「俺を抱いてくれないか」 カミューは我が耳を疑った。 折角の週末に仕事で手痛いミスをして、酷く沈んだ気持ちで帰路についていた。というのは飽くまで外見からのタテマエだった。沈んだ、なんて可愛らしい表現よりは、自分の犯したミスの原因を探して苛々と殺気立っていたし、週末にすぐに家に帰って酒を煽るのも癪だと夜の街をうろついていたからだ。 苛立ちが気を大きくさせたか、普段は近寄らないような裏路地をカミューは歩いていた。慣れない種類の薄暗いネオンの灯りは多少不気味でもあった。ドラマや映画ならこんな道に女性が立っている。そんなことを思わず考えて歩いていた時だった。 前方に男性の姿が見えた。何をしているでもない、潰れたらしいスナックの割れた看板の前でただ彼は立っていた。 意志の強そうな、淋しそうな眼差しに、ついカミューはすれ違い様彼をまじまじと見た。 ところが彼の目もカミューを追ってきた。おや、と驚いた瞬間、 「あの」 彼が口を開いた。 立ち止まったカミューは辺りを視線だけで軽く見渡した。声の届く範囲にいるのは自分一人。これは自分自身にかけられた声だ。そう判断して、カミューは何か?というように軽く首を傾げてみせた。 「その、俺を抱いてくれないか」 カミューは随分呆けた顔をしただろう、自覚もあった。それを彼はカミューがよく聞き取れなかったものと勘違いしたか、 「俺を抱いてくれないか」 御丁寧にもう一度繰り返した。 カミューは改めて彼を見た。 短く切りそろえられた黒い髪には清潔感が溢れ、きりっと筋の通った眉は彼が誠実な人物なのだろうと予想させる。 身なりも別段おかしな風はなく、スーツをラフに着崩して前を開いたままのトレンチコートを引っ掛けている。カジュアル出勤なら充分通る格好だ。 金に困っている様子も伺えない、それどころか性的に何かをアピールする素振りもない、第一彼が声をかけたのは男である自分だ――カミューは今起きていることを冷静に受け止めようと努力した。 「……、えーと……、ひとつ聞いていいかな?」 「ああ、なんでも」 「君の言う『抱く』というのは、その……セックスのこと?」 「……、平たく言えばそうなる」 彼は少し俯き加減にぼそりと呟く。多少は頬が赤くなったかもしれない。暗がりでよくは分からない表情だが、今の様子から彼は年下ではないかとカミューは見当をつけた。 「つまり、私とセックスしたいってこと?」 「……どちらかと言うとしてもらいたい。俺は男性経験がないのでよく分からないのだ」 カミューは呆気に取られた。彼の意図が全く掴めなかった。 もう一度辺りを見渡して、誰もこの会話が聞こえる位置にいないことを確認する。カミューは顎で彼を促し、もう少し人目につきにくい脇道へと場所を移動した。 「……理由を聞いても? 何故私にそんなことを?」 「知人に教えてもらったのだ。誰かに慰めてもらうのがいいと」 「慰めてって……」 「何もかも忘れるにはこの方法が一番良いと言われて」 「忘れたいことって?」 「大切な人を失った」 彼の口調ははっきりしていたが、それだけにカミューは喪失感をストレートに受け取った。彼の物言いは言葉の区切りがしっかりしていて、聞き取り易く分かりやすい。しかし何処か空っぽな言葉の箱だけのようにも感じられた。 何より、彼はあまりに清潔過ぎて、いやらしさが微塵も感じられない。カミューは今起きていることを整理しようと目を閉じた。 「何故私に声をかけた?」 「目が合ったから」 「――……、目が合ったなら誰でも良かった?」 「ああ、すまない」 カミューは絶句する。彼は誰でも構わず行きずりの相手と寝てしまうような、そんなタイプには全く見えない。言葉の端々からも彼の真面目さは充分伝わって来る。カミューは膨れ上がる疑問を全て口に出した。 「何故女性に声をかけないんだ? 君は男性経験がないと言っただろう」 「女性を抱こうという気分ではないんだ。できれば誰かにどうにかしてもらいたかった」 「そういう専門の商売女もたくさんいる。ソープにでも行ったらどうだい」 「……ああゆう商売の女性は話が上手だと聞いている……。」 「……あまり込み入った会話はしたくないってわけか」 「そう言うことだ」 今の問答でもカミューの不信感は拭えなかったが、この不思議な青年に興味も持ち始めていた。人気の少ない汚れた裏路地で、男を求めて立っていた。失ったものを忘れるために。 「三流ドラマみたいだな」 「……」 「何人に声をかけたんだい」 「お前で3人目だ。前の2人は気味悪そうにして行ってしまった」 「普通の反応だろうね」 「お前は気味悪くないのか」 「……」 カミューは数秒考えて、ふっと短かめの吐息を漏らした。 「……いくら払えばいいんだい」 「え?」 「いくら。いいよ、抱いてやる」 彼の頬がかっと紅潮したのが暗がりではっきり分かった。単純な喜びのものとは受け止め難かった。これから起こる事実に対して素直に反応したのかもしれない。 「……いや、金はいらない……。抱いてくれればそれで」 「金もいらないって? じゃあ君に何のメリットがあるって言うんだ」 「忘れさせてくれれば、それで」 「……オーケイ。場所の指定は?」 「ない」 「じゃあついておいで」 カミューは最初に自分が辿ってきた道を逆に歩き始めた。彼は後ろから数歩の間を空けてついて来る。明るい繁華街に出るのではなく、品のない光が並ぶホテル街へと足を向け、一度だけ使ったことのあるホテルをカミューは選んだ。 |
突発で変なパラレルを。
2話完結予定です。