QUICK,QUICK,SLOWLY






 想いを遂げて一週間が経った……。




「もしもし……私。うん……あのさ、今日は? ……大丈夫? うん、じゃあ私がそっちに……え、でも……」
 カミューは携帯片手にあっちへうろうろこっちへうろうろ。誰もいない廊下とはいえ妖しいことこの上ない。
「……分かった、待ってるよ。じゃ……」
 そっと名残惜しそうに電源を切り、カミューは携帯を見つめてため息をつく。
 電話の相手は勿論つい一週間前に恋人となったマイクロトフだ。
 お互い通話場所が会社なため大っぴらに愛の言葉は囁けないが、本来なら数分でも離れていたくない時期の筈である。
 しかし……
(何か調子狂うなあ……)
 マイクロトフはと言えば離れたくないどころか、ここ一週間自分から連絡を寄越すことがなかった。
 突然マイクロトフのアパートを訪れると物凄く驚いて「電話くらいしろ」と怒るし、その……あれ以来身体の関係もない。
(そりゃ多少酷くはしたけどさ……)
 カミューにとっては初恋に等しい相手だ。晴れて恋人どうしとなった今は、もっともっと2人でいろんなことをしたいのに。
「少し逢うにもいちいちお電話、か……」
 そう呟いて、カミューは1人廊下に靴音を響かせた。




「すまん、遅れた」
 マイクロトフがカミューのマンションにやってきたのは午後8時近く。
 カミューは半ば待ちくたびれていたが、愛しい恋人の姿を見ると疲れも吹っ飛ぶ。
「待ってたよ、仕事長引いたのか? 疲れた?」
「いや、大丈夫……カミュー、夕食は?」
「さっきカップラーメン食べた」
「そんなのですますな、待ってろ、今何か……」
 コートを脱いで早速夕飯の支度に取りかかろうとするマイクロトフを、カミューは慌てて引き止める。
「いいよ、そんなの」
「駄目だ、また風邪をひくぞ」
「いいって、時間が勿体無い」
 キッチンへ向かおうとしていたマイクロトフを後ろから抱き締めると、その身体がびくりと止まる。
 うなじにそっと口唇を当てた。
「そんなことより……一緒にいようよ」
 マイクロトフの首がカミューにも分かる程赤く染まっている。どんな表情をしているのか容易に想像がつく。
 更に腕に力を込めると、マイクロトフは分かったと小さく呟いてカミューから逃れた。離れたソファまで歩いて行ってぽすんと腰を下ろす。
 カミューは、あからさまではないにしろ避けられたような気がしてひっそり肩を落とした。
 ここ一週間、ずっとこんな調子で想いを拒まれているような気がする。身体に触れることすら嫌がられているように感じてならないのだ。
 カミューは悲しく思いながらも、マイクロトフの隣に座った。そのまま腰でも引き寄せたいが、とりあえず我慢しておく。
「マイクロトフ、今週末暇? どっか行かない?」
 雰囲気を変えるべくカミューは明るい声を出した。ところがマイクロトフはすまなさそうに顔を曇らせる。
「すまん……土日はちょっと会社で」
「……あ、そうなんだ……」
 会話が途切れた。
(おかしい……)
 こんなはずではなかったのだが……。カミューは予定と狂った蜜月期に頭を悩ませる。
 つきあい始めなんだから、もっとべたべたしてもいいはずだ。流石に世間体があるので人目憚らずという訳にはいかないが、2人きりの時くらいもっと密着してもいいのではないだろうか。
(まさか今になって後悔してるのかな……)
 マイクロトフならあり得ないことはないだろう。勢いで受け入れてしまったが、この後で苦悩する彼の様子がまざまざと浮かぶようである。
 ――だって男同士だし。掘られちゃった訳だし。
(私だって信じられないけどさ)
 隣に座る、何処からどう見ても逞しい成人男性に欲情するだなんて。その潔癖な白いシャツを引きちぎりたい、なんて。
「……マイクロトフ、キスしていい」
「えっ……」
 マイクロトフは一瞬言葉を詰まらせ、それからまた頬を赤く染めて小さく頷いた。視線はカミューから逸らして。
 カミューはそっとマイクロトフの頬に触れ、目を閉じた瞼に小さな口付けを落としてから、その口唇に触れるだけのキスをした。触れるだけ。これ以上するとこっちがどうにかなりかねない。
 硬直したマイクロトフの身体を抱き寄せて、ふうと息をつく。
 これより先に進展できるのだろうか。
 せめて、許可を取らなくてもキスができるくらいには……


