたりするにつれて、いっそう興味が湧いたらしい。母は、トップ棋士の妻として長年、囲碁界の人間関係に良くも悪くもどっぷり浸かってきた人だ。その目から見て、進藤のように全く囲碁とは関わりのない世界で育ってきた人種の言動は、かなり新鮮なものだったのだろう。まるで珍獣を見るような気持ちですらあったかもしれない。確かめたことはないが。
 とにかく、母は妙に進藤を気に入っていた。進藤がまた愛想の良いところを見せるものだから、なおさらだ。しまいには「進藤くんのような、元気で明るい子どもが欲しかった」などと言いだす始末だ。どうせボクは陰気で暗いです、と言ったら進藤に「落ち着きがあっておとなしい、って言やいいのに。卑屈なヤツだなー」と突っ込まれた。それがまた母にウケてしまい、不愉快だった覚えがある。
 そんな風に進藤は、我が家のなかで確実に存在感を広げていたのだ。

 人が死ぬと、こんなにも大変なことになるとは思わなかった。
 悲しみに浸っている暇などありはしない、次から次と煩雑な手続きが舞い込んでくる。父が、地位も名誉も財産もある、一角の人物だっただけになおさらだ。親戚、棋界、後援会、ありとあらゆる関係者に礼節を尽くし、心遣いを感謝し、気持ちを返す。それが何百件と続く。最大の難所、相続と財産分与の処理を終えたときには、気力も体力も尽きかけていた。
「お疲れさん」
最後に残った親戚が帰って、居間で魂が抜けたようにへたり込むボクと母に、進藤がお茶を持ってきた。
「キミ…何でここにいるんだ?」
「失礼なヤツだな、何でって何だよ。オレ、今日だってずっと水屋に詰めてお茶出ししてたんだけど」
「ええっ!?どういうことだ!?親戚でもない、門下でもないキミが、何故そんな、…申し訳ない」
「なんでかなぁ、誰も疑問に思わないみたいなんだよなぁ、芦原さんなんかも『やぁ、進藤くん!今日も働き者だね!』とか言っちゃってさ。自分も働けっての」
身内に紛れてあたりまえのように働かされている進藤の姿が頭に浮かんだ。妙に馴染んでいて、ちょっと可笑しかった。
「悪いことしたわね、進藤くん。ごめんなさい、気付かなくて。もういいわよ、帰ってゆっくり休んで」言ってから母は、ちょっと寂しそうな顔をする。「…あ、でも進藤くんさえよかったら、このままお夕飯を食べていかない?用事とか、なかったらでいいんだけど」
「いいの?じゃ、ご馳走になろうかな。文句ねーよな、塔矢?」
「え?ああ、もちろんだ。まぁ、まずキミも背広を脱いで座って。キミのお茶は…」
「持ってくるからいいよ」台所に向かった進藤は、ポットと急須を抱えて戻ってきた。
「お茶うけならいくらでもある。何でも好きに食べてくれ。…あ、夕食前に食べない方がいいのか」
「オレ、胃袋底なしだから。心配しなくても大丈夫」
いただきまーす、あ、コレ一個しかないけどオレ食べちゃっていいの?とか何とか言いながら、座卓の上のお菓子を頬ばりだした。
 何だか、その明るさが妙に嬉しい。
 おばさんも食べなよ、一個くらいならいいだろ、と母にもお菓子を押しつける。ありがとう、とそれを手に取り、じっと眺めながら、母がぽつりと言った。
「ずっとバタバタして気が紛れていたんだけど…。親戚の人も、早く帰ればいいのにって、世話する方の身にもなって、って思っていたのに。帰る時って、みんないっぺんに帰っちゃうのね。急に静かになっちゃって」母が言葉を途切らせた。進藤がお菓子の包みを開くカサカサという音がする。「…広くなるわね、この家」
 もともと広い家だ。それを父と母、ボクの三人で使っていた。これからは二人だけで使うことになる。今まで居たはずのもう一人の存在が、なおさら目に付く。それがつらい。ボクは呟いた。
「今までだって、そんなに家に居るわけじゃなかったのにね。全然違う」何だろう、この寂しさは。
