21st Cherry Boy






「ここでハネるのはちょっと厳しくないか?」
「でも、この後こっちから来たら……こうだろ。で、こう。」
「うーん、でもこの場合は……」
 碁盤を囲んでうんうん頷き合い、時に神妙な顔つきで碁石を並べる若者二人。
 周囲は初老に差し掛かった男性ばかりなので浮いた存在かと思いきや、碁会所の奥を陣取る彼らの姿はごく自然だった。
 時折碁会所の客らがそんな彼らにちらりと視線を寄越し、まるで孫でも見守るような穏やかな目で微笑む。
「だから、中央を突っ切ってこっちに広げたほうが絶対後半強いって!」
「途中こっちを囲まれたらどうする!? ここら一帯でシノげると思ってるのか!」
 雰囲気一転、怒鳴り声にすら誰も驚かず、寧ろ微笑ましく眺めているフシがある。勿論遠巻きにではあるのだが。
「いやあ、進藤くん戻ってきたねぇ」
 碁会所の自動ドアが開き、額の汗を拭きながら常連客の一人である広瀬がやってきた。ぎゃんぎゃん怒鳴り合う二人を半ば呆れ顔で見ていた受付嬢市河は、馴染みの客にいらっしゃい、と笑顔を見せる。
「ええ、たまにだけど、最近やっと顔見せてくれるようになって。さっきまで多面打ちもやってたのよ」
「そうなんだ。参加したかったなあ」
 広瀬は受付で名前を書きながら、忙しなく汗を拭く。
 今日は六月だというのに真夏なみの暑さで、テレビのニュースでは噴水で遊ぶ子供の姿が報道されていた。
 強い日差しに照らされたアスファルトはじりじりと焼け、湿った空気が着込んでいる服に纏わりついて全身が重くなる。碁会所の中は冷房がきいて涼しいが、広瀬の汗はすぐには引かないようだった。
「でも、若先生良かったねぇ。やっぱり元気なかったもんね、進藤くんが来なかった間」
「そうなのよね。前に、ケンカでもしたのって聞いてみたことあったんだけど、すっごい暗い顔して「ケンカなんかしてません……」って。この世の終わりみたいな感じだったのよ」
 アキラの顔真似をする市河を見て、広瀬は吹き出すように笑った。
「なんだかんだで仲いいんだ、あの二人は」
「そうよ。ホントは仲良しなの。アキラくん、同じ年頃の友達って今までいなかったから、進藤くんのこと大切なのね、きっと」
 怒鳴り声がやむ。どうやら彼らの中で納得した道筋ができたらしい、再び頷き合って碁石並べを再開している。
「若先生は大人びてるからねぇ」
「……それが悪かったのかも」
「ん?」
「私たちが、アキラくんを必要以上に大人扱いしていたから……」
「……それは、……そうかもしれないねぇ」
 市河と広瀬の視線の先で、碁盤に向かい合うアキラとヒカルは何事か小声で話し、そして微笑みを交わしていた。
 さっきまで怒鳴り合っていたのにねぇ。広瀬の呆れた口調に市河は笑い、さあ対局対局と広瀬を送り出す。
 暑い日だった。




「あーあ、結局お前に二連敗かあ」
 ヒカルはうーんと両手を空に掲げて身体を伸ばしながら、ゆっくりとした足取りでオレンジ色の世界を歩く。
 日暮時、美しい夕焼けが空を覆い、ヒカルの影は両手が伸びてぐんと長く尾を引いた。
 隣を同じ歩調で歩いていたアキラは軽く笑い、
「そう簡単に負けていられないよ」
 なんて自信に満ちた視線を投げて寄越した。
 ヒカルは不満げに口唇を小さく尖らせ、近くに転がっていた石ころを蹴っ飛ばす。
 並んで帰る夕暮れの道。
 こうしてお互い満足するまで時間をとって、碁会所で打つことができたのは二週間ぶりだった。珍しくどちらの予定も空いていた午後。その貴重な時間を、碁が占めてしまったのが自分たちらしい、とヒカルは微笑を浮かべる。
 最近は忙しく、特にアキラは地方出張や雑誌の取材なども多く入ってきていて、なかなか二人だけの時間がとれなかった。
 彼に比べれば、ヒカルはまだ森下の研究会に行ったり和谷や伊角らと碁会所に行く暇はあったものの、決して手持ち無沙汰ではなかった。二人の空き時間を合わせることは容易ではない。
 だから、並んで歩くだけの時間がこんなに大切に感じる。
 歩幅が妙に狭いのは気のせいではないだろう。
 明日もお互い仕事がある。このまま帰らなくてはならない。ヒカルは棋院で手合いだが、アキラは岡山だ。また二日、逢えない。
 地上にぽっかり口を開ける地下鉄の駅を見つけて、ヒカルはため息をついた。もう着いてしまった。
 ここで、さよなら。まだ、ろくな話もしていなかったのに。
「進藤」
「ん……?」
「電話、するよ」
 ヒカルの寂しさを見透かすような黒い瞳で、アキラは優しくヒカルに微笑んだ。
 少し頬を赤らめたヒカルは、照れ隠しに目を逸らし、そんな時間あんのかよ、と悪態をつく。
 こういうとき、自分は本当に素直じゃない、と今まで何度も思ったことをうんざりするほど思い知らされる。アキラが根気強い人でなければ、始まる前から終わっていたかもしれない関係だ。
 キスしてほしいとヒカルは思った。人目を忍ぶ関係。こんな往来で、キスどころか手も繋げやしないのに。
「進藤?」
「……電話、待ってる」
 ようやくはにかんだ笑顔を見せたヒカルにアキラは安心したのか、勿論、と極上の笑みで応えてくれた。
 その夕日に照らされた笑顔がキレイで、ヒカルは見惚れ、そして切なくなる。
 あれから一ヶ月。



