「それはいかんな」 カミューの予想通り、底なしのお人好しでおせっかいなマイクロトフは、眉間に皺を寄せながらそう言った。 やっぱりな、と思いつつも、カミューは乗りかかった船を漕ぎ出したのは自分であるのだから、腹を括ろうと決意する。 「どうせ様子を見に行こうって言うんだろ。念のため言っとくけど、この前みたいな殺意は感じなかったよ。危害を加える感じでもなかったし」 「その女性が現れて、男性二人が倒れたんだろう。それは危害を加えているということじゃないのか?」 「……まあ、そうとも言うけど」 カミューはだらしなく足を崩し、目の前できっちり正座している男にため息をつく。マイクロトフだって、実は相当な半人前なのだ。一人で除霊もできないし、この前なんて霊に吹っ飛ばされてばかりいた。先祖代々流れる僧侶の血のせいで霊感だけは強いようだが、正直なところ、マイクロトフが乗り出すことで何かよくなるとはあまり思えなかった。 それでも、彼がこういったことを放っておけない性格なのは分かりきってしまったし、反対したところで聞く男でもないため、カミューはそれ以上何も言わなかった。 ひとつ不安なのは、最後に女性の幽霊が残した言葉だった。 『邪魔しないでね』 あの言葉の目的格が、彼らをぐったりさせたような行為なのだとしたら、マイクロトフと乗り込んでいくことはまさに彼女の邪魔をすることになるだろう。 前回のような目に遭うのはごめんなのだが……カミューは一人身震いした。 その夜、カミューはマイクロトフと連れ立って例の店に出かけていった。 昨日とほぼ同じ位置に並んで腰掛け、辺りを注意深くうかがいながら彼女が現れるのを待った。 マイクロトフはあまりこういう店に詳しくないようで、何を頼んだら良いかもよく分からないようだった。カミューが適当に選んだジン・トニックを渡されて、マイクロトフはしばし不思議そうにグラスを見つめていた。 「昨日の状況を教えてくれ」 舐めるようにグラスの中の液体を飲みながら、マイクロトフは横目でカミューに尋ねた。 「状況ったって……彼女が現れて、客の隣に座ったら、その客がぐったりテーブルに突っ伏したんだよ。その後私の傍までやってきて、邪魔するなって言って消えちゃった」 「邪魔するなというのが気になるな。お前が、彼女の姿が見えていることに気づいていたんだな」 「そうみたいだよ。私があんまりじっと見てたからかもしれないけど……」 「お前は何か特別なのかもしれない」 「え?」 カミューは思わずマイクロトフのほうに身を乗り出して聞き返した。 「分からないが、そんな気がする」 「そんな気って、どんな気だよ」 カミューが食い下がるが、マイクロトフは難しい顔で軽く首を捻る。 「何となく……不思議な感じがする」 マイクロトフがこんなことを言うのは初めてだった。 今までは、突然霊感体質になったことを特に疑問なく受け入れ、おせっかいに修行まで面倒を見てくれていただけだと思っていた。そのせいで、カミューも自分の変化が特になんでもないことのように思い始めていたのだ。 しかし特別扱いされるのは怖い。 本当は、カミュー自身急激な変化に感覚が麻痺しそうになっていたのだ。実を言えば怖かったし、これから先ずっとこの調子なのかと思うと不安ばかりが襲ってくる。 カミューは今気づいた、マイクロトフが頼みの綱だったのだ。自分はおかしくないと楽観できるための存在にしようとしていたのだ。 マイクロトフも、周りと違う力のせいで孤独を味わっている。特別扱いされるのは彼だって嫌なはずだ。 そのマイクロトフがこんなことを言うなんて、自分は一体どうなってしまうんだろう……カミューは一人身震いした時、隣から大きなあくびの音が聞こえてきた。 振り向くと、半分瞼の落ちかかったマイクロトフが目尻の涙を拭いている。 「……眠いの?」 「ああ……、少し……」 明らかに眠そうだ。まだ午後9時にもなっていないぞとカミューが時計を覗き込みかけて、はっと顔を上げた。 「マイクロトフ……、お前、ひょっとしてお酒弱い?」 