「この世のどこかにいるのとどこにもいないのとじゃ、全然違うからなぁ」どこでもない遠いところに視線を泳がせながら、不意に進藤が言った。「たまんねーよな」
思わず、彼を見た。意外に思えた、彼の口からそんな言葉が出るなんて。
 ボクの視線に気付いて、明らかにムッとしながら、
「何だよ、おまえ。オレがシリアスモード入っちゃおかしいのかよ」
「い、いや、そういうわけじゃないよ、気に障ったのなら悪かった」
ちょっとボクを睨んで、進藤は席を立った。茶葉を捨てるのだろう、急須を持って台所へ向かう。
 水道の水を流す音が聞こえてきた。うちの流しはステンレスではなく、昔ながらのタイル張りなので、水の音もささやかにしか聞こえない。母とボクは黙ったまま、お互い手元の湯飲みを見つめている。進藤の声がした。
「あー、雨降ってきた」
 ボクはゆるゆると振り向き、身を伸ばして背中側の障子を開けた。廊下にはめ込まれたガラス戸越しに庭が見える。シャクナゲの葉が濡れて、深い緑に変わっていた。
「オレ、傘持ってきてねーや。…塔矢ぁ、泊めてくんないかなぁ」
のんびり言いながら進藤が戻ってきた。何なんだキミは、傘がないとどうして「泊まる」になるんだ。…といつものボクなら言うところだが、今日はそんな気になれなかった。むしろ、ああそれもいいかも、と思ってしまう。急に人がいなくなって寂しくなった家の空間を、進藤の存在感で埋めようとしているのか。それはいつまでも続けられることではないけれど、せめて今日は。
「うん、いいよ。泊まっていくといい。いいでしょう、お母さん?」
「ええ、そうね」庭を見ていた母が視線を戻し、にっこりと笑った。
 その夜、なんとなく三人、客間で川の字になって寝た。

 次の日、進藤は家に戻った。
 その次の日、また来て泊まっていった。
 そうして結局、進藤はほぼ毎日のように家に来ては、二日おきくらいに泊まっていくようになっていた。
「いいのか?キミのうちでは何も言わないのか?」聞いてみたが、
「んー、『塔矢さんちに迷惑じゃないの、少しは遠慮したら』って言われるけど。大丈夫だからって言って来てる」
「それって暗に、キミにもう少し落ち着いて家に居てくれ、と言っているのでは…」
「直接そう言ってくるわけじゃねーもん。そこまでオレが気をまわしてやることないね」けろりとして言う。そしてボクの顔を覗き込み、「メーワクじゃねェんだろ?」
「ああ、もちろん。全然」むしろ助かっている。いろんな意味で。
「へへ、よかった」にこっと笑ってから進藤は、視線を前に戻した。
 今日は、手合いの日だ。どうせ行くところは一緒だからと進藤は、前日からうちに泊まり込み、朝、一緒に棋院へ向かっている。もう一ヶ月くらいこんな状態だ。
 棋院のエレベーターに乗り込み、大部屋のある六階で降りると、和谷くんが立っていた。彼は進藤と同期で同門だ。
「ちょっと、進藤」和谷くんが手招きをする。
「お前、塔矢んちに入り浸りなんだって?おばさん、心配してたぞ。どーいうつもりだよ」
「何、和谷に何か言ったの?うちのお母さん」
「お前んち電話かけたんだよ、ゆうべ。そしたらさ、おふくろさんが、塔矢んち行ったきり帰って来ないって。もう、どこんちの子だかわかんないって、オレに」
「えー、オレちゃんと帰ってるぜ。週にいっぺんは」
「…そりゃ自分ちじゃねーよ、すでに」
 やはりそうだろうな…。いつまでも進藤をあてにするわけにもいかないし、そろそろ考え直すべきかもしれない。でも、母が寂しがるだろうな、進藤が来なくなると。