 ***



「な、なんだこれ……」
 広げると頭ごとすっぽり覆われそうな雑誌を顔の上に掲げ、ヒカルは自室の床に仰向けに転がって身悶えていた。
 雑誌の表紙ではスタイリッシュな女性がカメラ目線でポーズをとっている。いわゆる女性向けのファッション誌だった。
 その中のとある一ページを開いたまま、ヒカルはあーとかうーとか呻き声を上げて先ほどからごろごろ転がっている。ほんのり赤らんだ頬と、どこかぼんやりした目を見るからに、見惚れている、という表現がぴったりくるようだ。
 ――アキラが雑誌に載っている、という話は今日棋院で聞いたばかりだった。
 確か、和谷が地方出張に行った際にその土地で発行しているフリーペーパーの取材を受けた、という話がきっかけだった気がする。
 写真まで撮られたんだぜ、と得意げな和谷に、冴木がアキラの話をし始めたのだ。
『フリーペーパーぐらいで自慢してるようじゃまだまだだな。塔矢の載った雑誌見たか? あれ、凄いぞ。芸能人並の扱いだぜ』
 突然出てきたアキラの名前にヒカルの心臓は跳ね上がる。
『雑誌って、どんなの?』
『OL向けのファッション誌だよ。取材の内容自体はほんのちょっとだったけど、写真が凄いんだ。芦原さんが持ってたのを見せてもらったんだが、あれ見てあいつが地味な碁打ちだって思う女はいないと思うぜ』
『冴木さんだって充分イケると思うけどなあ』
『奢ってもらおうったってそうはいかないぞ、和谷』
 ヒカルはそんな二人のやりとりをぽかんと呆けた顔で見ていた。
 アキラが雑誌の取材をいくつか受けたという話は聞いていたが、そんな芸能人みたいに写真まで載っているなんて知らなかった。
 ――見たい。
 ヒカルは思わず冴木にその雑誌の名前を詳しく尋ねていた。
 本屋で見つけたその雑誌はまさに女性が並んで立ち読みしている間にあって、ヒカルは耳まで赤くなりながら、平積みされた一番上の雑誌を奪うように取り、レジでは終始俯きながら会計を済ませた。さながら如何わしい本を購入する中学生のようである。
 ドキドキしながら帰宅し、いざ開いた時に予想以上のインパクトを食らって、まさに今ヒカルは悶絶していた。
 写真は二枚。一枚目は取材中の風景らしく、組んだ両手を前に差し出してテーブルに肘をつき、穏やかな表情で何事か話しているような写真だ。その下にインタビュー内容が綴られ、棋士としての生活についてなど当たり障りのない文章が会話形式で並んでいる。
 撮影を意識させられたのか、シンプルな白いシャツのボタンはいつもより下まで外されて、すっきりした肩甲骨のラインが頭を覗かせている。それだけでもくらっと魅せられてしまうのに、二枚目のアップ写真はそれ以上にヒカルを刺激した。
 まるで目の前で彼が微笑んでいるような、肩から上のアップ。ファインダーをしっかり捕らえた眼差しは僅かに細められ、黒目にかかる睫毛が美しく揃っている。
 微かに両端を吊り上げた形の良い口唇にはリップクリームでも塗られたのだろうか、普段にはない艶があり、妙な色気を感じる。優しげでありながら芯の強さを隠さない。ヒカルはその表情に完全にノックダウンした。
「か……カッコいい……」
 無意識に飛び出た自分の台詞があまりに情けなく、ヒカルはひたすら転がった。
 冴木が男も女も迷いそうだ、と言っていた意味が分かる。早速ここに迷いまくっている人間がひとり。
「写真映りいーんだなあ……」
 写真を見ているとアキラがこちらを見つめ返しているようで、たまらなく恥ずかしい。そして、この雑誌を手にしているたくさんの女性が同じようなことを想像すると思うと、なんだか悔しい。
 アキラに想いを伝えたあの日から、すでに一ヶ月が経過していた。
