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塔矢家の事情(二)

 進藤は着実に、我が家でのハウスキーピングのレパートリーを増やしていった。
 ボクはといえば、もともと父と二人、家の中のことは全て母に任せきって碁を打ってばかりいたので、今更意識改革ができない。学業という、進藤が抱えなくていいシゴトを余計に抱え込んでいることも、そちらに向かう意欲をそいでいた。
 でも、進藤とて実家でそうそうお手伝いなどしていたようには思えない。聞いてみたら、やはり母親任せだったという。
「何故、それがこうなったんだ?」
「さあ」きぬさやのヘタ取りをしながら進藤は答える。「でも、もともと嫌いじゃないよ、こーいうこと。やる機会がなかっただけかな。だって家事とかってさ、お母さんのほうが絶対上手いじゃん。オレの出る幕、ねーもん」
「うちの母だって、下手だとは思わないが…」
「おばさんはおばさんでオレのお母さんじゃないんだから。居候のオレがだらだらしてるわけいかないよ。オレ、下手だからとか言ってられない」
 居候だという自覚があったらしい。
「進藤がこういうことにマメなタイプとは思わなかったな」うちに来てその様子を目の当たりにし、緒方さんが呟いた。「てっきりヒモタイプだと思っていたが…人は見かけによらない」
ヒモタイプはむしろアキラくんのほうだったか、と一人で納得している。どういう意味か、小一時間問いつめてみたい。
 おかげで母と進藤は、いよいよ仲良しさんだ。ボクと進藤、どちらが本当の親子か、わからなくなりかけている。最近では夕飯の買い出しはもちろん、ウィンドウショッピングも一緒に行くらしい。母の荷物持ちをしている進藤をまた芦原さんが見つけて、また手合いの昼食休憩時に仲間内に暴露する。次の週にはまた棋院中に広まっている、ひねりが加わって。ボクは今や、ライバルを顎でこき使っている無慈悲なプリンスなのだそうだ。だから、進藤とボクとの直接対決でボクが負けたりすると、やれ革命だ下克上だ、とやたら周りが盛り上がる。
「おまえ、塔矢に何か弱み握られてるんじゃねぇのか?つらいことがあったらオレに話してみろ!」
和谷くんの声にも、だんだん悲壮感が混じってくる。
「ん?ぜんぜん」
にこにこしながら進藤は返すが、それを信用していないことは、そのあとボクを睨んでくる和谷くんの目が語っている。
 そして、とうとう言われたくないひとことを聞くときが来た。
「惜しいよねぇ、進藤くんが女の子なら、アキラんちにお嫁さんに来てもらえるのに。嫁姑の仲も良いしねぇ」
 待て。その場合、夫は誰なんだ?ボクか?ボクなのか?
 ひと睨みで低段者なら縮み上がるというボクの眼光を、思い切り芦原さんに叩きつける。が、もちろんそんなものが彼に通用するはずもない。来週にはまた噂になるのだろう、塔矢アキラは進藤ヒカルをライバルではなくヨメにする気だ、とか何とか。
「誰がヨメだよ!ひでぇよ芦原さん!」これには進藤も怒った。そりゃあ怒るだろう、もっと言ってくれ。「塔矢がオレをヨメにするくらいなら、オレが塔矢をヨメにする!」
 …は?何でそうなる?
「負けねーからな、塔矢!」
びしっと進藤に指さされてしまい、反射的にボクも応えていた。
「ボクだって負ける気はない!勝負だ、進藤!」
 …お父さん、ボクの人生はどんどん曲がった方向に行っている気がします。
 果たして、次の週の噂は「塔矢と進藤、ヨメに取るか取られるか」になっていた。
 ボクは、進藤のご両親が囲碁界に無関心でよかった、と思った。

 ヨメに取ることも取られることもなく、年末が来た。
 進藤の両親は年末年始、祖父母と共に海外に行ってしまうとかで、新年早々仕事の入っている進藤自身は置いてきぼりを食らうことが決まっていた。
「なぁ、おまえンち行っていいだろ?」
「イヤだと言っても来るんだろう?」
「失礼だな。いくらオレだって、喪中の家にむりやり押し掛けたりしねぇよ」
彼なりに気は遣っているらしい。
 母と二人、寂しい年越しになるところだったので、進藤の申し出は大歓迎だった、特に母が。
 こたつのなかで紅白を見ながら、目の前に母と、父ではなく進藤が居るというのは何とも不思議だ。
 喪中なので、新年の訪問者もごく少ない。そのひとり、芦原さんは、進藤が居るのを見て、いよいよ決意を固めたんだね!とわけのわからないことを言っていた。傍で見ていた緒方さんがお茶を啜りながら、芦原さんに突っ込む。
「ちなみにおまえは、進藤とアキラくん、どっちがどっちのヨメになるほうを応援しているんだ?」
何でそんなことを聞くのだろう、この人は。
「別にどっちでもいいですけど…そうだなぁ、今のところおヨメさんにして役に立つのは進藤くんのほうですよね。アキラはヨメレベルが低すぎる」
「そっか!てことはオレ、勝っても負けてもいいことないんだ!」進藤はあからさまにショックを受けている。
「そういうことだな。勝ったら勝ったで、家事の出来ないヨメさんのかわりにパンツを洗い、負けたら負けたで、家事をしない亭主のためにパンツを洗う。残念だったな、進藤」
 …だんだん、何の話かわからなくなってきた。
「塔矢」真剣な表情で進藤がボクの手をとり、「家事を習得しろ」
「いやだ」進藤の頼みにはとりあえず逆らうことにしている。
「このままじゃ勝負にならねーだろ!」
「ボクの知ったことじゃない」
そこに芦原さんがのんびり割り込んだ。
「意外だなー。進藤くんなら、塔矢は家事なんかできなくていい、そこに居て碁を打つだけで!とか言いだすかと思ってたのに」
「そこに居て、か。まるで観用少女のようだな」
「またまた、緒方さんったら少女趣味なんだから。男としては、例えるなら今やアレでしょ、愛玩用の壊れた人型パソコン」
「ちょびっツなんか読んでたのか、芦原」
「それってつまり粗大ゴミじゃん!オレいらねーっ!この勝負ナシ!」
何だかよくわからないが、粗大ゴミに例えられたことだけはわかった。
「ふざけるなっ!誰が粗大ゴミだ!」
「あらあら、何の騒ぎ?」みかんを持った母が、襖を開けて入ってくる。
「進藤に、粗大ゴミ呼ばわりされたんです」
「違うの?」
 ………お母さん、あんまりです。
 翌日、ボクは生まれて初めて洗濯機を回した。
 それを知った芦原さんがどんな噂を広めたかは知らないが、翌々週の手合い日、棋院のエレベーターを降りたボクと進藤を、和谷くんのこぼれるような笑みが迎えた。
「進藤!おまえ、塔矢にパンツ洗わせたんだって!?」
 その日、とても虫の居所の悪かったボクは、午前中で中押し勝ちした。

