Come across you






 頭の中を、空っぽにして。
 瞼に写る日差しの薄明かりの他は、暗闇に心を預けて。
 全身の力を抜き、据えた腰元から静かな気の流れを産む。
 あくまで穏やかに、穏やかに、……穏やかに……


(……足が痺れた)
(ずっと座ってるから腰が痛い)
(退屈で眠くなってきたなあ)
(ちょっとあくびしてもばれないかな……)


「そこまで」
 凛とした声を合図に、それまで石のように動かなかった(動けなかった)カミューの身体がぐにゃりと崩れた。
 板張りの床に突っ伏すカミューに、傍で様子を見守っていたマイクロトフが微笑んだ。
「どうだ。禅を組むのは気持ちがいいだろう。精神が落ち着き研ぎ澄まされる。誰にでもできる簡単な修行だ」
「……まあ、そのへんの感想は人それぞれだよ」
 すっかり痺れた足を恐々さすりながら、カミューは目の前の純粋かつ能天気な男を見上げてため息をついた。
 マイクロトフは僧侶の卵である。
 ごく普通の会社員であるカミューがひよっこ僧侶と知り合うことになったのは、不運にもカミューが成仏できない幽霊に取り憑かれたのが始まりだった。
 取り憑かれていることすら気づいていないカミューの前に現れたマイクロトフは、あまり役に立たないながらも奮闘し、結果的に幽霊を追い払うことはできた。
 しかし、何の因果か、それまで全くそういった心霊現象に縁がなかったはずのカミューは、様々な霊が見えるようになってしまったのである。
「眠っていた才能が開花したのかもな」
 マイクロトフは感心しながらもそう言ったが、正直カミューにとっては冗談じゃない。相談のためにちょくちょくマイクロトフの元を訪れるようになったのだが、状況を緩和するどころか、マイクロトフは修行を勧めてくるのである。
 今日も、よく分からないまま禅を組まされ、すぐには立ち上がれないほどに足が痺れてしまった。しかも彼には全く悪気がないからタチが悪い。
(効果が出ているとは思い難い)
 それを口には出せないカミューだった。
 元々、前回の件だって、カミューから頼んでマイクロトフに何とかしてもらったわけではなかった。
 悪く言えばマイクロトフが勝手にカミューにつきまとい、取り憑いた霊をなんとか沈めようとはりきって空回りしていたのである。
 つまり、彼は底なしのお人好しなのだ。
 どうもあの一件以来、気のせいじゃなく霊が見えるようになった。
 そうカミューが告げた時のマイクロトフは、驚きつつもどこか嬉しそうだった。ひょっとしたら、仲間意識を持ったのかもしれない。小さい頃から余計なものが見えるせいで味わってきた疎外感が、少し和らいだのかもしれない。
 ――それはそれで構わないんだけど。
 たった数日でマイクロトフの「心からの人の好さ」を思い知ったカミューは、全てにおいて素直な反応をするマイクロトフが微笑ましく思えてしまう。
 何でも一生懸命なマイクロトフは、今も精一杯の好意でカミューに修行を施してくれているのだ。
「できれば、鍛えるんじゃなくて抑える方法を教えてもらいたいんだけどなあ」
 ため息をつきつつ、それでも本気で嫌がっている訳ではない、複雑な心境のカミューだった。



 ***



「最近大人しいんだな」
 昼食時、偶然相席になり隣に座ったグレンシールが、いつも通りの抑揚のない声でそう呟いた。
 大人しい、とはお得意の火遊びのことだろう。カミューとしては意識して大人しくしているつもりはなかったのだが、ここ最近忙しかったため必然的にそうなったのかもしれない。
「小休止。そのうち再開するよ」
「そうか。俺はてっきり」
「……てっきり?」
「いや、なんでもない」
 僅かに含み笑いを浮かべるグレンシールを横目に、カミューはむすっと目を据わらせた。
 彼が言いかけた言葉の続きを想像し、一人怒りを燻らせる。
(見てろ。こいつがおこぼれを欲しがるくらいのいい女ひっかけてやる)
 あまり有益ではないように思われる誓いをたて、カミューはしばらくマイクロトフのところへ行くのを休もうと決めた。
 週末の度に相談に行っては修行をさせられる。まあ、それだけ今まで見えなかったものが見え始めたことに対する不安が大きかったのだが、この状況にも少しずつ慣れてきた(ような気がする)。
 今週末は久しぶりにハメを外すぞ――カミューは数日先のちっぽけな幸せを想像し、あまり格好良いとはいえないニヤケ顔で食堂を後にした。



