「へえ、風流だな」 バスから降りたカミューは旅館を見上げて呟いた。 近場で済ませたとはいえ今回の旅行先は温泉の名所。宿もそれなりの歴史を持つ建物で、重厚なくすんだ壁に葉を垂らした木々がよく栄えていた。 ぞろぞろと一泊分の荷物を抱えた男女が旅館の中に入って行き、中を見渡す。 「皆ここには初めてなのかい?」 カミューより2つ年上の先輩社員オウランが、集まった全員に声をかける。その様子から見てこの旅館に宿泊した者はいないようだ。 「近いけど穴場だったろ?」 各部屋のルームキーを持ったビクトールがフロントから戻って来て、その場の独断と偏見で部屋割りを決めて行く。 「ほい、カミューとグレンシール」 ビクトールの太い腕が差し出すキーを、カミューとグレンシールは本能で拒んだ。グレンシールなどはあからさまに「嫌だ」というオーラを発している。 「我慢しろよ、お前等が一番協調性ないんだから」 「どういう意味ですか、ビクトール先輩……」 「そのまんまの意味だよ、ほれ」 再度ビクトールが突き出したルームキー、カミューは渋々受け取った。グレンシールがこちらを睨み付けている……嫌な視線を感じるが、カミューは振り向くのをやめる。どうせ一泊だし、お互い何も話さずに寝るだけなのだ……多少は我慢しよう。 それぞれ一旦部屋に荷物を起き、宴会が始まるまで自由行動、後程広間……宴会場で集合ということになった。カミューはキーを持っている手前グレンシールの前を歩くが、後ろから無言の抵抗を感じてため息をつく。 一泊だけでどっと疲れそうだ。 (帰ったらマイクロトフに電話しよう……) いや、帰らなくても電話ならここでもできるな――カミューは携帯の充電器を荷物に入れたことを確認する。 宴会が落ち着いたら、こっそり抜け出してマイクロトフに電話しよう……。 カミューは割り当てられた部屋のドアに鍵を差し込みながら、成り立ての恋人の姿を想った。 「落ち着いた建物なんだな」 マイクロトフは肩の荷物を抱え直しながら旅館を見上げる。 元気そうにしっかり立っているのはマイクロトフくらいで、以下の人々はぐったりと疲れていた。 「誰だよ、バス手配できなかったの……!」 悪態をつくのは今年入社したばかりのシーナだ。一番若いというのに一番へたばっている。 マイクロトフの後ろでフリックががっくりと頭を垂れた。本当ならバスでここまで来るはずだったのだが、フリックがバス会社に電話をしたところ空きがなく、急遽電車を使うことになったのである。 電車で最寄りの駅まではそれほど時間がかからないが、駅から旅館までが何しろ遠過ぎた。半端な時間のためバスも通らず、一向は渋々徒歩で旅館までの道のりを辿って来たのである。 「まあ、とりあえず到着したんですから……中に入ってひと休みしましょう。」 人のいいフリード係長が疲れた笑顔で彼らを先導し、疲れた脚を引きずって全員旅館の中へ入って行った。 部屋の割り当てはあらかじめ決めてあったため、それぞれルームキーを受け取って荷物を置きに行く。 「大丈夫かフリック?」 マイクロトフは周りの集中攻撃もあって疲れ果てているフリックに声をかけた。フリックは頷くが、内心バス取り役はもう二度とごめんだと思っているに違いない。 マイクロトフは苦笑しながらフリックとの相部屋へ脚を向ける。 開いたドアの向こうは、想像よりもずっと良い景色が広がっていた。 「へえ……」 荷物を下ろしたフリックがようやく明るい顔になる。 「案外穴場じゃないのか、ここは」 「そうだな、いい景色だ」 「これでバスさえ取れてりゃな……」 「もうそれは気にするな、フリック」 そう言ってくれるのはお前だけだよ、とフリックは友人の肩を叩いた。マイクロトフはいつも運の悪い同僚に心から同情した……。 夕飯までにひと風呂浴びるため、マイクロトフとフリックは入浴の準備を始めた。 宴会になってからでは折角の温泉に入り損ねるかもしれない。意識があるうちに、とはフリックの言葉だが、マイクロトフはそこまで飲むつもりはなかった。どうもフリックはヤケ酒を兼ねているらしい。 「もう浴衣になるのか?」 部屋に用意されていた浴衣のサイズを確かめているフリックにマイクロトフが尋ねる。 