 平日、ボクが学校に行っている間、進藤が母の茶飲み友だちのようになっていた。今春、中学を卒業したボクは、エスカレーター式の私立学校だったためそのまま高校に進学している。進藤は公立中学に通っていたが、進学は早くからしないと宣言していた。プロ棋士として囲碁に専念し、生活の総てを囲碁に捧げるのだそうだ。実はただ勉強が嫌いなだけ、とはまわりの誰もが知っているが、あえて言う者はいないし、言うまでもない。
 そういうわけで、日中ボクが家にいないかわりに進藤がいるようになっていた。とはいえ、進藤だって棋士としての仕事もあれば、研究会など碁の勉強もある。ボクと肩を並べ、棋界のホープのひとりと呼ばれるようになってきたこの頃では、むしろ暇なときの方が少ない。だから実際、そうしょっちゅうボクの家に居るわけではないのだが、仕事のないとき、身体が空いたときなど、母とお茶を飲んだり、うちでただゴロゴロしたりしていた。何も話さなくても、誰か居るだけで落ち着く、ということはあるものだ。母も友人は多々いるが、夫を亡くしたばかりの今、変に気を使われそうで、かえってそれが重荷になって会う気になれないと言っていた。ひとりで家に閉じこもりがちになってしまうところを、進藤が辛うじて救ってくれているような気がする。
「おまえまさか、」和谷くんの声のトーンが下がる。「塔矢んちにもぐりこんで乗っ取る気じゃねーだろーな?」
「ああ!?何だそれ」
「ほら、塔矢んちの資産狙ってさ、おっ母さんに取り入って警戒心をほぐしたところで、塔矢に一服盛ってさ。予め保険金なんかたんまり掛けといて、全部お前に譲るとか何とか遺言書書かして…」
「んなめんどくせーこと、誰がするかよ!資産なんてオレがこれからばんばんタイトル取ってがんがん貯め込めば、そのほうが早ぇじゃん。塔矢んちなんてメじゃねーよ」
「あのな、お前が取れるタイトルは塔矢も取れるんだぞ?塔矢だけじゃない、オレだって伊角さんだって、みんなが狙ってるんだ。お前が取る前に全部オレらがかっさらってやるってーの」
「うるせー!負けるもんか!」
 まぁがんばれよ、と和谷くんが笑う。ふくれっ面の進藤が、入口近くの席に着いていたボクの横を通った。ボクはまだくすくす笑っていた。
「知らなかったな。キミ、うちの資産を狙っていたんだ」
「興味ねーよ、そんなもん」アホか、と言いたげに進藤はボクを見下ろす。「オレは、オマエとずっと碁を打てれば、それでいいの」
「知ってるよ」
 ふん、と鼻を鳴らし、進藤が奥の席に行った。後ろ髪からのぞく耳が、少し赤かった。

 四十九日の法要の時も、進藤は水屋で働いていた。さすがに泊まり込みはしなかったが、押し掛けてきた親戚が帰ってしまうと、また頻繁に泊まるようになった。
 すぐに、法要前のペースに戻った。親御さんもすっかりこの状況に慣れて、もう何も言わないという。
 骨壺を置いていた仰々しい祭壇が取り払われ、すっかり元に戻った仏間を訪れ、進藤が線香をあげる。一緒についてきた母が、あたりを眺め回しながら、
「やっと、一段落ね」と呟いた。「お父さんがいないことには、まだちっとも慣れないのに」
「あたりまえさァ」進藤が向き直って言う。「いつも一緒にいた家族だもん。まだまだ、一年経ったって慣れたりしないよ、きっと」
ゆっくり、永い時間がかかるんだよ、と続ける。妙に実感がこもった様子で。遠くない過去に誰か近しい人を亡くしたのだろうか。訊いてみたが答えはなかった。
 進藤が我が家に居るのがあたりまえになるにつれ、我が家に進藤の私物がどんどん溜まっていった。意外なことに、彼はきれい好きで、自分の持ち物はちゃんと整頓し、決してうちのものと混ざることはなかった。
 考えてみたら、何度か行ったことのある彼の部屋は、それなりに小綺麗に片づいていた。きっとお母さんにうるさく言われているのだろう、と思っていたが、あながちそうでもなかったのかもしれない。