 カミューにはあまり馴染みの店というものがなかった。
 お馴染みを作ってしまうと、女に手を出しにくい。後々面倒になるのを恐れて縄張りを作らないようにしていた。
 今夜もまた、何度か前を通り過ぎたことしかない店に入ってみることにしたカミューは、期待半分で黒い扉に手をかけた。
 落ち着いた雰囲気の店だった。
 客層はカミューと変わらないくらいだが、騒々しさは感じられない。グループの客はほとんどおらず、多くても2,3人が集まっている程度だ。そのせいかあまり浮ついた空気が見られず、軟派な男には少々場違いのように思えた。
(これはハズレかな)
 何杯か飲んだら店を変えるか。カミューは特にめげる様子もなく、カウンターの端を選んで腰掛けた。
 カミューはちびちびとアルコールを口に含みつつ、横目で辺りを観察する。
 カウンターには、カミューよりも若いだろう男性が二人、ぽつぽつと離れた場所に座っていた。少々野暮ったさも感じるそのうちの一人に、カミューは心の中で自分と比較するための点数をつけ、勝手に優越感を感じていた。
 すると、どこからともなく一人の女性が現れ、その男の隣に腰掛けた。
(おっ)
 すらりとした長身の、髪の長い女だった。
 ちらりと見えた横顔はすっきりと鼻筋が通り、くどさを控えた口紅の赤はカミュー好みの色だった。やけに古めかしい、火のような真っ赤のワンピースがいまいち浮いて見えるのだが、レトロ趣味と言えば悪くもないかもしれない。総合点としてはかなり良い点数をあげられそうだった。
(なかなかいい女じゃないか)
 隣の男相手じゃちょっと役不足じゃないか。カミューは意味ありげに視線を送る。気づいているのかいないのか、彼女からの反応は見られない。
 ふと、その女性の隣に座っていた男性が、こめかみを押さえてカウンターに凭れかかった。
 バーテンダーが男性の肩に触れ、大丈夫かと声をかけている。
「おかしいな、そんなに飲んでいないはずなんだけど……」
 すっかり酔い潰れたように見える彼に、バーテンダーは首を傾げている。
 カミューはそんな光景は特に気にも留めていなかったのだが、横に腰掛けていた女性がすっと立ち上がり、潰れたらしい彼を置いて行こうとすることに驚いた。
(恋人じゃないのか……?)
 見るとバーテンダーも、ぐったり唸っている彼自身も、その彼女のことを気にしている様子はない。
 カミューは彼女を目で追った。すると今度は、彼女はカウンターから少し離れたテーブル席へと移動した。テーブルには二人で向かい合うように話し込んでいる男性二人がいた。
 彼女は二人の男性とテーブルを囲んで三角形を描くように座る。彼らはその動作に気がついてもいない。カミューが凝視する中、やや彼女寄りに座っていた男のほうが急に頭を押さえ、眩暈を感じているような仕草を見せた。
 彼は息苦しそうにテーブルに突っ伏した。連れである向かいの男性は、心配そうに彼の背中をさする。
 カウンターの彼と同じく、周りからすれば突然酔い潰れたように見える。しかしカミューには更に、あの女性が見えていた。
 まさか、と思った瞬間、彼女は座ったばかりのテーブル席からも立ち上がった。板張りの古いこの店の床は、先ほどカミューがカウンターに座るまでの間にもギシギシと風情のある音を立てていたはずだった。その音が、彼女の足元からは全く聞こえてこない。
 ――彼女は地上の人ではない。
 カミューが確信した瞬間、彼女はまるで瞬間移動をしてきたかのように、カミューの目の前に立った。
 カミューは息を呑み込むのが精一杯だった。
「……邪魔、しないでね」
 正面でにっこり笑った彼女の笑顔は、熱が通っていないガラスの作り物のように綺麗だった。それは透き通るような青白い肌の美しさのせいかもしれなかった。
 カミューは返事をするどころか、全身の感覚が痺れきったように強張り、指先に力を入れることさえ怖かった。
 彼女は凍りついた笑顔を残して消えた。いや、そう見えた。まるでカミューの瞳に残像を残していったかのように、しばらく消えない笑顔の余韻に縛り付けられ、カミューは不自然に固まったまますぐには動けなかった。
 彼女の姿も気配も完全になくなったことが分かった時、ようやくカミューは強張った四肢の力を抜いた。全身から嫌な汗が噴き出してきた。
(誰がこの状況に慣れたって?)
 冗談じゃない。全然慣れやしない。
 何の因果か、すっかり霊感体質だ。今までは全く無縁だったはずのものがはっきりと見える。これが幽霊に魅入られた宿命なのだろうか?
 カミューは早々に店を出ようと立ち上がった。もう軟派する気分ではない。困ったことに悪寒が止まらない。タチの悪い霊だったのかもしれない。
(そういえば)
 カミューは帰り支度をしながら、先ほど不自然に倒れた二人を振り返った。二人ともぐったりとしているが、意識はあるようで、額や頭を押さえている。事情を知らなければ、酔い潰れて具合が悪くなった人のように見えた。
 とりあえず命に別状はなさそうなので、カミューは少々後ろ髪引かれつつも店を出た。彼らが倒れた原因は彼女以外に考えられないだろう。カミューは迷いつつも、明日の予定を変更することにした。





コピー本で出した「Crazy〜」の続編です。
とりあえず現代パラレルの場合、
もれなくグレンシールがろくでなしのようです。