「ああ、どうせこの後は飲んで食って寝るだけだろ」 「うーん……では俺も浴衣でいいか」 2人が一階にある大浴場に向かう途中、見知った女性たちがロビーで缶ビール片手に談笑しているのが見えて来た。 「おいおい、お前等もう始めてんのか」 呆れ顔でフリックがそう言うと、すでに酔いが回っているらしいアニタが手をひらひらと振る。 「あーらフリックにマイクロトフ、温泉いいお湯だったわよ〜。あんたたちも行ってらっしゃいよ」 「これから行くところだよ」 アニタの横では割と落ち着いた様子のバレリア、2人ともマイクロトフの先輩社員である。その隣には同期のテレーズ、更に隣にシーナと同じく新入社員のテンガアールが、それぞれ機嫌のいい顔で湯上がりのビールを楽しんでいたようだった。 「露天風呂はなかなかよい景色でしたよ」 テレーズの言葉にマイクロトフの顔が綻ぶ。 「だそうだ、フリック。俺達ものんびりしてこよう」 「ああ、そうだな。……お前らもやり過ぎるなよ。宴会前に潰れたって知らねえからな」 はーい、と揃った可愛らしい声に2人は苦笑して、その場を通り過ぎようとした。 「それにしても、さっきのはいいオトコだったよねえ……!」 もう2人のことはどうでもいいというように、アニタの大きな声が響いて来る。フリックは肩を竦めてマイクロトフに目で合図した。マイクロトフも軽く首を傾げながら笑って、大浴場への道しるべに目を向けかけたのだが…… 「そうそう、何てゆーんですか、あの髪? 亜麻色っていうのかな? すっごい綺麗な男の人でしたよねっ!」 テンガアールの無邪気なつけたしにはたと脚が止まる。 「マイクロトフ?」 フリックが釣られて立ち止まった。 「道、間違ってないぜ」 フリックは『大浴場はこちら』と書かれた壁の案内図を指差して、マイクロトフを促した。 「あ、ああ……」 (まさかな。) マイクロトフはふるふると軽く頭を振って、一言フリックにすまんと謝ってから歩き始めた。 亜麻色の髪の人なんて珍しくもないだろう……。 それだけ気にしている証拠だろうな。 想い人は今頃一人マンションでテレビでも見ているか、眠っているはずだ。 風呂から上がったら電話しよう―― 「出ない……」 カミューは携帯を握りしめて思わず呟く。まだ夕飯までには時間があるとはいえ、普段は休みの土曜の仕事ならそろそろ手が空く頃かと思ったのだが。 たまたま時間が悪かっただろうかと、カミューは諦めて携帯を閉じた。 この中途半端な時間、グレンシールと2人で部屋にいるなんて絶対にごめんだし(向こうだって冗談じゃないだろう)、のんびり温泉というのもこの後の宴会を思うと疲れが増すだけのような気がする。 マイクロトフとの電話が一番有意義だ、と携帯を手にしたはいいのだが。 「……また後でかけ直すか」 それにしても、仕事の内容を聞いていなかった。最近何かと忙しそうだったからその一環だろうとは思うのだが……何時頃戻るのかくらいは聞いておけばよかったな。カミューは人目を避けていた旅館の外れから、先程やって来た道を元通りに辿っていった。 (そういえば、こっちも旅行だと告げていなかった気がするな) 最後に逢ってから電話でしか会話ができなかったから、つい言いそびれてしまった。恐らくマンションの方に電話をすることはないと思うが、それを含めて伝えておかないと。 (悪くないところだけど) 今度、マイクロトフを連れてこようか……。 そんなことを考えながら、来た時と同じようにカミューがロビーを横切ると、数人の女性達がヒソヒソ囁きあいながらこちらを見ているのに気づく。同じ視線をさっきも受けたよな、とカミューは少し愛想よく微笑んでみせた。4人いる女性の中で、一番年の若そうな女の子がきゃっと小さく声をあげる。 (こっちも何処かの慰安旅行かな) 年齢がバラバラの女性達はこんな時間からビールを片手に楽しんでいるようだ。なかなかパワフルだな、とその横を通り過ぎた。 一旦部屋に戻ろうとエレベーターの前に行くと、傍にあった自動販売機でオウランとその友人エミリアが缶ビールを買っているところに遭遇する。 (どこの女性達も一緒か) 宴会まで待つことが出来ないらしい。 