WORKING MAN







 ……目覚めて一番に、マイクロトフはトイレへ駆け込んだ。




 それから三十分ほどで同じく目を覚ましたカミューは、隣で眠っていると思い込んでいたマイクロトフの姿が見えないことにすっかり動転した。
 何たって昨日の今日だ。この部屋の主であるマイクロトフが姿を消すなんて、まさかショックで何処かに飛び出してしまったのだろうか。
「マイクロトフ! 何処に行ったんだ!」
 決して広くは無い部屋でカミューが素っ裸のまま悲痛に叫ぶと、どこからかジャー、ゴボゴボといった感じの水の音が聞こえて来た。それから入り口近くにあるトイレのドアがバン! と勢い良く開き、中から真っ赤になったマイクロトフが現れた。




「……大丈夫かい?」
 カミューの遠慮がちな声はこれで何度目だろうか。
 マイクロトフがすぐに「大丈夫だ」と答えるには少々余裕が足りないようで、それでも何とか頷くだけ頷いた彼は重力に逆らった頭をまたごとりと落とす。
 トイレから戻って再び布団に倒れてしまったマイクロトフを、カミューは心底心配そうに、申し訳無さそうに見下ろしていた。
 夕べ無理矢理ともとれる情事を果たし、すっかり心も身体も満足したカミューと、すっかり全身の精気を吸い取られたマイクロトフは、眠りにつくのと気を失うといった違いはあれども、同じ頃に目を閉じた。
 途中から何だかすっかり分からなくなってしまったのは二人とも一緒だったようだが、それが良い意味か悪い意味かは目を覚ました表情を見れば明らかだった。
 カミューはマイクロトフの弱り具合にすっかり狼狽えていた。確かに夕べ辛そうだったマイクロトフのことは分かっていたはずなのに、途中から彼を気づかうといった記憶が全くなくなっていた。つまり、まさしく本能のままにでたらめに身体を動かしていたのである。マイクロトフがぐったりと倒れているのは、どう考えても自分のせいだった。
 一方マイクロトフも、そんな情けないカミューを見ていると、許してやろうという気持ちになっていた。痛みで気を失ったのは初めてだった――それだけ辛くて仕方が無かったのに、もう少し頑張ればできたはずの拒絶を最後までしなかったのだ。その面で自分にも責任はある。
 こうして結んでしまったのだ。その事実があるだけで、昨日までのお互いと何かが違ってしまっている。
「……カミュー、服を着ろ」
 気怠げにカミューを見上げたマイクロトフは、顎を動かして素っ裸のカミューに服を指した。マイクロトフは先程トイレに這いずる前に、あまりのみっともなさに散らばっていた服を身に付けたのだが、カミューは目覚めてからそのままの格好だったのだ。
「マイクロトフ、……ごめん」
 カミューはシャツのボタンとめながら、落とした声でぽつりと呟く。それを耳聡く聞き付けたマイクロトフは、眉を寄せた。
「何がだ、カミュー」
「お前を、こんな目に遭わせて……」
「……」
「途中でやめられなかった。辛いって分かってたのに……」
「……おい、カミュー」
 マイクロトフは低い声で、項垂れるカミューを仰向けに転がったまま睨み付けた。まだ下半身はずきずきと痛む、どうにも力の入らない格好である。睨まれたカミューが、マイクロトフの視線に更に項垂れる。マイクロトフはもどかしいように息を飲み込んで、言葉を続けた。
「後悔するくらいなら、初めからしなければいいだろう。……確かに嫌がったが、それでもこうして抱かれたのは俺の意思だ。それをお前は否定するのか」
「そうじゃないけど、でも……」
「お前に謝られると、俺は何のために……」
 そこで言葉を詰まらせたマイクロトフは、夕べの一部始終を改めて思い出し、口唇を噛んだ。
