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塔矢家の事情(三)

 その話が飛び出したのは、芦原さんの口からだった。
 緒方さんと芦原さん、ボクに進藤という面子による食事の席だ。
「なぁアキラ。明子さんに再婚話ってないの?」
 びっくりした。
「さぁ…まだ何も」
今まで考えたことがなかった。母の再婚…つまり、父ではない、別の男性と一緒になってしまうこと。何か落ち着かない。
「明子さん、若くて綺麗だからな。ずっと未亡人なのはもったいない」
「そういう緒方さんはどうなんですか?未だ独り身なんだし、この際プロポーズしちゃうとか」
「芦原」
「みんな知ってますよ、緒方さんの理想が塔矢先生ご夫妻で、明子さんのような大和撫子を妻に迎えようと心に誓っていること」
 ボクもどこからか聞いたことがある。
 緒方さんは怖い目で芦原さんを睨んでいたが、ふと視線を外すと、お茶を啜って呟いた。
「だめなんだよ、俺では」
「そーだよなァ。ここで塔矢のお母さんと結婚したら、実は師匠に一服盛ったんじゃないかって思われるよなァ、緒方先生なら」
「進藤」
「冗談だよ」
だが、ほんとうにそんな噂が流れかねないであろうことは、誰もが言わずとも思っているに違いない。
「まぁ…いろいろ背負っているものがありますからね、母も、緒方さんも。一緒になるのは無理でしょう」
とりあえず緒方さんをお父さんとは呼びたくないボクは、きっちり釘を刺しておくことにした。
「芦原さんはどう?なァ、塔矢」言って進藤がボクの顔を覗き込んだ。
「どう、って…?」
「再婚相手」
「人ごとだと思ってキミは…」
 芦原さんを父と呼べと言うのか。
「だって、おばさん、いつまでもひとりじゃ気の毒だろうしさ。若くて明るいボーイフレンドなんて出来たら、きっと楽しいと思うんだ」
「進藤くん!」芦原さんが大声で制する。いくら芦原さんだって、今の進藤の発言は非常識だと思うだろう、そうだろう。「だめだよ、『おばさん』だなんて!明子さん、気分が老け込んじゃうじゃないか!キミ、ずっとそう呼んでたの?」
 芦原さん…ボクが着目して欲しいのは、そこじゃなくてですね…。
「だって、トモダチのお母さんだよ。『おばさん』じゃん!ほかに何て呼ぶのさ!」
「ああもう!気が利かないなぁキミは!」
芦原さんに言われたくないと思うよ、進藤も。
「よし、今日からキミも『明子さん』と呼ぶんだ。俺が許可する」
「芦原さんが許可することじゃないでしょう」
「アキラは黙ってろ」
「てゆうか芦原さん、塔矢門下の人って師匠の奥さんのこと名前で呼んでンの?変だよそれ」
変だったのか。生まれた時からそうだったので、気にしたことがなかった。
「じゃあ進藤、キミは森下先生の奥さんをどう呼んでいるんだ?」
「ん?『先生の奥さん』」
「芸がないなぁ」芦原さんが大袈裟にため息をつく。
「芸?」門下の人たちは「芸」で母を「明子さん」と呼んでいるのか。
「そこで悩むなよ、アキラくん」緒方さんが割って入る。「いつのまにか、なんとなく『明子さん』になっただけだ。それこそ、その森下先生あたりが最初に『明子さん』と呼んでいたのが皆にうつった、ってとこなんだからな」
 父と、進藤の師匠である森下先生とは旧知の間柄だ。
「なぁんだ、言い出しっぺが森下先生なら、オレが『明子さん』って呼んだって全然オッケーじゃん!」
 違うだろう、進藤!何が全然オッケーなんだ!
「オッケーオッケー!もう、進藤くんならいっそ『お母さん』でもいいよね!」
 あ、芦原さん?
「だが、『明子さん』のほうが、呼び方としてはお洒落だな」
 緒方さん!芦原さんへの突っ込みはナシですかっ!
