月の光、それは時の満ち欠けのように






 華やかな、それでいて冴え渡るような緊張感が空気を覆っていた。
 続々とやって来る人々は皆思い思いに着飾り、笑顔で城へと列を作る。その道の両側には一定の距離を置いて騎士達が警備に当たり、きらびやかな客人とは対照的厳しい表情を崩さなかった。
 かつて催し事に使用していたパーティールームは先の戦で半壊しており、今回の記念式典に間に合うよう、マチルダ領内の全ての建築家が総動員して新しい会場を造り上げた。以前よりも高く抜けた天井には見事なシャンデリアが光を纏って煌めいており、訪れた客人は一斉に天を見上げてため息を漏らす。
 ゆったりとしたスローワルツの音楽が流れる中、穏やかな談笑が響く。招待されたのは騎士団に縁のある一族、各都市の大使達、特権階級と呼ばれる人々。彼らは久方ぶりのロックアックス城でのパーティーに戦中の出来事を話題にせずにはいられなかった。時折秘密めいた囁き声を含みながら、式典が幕を開けた。
 月は限り無く真円に近い球体を描いていた。


 招待客への挨拶の波を擦り抜けたマイクロトフは、流石に疲れからのため息を口にして会場を抜け出した。
 分刻みでスケジュールが決められているようなものだ。ましてや今現在の騎士団を担う立場であるマイクロトフは、式典での仕事の他にこの城のホストとしての役目もある。歓談中の今も本来ならば会場を離れることができないはずだったのだ。
 三階のパーティー会場とは一階違いの四階、小会議室に安息の地を見つけたマイクロトフは、窓を開けて夜の空を見ていた。月の温度がやけに冷たく感じる。ほんの僅かな息抜きのつもりだった。
 ふいにドアを開く音にマイクロトフははっと振り返って、相手がカミューと分かったことからの安堵の色と、申し訳なさそうに垂れた眉を見せる。
「……すまん。もうそろそろ戻ろうと思っていた」
 抜け出したことを素直に詫びるマイクロトフに、カミューが苦笑いを向ける。
「謝るな。まだ誰も気にしちゃいないさ」
「そうだろうか」
「まだね。私も揃っていないとなると、あまり長くはもたないかもしれないが」
 マイクロトフは少し笑い返す。
 カミューはドアを閉めてマイクロトフのいる窓へと近付いた。開け放された窓からは、階下の華やかな音楽が柔らかく届いている。風の緩やかな静かな夜、城下の灯りが仄かに見えるこの場所はまるで二人に与えられた特権のようなものだった。
「いい場所を見つけたな。静かだ」
「ちょっと風に当たりたかったんだ。ほんの少しだけ」
「分かってるよ」
 ほんの少し、という言葉にやや力を込めたマイクロトフに、カミューの目元が緩む。黙って抜け出して、面倒な役目をカミューに押し付けたのではないことを強調しているのだろう。尤もカミューはそんなこと百も承知だった。
「何事もなく終わりそうだろうか」
「今のところは、ね。上っ面だけかもしれないが、笑顔が多いのは正直安心したよ」
「本来ならば招待すべき人々は別にいるのだろうが」
「……」
「……そうもいかないのが辛い」
「……そうだね」
 マチルダに暮らす全ての人々と何か分かち合えないだろうか? ――青騎士団長の意見は理想として留められるに過ぎなかった。理想とは、実現は可能かもしれない不可能を言うのだと、誰かが呟いた。結局、下手に動いて却って街の人々の反感を買う結果になるかもしれないと、枠を広げたパーティーの発想は打ち切りになった。
