普段は躊躇うことなくチャイムを押す門の前で、ヒカルは先ほどからマーキング前の犬のようにぐるぐると回っていた。 チャイムを押したほうが良いことは分かっているのだが、如何せん心の準備が出来ない。 立派な門構えに臆しているわけではない。前述のように、ヒカルは普段なら全く躊躇わずこの家に出入りしているのだ。 だが、今日の塔矢邸はいつもと様子が違っていた。 門の前に並ぶ車は五台、その中の数台は見たことがある。中でもひときわ目立つ赤のRX-7は、できればヒカルにとって避けて通りたい相手が所有者だった。 このまま回れ右して帰ってしまおうか……ヒカルはそろそろ寒くなってきた身体を抱くように腕を組み、とんとんと足踏みした。 「やっぱどっかで待ち合わせにしよう」 ヒカルは携帯電話を取り出し、メール画面を呼び出す。 すっかりメールを送り慣れた宛先を表示させ、「神社の近くで時間潰してる」と本文を打とうとした、その時。 新たに現れた一台の車が、スーッと塔矢邸の門に近づいてきた。 「あれえ、進藤くん?」 車から降りてきた芦原は、門の前で携帯を手にしたまま固まっているヒカルを目敏く見つけて声をかけてくる。 ヒカルは内心しまったと思いながら、慌てて頭を下げた。 「あ、あけましておめでとうございます、芦原さん」 「あけましておめでとう。進藤くんも挨拶に来てたんだあ。何、中に入らないの? ひょっとして遅刻して入りそびれてた? 実は俺もなんだよね〜」 芦原はにこにこと純粋な笑顔を浮かべ、ヒカルの腕をとった。 「えっ……ちょっ……」 「でも大丈夫大丈夫! 先生は心の広い人だからさ! さあさあ、寒いから早く入ろう。打ち初めはもう終わっちゃったかもしれないけど、宴会は残ってるしね! それにしても進藤くんも来るとは知らかったな〜。」 塔矢門下一の天然ポジティブ男、芦原弘幸。 冴木に何度か「あの人のペースに引き込まれたら終わりだ」と忠告を受けたことがある。 これまではアキラの待つ碁会所で何度か顔を合わせている程度で、別段親しくする機会もなかったものだからその忠告を気にしたことはなかったヒカルだったが、こんな時に思い知らされるとは思わなかった。 悪気ない芦原に引き摺られ、逃げる間もなく玄関に並ばされるハメになったヒカルは、正月早々自分の寿命が縮むことを覚悟した。 「あけましておめでとうございま〜す、芦原で〜す」 チャイムを威勢良く押した芦原の隣で、ヒカルはがっくり頭を垂れる。 ――本当は、塔矢を呼ぶだけで良かったのに……。 中から鍵を外す音が聞こえ、開いた引き戸の向こうから現れたのは上品な着物姿のアキラの母・明子だった。 「あけましておめでとうございます、芦原さん。まあ、進藤くんも。いらっしゃい」 「あ、あけましておめでとうございます!」 「芦原さん、皆さんお揃いですよ。進藤くん、今、アキラさん奥でお客様のお相手しているの。進藤くんもどうぞ上がってちょうだい」 尻込みしているヒカルの動きを察知したのか、明子はにっこりと女神のような微笑でヒカルにとどめを刺した。 ヒカルは引き攣った笑顔を浮かべて、それでも頭を縦に振ってしまう。この塔矢家の奥に集う早々たるメンバーを想像しながら…… 「さあ、どうぞ。簡素ですけど、御節も用意してありますから」 「お邪魔しま〜す!」 「お、お邪魔しまー……す」 芦原に続き、ヒカルも靴を脱いで中へと足を踏み入れる。 玄関にずらりと並んだ靴がまた、ヒカルの心臓を圧迫した。 新しい年が明けた一月一日、元旦の塔矢邸はヒカルの想像以上に賑やかで厳かだった。 *** 「元旦はうちに来ないか?」 年末頃、アキラはちょっとそこまで行かないか、というような軽い調子でヒカルに誘いをかけていた。 「ええ、でもお前ん家って正月ったら格式ばってんじゃねえ?」 「そうでもないよ。最近は御節も略式だし。まあ、父の関係でお客は何人か来るけど、簡単に挨拶して、軽く打ち初めしたら後は大人たちの宴会だから。