「いとこの姉ちゃんがさ、母親のこと名前で呼ぶんだよな。『お母さん』って呼ぶのが照れる、って言うんだけど、何かトモダチみたいでいいなって思ってたんだ。『明子さん』っていいなァ!オレ、そう呼ぶ!」
 それも違うだろう、進藤!キミのいとこの話と今の状況は全く別だ!気がつかないのか、キミは!
「勝手に決めるな!」ボクは怒鳴っていた。
「勝手になんか決めねーよ?帰ったらちゃんと明子さんに聞くもん」進藤が胸を張る。
 すでに『明子さん』だ。順応が早すぎる。
 それにしても…『帰ったら』か。
 一年も居候していれば、いつも居るところが『帰る』ところになるだろう。それは無理もないと思う。が…あまりにナチュラルに出たそれに突然気付いてしまって、ボクは戸惑う。
 …キミにとってすでに塔矢の家は「帰る」ところだったんだ。
 母の呼び方なんて本当はどうでもいいのかもしれない。
 ただ、こうして進藤がどんどんボクの生活領域に入りこんでくることに、この頃いっそう抵抗を感じてしまう。
 だって進藤は、余所の家の人間なんだ。ずっとうちに居るわけじゃない。いつかは自分の居場所に戻っていく。そのとき、ボクは一体どうしたらいいのか。深く受け入れれば受け入れるほど、失くした時の喪失感は大きい。父という、とてつもなく大きな存在を失くしてまだ一年しか経たないボクに、新たな喪失感を受け止める余裕などあるわけがない。
 進藤は何を考えているのか。こんなにボクの生活を掻き回すことに対して。
 …何も考えていないな、たぶん。
 母も…あまり深刻には考えていないだろう。今は楽しければいい、困ったことは起こってから考えようくらいにしか思っていないに違いない。昔から、妙に達観したところのあるひとだ。その懐の広さで今まで父やボクを支えてきた。
 あれこれ思い悩んでいるのはボクくらいか。
 進藤は何も気にとめた様子もなく、家の門の前に着くと、ボクを置いてさっさと玄関に上がり込む。
「おばさーん!あのさァ、オレもおばさんのこと、『明子さん』って呼んでいい?芦原さんに、おばさんって言うなって怒られちゃってさ。オレも、明子さんって言うほうが仲良しさんみたいでいいなァって」
 ストレートだなぁ…。
 進藤はたいてい直球だ。空気を察して変化球で来るときもあるにはあるが、直球が効果的な場面では直球をはずさない。たまに変化球の欲しいときも直球で来ることがあり、周りを混乱させる一因になっている。
「あら、嬉しいわ!進藤くんに『明子さん』なんて呼ばれたら、なんだか若くなった気分になっちゃう」
母の顔がぱっと輝いた。その様子から、その言葉が本心であることが伺える。進藤の天然さに付きあってやっているわけではない。
 そして次の瞬間、母の、ボクの予想を上回る天然ぶりが炸裂した。
「じゃあ私も、『ヒカルくん』って呼んじゃおうかな」
「いい!それ!そうしてよ!」
「ヒカルくん!」
「明子さん!」
 このふたり…ひょっとして根はかなり同レベルの天然なのだろうか。
「あの…お母さん…」
「何?アキラさん」
「ボクはアキラ『さん』なんですよね?」
「そうよ」
「進藤は…」
「ヒカルくん!」
感嘆符の隣に微妙にハートマークが見えたのは気のせいか。母って、こういう人だったか。
「不満なの?アキラさん、反対?」
「そうじゃないよな?塔矢も何かお洒落な呼び方が欲しいんだよな?なんか、仲間外れみたいでヤなんだろ」
「い、いや、そういうわけでは…」
「アキラくん!か?」
背筋が粟立った。
「いやだ!キミにそう呼ばれたくない!」
「うん、オレも呼びたくねーや」
「私もねぇ…」母が思案げに言う。「『アキラさん』ってもう『さん』まで付けて固有名詞みたいな気がして、今更変えろって言われてもねぇ」
 …それもあんまりなのでは、お母さん…。
「よし、じゃあ今までどおりおまえは『アキラさん』な!そんでオレが『ヒカルくん』で、『明子さん』、と」