 しかしマイクロトフのたっての願いで、まさに今、幾人かの騎士達は城下を走り回っていた。式典の記念品として、城のコック達が徹夜で焼き上げたクッキーを配るために奔走していたのである。勿論こんなことで誤魔化されない人々がいるのは確かで、その中の何人かからは罵倒を浴びせられることも少なくないだろう。それを承知でマイクロトフは、騎士達に頭を下げた。彼らはそんなマイクロトフを制し、任せて下さいと城を飛び出していったのだった。
「俺は恵まれている」
「……マイク」
「俺はいつも……恵まれ過ぎて……」
「……その分辛い目に合ってるのは、私が知ってる」
 カミューの腕がふいにマイクロトフの肩に回り、その熱にマイクロトフは思わず目を伏せた。
 これまでマイクロトフが何か揉め事を起こす度、カミューの暗躍に随分助けられていたことはマイクロトフも分かっていた。だからこそカミューが自分の傍を離れられないことも知っていた。
 ――恵まれ過ぎて
 マイクロトフの言葉は自分が情けなくなるほど本心から出たものだった。当たり前のように一緒に居てくれたカミュー、いつしか息をするように共に在った。絶対などあるはずがないことは分かっていたのに、錯覚を信じてしまいそうになるほど彼は優しかった……マイクロトフは抱かれる肩の暖かさに閉じてしまいそうな瞼を睫毛で支えていた。
 音楽が変わった。スローテンポから少し軽快なクイックステップへ。ふと、肩を抱いていたカミューの腕がするりと抜けて、マイクロトフの腕を取った。
 きょとんと目を開くマイクロトフに、少し悪戯めいた口唇で「踊ろう」とカミューは囁いた。マイクロトフが慌てて腕を解こうとするが、カミューは強引にマイクロトフの腰を抱く。
「待て、俺は女性のパートは踊れん」
 苦し紛れのマイクロトフの言葉に、じゃあとカミューはポジションを変える。マイクロトフに自分の腰を取らせて、ステップはどうだったかなと足を動かすカミューに、とうとうマイクロトフも降参した。
 それは奇妙なダンスシーンだった。上背のある二人が思い出しながらぎこちないステップを踏む。ささやかに聴こえて来る音楽にそれなりに身を任せて、いつしかカミューもマイクロトフも笑いが止まらなくなっていた。
「マイクロトフ、足が逆だ」
「うるさい、お前だって今俺の足を蹴っただろう」
「ぶつかったんだよ」
「おい、あんまり引っ張るな……」
 右にターン、爪先がお互いの脛を蹴る。左に回って、ちょっと忙しいへたくそなクイック・ステップ。それほど場所は動いていないのに何故か息が切れてしまう。笑い通しで腹も痛い。
 久しぶりにマイクロトフは心の底から楽しい気持ちを思い出した。本当は自分達はこんなふうにふざけあうのが大好きだったはずだ――忙しさに紛れて見失いそうになっていたけれど。
 ふと、同じように笑いを称えていたカミューの目が、密やかに色を変えたのをマイクロトフは見た。そのはっきりとした決意の色に思わず立ち止まりそうになってしまったほど……それでもマイクロトフは耐えた。
 息をするように一緒にいた仲だから、その胸に何を思っているのか分かってしまう。しかしそれは互いの暗黙に秘めた。
 音楽が変わって、二人は笑いながらパーティー会場へと戻った。勿論胃を痛めていた副長には酷い小言を食らってしまったが。
 悲し過ぎるほどに幸せ過ぎた風のない夜、月がやけにはっきりとした輪郭で地上に光を届けていた。








