名無し人





 そこは無人のラブホテルだった。部屋の内装写真がパネルで壁に並んでおり、使用可能の部屋にはパネルに光りが灯っている。カミューは彼を振り返って首を傾げてみせたが、彼はふるふると首を横に振った。どの場所でも良いという意味だろう。
 カミューはパネルを一瞥し、あまり派手ではない色合いの部屋のボタンを押した。鍵を受け取り、もう一度彼を見る。彼は頷いて再びカミューの後についた。あまり動揺は見られなかった。
 選んだ部屋の鍵を開け、カミューが先に中へ入った。彼がドアを閉め、ぐ、ぐっと詰まったような音が漏れる。ドアの立て付けはあまりよくないらしい、それからカチャンと彼は鍵を締めた。
 カミューは鞄をどさっとソファ脇に放り投げ、スーツのジャケットを脱いだ。ネクタイを緩めていると、その様子を突っ立ったままの彼が困ったように見ていた。
「……何してる?」
「その……、こういうには初めてだから、どうしたらいいのか分からない」
「……、シャワーでも浴びておいで。省略しても構わないが」
 彼ははっとした様子で、何度か首を縦に振った。
「いや、浴びて来る。……少し待っててくれ」
 手荷物のなかった彼はそのままふらりとバスルームへ消えた。カミューはため息をつきながらベッドの端に腰掛けて、聞こえてきた水音に瞼を軽く伏せる。
 ――何をやっているのか自分は。
 自問は何の意味も成さなかった。口淋しくなったカミューは脱いだスーツのジャケットを取り上げて胸ポケットを探るが、目当てのものの手ごたえはない。ああ、禁煙してから1ヶ月経ったんだと馬鹿みたいに気づいて肩を落とした。いや待て、と考え直し、彼に全く煙草の臭いがなかったことを思い出す。吸わないのが正解かもしれないとカミューは自分を納得させた。
 やがてバスルームから物音が響き、彼が戻ってきた。実はどんな格好で出て来るのだろうと興味深々だったカミューだが、彼はさきほど着ていた服をそのまま着直していた。まあ当然だろうなと思いながらも、これからする行為を思うと彼の姿は酷く不自然だ。
 カミューは立ち上がって、少々ビクついている(その素振りを隠そうとしているけれど)彼の横を通り過ぎる。
「私も浴びて来る」
 絡む相手が男だからだろうか、普段は事前に浴びないシャワーを浴びる気になった。カミューは洗面所を兼ねた脱衣所で手っ取り早く服を脱ぎ、バスルームに入る。先程まで彼が使用していたので、換気扇の回る音はしていてもそこは蒸気に満ちていた。
 湯を胸で受けながら、カミューはこれからどうしようかな、なんて呑気に考えていた。
 忘れさせて欲しい、とは案外難しい注文だ。火遊びの代償が高くついた、なんてことにならなければいいが。――カミューは小さく呟いて、シャワーのノズルを締めた。
 洗面所の鏡で自分の裸体をちらりと見る。自慢ではないが無駄な肉のない均整の取れた身体だ。彼も同じくらいの身長だった。
(うまくできるかな)
 がっちり着込んでバスルームを出てきた彼に抵抗はあったが、どうせ脱ぐものだとカミューはバスタオルを腰に巻いた。彼も向こうで服くらい脱いで待っているかもしれない。カミューがベッドルームに戻ると、彼は着込んだままで小さくベッドの端に腰掛けていた。
 相当緊張しているな、とカミューは却って力が抜けてしまう。
 彼はカミューを見て少なからず心音が大きくなったに違いない。何か言いたげに顎を上げたが、声は漏れてこなかった。
「……服、脱いだら。」
 カミューは自分の声が意外に優しいことに驚いた。控えめなライトでオレンジに照らされた彼の顔が頷いて、彼は服のボタンに手をかけた。カミューは彼の隣に腰を下ろし、その様子をじっと見ている。おかしな光景であったに違いない。彼の手はもたついていたが、カミューは手助けせずにただ見守っていた。やがて彼の上半身が素肌になると、下腹部に手をかけようとしていた彼の手に触れて、カミューはその身体をころんと倒した。横になっている方が脱ぎ易いとの判断だった。
 ベッドに仰向けに倒れて天を見上げた彼は、不思議な丸い目をカミューに向けた。不安や恐怖や期待ではなく、ひたすら不思議そうにカミューの目を見つめる彼に、正直カミューはやりにくさを感じた。
「……、名前は?」
 言葉を用意していなかったため、カミューの声はまるで愛の囁きのようになってしまった。彼が困った顔をする。よく聞こえなかったのか、と思ってカミューは再び彼に名前を尋ねた。彼は今度は首を横に振った。
「……名前は、言えないのだ。言いたくない」
「言いたくないって……」
「すまないが、名前は呼ばないでくれないか。これきりにしたいんだ」
 カミューはその返事に少なからず衝撃を受けた。
 行きずりの関係なのは分かっているが、声をかけてきた相手から『これきりにしたい』と言われるのは気分の良いものではない。思わずこのまま服を来て部屋を出ようかとも思ってしまったが、彼の心底申し訳なさそうな瞳に結局は負けてしまった。
「分かった、やりにくいけど名前は聞かないよ。……キスは。キスはしても?」
 見知らぬ男とキスなんてごめんだ、と思っていたのだが、カミューはあらゆる手を使って彼を“慰めて”やりたくなったのだ。彼は何だか遠くを見るように瞬きをして、角度は小さかったが頷いた。
「お前が嫌でなければ」
「了解」
 カミューは呟きながら彼の口唇を摘んだ。昔好きだったけれども、名前を忘れてしまった菓子の味がした。








