月の光、それは時の満ち欠けのように






 指を繋いだあの日から、視線を合わせたその日から、どうしてか当然のように傍にいた。
 感情の起伏にも似た勾配の急なこの時代、幾つかの戦乱を体験し、ささやかな幸せと、儚気な沈黙と、口に出さない確かな約束が胸の内に残る。
 出逢ってからの年月はすでに二桁となった。
 初めて身体を預けたのはそれほど過去のことでもないはずだった。指を繋いだ時のように、皮膚から伝わる熱に多少の興奮を覚えたけれども、それだけ。時に言葉よりも雄弁で、剣を取るよりも乱暴な時間だった。
 それも今は遠い昔のことのように思える。
 戸惑いは刹那。
 躊躇いは互いで封印をした。
 息をすることと共に在ることは同じこと――いつしかそんな奇妙な感覚がそれぞれの胸に住み着くようになった。
 満ちた月の膨らみのような、黄金色の想いに名をつけることはできなかった。







 ***







「招待客のリストについてですが」
「当日の内装に関して責任者がいくつかの問題点を」
「夜間の警護の配置なのですが、会場周辺の人数がいささか不適切ではないかと」
 入れ代わり立ち代わり、全く切れることのない報告・連絡・相談の見事な三パターンが次々と波状攻撃を仕掛けて来る。ここ数週間の変わらない光景に、流石のタフなマイクロトフもうんざりしてきた。
 終戦からようやく半年、いや実際に戦の前線に居たマイクロトフとしてはまだ半年である。この六ヶ月はまさに不眠不休の働きを強いられ、そろそろ心身共に参ってもおかしくない頃だった。
(戦で寝ずに剣を持つよりも疲れるとは不思議なものだ)
 ノースウィンドウを拠点に今では一国を築いた集団を人は同盟軍と呼んだ。ノースウィンドウを北へ山を越えたところに、城下を騎士達が徘徊するここロックアックス城がそびえている。この領地が同盟軍と敵対するハイランドへの加担を選んだ時、規律の厳しいマチルダ騎士団は大きく分裂をすることとなった。
 同盟軍への参加の道を選んだ赤騎士団長カミュー、青騎士団長マイクロトフ。
 結果としてハイランドの傘下とならざるを得なかった白騎士団長ゴルドー。
 大きく分断された騎士団がひとつとなるには、終戦から数カ月の努力を要することとなった。
 戦死したゴルドーに代わりマチルダを導くのはカミューとマイクロトフの役目だった。正確には導かざるを得なかった。残された者だけではあまりにも若く、多くの有能な人材をこの戦争で亡くしていたこの城では、かつての団長を呼び戻す他にマチルダ騎士団の再建はあり得ない状態にあったのである。
 しかし人々は逞しかった。自分達の愛する故郷の本来在るべき姿を取り戻すため、一人一人が彼らなりに努力をしたのだった。――結果、統率は崩れなかった。
 各市が新たな街づくりを進め、マチルダ騎士団もまた彼らとの連携を深めて、ようやくひとつの区切りを祝うための式典を計画することができるまでになった。
 手放しで喜びを分かち合う場とならないことはカミュー・マイクロトフとも充分承知していたが、少しでもこの領内に暮らす人の笑顔が増えるよう、日々の激務に勤しんでいたのだった。