一緒に初詣にでも行かないか」 「うーん……でも偉い人いっぱい来んだろ?」 「大丈夫だよ、宴会が始まっちゃえばみんな酔っ払うし。ああ、じゃあ少し遅れてくるといい。そうしたらボクもすぐ抜け出せるかもしれない」 アキラはさも何でもないことのようににこにこと微笑んで告げる。 なるほど、アキラの言う通り、宴会が始まってしまえば未成年の自分たちはお呼びではないだろう。 さすがに元旦ともなれば、不在がちな塔矢家の両親も二人揃って新年を祝う。そして、世界を飛び回る塔矢行洋が日本にいるうちに、新年の挨拶をしようと門下生や高段の棋士たちが続々とやってくるに違いない。 それはヒカルを尻込みさせるに充分な内容だったが、アキラが言うように遅れていけば堅苦しい場でまごつく心配もないかもしれない。 そうだ、いっそとことん遅れて、宴会が始まっている頃にアキラを迎えに行けばいいのだ。行洋や明子には、初詣が終わってからきっちり新年の挨拶をすればいいだろう。それなら、面倒なお偉い方と顔を合わせずに済む…… 今思えば、アキラのあの口ぶりを信用すべきではなかったのかもしれない。彼は産まれた時から物々しい元旦に慣れきっていて、アキラにとって大したことではなくてもヒカルには相当大したことであるという認識が欠如していたのだから。 いや、何より挨拶の後の初詣、つまり新年初デートのお誘いに釣られた自分が悪かったのだろう。 すぐ抜け出せる――だなんて。そう簡単にいくはずがなかったのである。 ヒカルは通された二間続きの和室の端で、ちんまり小さくなっていた。 ずらりと並んだ高段者の顔に、薄ら額に汗が浮かぶ。顔を見知っている人間は多いが、それはヒカルが一方的に知っているだけであり、会話を交わしたことがあるのは何度か研究会にも出席している芹澤くらいのものだった。 それから緒方を筆頭に塔矢門下が顔を並べている。ほぼ全員スーツ姿で、普段着のシャツとジーンズでやってきてしまったヒカルはますます小さくなるばかり。 すでに打ち初めは終わってしまったようで、アキラの言う通り、大人たちは酒を酌み交わして上機嫌になっていた。 棋士たちの中央で、穏やかな表情を浮かべつつも圧倒的な存在感を持つ、紋付袴の行洋が小さなお猪口を手にしている。周囲のメンバーを見るからに、ヒカルがのこのこと新年の挨拶に伺えそうな雰囲気ではない。 ヒカルは隣で、盛大に遅刻してきたというのに悪びれずお屠蘇を啜る芦原へ、居心地悪さの打開を兼ねてそっと話しかけた。 「いつも、こんな顔ぶれなんですか?」 「ん? まあそうだねえ。何たって世界の塔矢先生だからさあ。毎年それなりに人はたくさん来てるよ」 「芦原さん、緊張しないんですか?」 「うーん、門下に入りたての頃はさすがに緊張したけど、毎年繰り返してたらそうでもないよ。って、進藤くん緊張してるの?」 「あ、芦原さん、あんまり大きい声出さないで……!」 全く周りを意に介さない芦原は、ヒカルがこの場にいるという違和感を特に感じていないのだろうか。 ヒカルは談笑する大人たちから外れて、しかし帰るわけにもいかず、手のひらに変な汗をかきながらじっと事態の変化を求めていた。 ヒカルはちらりと、行洋の傍らにきっちり正座している黒髪の男に視線を向ける。 部屋に入ってすぐヒカルの目を惹き付けた、行洋と同様に袴を纏った純和風のそのいでたち。 時折どこからともなくため息のようなものが漏れているのは、行洋と並んだアキラの凛々しさ故だろう。年齢が上がるにつれますます行洋に似てきたと称されるアキラは、こうして父親の隣に身を置くと一層その面影を強く感じる。 一筋通った黒い瞳の真っ直ぐな眼差しに、澄み切った冬の空のように凛とした空気。これに重厚さが加われば、より父親に近くなるのではないだろうか。――恐らく、場の人々はそんなことを考えていたに違いない。 ヒカルも例に漏れず、涼やかに和服を着こなすアキラにぼーっと見惚れてしまっていた。