「ん? ……ああ……、どうなんだろうなあ……」 目を擦るその様には、先ほどまでの難しい顔は面影もなかった。 「おい……、大丈夫か?」 「何がだ……?」 「何がって……全体的に」 落ちかけていた瞼が、数秒おきにゆったりくっついたり開いたりしている。なんとなく頭もふらふらと揺れ、明らかに眠る寸前だった。 「おいマイクロトフ、しっかりしろよ。起きろって」 「起きている……」 「彼女が出たらどうするんだ?」 「起こしてくれ……」 ついにマイクロトフはカウンターに突っ伏して、自らの腕枕に頬を乗せてしまった。それから何秒も経たないうちに、静かな寝息が聞こえてきた。 カミューは絶句し、項垂れた。 子供に酒を飲ませるもんではない。そんな気分だった。 マイクロトフのグラスには、ジン・トニックがまだ半分残っている。弱いにもほどがある。 飲めないなら最初からそう言えばよいのに。カミューは呆れて溜息をついた。――これでは二人で酒盛りもできないな。 (いきなり変なことを言い出したのは、酔っ払ってたからかもしれないな……) 浴びるように飲みたいとは思わないが、人並み以上には酒の楽しみが分かる。こればっかりは好みの問題以上に体質が関わってくるので、仕方がないだろう。 隣で気持ち良さそうに寝息を立てる男に、カミューは静かにため息をついた。 『お前は何か特別なのかもしれない』 (どういう意味なんだろう) 意味なんてないのかもしれない。でも無性に気になる。 まだ出会ってからほんの少ししか経っていない。思えばカミューはマイクロトフのことをあまり知らない。だから彼がどんな意図をもってあの言葉を言ったのか、それとも本当に意味などないのかどうかが分からない。 (気にするようなことじゃないのかもしれない) なのに、身体の奥が妙にざわざわと騒いでいた。 「……」 カミューは自分のグラスに残った最後の一口を一気に流し込むと、これ以上長居は無用とマイクロトフを起こしにかかった。何しろマイクロトフが潰れた状態では、幽霊を待ち構える意味がない。 カウンターに重たく凭れた身体を揺り起こそうと、その広い背中に触れた瞬間、――誰かがカミューの背中に手を当てた。 振り返ろうとして、身体が凍りついたように固まるのが分かった。 ひどく冷たい冷気が押し当てられたような感覚。……触れられるまで、気配を感じなかった。 「その人、眠ってくれて助かったわ。その人がいると近づきにくいの」 カミューはごくりと唾を呑み込む。 間違いない。昨日の女性の幽霊だ。 カミューは意を決して恐る恐る振り向く。いや、振り向こうとした。 回転しかけた身体は、マイクロトフとは真逆の左横を向いて止まった。今後ろにいたと思った彼女は、すでに隣に腰掛けていた。 「……」 言葉を失ったカミューに、彼女は静かな微笑を浮かべてみせた。 すっきり通った鼻筋、くどくないベージュの口紅、真っ赤なワンピース。紛れもなく、昨日の彼女だった。 「昨日、言ったわよね。邪魔しないでって」 顔立ちの割には幼い声で、彼女は囁いた。 カミューは膝が震えるのが分かった。彼女が何か悪意を出しているわけではない。しかしカミューにとって、あの世の住人をここまで近くに感じるのは、前回女の霊に取り憑かれた時以来である。まだ免疫ができていなかった。 「別に……邪魔をしにきた訳じゃない」 周囲の人間には彼女は見えていないだろう。カミューは怪しまれないよう、なるべく小声で答えた。 彼女の目は酔い潰れて寝息を立てるマイクロトフを見ていた。 「友人と飲んで何かおかしいとでも?」 「この人の持つ空気に近づけない。眠ってくれなかったらここまで出られなかった。普通の人の力じゃない」 カミューは思わずマイクロトフの背中を見た。やはり霊にはマイクロトフの持つ力が分かるのだろうか。カミューは腹を括った。 「じゃあ正直に言おう。君に会いに来た。でも邪魔しようと思ったわけじゃない。君が昨日彼らに何をしたのか、それを確認しに来ただけだ」 カミューは彼女に向かい合い、息をつく暇もないほど一気にしゃべった。