「あーもう、完敗だ完敗!」 棋院を出るなり大声で喚き始めた和谷に、隣を歩くヒカルは驚きつつも苦笑する。 「お前ホント調子戻ったな。あそこでツケてくるのは読めなかったぜ」 悔しそうな和谷だが、反面どこか嬉しそうでもある。 本日の対局相手だった和谷に中押しで勝利したヒカルは、自分でも好調さを実感していた。 じっくり検討したいという和谷の誘いで、別室ではなくこのまま和谷宅に向かうことにした二人は、暑い日差しが傾く道を駅に向かって歩いていた。 「お前もさ、今の状態で北斗杯出てたら秀英にだって勝てたと思うぜ。あん時はホントお前らしくなかったもんなあ」 「んー……なんつーか、気負いすぎたのかも」 「しっかりしろよ。波をデカい対局に合わせるのもプロの仕事だぜ」 ヒカルは笑ってごまかした。本当は笑うなんて不謹慎だと分かっていたが、他に何も言えなくなってしまったのだ。 社に破れて北斗杯に出場できなかった和谷は、当日も会場まで足を運んで対局を観戦していたらしい。和谷や越智や、彼らに敗れた棋士たちを背負ってヒカルは代表に選ばれた。そんな彼らの前で、惨めな碁を打った自分の不甲斐なさに腹が立つ。 社の言う通り、自分の調子を取り戻すことで彼らに応えるしかヒカルに道はない。和谷もそれを分かってくれているのだろう、今日の一局、ヒカル以上に結果に喜んでくれているのは和谷だった。 コンビニで飲み物を買い込み、到着した和谷の部屋にはうだるような熱気が充満していた。二人は揃って顔を顰め、窓を開け、扇風機を回す。ぬるい空気が掻き回されるだけで、さほど涼しくなるわけではない。 「和谷、クーラー買ったほうがいんじゃねぇ?」 「ここ穴開けたら怒られるんだよ。クーラーつきの部屋が欲しいなら引っ越さないとダメだ」 この狭い部屋に和谷が越してきて数年経つが、毎年毎年暑い夏と寒い冬に支障のある部屋について同じような会話を繰り返している気がする。その都度和谷も、本気で引っ越すことを考えるらしいのだが、結局は面倒になるらしく、やがて次の季節に変わっているわけだ。 ようやく去年冷蔵庫を購入したため、夏場も冷たい飲み物がいつでも飲めると和谷はご満悦だった。ヒカルからしてみれば、冷蔵庫すらなかった部屋で和谷が長い間暮らしていたことにある種の尊敬を覚えるほどだ。 二人は買ってきた1.5リットルサイズのペットボトルを二本、小さな冷蔵庫に押し込んで、最後の一本を碁盤の横にどんと置く。紙コップに注がれるウーロン茶を片手に、本日の一局を初手から並べ始めた。 ああでもない、こうでもないと碁石を握る指は汗ばみ、いつしかこめかみを汗が伝う。ペットボトルはあっという間に水滴まみれ、畳は水浸しになった。 和谷はTシャツを脱いだ。ヒカルもその数分後にTシャツを脱ぎ、上半身裸のまま向かい合って碁盤を睨み続ける。 ペットボトルはすぐに空になり、三時間後、三本目を半分ほど飲み終えた頃だった。 「だー、暑い!」 ついに二人は碁盤から離れ、汗だくの身体を床に投げ出した。 「和谷、今年マジでヤバイと思うぜ、この部屋」 「……そうかも」 すでにジーパンすら脱いでトランクス一枚の和谷は、額にびっしり浮いた汗を腕で拭って素直に頷いた。 プロも三年目なのだから、今よりランクの高い部屋に移る余裕はあるだろう。これを機に、和谷が真剣に引越しを考えてくれるといい――ヒカルは今後も研究会が催されるだろうこの部屋が涼しくなることを心底祈った。 すでに検討は終わっており、その後対局を二度行って、充分陽も暮れている。窓から過剰に差し込んできていた西日もすっかり落ち、和谷は思い出したように起き上がってカーテンを閉めた。 ヒカルは寝転がったまま、怠い身体を起こしたくなくて、ぼんやり和谷の部屋を何処ともなく見つめる。ふと、和谷のコンパクトなパイプベッドの下に、ひっそり詰まれた四角い一群を発見し、茹だっていたヒカルの意識が覚醒した。 汗ばむ身体を起こして、のろのろとベッドに近づく。ベッドの下に手を伸ばして黒く四角いものを掴んだ。引っ張り出したそれはビデオテープである。 手に取った瞬間、後ろから和谷がぱっとそれを取り上げた。振り返ると、苦虫を噛み潰したような顔で、おまけに頬を赤くした和谷がじっとりヒカルを睨んでいる。ヒカルはすぐにピンときた。 「ここ、壁薄いから見るの大変だろ」 にやにやと含みのある笑みを見せたヒカルに、開き直ったらしい和谷はうるせえ、と口唇を尖らせた。 ヒカルは和谷の手から再びビデオを取り上げる。 「おい、何すんだよ」 「ちょっと見せて」 「貸してやるからお前んちで見ろよ」 「ヤだよ、俺んち居間にしかテレビねーもん」 ヒカルはテレビとビデオの電源を勝手に入れ、強引に何のラベルも貼っていないビデオテープをセットする。 途端、画面いっぱいに両脚を大きく開脚した全裸の女性が映り、予想以上の大音量で喘ぎ声が狭い部屋に響き渡った。 「ば、バカ!」 慌てるヒカルの横からすっ飛んできた和谷が、音量ボタンを連打した。リモコンが傍にあったのだが、その存在すら忘れるほど焦っていたらしい。何しろ窓はカーテン一枚、ガラス窓を全開にしている。 