苦笑したカミューに気づいた浴衣姿のオウランが、 「おや、カミュー。グレンシールは?」 早速缶のプルタブを引きながら言った。プシュッと小気味いい音が聞こえる。 「あいつなら部屋で寝てますよ」 「何しに来たんだろうねェ、あの男は」 ボリュームのあるオウランの胸元は浴衣の合わせがギリギリだ。健全な男として視線はやはり向かってしまうが、欲情まではしない。この辺りは意識が少し変わってきたようだ。 「あんたは何やってんだい」 「私は館内見学ですよ」 「暇な男だね。あんたも温泉入ってきたら?」 オウランが言うと、エミリアも相槌を打った。 「露天風呂はいい景色でしたよ」 そう言って、オウランと顔を見合わせて笑う。 「?」 不思議そうに首を傾げてみせるカミューに、オウランは軽く辺りを見渡してからそっと耳打ちをした。 「実はね」 女湯の露天風呂から男湯の露天風呂が丸見えなのさ。 オウランの言葉にさすがにカミューもぎょっとした。 どうやら女湯は男湯の上に作られているらしく、男湯からは微妙な角度で分かりにくいが上から覗き放題になっているらしい。――カミューは露天風呂には入らないことを決めた。 「それで、カワイイ男2人がいたんだけどさ、そのうち一人が足滑らせてすっ転んでね……」 「それはそれは……」 「岩に頭を打ったらしくてさ。もう一人が慌てて引きずっていったんだけどそれがまた可笑しくってね、ねぇエミリア?」 「ええ、もうずっと笑いっぱなしだったわ」 どうやら2人は一部始終を見ていたようだ。カミューは転んだ男に同情した。 「露天風呂は気をつけることにしますよ。では私は部屋に戻りますから」 「ああ、また宴会の時にね」 オウランとエミリアに頭を下げ、カミューはエレベーターのボタンを押した。 エレベーターがゆっくり降りて来るのを待つ間、エミリアのこんな声が聞こえて来た。 「でもあの男の子可愛かったわね。あんなふうに前髪がぱつんってなってるのも新鮮でいいわね」 カミューが思わず振り返る。 それに気づいたオウランが不思議そうに瞬きをした。 「……何だい、カミュー?」 「あ……、い、いえ別に……」 「エレベーター来てるよ」 「あ」 失礼します、と慌てて乗り込む。 (過剰反応だよなあ) 閉じたエレベーターのドアを確認してからカミューはふうと息をついた。 前髪を短く切り揃えている男なんていくらでもいるだろうに…… (まだ仕事してるのかな) 手の中の携帯を握りしめる。 ああ、また逢いたくなってしまった…… 「大丈夫かフリック……」 「うーん……」 脱衣所に横たわったまましばらく動けずにいたフリックに、マイクロトフは水で冷やしたタオルを渡してやる。 「岩にぶつかったようだが……頭は平気か?」 「ずきずきするけど大丈夫……だと思う」 幸い血は出ていないようだが、後頭部をしこたま打ち付けた音を思い出してマイクロトフは身震いする。 「やはり病院に行ったほうが」 「いや、大丈夫だって……くそ、あの熊男め……」 露天風呂からの絶景を一通り楽しみ、さて上がるかと2人が湯から出たところ、フリックが足を下ろしたその先に誰かの置き忘れたタオルがあった。それを思いきり踏み付けて、あっと思う間もなくフリックは後ろに滑ってすっ転んでしまったのだ。運の悪いことに岩で頭を打つというおまけつきだ。 マイクロトフが慌ててフリックを助け起こそうとすると、大浴場のほうから「悪い悪い!」と悪びれない熊のような男がぶんぶん手を振っていたのが見えた……どうやらタオルの持ち主のようだった。 「起きれるか?」 「ああ……、全く、あの男どこに行ったんだ……?」 フリックはよろよろと身体を起こして、冷えたタオルを改めて後頭部に当てる。すでに着替えていたマイクロトフはフリックの浴衣を渡し、脱衣所に掛かっている時計を見た。 「何だかんだ言って時間が過ぎたな。着替えたら大広間に行ったほうがいい」 「くそっ、折角の温泉なのにちっとも楽しめなかったぞ」 文句を言い続けるフリックをマイクロトフは宥めつつ、分からないようにため息をついた。 (――宴会が始まる前に電話をする時間はあるかな……) ほんの少し声を聞きたいのだけれど…… |