少しでも気を抜くと、忘れようとしている恐怖が植えつけられてしまいそうだったからだ。 彼女は見た目は普通の人間と何ら変わりない。カミューだって最初は幽霊だと思っていなかった。しかし、彼女には妙な寒さがあった。 血の流れていない身体には、生きた人間と同じ体温の臭いがしない。実体のない存在である彼女は、カミューから見ると何をしでかすのか全く検討がつかない。得体の知れない存在への恐怖に、カミューはまだ慣れてはいなかった。 「彼らって?」 「君が近寄った途端、二人倒れただろう。あれは君が何かしたんじゃないのか」 「あんたに何か関係ある?」 「――、ないけど、……もし君が人に危害を加えているんだとしたら見過ごすことはできないよ」 まるでマイクロトフのようだと、カミューは心の中で頭を抱えた。ほんのしばらくの間一緒にいただけなのに、すっかり感化されてしまった。 (もう、また痛い目に遭っても知らないからな!) 「……」 彼女は少しの間黙っていた。その瞳の色は淡いようで底が深く、まっすぐカミューを見据えているというのにどこに焦点があるのか分からないような不気味さがあった。 カミューも負けじと目を逸らさないよう、瞬きすら我慢して彼女と対峙した。本音を言うと、目を逸らしてしまったら、その瞬間に襲い掛かってくるのではないかと思ったからだった。 「……人のね。生気が欲しいの。ほんの少し。ちょっと具合は悪くなるかもしれないけど、命に影響ないわ。次の日は少し、二日酔いみたいな症状が残るだけ」 「生気って……」 「生きた人間の生命力みたいなもの。何十年も生きるうちの、ほんの数分程度の量よ。危害を加えるとか、そんなつもりじゃない。だからほっといて」 そう言うと、彼女は自分から目を逸らした。後ろめたいことがある人間と同じ仕草だった。 カミューは人間臭い彼女の様子に少しだけ安堵した。かつては彼女も人間だったのだから、当たり前といえばそうなのだが…… 「その生気がなぜ必要なんだ?」 「……私じゃないわ。私は運んでるだけ……」 ごく小さな声で呟いた彼女に、カミューは聞き返す。 「何だって?」 「……何でもない。必要なの。私もあれがなかったら、正気をいつまでも保てない」 「よく分からないよ」 「分からなくていいわ。もうおしまい。誰かを怪我させたり、殺したりしないわ。だからもう邪魔しないで、この店には来ないで。」 彼女は早口でそう告げ、慌しく立ち上がる。尤も、音がしないため、慌しさは彼女の表情からしか読み取れない。 「待ってくれ、まだ話が」 「もう行くわ。その人が起きる。その人の空気は苦手なの」 「最後にひとつ! どうして私からは、その生気を奪わない? 君の存在に気づいたからか?」 思わず大声を出したカミューに、彼女は消えかけた身体で振り向いた。 「……あなたも普通の人間と少し違うわ。危ない橋は渡りたくないの」 今度はカミューが聞き返す間もなかった。彼女の姿は目の前で完全に消えた。昨夜のような恐怖の余韻は残らなかったが、カミューは彼女を追う格好のまま呆然と空を見つめていた。 少し経って、周囲の不審な視線にようやく我に返ったカミューは、気恥ずかしそうにカウンターに腰掛け直した。周りには彼女が見えていないのだから、カミューの行動は怪しいことこの上ないだろう。 「うーん……」 隣でマイクロトフがもぞもぞと動き出した。 (彼女の言った通りか) 「ふわ……、カミュー……? 今誰かいなかったか……?」 目を擦って身体を起こすマイクロトフに、カミューはわざとらしくため息をついてやった。 竦んだ足を撫でて、呼吸が少し落ち着いてから、カミューは立ち上がってマイクロトフを促した。 「おはようマイクロトフ。……話が長くなりそうだから、ここを出ようよ。ここからなら私の家のほうが近い。もう遅いから、今日は泊まってけよ」 |
なんとなくマイクロトフは大酒飲みか下戸か
どっちかの想像しかできない感じです。
幽霊に関しては全く予備知識がないので、
全てイメージになっています。