 これまでの夜と変わりなく、気紛れのようにお互いの裸を重ねて、少し乾いた口唇で何度かの口付けを交わす。疲れたようにベッドに沈み、微かにカミューの腕がマイクロトフの胸に絡まった。
 怠そうに頬を擦り寄せて、カミューの口唇がマイクロトフの下口唇を摘む。マイクロトフは目を閉じたまま細く長い息を漏らした。
 こうして身体を任せるもの、いつしか特別なことではなくなっていた。出逢ってからの年月はすでに二桁となっている。お互いの良いところも悪いところも頭にインプットされた関係。
 いつも通りに腕を絡めて、微睡みに委ねてどろどろと眠る。何度同じ夜があっただろう、まるで当たり前のことのように。
 心地よい疲れの残る呼吸が寝息に変わった頃、マイクロトフはひっそりと身体を起こした。素肌にはやや冷たい空気だったが、そのまま息を殺してカミューを見下ろす。――やがて、割と大きなため息をついた。息を殺しても意味はないのだ。カミューはすでに気づいているのだから。
 それでもマイクロトフはなるべく音を出さずに、そっとベッドから降りる。しっかり中央で閉じられたカーテンを開け放つと、輪郭の冴えた月の光が部屋に差し込んで来た。その眩しさは多少予想外だったが、マイクロトフはそのままベッドへもう一度潜り込む。二人分の温もりが残るシーツは文句無しに暖かかった。
 マイクロトフは月明かりの下、カミューを見下ろした。
 自分が枷になっているのは知っていた――いや、そんな言い方をするとカミューは怒るかもしれない。しかし自分がいなかったらカミューはもっと早くこの地を離れていたのだろう。マイクロトフは静かにカミューを見下ろしながら、出逢った頃からついさっきまでのことを頭に浮かぶ順番に思い出していた。
 思えば長いこと一緒にいたものだ。最初に指を繋いだのはもう随分前。共に戦い、時に罵りあい殴り合いそれでも最後は腕を絡めてこうして眠りについたものだ。
 優し過ぎたカミュー。騎士団を飛び出した時も彼は決して咎めなかった。それどころか傍にいてくれた。戦乱の中で騎士として人として悩む自分を支えるカミューがいなければ、今再びロックアックス城へ戻って来ることはなかったのかもしれない。
 マイクロトフはそっとカミューの前髪に触れた。強くて優しい大切な人だった。それはこれからも変わることはない、だけど。
 カミューは待っていたのだ。一人この地を離れる時を。それをマイクロトフの存在が随分延ばし延ばしに、こんなところまでついて来てくれた。
 ようやく戦を終えてロックアックスに降り立った今、カミューは時期を悟ったのだ。彼が決してそれを口にしないことも、口に出さずとも分かってしまうこともマイクロトフは知っていた。息をするように一緒にいた仲だ、考えていることが分かるのも仕方がない。
 マイクロトフはそっと身を屈めて、カミューに顔を近付けた。体勢が苦しかったので一旦身体を起こし、そっと彼の腹を跨ぐ。どうせカミューの目は開かないのだ、多少大胆になってもいいだろう……マイクロトフはそれでもあまり体重をかけないように、カミューの上でその目を閉じた顔を見つめた。
 思えば自分から口付けしたことはなかった気がする。優しい腕にいつも甘やかされて、その時はどんなに辛くとも今思えば全て幸せだった。
「待つのはガラじゃないんだが」
 マイクロトフはぽつりと呟き、静かに静かに顔を傾けていった。口唇の先がカミューの口唇に触れる。少しだけ押し当て、声を殺してそっと離す。
 戻って来るかもしれない、戻って来ないかもしれない。待っていても無駄なのかもしれない。それでもカミューのやりたいことをこれ以上留めることはできない。
 出逢ってから今日まで、当たり前のように傍にいたのだ。ならばしみったれた愛の言葉は必要ない。カミューは眠るフリを続け、マイクロトフは気づかないフリを続ける。そうして明日には二人の景色が変わっても、それに耐えられるだけの時間をかけたはずなのだ。
 カミューの腹に乗ったままで、マイクロトフはもう一度身を屈める。緩く閉じられた月蝕のような瞼。その半円に口唇を当てて、マイクロトフはありったけの感謝を込めた。
 どれだけそうしていただろう、口唇を離したマイクロトフはカミューの身体からそっと降りて、ベッドの下に蹲っていた服を拾う。音を出さないように身につけると、もう一度カミューを振り返ろうとして……やめた。あと一度振り返ると、その琥珀色の瞳が月明かりに映える樣を見たいと思ってしまうかもしれない。マイクロトフは静かに部屋を出た。
 月は眩しかった。背中を照らしたその光は眩しかったに違いない。
 マイクロトフの消えたその部屋で、月よりも眩しい琥珀の瞳がゆっくりを瞼を開いたのは振り向かなくても分かっていた。






 翌朝、カミューの部屋は綺麗に整頓されて、主が姿を消していた。
 思い出の品ひとつ残さない片付いた空間が彼らしいとマイクロトフは思った。つい夕べ身体を合わせたのが嘘のように、そこには何もなくて……マイクロトフは微笑みでごまかした。
 これから季節が幾つか巡り、思い出から記憶の欠片に変わる時が来るのだろうか。
 月が満ちて欠けるように、目も眩むような光が徐々に緩やかになって行くのだろうか。
「……待つのはガラじゃないんだ」
 やけに遠くに聞こえる自分の声に、マイクロトフは目を閉じた。
 だけど待つのは苦にならない。
 遠くの空でお前と同じ呼吸をしよう。
 月は欠けて、また満ちるのだ。





 ロックアックス城を一騎の馬が離れたのは、太陽の昇る半刻程前。
 西方の空は沈みかけた黄金の光が薄らと、グレイのさざ波に溶け込むように姿を消そうとしていた。






何か随所にかなり痒いものが見られますが当時の精一杯でした……。
何よりもタイトルが恥ずかしい! 恥ずかしい!