気づけば口が半開きになっていて、誰かに見られなかっただろうかと慌てて顔を正す。 (ちくしょう、塔矢カッコいいよお。俺、まだ明けましておめでとうも言えてないんだけどなあ……) ふと、行洋の横で棋士たちと清々しく言葉を交わしていたアキラが、ヒカルにちらりと視線を向ける。どきっと息を飲んだヒカルを見つけて、アキラは優しく目を細めた。 (ああもう、そんな顔すんなよお) 飛びつきたくなるような微笑を浮かべるのはやめて欲しい。ただでさえ、初めて見る袴姿で格好良さが倍増しているというのに。 この様子では、二人きりになるのはおろか、話すことすら容易ではなさそうだ。本当にこの後初詣なんて行けるのだろうか。ヒカルが一抹の不安を感じ始めた時、ふいに背後からがしっと肩を掴まれて、ヒカルは正座したまま仰け反った。 見上げた頭上にきらりと光る銀縁メガネを認めて、ヒカルがうぐっと息を詰まらせる。 「おい、随分な顔をしてくれるな」 「いやー……アハハ、あ、あけましておめでとうございます……緒方先生」 緒方はヒカルを見下ろしてにやりと笑い、あろうことかその隣にどっかり腰を下ろしてしまった。 (うげえ、マジかよお) 緒方のことは嫌いではないが、どちらかというと苦手の部類に入る。随分前からこの男には様々に腹を探られて、特に佐為の一件では気まずい状態のままごまかし続けてきた。 今でも、差し向かいで話し合うのは避けたい相手だった。 「お前まで挨拶にやってくるとはな。そんなに隅っこにいないでもっと中央に寄ったらどうだ」 「い、いや、なんか場違いな感じだし、って緒方先生こそもっと偉い人のとこ行ったほうがいいんじゃあ……」 「つまり俺がお前の相手をするのは不服ということか?」 「そ、そーゆーわけじゃないけど」 全てお見通しであるからタチが悪い。ヒカルは顔を顰めたが、しかし先ほどの言葉の半分は本音だった。 塔矢門下の出世頭で、十段、碁聖、名人と三冠揃った緒方に、こんな若輩棋士の相手をさせるわけにはいかない。ましてや、ここには緒方よりも先輩の棋士たちが何人も顔を見せているのだ。 「お前の言いたいことは分かる。ちょっと釘を刺しに来ただけだ」 薄ら釣りあがる緒方の口角を見ながら、ヒカルは眉間に皺を寄せた。 「釘?」 「ああ。お前、後で俺と一局つきあえ」 「うえ!?」 顔を引き攣らせたヒカルを楽しそうに眺めた緒方は、もう一度ぽんとヒカルの肩に手を置き、すっと立ち上がる。 「いいか、知らない間にいなくなったりするなよ」 そう言い残してあっさり立ち去った緒方に、残されたヒカルはぐったり脱力した。 「釘刺しって……、塔矢、口滑らせたんじゃないだろうな」 小さく呟き、棋士として行洋の息子として笑顔を振りまいているアキラをじっとり睨んだ。 どうやら途中で抜け出そう計画はバレている……というより、ひょっとしたらヒカルがここに来た時点で緒方の予想の範疇だったのかもしれない。 塔矢の門下生でもなく、対外的には特にアキラと親しくもないはずのヒカルが、ここにいること自体不自然なのだ。緒方のような男が勘ぐらないはずがない。 (ホント、緒方先生って油断できないっつうか……) 時に冷たさも感じるあの目でじっと睨まれると、悪いことをしていなくてもなんだか後ろめたい気分になる。つくづく食えない相手だと、ヒカルはため息をついた。 どうせ酒の肴にからかって遊ぼうとでも思ってるのだろう。今はまだ和やかに談笑している大人たちも、もう少し時間が経てば上等なお屠蘇のせいで赤ら顔を緩めるに違いないのだ。 (塔矢あ、どうも計画失敗みたいだぞ) テレパシーを送ってみるが、アキラは一向に気づく様子はない。 ――初詣に行けたとしても、夜中だなこりゃ。 ヒカルはこんな時ばかり鈍い恋人を恨めしげに眺め、与えられたオレンジジュースをちびちび舐めてため息をついた。 |
またまた時期外れのお正月です。
あまりアキヒカ色強くないです……