がしゃん! すでにポットのお湯も空になっていたので、乱暴にやかんを火にかける。 (余計なことを考えるな、兄だからといってどうなるというのだ!) 急須を取り出し、お茶の缶に手を伸ばした。 (確かに少し、いやかなり似ているが、それだけだ。動揺する理由など何もない!) すでに洗って逆さになっている湯飲み茶わんをひとつ……考えてふたつひっくり返す。 彼の性格では自分1人で茶を啜るまい。 (早く終わらせて、帰らなければ……) ……情けない声をしていた、あの馬鹿。 何もないと言うのに。 (……では何故俺は嘘をついたのだ……) 思わず、2人ではないと言ってしまった。 カミューが不安になるから? (……ええいもう!) 考えるのをやめ、というか無理矢理考えないように、マイクロトフは給湯室を行ったり来たりうろうろし始めた。 換気扇の音と足音が混じりあって不愉快になる。 並んだふたつの湯のみが胸にちくちくする。 人気のない空間が苛々する。 ピー、と、少量の水を入れたやかんがお湯の沸騰を知らせた。 なんだか無性にほっとして、やかんに手を伸ばしかけた。 「悪いね」 背後からの声に思いっきりやかんの側面に手を突っ込んだ。 「あっつ!」 慌てて手を放したが、……随分派手に触ってしまったようだ。 みっともない失態に負傷した指を押さえて口唇を噛んでいると、ふいに後ろから腕を取られた。 熱を持ち始めた右指を押さえていた左腕が極自然に外され、その反動でくるりと向かい合った正面の彼の顔。 鳥肌が立つ。 「結構ドジだね?」 奪われた右手が、抵抗など微塵も考える暇もなく彼の口唇に触れた。 「あ」 指先に湿った暖かいもの。 ずくん、と熱が解けたように疼いた。 力が抜ける。指を這う蛇から逃げられない。 指先を捕らえたまま、その伏せた睫毛の下から王者の瞳がマイクロトフを貫いた。 ……仄かに届く煙草の匂い。 がくがくと、震える膝が折れそうになる寸前、強い力で腰を引き寄せられた。 耳に掠める湯気のような吐息。 ![]() 「……気をつけようね、マイクロトフ」 「!」 ざわっと全身を駆け抜けたモノに、ようやく我に返った。 右手を奪い返す。厚い胸板を突き飛ばす。腰に絡んでいた腕から逃れて、ざざざっと数歩後ずさる。 「せ、せ、せ、専務っ……!」 「なんだい?」 彼は飽くまでにっこりと。 「……お茶は持って行きますから、戻ってくださいっ!」 「手当てをしなきゃ」 「1人でできますっ! 早く戻ってください!」 「折角だから一緒にお茶入れようか?」 「いいから戻ってくださいッ!!」 余程凄まじい形相をしていたのか、彼はまた今朝のようにくっくっと笑って、「はいはい。」とあやすような口調で給湯室を出た。 マイクロトフは肩で息をしながら、壁にへばりついていた身体を剥がす。 右手に恐る恐る視線を落とした。……まだ熱が逃げて行かない。 「手伝おうかー?」 「ぎゃああ!」 今の声には流石に驚いたらしく、眼を丸くしている彼をきっと睨みつけて 「仕事!」 最早まともな会話をする気はなかった。 「つれないなあ」 「仕事! 仕事してください! お茶は今運びます!」 「だから一緒に」 「貴方は仕事をしてくださいッ!!」 ……それから、「仕事!」の単語だけで彼から逃げ続け、自分の中の予定よりも30分は過ぎてしまった頃にようやく残された仕事を片付けた。 鬼気迫る表情で帰り支度を進めるマイクロトフに、ちょっかいを出そうとする上司を横目で威嚇しながら。 「送ろうか?」 「結構です!」 「そんなに警戒しなくても」 「結構ですと言ったら結構ですッ!」 鞄を抱えて大股で廊下を過ぎる。その斜め後ろを彼もぴったりついてくる。 「地下鉄なんだろう? 渋滞でへとへとになるよ。」 彼の車なんて冗談じゃない。 「慣れてるので平気です」 「そう……?」 その、ほんの少し声色が変わった瞬間、つい振り返って彼を見てしまった。 親指に口唇を当てる癖。 (……!) 「マイクロトフはいつもこんなふうに歩くのかな?」 「急ぎなので失礼!」 最後は走った。走った。思いきり。 会社を出てビルの中を駆けて地下の階段を降りてやってきて地下鉄に乗り込んだ時、 ようやく安堵のため息をつくことができた。 「遅いよマイク!」 迎えてくれたカミューは開口一番、これだ。 靴を脱ぐ暇も与えないほどに纏わりついてくる。 「あいつに何もされなかった? ねえ、マイク?」 答えようにもどう答えたらいいのか判らない。 あれは、何かされた……というのだろうか。ただからかわれただけだろうか。 どっちにしろ、カミューに言ったらとんでもないことになるのは間違いない。 