ようやく耳を澄まして音が聞こえるか、くらいの音量まで下がった部屋で、ヒカルと和谷はほっと息をついた。 「進藤〜!」 「ゴメンって」 和谷は手を団扇がわりにしてパタパタ顔を扇ぎ、余計な汗かいたぜ、と悪態をつきつつヒカルの隣に腰を下ろす。 小さなテレビの前で陣取る、上半身裸の青年二人の図は充分怪しげだった。 「進藤、こういうの見んの?」 「言ったろ、テレビ居間だって。ほとんど見てない」 「そんじゃ何使うわけ?」 「んー、本。かな。」 今までは。ヒカルは本来続けなければならない言葉をカットする。 いくらアキラのことが肉体的に受け入れても構わないくらい好きだからと言って、年頃の男であるヒカルから女性に対する性的興味がなくなった訳ではない。 こんなあられもないビデオを見れば素直に反応するし、街を歩く女の人の容姿だってそれなりに気になる。出るところがしっかり出ている女性に自然と目がいくのは仕方ない。 ただし、こういったことに興味が出てきたのはごく最近だった。佐為がいる頃は気恥ずかしさも伴って、そういうものを自ら避けるようなフシもあったのだが、佐為が消えて精神的に吹っ切れた時、同時に今まで封印していた性欲も顔を出してしまったようなのだ。 ただし、碁一筋の生活は非常に女っ気がなかった上に、程なくしてアキラに告白されたりして、あまり直接的に性の世界に触れることはなかった。そんな訳で、純粋にアダルトビデオというものが物珍しかったのである。 「和谷って、こういうのどっから持ってくんの?」 「あん? ああ、昔の友達とかからダビングしてもらったり、とか」 「……本物は?」 「え?」 ヒカルは目の前の肌色の画面から視線を和谷に移し、「エッチしたことある?」と小声で囁くように尋ねた。 和谷はカッと赤くなったが、すぐに目を据わらせて黙り込む。答える代わりに、「お前は?」と聞き返してきたので、ヒカルはにやっと笑ってやった。 「……未使用です」 「……驚かすな、てめー。先越されたかと思ったじゃねぇか」 はあ、とため息をついた和谷に、ヒカルはどこかほっとした。 女性のことが嫌いなわけじゃない。たまたま和谷のビデオに出てくるこの女性は、顔がヒカルの好みではなかったけれど、揺れる大きな胸を見ていれば下半身は充分反応する。画面いっぱいにモザイクが広がれば、卑猥な妄想を掻きたてられ、ますます興奮する自分がいるのは確かなのだが。 だが、そう遠くない未来、自分がこの女性のように脚を開くかもしれない、なんてことは和谷に言えるはずがなかった。そしてその上に覆い被さるだろう人のことを考えると、目の前の肌色の世界なんてまるでどうでも良くなってしまうということも。 あの写真を見たせいだ。ヒカルは思った。 撮影用に造られたアキラの笑顔にヒカルは知らず興奮していた。そして、自分の知らないアキラを知ることに対して、微かな怖れと甘い期待を抱いていることに気づいたのだ。 心底抱かれたいと思っているわけではない。ただ、肌を合わせてみたいと思う。自分を慰める行為とどう違うのか、排泄としての処理ではなく、好きな人と裸で抱き合うとどうなるのか、ヒカルは知りたかった。 アキラも同じように感じていて、それで自分を抱きたいと思っているのだろうか。 次にアキラがこの身体を抱き締めた時、自分はうまく応えることができるのだろうか? (……あ、やべ……) ヒカルは和谷に背を向けるように立ち上がり、ちょっとトイレ、とそそくさテレビから離れた。和谷のからかうような声が「ごゆっくり〜」と飛んでくる。 ああ、もう自分は和谷とは違う世界に足を突っ込んでしまったのだ。――ヒカルは一握りの寂しさを感じながら、すっかり元気になってしまった下半身に手を伸ばす。 アキラのことを直接思って下肢に触れたのはそれが初めてだった。 その翌日、棋院から電話が入った。 週末に予定されていたイベントの仕事が、スポンサーの都合で中止になったという連絡は、思いがけなくヒカルを喜ばせた。 珍しくアキラと重なっていた仕事だった。イベント会場でアキラと会えるだけで嬉しいと思っていたのが、二人揃ってスケジュールが空くことになる。 ヒカルはすぐさまアキラにメールを送った。イベントが中止になったこと、そしてアキラの代わりの予定について。 程なくして届いた返事は、『良かったらうちに来ないか?』だった。 ヒカルの胸がどきんと疼く。 心なしか震える指で、『いいよ』と平静を装ったメールを返した。 カレンダーを改めて確認する。確かこの前日から、両親は法事に出かけて三日帰ってこない。 いちいち親に断って外泊しなくても良い。外泊した翌日、少し様子が落ち着かなかったとしても、ヘンに勘ぐる親はいない。 目前に迫った未知の世界への扉。不安を跳ね除けて、きっと自分は手を伸ばす。ヒカルはごくりと唾を飲み込んだ。 |
ヒカルこんなに抵抗ないのってどうなの。
和谷とは男臭くいい友達でいてもらいたいです。
和谷家の様子をアキラが見たら怒るでしょうが……
しかし今なら部屋にテレビある子供のほうが多いから
エロビも見放題なんだろうか。
ネットもあるしなあ。おお怖。
ってヒカ碁アニメ見てたら和谷の部屋布団だった!
きっと今はベッド買ったんだ、そうなんだ。