 「お付き合いしましょう」「はい、分かりました」なんてやりとりこそなかったが、今の自分たちの関係は恐らく恋人同士で合っていると思うのだ。
 抱き合って、キスして。初めての夜こそ自分が眠りこけたせいで失敗してしまったものの、酷く幸せな目覚めだったあの朝から一ヶ月。
 何か進展があったかと言えば、……特に何もなかった。
 ヒカルはがばっと身体を起こし、雑誌を脇に置いてため息をつく。
 お互い実家暮らしの身の上、そうそう二人だけになれる場所も時間もない。アキラは半一人暮らし状態ではあるが、当の本人が忙しすぎて会う間もままならず、会ったら会ったで今日のように碁を打ってしまう自分たちである。
 しかし、その時間も幸せに思っているのだから自分の青臭さが照れ臭い。
(ホント俺やばすぎだよなあ)
 ぼけっと壁を見つめてみても、浮かんでくるアキラの顔。
 まさに「恋しちゃってる自分」の姿が分かりやすすぎて恥ずかしい。
(こんな胸キュンキュンさせちゃうのって絶対ヤバイだろ)
 気持ちに気づくまでは抱き締められようがキスされようが平然としていたくせに、自覚した途端にこれである。なんと自分はおめでたくできているのだろう。
 しかもアキラと離れているときほど、この傾向は如実に表れる。今なら、何故自分がアキラの幻を作り出したか社に言われずともよく分かる。
「あー、俺って恥ずかしすぎる〜!」
 床に突っ伏し、投げ出した手足をばたばたさせて階下の母親に怒鳴られる。
 思春期の少女のようだ。――社もよく言ったものだ。
 ヒカルだってまさか自分がここまでアキラのことでいっぱいになってしまうなんて思わなかった。
 ――マジでベタ惚れ状態だ。
 会えない時間が長いからこそ、余計に。
 ヒカルは身体をごろりと仰向けに転がし、天井を見つめた。
 アキラに想いを伝えた翌日、ヒカルは朝一番で出かけたヒカルは秀英の待つ碁会所へ向かった。
 秀英は北斗杯での一局にやはり納得がいっていないことをヒカルに話し、改めて行った真剣勝負ではヒカルが三目半で勝利した。
 負けて悔しいと言いながらも、どこか満足げだった秀英の表情が忘れられない。
 そして、碁会所にはアキラの予想通り高永夏もいた。
 ヒカルは彼とも打ち、そうして再び半目で破れた。
 この半目が今のヒカルと高永夏の、そしてヒカルとアキラの絶対的な差なのだと思い知らされた。
『来年はがっかりさせるなよ』
 高永夏の不適な笑みは、まだヒカルを見放してはいないことを暗に知らせてくれているようだった。
 迷い苦しんだ五ヶ月間を単純に無駄にしないためにも、自分は全力で彼らの元まで追いつかねばならない――そしてその五ヶ月の間、自分を待っていてくれたアキラの想いに応えるためにも。
「だから、こんなふにゃふにゃしてちゃダメなんだってば。」
 言い聞かせるように独り言を呟き、よしっと腹に気合を入れたヒカルは、バネのようにぴょんと上半身を起こした。
 危惧していた通り、北斗杯以降の自分の評価は格段に下がっている。取り戻すのは容易ではない。
 ――精進あるのみ。
 ヒカルは碁盤を部屋の中央に運び、棋譜並べをするべく、とっておきの一局を選んだ。
 先月行われた北斗杯の日韓大将戦。高永夏の巧みな打ち回しと深い読み、そしてアキラの攻撃的で大胆な打ち筋と粘り強さ。最高の一局は、何度並べてもヒカルに新しい発見をもたらしてくれる。
 先番アキラの黒石を持とうとして、ヒカルはふと盤上を睨むアキラの冴えた眼差しを思い出す。
「……」
 ――もう一回だけ写真見てからにしよう。
 恋心とはなんとも厄介なものである。







こんな話に8話も使っていいのか悩むくらいバカ話です。
ヒカルダメダメすぎだろ……。
この後もっとダメダメなアキラさんが出てきますので
カッコいいアキラさんを期待されませんよう……アワワ。