 明らかに彼のほうが辛そうだった――カミューは巧くいかないもどかしさが快楽に流されないよう、自分の口唇の端を噛みながら腰を動かしていた。
 穴が開けられたコンドームと一緒に並んでいたピンクローションで挿入には時間をかけなかったが、それから気持ちが良くなっているのは恐らくカミューのほうだけなのだ。経験がないと言った彼の言葉は嘘ではないだろう。ぎこちなく開いた脚の鋭角的な震えが苦痛を訴えている。
 カミューは彼の快楽を見つけようと口唇で胸を探るが、中枢に痛みを押し込められているせいか彼の反応は鈍い。もどかしさが苛立ちに変わっていく。
 彼の中はとても気持ちが良い。全てを忘れそうになるのはカミューのほうだった。何故自分がこんなことをしているか、彼が何故自分を強請ったか、どうでもいいような大切なことのような。カミューは彼が行き場なく指をシーツに絡ませているのに気付く。
 彼の指を取り上げて背中へ導いた。彼は躊躇した。カミューも触れただけで分かった、力の入った彼の指はカミューの背中を傷つけるだろう。構うもんかとカミューは腕をしっかり回させて、突き上げる腰の角度を変えた。
 彼が腹の下で呻く。少しは快感が混じっているのかどうか、カミューには分からない。
「名前、教えて」
 カミューはうわ言のように呟いた。
「教えて。私はカミューだ。カミュー。君は」
「……っ、……」
「私はカミューだ……、君の名前を」
「……っく、カ、ミュー……」
「教えて、君の名前。名前を。」
「カミュー……、……アッ」
「そうだ、私はカミューだ、君は……」
 彼が歯をぶつけるようにカミューの口唇を塞いだ。
 それが合図だったかのように、カミューが全身にぞくりと一筋の光が走るのを感じてしまった。
 彼の腰と深く繋がったまま、カミューは脱力した。その腕は彼を抱えて離そうとしなかった。彼の爪はカミューの背中に食い込んでいた。





 ***




 翌朝、カミューが目覚めた時には彼の姿はなかった。
 何となく予想していた光景だった。だからカミューは腕の力を緩めなかったのだが、それを解いて彼はベッドを抜け出てしまったのだ。
 朝だと言うのに窓のない部屋は時間の感覚を狂わせた。枕元にはカミューの時計と、その下に数枚の札。ホテル代のつもりだろうか、カミューは舌打ちをする。
 何か言いたげな黒い瞳。結局本当に何も聞けずに一夜があっさり過ぎてしまった。
 カミューはのろのろとベッドを這い出て、シャワーも浴びずに服を身につけた。ふと、脱衣所にくたびれたパスケースが落ちていることに気がついた。
 開くと期限切れの地下鉄の定期が入っていた。日付けは一カ月前。彼に何かあった時期。
 カミューはこのチャンスを、単純に彼が落としていった偶然とも、彼が意図的に落としていった必然とも受け取ることにした。このチャンスの頼り無さが今の自分には丁度良い。手早く着替えたカミューは足早にホテルを飛び出した。
「――マイクロトフか」
 次に囁くのは彼の前でだ――カミューは早朝の冷たい風の中、少ない人通りを擦り抜けて駅へ向かった。







さすが突発というような終わり方です…。
これで最後に名前がマイクロトフじゃなかったら
そっちのほうが面白いかも……(だめです)