 どうも彼はどこかずぼらでだらしがないように、ボクも含めたまわりの人に思われている節があるが、そういえば何故そう思っているのだろう。実際に彼がずぼらだった部分は、よく考えたら見たことがない。無知故に行動が非常識なことと、手合いを確たる理由もなく三ヶ月もさぼり倒したことがあるくらいで。大人社会に慣れていないせいで礼儀に疎いのもマイナス要因だろう。あとは人徳のせいか、損なヤツだ。
 そんなことを考えながら学校へ行く支度を整えていると、部屋にひょっこり進藤が現れた。
「塔矢ァ、何か洗うものあるか?あるなら出しとけよ、洗濯するからさ」
「いや、ないよ。夕べのうちに洗濯かごに入れたから」
「パンツは?」
「今朝、いれた」
「ん、了解」
戸を閉めて去っていく足音を聞きながら、ボクははたと手が止まる。
 今、何て言った?洗濯?誰が?まさか…
「進藤ーっ!」
何だよ、と怪訝な顔で振り向く彼の腕を、がしっと捕らえる。
「キミが洗濯をするのか!?」
「おう」
「何故だ!」
「いつまでもおばさんにメーワクかけるわけ、いかないだろ。たまにはオレが洗うさ」
「下着まで…!」
「今までだって一緒に洗ってたじゃねーか」
「それは母が…」
「おばさんは良くて、何でオレがダメなんだよ。誰が洗ったっていいだろ」
良くない、何か根本的に違う!と言おうとしたが、
「おばさん任せで何もしないくせにエラソーなこと言うんじゃねぇよ」
と畳み込まれて、反論のきっかけを失くした。さらに、
「せっかくの洗濯日和にオレがやる気になってるんだ、水を差すな!」
と怒られると、ああこれも彼なりの気の使い方か止めちゃ悪いか、いやしかしそれとこれとは…などと迷いが出てしまい、戸惑っているうち、
「いいからさっさと学校行け!」
と放り出されてしまった。
 何か、凄くまずいことになった気がする。取り返しのつかない何かを失った気がする。
 そして学校から帰ると、さらなる追い打ちが待っていた。
 あのあと、まもなく芦原さんが仏壇を参りに来たという。進藤は庭で洗濯物を干していたそうだ。
「えらいねぇ、洗濯してるんだ。自分のだけ?」
「いや、塔矢のもあるよ」
ちょうど手にしていたパンツを振ったそうだ。
 きっと次の手合い、芦原さんはお昼を一緒に食べた人に話すだろう、アキラのパンツを進藤くんが洗っててさァ!と。何の悪気も下心もなく。芦原さんはそういう人だ。そして、次の週には棋院中にその話が広がっているのだ。ボクは今まで、そんな例をいくつも見てきた。先日は、緒方さんがグッピーにモー娘の名前をつけていることが暴露されていた。
 塔矢元名人のご子息は、自分でパンツも洗えないらしい。
 そんな風に言われてしまうのか。
 お父さん、お父さん、ボクはどうしたらいいのでしょう。何か見えない渦が足元をすくっていきます。
 …だが、実際に聞こえてきた噂は、ちょっとひねりが加わっていた。
 ライバルを呼びつけてパンツを洗わせる、さすが塔矢元名人のご子息!いや、失礼した、名人は関係ない、さすが塔矢アキラ!
 ボクはひとまず胸をなで下ろした。お父さんの名誉はとりあえず守られているようだ。
 手合い会場に向かってエレベーターを降りたボクと進藤を、和谷くんが待っていた。進藤を捕まえボクを無視し、彼はそのまま進藤に詰め寄った。
「どーいうつもりだよおまえ!いつのまに塔矢家の小間使いになったんだよ!森下先生にももう誤魔化しがきかねぇぞ!」
 人徳の差が、こういう時に出るのか。気の毒に、進藤。
 だが進藤は懲りた様子もなく、やっぱり元気に洗濯をする。ボクの下着は結局、進藤が洗うに任せている。
 実は、家の外ではともかく家の中ではボクは、決して几帳面とは言えない性格だったりする。
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