 夜空に滲むようなぼやけた月の輪郭を窓ガラス越しに眺めていたマイクロトフは、聞き慣れたタイミングのノックに静かに振り返った。
 返事を待たずにドアから顔を出したのはやはりカミューだった。「起きていたか?」とからかうような口調のカミューにマイクロトフもああ、と苦笑する。
「考え事をしていた」
 恐らく眠る前のひとときを軽いおしゃべりで締めくくろうと思ったのだろう――カミューの来訪をそう受け取ったマイクロトフは、簡単な酒の準備を始めた。準備を止めるカミューの声がないのは、マイクロトフの読みが当たっている証拠なのだろう。
「考えることは山ほどある。やるべきこともな」
 カミューはひっそりと口にして、彼がいつもマイクロトフの部屋で使っているグラスを受け取った。グラスの中には琥珀色の液体が揺らめいていた。
 人工的な光を消して、月の明かりに照らせば余程映えるに違いない。カミューの瞳の色を見ながら、マイクロトフは少しだけ目を細めた。
「頭も身体も休まらんという訳か」
 カミューに勧めた椅子と向かい合うように、マイクロトフはため息まじりに腰を降ろした。カミューは軽く肩を竦めて、肯定とも否定ともつかない素振りを見せる。しかし連日の職務で彼が疲れていることはマイクロトフが一番よく分かっていた。
 二人にかかっていた負荷は並みではなかった。騎士団の現トップとして何から何まで指示を出すには、自分達が少々若いことはお互いがよく分かっている。神経をすり減らし、これまでの事例を基礎に新たな街を造るのは穏やかなことではない。壊すまでの過程は案外簡単に進められるものだ。だが造り出すことは。
 それでいてカミューもマイクロトフも、こうして二人で過ごす穏やかな時間を削ろうとはしなかった。何のことはない、ただの世間話やその時問題になっている騎士団での出来事などを決まりなく話すだけだ。数日に一度、数十分から時に一時間ほど、こんな二人だけの秘密の会合を設ける。それがささやかな楽しみとなっていた。
 マイクロトフはこの時間が好きだった。
 いかな親友と言えども昼間は業務の顔で、こうして二人だけで話す時とは違ったフィルタがかかるのは確かである。だからこそ話し合いに減り張りがつくのだが、弛んだ時間も必要だった。
 他愛のない話も、真面目な話も、今ここで二人でいなければできないものだった。この大切な時間がなければ、自分達は酷くつまらない人間になっていただろう。マイクロトフはゆったりしたペースでアルコールを舌に湿らせる。この一杯がいつもの定時。
「じゃあ、そろそろ私は失礼するかな」
 カミューが空のグラスを名残惜しそうにゆるりと回した。
「ああ、おやすみ」
 マイクロトフも立ち上がる。
 戸口までカミューを見送って、もう一度おやすみの挨拶を交わす。それからドアが閉まると、いつも感じる一日の満足感と僅かな淋しさを伏せた目で噛み締めるのだ。
 もう一度窓際に立ち、滲んだ月を見上げて眉間に僅かな皺を寄せる。
 このささやかな時間が二人の安らぎだった。それが長く続かないことも、マイクロトフは知っていた。