 母はもともと、そんなに家事が好きなわけではないらしい。
 最近、だんだんそれがわかってきた。
 トップ棋士として活躍する父の妻として、家を完璧に取り仕切ることを自分の仕事と決めていただけで、好きかどうかはまた別問題だったようだ。
 父がいなくなってしばらくは、父の生前同様こまめに家の中の雑事を行っていた母だが(もっともそれは、何か体を動かしていないと心のバランスが保てないという事情もあったと思う)、気がつくとだんだん手を抜いてきているのがわかった。ぱっと見にはわからないが、掃除の間隔が長くなるとか、店屋物や出来合いの総菜が食卓にのる回数が増えるとか。進藤が母を手伝うようになって、その傾向は加速した。それにボクが加わって母の家事の絶対量がさらに減り、今や微妙にローテーションまで組まさっている。
「やっぱりねぇ、息子に家事を押しつけるのはね、世間の目もあるし、やりにくいわ」母が茶飲み話で言ったことがある。「進藤くんが居てくれて良かった。じゃないと、きっと一生アキラさんにお洗濯をさせることなんて出来なかったと思うわ」
 その進藤は、この頃実家に戻るのが月に一度くらいになっている。
「家に帰ったって誰も居ねーんだよ。お母さんはカルチャースクールにはまって、毎日どっか出かけてるしさ。下手すっと、家事全部押しつけてくんだぜ、かなわねーよ。んなとこ戻るくらいなら、ここに居ておまえと碁を打ってるほうが、なんぼか楽しいって」
 ボクのうちで家事を手伝うことは何とも思わないんだろうか。
 そんなだから、芦原さんに未だに言われるのだ。
「だからァ!進藤くん、さっさとアキラんちに入っちゃえばいいんだって!そして名字が変わって『塔矢ヒカル』になって…うん、なかなかイイね!」
「進藤は男なんですよ。しかもひとりっ子の一人息子。わかってますか、芦原さん?」
「え?アキラ、反対なの?困ったなぁ…『進藤アキラ』になりたいんだ?」
 やめてくれ。そうじゃないだろう!
 思わず額に青筋が浮んでしまうが、芦原さんは全く意に介した様子がない。
「でもあれだね、たとえアキラのほうが進藤くんに嫁いでも、きっと進藤くんが入り婿になってやっぱり『塔矢ヒカル』だよね!」
 どうしてもそこに持っていきたいのか。このぶんだと、和谷くんに「進藤!おまえってヤツは…友だちだと思ってたのに!」と罵られた上に、「ばかやろーっ!」と泣きながら夕日の彼方へ走って行かれる日も遠くないかもしれない。ボクの知ったことではないが。
 そんな姦しい毎日の中で、一周忌が巡ってきた。
 父が亡くなって一年。「もう」一年なのか「まだ」一年なのかは微妙だ。ただ、一年前はこんな気持ちでこの日を迎えられるとは思わなかった。いろんな意味で。
「なんとか暮らしていけるもんだよな。先生が居なくなっても…一時はどーなっちゃうんだろうとか思ってもさ」こんなときばかりは滅多に見せない神妙な顔をして、進藤がポツリと言う。「あとは時間が解決してくれるよな。だんだん、居ないことが納得できるようになるんだ」
 納得…か。キミが目の前にあたりまえのように居ることがいちばん納得できていない、と思ってからあわてて進藤の言葉に思いを馳せた。
 まるで自分に言い聞かせているみたいに言うんだな。
 やっぱり誰か近しい人を進藤も亡くしたのかもしれない、そう遠くない過去に。うちにずっと入り浸っているのも、案外そうすることで彼自身、知らず知らず心を癒していたのかもしれない。
「おばさんもだいぶ元気になって、良かったよな。笑顔が増えた」
「うん」
「おまえもな」
 …そうなのか?自覚はなかったが。と言うか、見ていたのか、キミは…?
「あーぁ、オレもいつまでもここに居座ってるわけいかねーよなァ」
「え?進藤くん、帰っちゃうの?」
母がひょっこり現れて、目を丸くした。
 帰っちゃうの、って、お母さん…。進藤はもともと他所の家の子であってですね…。
 進藤も固まっている。母にじっと見つめられて。
 母の眼光は、父やボクのように鋭くはないが、妙に説得力があると評判だ。さすが塔矢名人のご内儀、としばしば言われていたのを聞いたことがある。
「…か、帰らなくていいのか…な?」
「いいわよ?」
 進藤が我が家に居座って、2年目に突入した。
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