 その後は大した会話も交わさずに、ぎこちない動きでマイクロトフが帰ったのは午後十時。
 戸口で見送ったカミューは、閉じられたドアの前で口唇を噛んだ。




 *




 カミューに……抱かれて、から一週間が過ぎた……。




「ふう……」
 マイクロトフはため息をついた。
 こんなふうにカミューのマンションから出て来るのは少し後ろめたい。
『もう少し居ればいいのに』
 カミューはいつも軽い調子でそう言うが、口調よりもずっと本気でそう思っているのだろう。別れ時の目は雄弁だ。
(一緒にいたくない訳じゃない)
 いたくないのなら初めから逢いに来ない。
 カミューの顔は見たいのだが、……いざ逢うと妙にかしこまってしまう。
 人とつきあった経験がカミューと比べて決定的に少ないからかもしれない。カミューが自然に望むことに抵抗があるのだ。
 今までは気にしていなかったことも気にするようになって来た。カミューの反応がいちいち不安で電話をするのが怖い。そのくせカミューから電話がないともっと不安になる。
(一体幾つになったんだ、俺は…)
 こんなことになろうとは……まさか男と恋人になるなんて。
 カミューが本気で思ってくれているということは分かる。冗談でこういうことを男相手にする奴ではない。でなければいくらなんでも身体を許したりするものか。そのせいで酷い目にはあったが……。
 ただひとつ、心配なのはカミューの今までの女性とのつきあい方だ。
 すでに名前程度しかカミューの記憶に残っていない彼女達……い自分だってその仲間入りをしないとは限らないではないか。
(おまけに俺は男だ)
 何処をどうしたって女性的ではないし、カミューから何度も連発されたようにドジで単純で鈍くておせっかいで……回りくどいが、要するにカミューに忘れられるのが嫌なのだ。想像すると怖いのだ。
 このまま戻れない程本気になってしまったら、こんな男同士の関係でカミューから離れられなくなってしまったら、いざ彼に切り捨てられた時どうすればいい? 逆だってあり得ないとは限らない。もし自分がカミューを忘れてしまったらカミューはどうなる……?
 今は想像ができなくても、人の気持ちなんて分からないものだ。数年後どうなっているのか確信など持てるはずがない。
 だから、思い切れないのだ。
 境界線は越えてしまったが、それより先に進むことができない。かといって後戻りもできやしない。
「……俺だって好きだ」
 マイクロトフは、一週間前にどうしても言うことの出来なかった言葉をそっと呟いた。



 *



 夕べの別れ方はどうも気まずかった――
 カミューは気を抜けば飛んで行きそうな心を、無理矢理仕事に向かわせる。
 何しろここ最近は傍目に分かる程落ち着きがなかったし、特にあの時からは日ごとに浮かれたり沈んだり、他人に感情をうまく隠せないでいるのだ。
 今まで築いて来た信用にも関わる。今の時間は集中しないと……
(っても無理なんだけど)
 寝ても覚めても、とはこのことを言うのか。こんなに1日中マイクロトフのことを考えているなんて……恋とは素晴らしくも厄介なものだ。
 また少しぼうっとしてきたカミューの目の前に、ふいに白いものがチラつく。
「?」
 反射的にその用紙を受け取り、書かれている文字を目で追った。
 ――慰安旅行日程?
 振り向くと相変わらず仏頂面の同僚グレンシールが立っていた。
「とっとと気づけ」
「ああ……ごめん、ちょっと考え事してて」
 カミューの返事などどうでもいいらしく、グレンシールはさっさと離れたくて仕方がないらしい。
「確かに渡したからな」
「待ってグレンシール」
 グレンシールは嫌々振り返る。
「これ、何だい」
「見ての通りだ」
「見ての……って、旅行の話なんていつ決まったんだ?」
 カミューの言葉にぐれんシールはおかしな顔をした。釣られてカミューも少し妙な顔になる。
「かなり前から話していただろう」
「そうだっけ……?」
「お前も参加すると返事したことになってる」
「えっ、本当か?」
 かなり前……いつからだろう。ここのところずっと心あらず状態で、適当に返事をしてしまったのだろうか。そういえば参加を聞かれたような聞かれてないような。
 想いが通じる前も通じた後も、ずっと頭の中はマイクロトフに振り回されていた。何を聞かれてもまともに受け答えができていなかったんだろう……我ながら情けない、とカミューは苦笑いする。
「そうか、分かった」
 カミューがそう言うと、余計なことで足留めするなと言わんばかりの目でグレンシールは去っていった。
 カミューは改めて旅行の日程表を見る。
 ――なんだ、今度の土日じゃないか。
(どっちにしろマイクロトフと約束できなかったってことか…)
 慰安旅行程度ならマイクロトフのために蹴っただろうけど。近場の温泉に浸かるよりもマイクロトフと2人でいるほうがずっと有意義だ。多少空回り気味ではあるのだが。
 カミューは日程表を机の脇に避けた。
(マイクロトフに逢いたいなあ……)




 昼時、社員食堂はいつもの混雑の中だった。
 マイクロトフはトレイを持ち、好物のカツ丼を受け取って空いている席につく。食べようか迷っていると、先程同僚の女性社員に呼び止められたフリックが追い付いて来た。
「悪い、今食いもん取って来るから先食べててくれ」
「何だったのだ一体?」
 マイクロトフが訪ねると、フリックはテーブルに2枚の紙を滑らせた。
「一枚お前の分。見といてくれ」
 そう告げると、フリックはトレイ置き場へと向かって行く。
 マイクロトフは置かれた紙に視線を落とした。
(旅行の日程表……か)
 今度の土日で一泊の社内慰安旅行。例年までなら特に深く考えずに参加していたのだが、今回ばかりは少し気が進まなかった。
 お互いに仕事があるので、平日は遅い時間じゃないとカミューに逢えない。長く一緒にいられる折角の土日だというのに、カミューの誘いを断ることになってしまった。
(しかし当時はカミューとこんなことになるなんて思っていなかったからな)
 カミューは気を悪くしなかっただろうか……。次の土日はちゃんと空けておこう。
 マイクロトフはもそもそと食事を口に運びながら、心の中でカミューに謝った。
 大方食べ終わった後、そういえばフリックはと見渡すと、セルフサービスの水をやかんごとぶちまけて掃除をさせられているのが目に入った。見てしまった以上仕方がないと、マイクロトフは手伝いに席を立った。