 ***






 それは三ヶ月前のことだった。
 戦の集結から時が経ったとはいえ、城下の混乱が完全に収まっていた訳ではなかった。視察を決めたマイクロトフを一度は止めようとしたカミューだったが、最後には同行を申し出てくれた。両騎士団長が連れ立って街を歩くのはあまりに目立ちすぎるという理由で、二人はお忍びの軽装で城下に降り立つこととなった。
 街の修復は進んでいたが、それもよく目につく大通りに限ってのことであるとマイクロトフは初めて知った。狭い裏路地に入れば崩れた壁や塀がそのままに戦乱を物語っている。昼間だというのに職を持っている様子のない男たちが多いのにも驚いた。原因はすぐに察することとなったが、マイクロトフは曇った顔を戻すことができずにいた。
 ――……マイクロトフ
 見兼ねたカミューがマイクロトフの肩に手をかけた時、先ほどから遠くで二人を伺っていた男が近付いて来るのが分かった。くたびれた服装の暈けた色合いがマイクロトフの目に映った時、男はすでに二人の目の前で黒目をぎょろりと回転させていた。
 ――……お偉いさんが何しに来た。ここはてめえらのせいで生活をめちゃくちゃにされた奴らの溜まり場だよ。
 マイクロトフがひゅっと息を吸い込む。
 ――自分達で街をぶち壊した張本人がのこのこ戻ってくるとはな
 カミューが何か言葉を繋ごうとした。恐らく反論という形ではなく、この場をうまくまとめるためのフォローの言葉だったのだろう。現に男と対峙している間に人がちらほらと集まりつつあり、二人が両騎士団長であると騒がれるのも時間の問題だった。しかしマイクロトフはカミューの回避を差し出した右手で遮った。
 聞いておきたかったのだ。恨み言は何度も耳に入って来た。周りの人間が聞かせるまいとしていたことも重々承知していた。――マイクロトフは聞いておきたかったのだ。
 自分達のしたことで誰かの運命が確実に変わっている。それは騎士団を一度離反した本人も例外ではないのだが、それぞれの事情を理解して受け入れることが全ての人間にできるはずがない。マイクロトフも、騎士団領に生きる人々の話は聞いていても、直で彼らの明らかな生活の変化を見るまでは『変化』の意味を正確に捕らえていたとは言い難かった。
 例えるなら嵐。マイクロトフの離反をきっかけに多数の騎士がロックアックスを出て、次に城へ踏み込んだ時は敵同士となっていた。一度吹いた風が力を増して戻って来たのである。その被害の直撃を受けたのは城下に暮らす人々だった。
 マイクロトフは彼らの話を聞こうとここまで来た。しかし、吐き捨てるような口調の男にもう一人、崩れた壁の影から現れた初老の男性からは、怒りではなく濃い悲しみの色が湧き出ていた。
 男性は怒れる男の少し後ろで立ち止まり、カミューとマイクロトフの顔を交互にゆっくり眺めた。それから、酷く穏やかな低い声でこう告げた。
 ――わしの妻は、名も知らん兵士に斬り殺されたよ……
 マイクロトフの脳裏にロックアックス攻防戦の混乱が駆け抜けた。
 先攻部隊が城に突入した後、城下は敵も見方も入り乱れた混戦状態に陥っていたと聞かされたのはずっと後のことだった。建物や一般の民への被害が決して少なくなかったこともその時に初めて聞かされた。だからこそマイクロトフはこの目で見て耳で話を聞いてみたいと思っていたのだ。
 自分達のしたことで誰かの運命が確実に変わっている。マイクロトフは聞いておきたかったのだ。
 ……それ以上の言葉はすでに耳に入って来なかった。
 カミューが一言二言彼らに何かを告げているのが分かった。マイクロトフは自分自身に冷静になれと何度も言い聞かせた。ついに彼らに何も言えずに帰路を辿ることを余儀無くされた訳だが、マイクロトフの目には深い悔恨と決心が内側から光を覗かせていた。
 その日、マイクロトフは改革を決意した。机上での書類を交えた言い争いでは絶対に解決できないことが、この街にはまだまだ多く残っている。
 己の非力はよく分かった、だからこそ使える力を全て集めてこの都市を立て直す決心がついたのだ。
 その夜のカミューは、いつも通りの態度の中で口調が酷く優しかった。
 二人はいつになく静かに語り合った。これから何ができるのか、何が必要なのか――熱を含む思いとは裏腹に柔らかな語らいだった。
 語りながら、マイクロトフはこれが自分の夢なのだと強く感じていた。生まれ育った騎士団領をこの手で救いたい。言葉にならないもどかしさは紅潮した頬が物語っていた。
 そうして、マイクロトフはカミューと道を分かつことを直感したのである。
 彼の目は、穏やかで優しくて淋しくて、確かな意志を持って遠くを見据えていた。
 手の中に握る人肌に温いワイングラスに、カーテンの隙間から顔を覗かせる月が半円描いて映し出されていた。






2003年3月発行のアオノリオフラインに参加させて頂いたものです。
最初の数行、今見るとこんなに恥ずかしいなんて……!