指をさしながら、満足そうに進藤がうなづいた。
「あ、おまえとオレは『塔矢』と『進藤』な」
「当然だ」
アキラくんとヒカルくんだけはごめんだ。二人でそう呼びあって、並んで棋院に入っていく図をつい想像してしまい、寒気がした。きっと対局場は氷点下になるだろう。和谷くんなど卒倒するかもしれない。
 それにしても、だんだん妙な位置関係になっていく。
 ボクと母と進藤。
 父はどう思うだろう、聞けるものなら聞いてみたいと思う。

 芦原さんが広めたのか、そういう話の好きな人が多いのか、母の周りを再婚話が飛び交うようになってきた。世間的には、一周忌が過ぎたのでもう解禁、ということらしい。
 お節介…いや、世話好きな母の友人たちが、焼香と言いつついろいろな話を持って我が家を訪れる。が、幸いにも当の母にまったくその気がないらしい。
「そりゃそうさァ、先生の奥さんやってたんだからな。そんじょそこらのオヤジじゃお話にならねーって」
我がことのように進藤が言う。それにはボクも同意だ。
「まァ、そんじょそこらのオヤジたちにしてみても、おまえみたいな息子がもれなくついてくるんじゃあ、気分も盛り上がらねーだろーけどな」
 ボクのせいだとでも言いたいのか、母の再婚話がまとまらないのは。失礼な。
 これでも、もし母に意中の人が出来たなら、潔く独立するつもりではある。母は塔矢の籍を抜けるだろうから、そのあと塔矢の家を守っていくのはボクしかいない。
「お。そろそろお茶が切れる頃かな」時間を見計らって進藤が茶の間の席を立った。
 客間には今、母の友人が来ている。例によって、「いい話」とやらを持って。そこに持っていくために進藤は、新たにお茶の用意をした。ボクが持っていこう、と手を出したが、いいからおまえは座ってろよ、と押しとどめられ、そのまま進藤に任せてしまった。
 それがおかしな事態に発展してしまった。
 戻ってきた進藤が難しい顔をしている。
「何かあったのか?」
「うん…まぁ…」進藤が視線をさまよわせる。「明子さんの…カレシに間違えられた」
 はあ!?
 ちょっと待て。それはいくらなんでも失礼だろう、…母に。
「どなた?って聞かれて明子さんが、息子のお友だちです、って答えたまでは良かったんだけど。お友だちが何故お茶をお持ちになるの?とかなんとか聞くから、実はうちに下宿なさっているの、家族同然なのよ、か何か答えて、そしたら、まあ!こんな若い男の子がそばにいるのならこんなおじさんの写真なんか持ってきたってだめよねぇ、とか勝手に盛り上がっちゃって、どうして言ってくれないの、こんないいコがいるって!…って。何か完結されてしまった」
 目眩がする。ボクは思わず怒鳴っていた。
「だからボクが行こうって言ったんじゃないか!」
「だって、今までそんな勘ぐりする奴、いなかったし!」
「これからはボクがお茶を運ぶ!キミは手を出すな!いいな!」
「オレ、いいと思ってやったのに〜」
 進藤は座卓に突っ伏して呻いている。
 ちょっとかわいそうだが、仕方がない。
 そんな進藤を、友人を見送って茶の間に戻ってきた母がなだめる。
「ごめんね、ヒカルくんに不愉快な思いさせちゃって」
「オレより明子さんだよ、オレがのこのこ出てったばっかりに、ごめんなさい。塔矢にも今、怒られた」
「怒られた?アキラさんに?」
 母がちらりとこちらを睨んだ。見た、じゃない。睨んだ、確実に。
「もうしないから。これからは全部、塔矢にやってもらうから」
言いつのる進藤は泪目だ。
「そうねぇ、この先またいつヒカルくんに迷惑がかからないとも限らないものねぇ」
「オレはいいんだよ。明子さん不名誉じゃん、オレなんかと勘ぐられたらさ」
「あら、そんなことないわよ。ヒカルくんなら大歓迎だわ」
 …何か、怪しげな方向に話が行ってないか?