なんとか部屋の中に入ったマイクロトフが鞄を置くや否や、カミューはしがみつくようにマイクロトフの身体を押し倒した。 「う、わっ……!」 どん、と尻餅をついたマイクロトフは、咄嗟に右手で身体を支える。 「痛ッ!」 「?」 その呻き声にカミューがはっとする。 隠そうとするマイクロトフから右手を取り上げて、赤くなった指先をまじまじと見つめるカミュー。 その眼にかかる睫毛の動きが、至近距離で見た彼と同じように瞬いた。 (!) 「どうしたのこれ?」 カミューの声に記憶を押しやり、なるべく平静を装って……でもカミューの目を見ないように答えた。 「ちょ、ちょっと火傷してしまったんだ……お茶を入れようとして」 「お茶……? なんでマイクが? 他の人にやらせればいいのに」 「み、みんな手が空いていなかったのだ!」 カミューは何やら不審気にマイクロトフを眺めていたが、やがてその指をそっと口唇に寄せた。 「駄目だよ、ちゃんと手当てしなきゃ……」 「!!」 それが触れあう前に、ばっとマイクロトフは手を遠ざける。 「マイク?」 「い、いや、大丈夫だからっ!」 「……大丈夫じゃないよ、赤くなってるじゃないか」 「何でもないのだっ! なんでもないからっ……」 カミューは逃げた右手を無理に捕まえ、手首をぎゅっと握りしめた。 「……何隠してる?」 「な、何もっ……」 「そんなわけないだろう。私が判らないはずないじゃないか。……マイク。」 じっと自分を見据えるその眼差し。 給湯室と同じざわめきが背筋を滑り落ちた。 ピーンポーン…… 思わず、2人で玄関のほうを見た。 このマンションはオートロック。共通の入り口を潜るのにも鍵が必要だ。 鍵がなければまず階下でこちらに伺いをたてなければならない。 誰かが、その過程をすっ飛ばして直接チャイムを鳴らしている。 「……」 マイクロトフは不審気な眼差しでカミューを見た。 その意味に気づいたのか、カミューが慌てて手を振る。 「違う、もう合鍵は全部回収してるよ! ……誰だ一体、くそ……」 渋々カミューは立ち上がり、玄関へと消えていった。 マイクロトフはほっと身体から力を抜いて、床に縫い付けられていた上半身を起こそうとした時、 「……何しに来たんですか!」 カミューの奇声が轟いた。 「!?」 あのカミューが大声を出すなんて。 がばっと飛び起きたマイクロトフが同じく玄関に向かうと、 「……あ……」 掠れた声がぽろ、と零れた。 鬼のような形相で目を剥いているカミュー。 口と目を大きく開けたまま動けないマイクロトフ。 そしてそれを柔らかく驚いたように見ている、カミューの兄その人の姿。 「……マイクロトフ、じゃないか。なんだ、弟と知り合いだったのか?」 「……専務……」 「突然すぎやしませんか。連絡もなしに来るなんて非常識じゃないですか。」 「まあいいじゃないか、弟のところに遊びに来るのに遠慮しなければならないのか?」 カミューのむき出しの敵意を、兄は余裕の微笑で受け止める。 兄弟の間で火花が散った。 マイクロトフは、生まれて始めて目眩を覚えた。 「貴方に鍵なんか渡していないはずですが!?」 「住人らしきレディと玄関で一緒になったのでね。簡単に通してくれたよ。セキュリティに問題があるな」 「そう思うなら先に一言あってもいいでしょう!」 カミューの言葉を無視して、彼はふいに弟の腕をぐいっと掴んだ。 「!?」 その腕に彼が鼻を寄せるか寄せないかのうちに、カミューが汚いものにでも触れられたようにそれを振り解く。 訳が判らないカミューを尻目に、彼はぽつりと呟いた。 「……この香り、ね……。」 そして、彼はカミューの肩越しにじっとマイクロトフを見た。 その直接的で率直な視線に、右手の指に一気に熱が集中する。 「……“知り合い”だったんだ。へえ……」 彼の親指が、静かに口唇へ添えられた。 にこ、と鮮やかな微笑みを見せた彼は、この上なく美しく挑戦的だった。 カミューの荒声があらかじめ用意されたBGMか何かのように空気に混じっていく。 マイクロトフは、その場にへたりと座り込んだ……。 右手が、ずくずくと疼いていた。 ![]() |
……というわけで後半でした(汗)
なんですか、これは続くのですか……?(汗)
でも楽しいですワーイ(最悪)
そして御本に添えていただいた王子さんの挿絵もアップさせていただいたですよ!
うおー、兄かっこよいですー!(完全絵は王子さんの御本で!)
あ、あと原稿をお渡しする時に何個か誤字を見つけてもらったのですが、
一個しか覚えておりませんでした。
あと何処かに誤字がー!何処だっけー!