 カミューも初めて触れたマイクロトフの体温を思い出していた。本当は愛情確認のために彼を抱いたはずだった。――でも、それにはお互いに知識も経験もなさすぎた。
 しかしカミューが謝罪することで、マイクロトフが惨めな気持ちになることだけはよく分かっていた。マイクロトフも謝って欲しくてカミューに任せた訳では無く、カミューだってマイクロトフに謝ろうと思ってこんなことをした訳では無い。
「……ごめん」
 少しの間を経て、もう一度呟いたカミューにマイクロトフはかっとなった。
「だから謝るなと……」
「違う、今のはさっき謝ったことに対する謝罪。夕べのことは……、分かった、もう謝らない。その代わり、もあんな辛い思いさせないから」
 カミューは倒れているマイクロトフの頬にそっと手を寄せ、優しく撫で上げた。滑る指の感触がくすぐったいのか、マイクロトフは眉間に揺れる皺を寄せて目を閉じる。カミューの指がマイクロトフの額に触れ、前髪を梳く。気持ちがいいのか、マイクロトフはされるままになっていた。
「マイクロトフ……、私と一緒にいてくれる?」
 マイクロトフの髪を撫でながら、カミューは微かに震える頼り無い声で尋ねた。
 マイクロトフは目を閉じたまま、頭だけを動かして確かに頷いてみせた。
「もう一度、私のこと好きだって言って」
「……」
「言ってよ、マイクロトフ」
「……言わない」
 カミューの指がマイクロトフの髪に差し込まれたまま動きを止める。そのままぐしゃりと前髪を握り込まれる感触に、マイクロトフの閉じた瞼が震えた。
「言ってよ。もう一度聞きたい」
「有り難みがなくなるから言わない」
「何、それ」
「言わない」
 目を開かず、自分にも言い聞かせるように、マイクロトフは再び「言わない」と念を押した。
 安易に愛の言葉を返すには恐怖感があった。夕べ必死の中で僅かながら確信した想いを嘘にしたくない。言葉は時が経てば風化してしまうかもしれない、今はまだ護りたい。
(そう簡単に言ってやるものか――)
 マイクロトフの心の呟きが聞こえたのか、カミューは拗ねた様子で口唇を小さく尖らせる。
「……、どうしても言ってくれないの?」
「ああ」
「じゃあこれで我慢するよ」
 カミューの上半身が倒れるように、ゆっくりと転がっているマイクロトフに覆い被さる。
 マイクロトフは目を閉じたまま、瞼の裏で影が落ちるのを感じていた。
 柔らかく噛み合った口唇、お互いに頭も身体も怠く、漠然とこれからのことを考えていた。
 ……心は穏やかだった。







 それから、起き上がったマイクロトフがようやく口にした牛乳は賞味期限が切れていた。
 帰宅を強いられて渋々アパートを出たカミューは、そのまま脚を滑らせて階段から転げ落ちた。助けようとしたマイクロトフも、腰の痛みでバランスを崩し、カミューの上に転げ落ちた。やっとのことで辿り着いたカミューの車には派手な十円キズがついていた。
 それでも、何故だか二人には何処か分かっていたような、諦めたような感覚のまま、腹立たしい気持ちはあまり起こらなかった。
 諦めた。――何てしっくりくる言葉なんだろうと空を仰ぐ。
 見上げれば青い空、しかしこんなに最悪な日。そよ風が痛む身体を通り過ぎる。でも最高の日がうまれる可能性は未知数。
 明日何が起こるのだろうか。……そんなの知ったことか。やけくそのような毎日を、それでも一生懸命生きている。



 カミュー、27歳。マイクロトフ、26歳。職業サラリーマン。
 お互い遅咲きの恋に奮闘し始めた。愛だ恋だと喚くには少々くたびれた男同士ではあるが、何処か諦めたように今日もまた最悪の一日のスタートを切る。
 最高の一日を終えられるように。







御愛読有り難うございました。本当に本当に。