「あぁそうだわ、考えてみたらヒカルくんも他所様のおうちの男性じゃないの。一つ屋根の下に暮らしているのは、これはひょっとしていけないことなのかしら、アキラさん」
って、どうしてそこでボクに振るんですか!!
「いけないも何も」努めて平静にボクは答える。「進藤相手に何をどうすると言うんです。進藤ですよ、進藤。何か感じますか?」
「そうね…」しばらく母は考え込んだ。
 って、お母さん!考え込む問題なんですか、それは!即決即答で全然、何も、ナッシングじゃないんですかっ?
 気のせいだろうか、頭にどんどん血が集まってぎゅうぎゅういっているように感じる。
 当の進藤は、じっと母の出方を伺っている。
「ほんとうにヒカルくんがカレシだったら、楽しいわね」
 …お母さん!冗談でもそういうことを言うのはやめて下さい!
「あ、オレ、来年の誕生日来たら結婚できるよ!」
 進藤!キミは黙ってろ!
「なに、何の話?」
そこにひょいと芦原さんが顔を出した。…え?芦原さん??
「何でいるんですか、芦原さん!」
「何度もチャイム鳴らしたし、声もかけたんだけどなぁ。チャイム、壊れてない?不用心だよ?」
それより、と芦原さんは持ってきたケーキの箱を座卓に置き、その前に陣取った。
「何か面白そうな話、してたじゃないか。何?明子さんが進藤くんとおつきあいするって?」
小さくはないがあまり大きくもない芦原さんの目が倍ぐらいに見開かれ、きらきらしている。
 母はにっこり笑い、
「そうなの!ね、どう?お似合い?」
ノリノリで進藤の腕を取った。
 そうやってふたり寄り添う様は、どちらかというと仲良しの女子高生といった雰囲気だ。
 しかし、芦原さんはあおるのだ。
「すっごいお似合い!すてきなカップルですよ!」
「やったー!」
 母と進藤は手を取り合って喜んでいる。無邪気なものだ。無邪気すぎる。
 芦原さんがにこにこしてケーキの箱を開け始めた。
「なんだ、心配しなくてもちゃんといたんじゃないですか、身近に。いやぁよかったよかった、なぁアキラ」
 ボクは呆けていて一瞬、反応が遅れた。その合間に芦原さんはさらに強烈な一撃を加える。
「そーかぁ、進藤くんがアキラのお父さんになるのかぁ」
 …………… 何だって?
 その瞬間、ボクの視界は色を失った。全てのものが光量を増し、光の中に溶けていく。
 そしてボクの頭には一つの言葉だけがぐるぐる回っていた。
 進藤がお父さん。
 進藤がお父さん、進藤がお父さん、進藤がお父さん、お父さんが進藤、………。
 何だこれは。こういうことだったのか。こういう結末が待っていたのか。
 何故、進藤がこんなに塔矢の家に関わりを持ってくるのか、疑問だった。何故ボクの人生にこれほど深く介入してくるのか。母に気に入られ、父が居た時には父にも目を掛けられ、そのずっと以前にはボクと衝撃の出会いをし、追いかけ追いかけられ…。
 全てはこの瞬間のためにあったのか。
 彼は、…進藤は、ボクのライバルではなく、父となるよう運命づけられていたのか。数々の因縁も、その準備に過ぎなかったというわけか。
 ばかな。
 認めない。絶対に認めない。
 例えば緒方さんと進藤、どちらかを父に迎えなくてはいけないとしたら、緒方さんよりは進藤のほうがましかもしれないと思ってしまいそうだけど。そうじゃなくて。
 進藤はライバルなんだ。ボクのライバルなんだ。お父さんになっちゃだめだ。居候でもいいけど、お父さんはだめだ。
 お母さん、ボクのライバルをとらないでください。…いや、この場合は進藤に、母をとるなと言うべきなんだろうか。
 わからない。もう何が何だか。
 助けて下さい、お父さん。このままでは塔矢家はおしまいです。
 いろんな意味で、おしまいなんです。
─ continued. ─■■

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