ANOTHER






 明子が腕によりをかけた御節料理を堪能しつつ、未成年を除いた棋士たちにくまなく酒が行き渡る頃には、ヒカルもぽつぽつと他の棋士と会話をするようになっていた。
 本来ヒカルから挨拶に回らなければならない立場なのだろうが、初対面の高段者相手にゴマをすりに来たと思われても嫌だし、何よりこういった席での礼儀作法なんてさっぱり分からない。何かヘマをやらかすよりはと隅っこでじっとしていたら、見かねたのか、芹澤がヒカルを連れ出して輪の中に加えてくれたのだ。
 芹澤は何度か彼の研究会に参加したこともあり、尊敬しつつも気兼ねなく話せる高段棋士の一人になっていた。
 その研究会にヒカルが時折参加するようになったきっかけは、他でもない芹澤自身がアキラを介してヒカルを誘ってくれたことに始まる。
 第一回目の北斗杯でのヒカルの棋譜を見たという芹澤は、最後まで諦めなかったヒカルの執念の碁を実に堅い言葉で賞賛してくれた。そのかっちりした言葉のせいで、ヒカルは最初自分が誉められているのかそうでないのかよく分からなかったくらいである。
 常に冷静に盤面を判断し、緻密な計算の元に最善の一手を弾き出す芹澤との語らいは、読みには自信のあったヒカルも時に舌を巻くような発見があったりした。
 かと思えば、ヒカルの奇をてらった実験的一手に興味津々な様子で検討をし始めたり、外見の堅さとは裏腹に柔軟な面もあり、いつの間にかヒカルにとって話しやすい相手になっていた。
 おまけに研究会には常にアキラも一緒に参加していたため、ヒカルとアキラは親しいと思っている芹澤は、この場にヒカルがいることを特に疑問に感じていないようだった。あの子は何故ここにいるんだと物珍しげな目で見られないだけでも、ヒカルにとってありがたく、気持ちがいくらか安らぐ。
「王座戦トーナメントの第一戦、棋譜を見たよ。進藤くんにしては随分慎重に進めていたようだね」
「ええ、リーグじゃないから絶対落とせないと思って。藤川さんとは当たったことなかったし、手堅くいきたかったんです。やっぱり、面白くなかったですか?」
「とんでもない。地に足着いた良い碁だと思ったよ。三段で初戦を突破したのだから、塔矢くんに次ぐ快挙だ」
「アハハ、次は倉田さんとだから、すぐ落っこちちゃうかもしれないけど……」
 真顔で褒められるとついはぐらかしたくなる。ヒカルは後頭部を掻きながら、先ほどから淡々と日本酒を口にしながら顔色ひとつ変えない芹澤を上目遣いに見上げた。
「確かに倉田くんも怖い存在だが、落ち着いて臨めば進藤くんにも勝機はあると私は見ているよ」
「ありがとうございます。なるべく食らいついていきたいけど……倉田さん今ノッてるからなあ」
 無事に王座戦の挑戦者選抜トーナメント入りを果たしたヒカルは、同じく初トーナメント入りの藤川七段を相手に先月行われた初戦を勝ち抜いていた。
 続く二回戦の相手が倉田と聞いた時は内心舌打したが、公式に倉田と当たるのはこれが初めてのため、密かに楽しみにしている自分も否めない。
 胸を借りるなんてつもりはなかった。三段がまぐれで勝ち上がってきたと思われたくなくて、初戦こそ絶対に落とさないよう手堅く進めて勝ちをもらったが、倉田相手にそんな生易しい戦法では通用しない。
 それこそ、初手から飛ばしていく勢いがなければ倉田には勝てない――静かな闘志が心地よくヒカルの胸を満たしている。
 ようやく、ここまで来た。
 トップ棋士たちとしのぎを削るような戦いに参加できるところまで辿り着いた。
(でも、まだまだ)
 辿り着いただけで満足なんかしていられない。
 ここから更に上に上がらなければならない。
 すでにいくつかの棋戦でリーグ入りしている姿が珍しくなくなったアキラでさえ、一度も挑戦者の座すら手に入れられていないのが現状だ。ヒカルが死に物狂いで上を目指さなければ、囲碁界の頂点に君臨するタイトルホルダーたちを引き摺り下ろすことはできないだろう。
「我々もうかうかしていられないな。少し前までは倉田くんが若手だと思っていたのに、更に若い君たちが次々にやってくる。」
「えへへ、容赦しませんから」
「冗談に聞こえないから怖いよ」
 ヒカルは芹澤と顔を見合わせて笑った。
 少し、倉田との二回戦に向けて緊張が解れた気がした。
 知らないうちに気負いがあったのだろう、芹澤と話して肩の力が抜けていくのが分かる。
 たまには、こうしていろいろな棋士たちと話をするのも良いかもしれない。ヒカルがそんなふうに思っていると、二人の話をにこやかに聞いていた青田九段が話に入ってきた。
「進藤くんは、どこかの門下ってわけじゃないんだって? どうだい、今度乃木先生の研究会にも来てみないかい。実は、一度研究会で君の棋譜を題材にしたことがあるんだよ」
 年の頃は五十代くらいだろうか、酒で顔を赤らめて、ふくよかな人懐こい笑顔を浮かべて青田はヒカルの肩を叩く。顔は知っていたが、こうして話すのは初めてだったヒカルは、多少物怖じしながらも不自然に見えないよう笑い返した。
「あ、ありがとうございます。俺の棋譜? 本当ですか?」
「ああ、いつだったか、ホラ、日中韓でやった大会があっただろう。その一回目の、韓国の……そう、高永夏と君の大将戦だよ。あれは唸ったねえ」
「ア、アハハ……、こ、光栄っす」
 ヒカルは後頭部を掻きながら、ごまかすようにひたすら笑った。
 芹澤と違って、どのような反応が返ってくるか分からない相手には、どんなふうに対応したら良いかいまいち判断しかねる。
 基本的にここにいる先輩棋士は、ヒカルよりも相当の年上ばかりだ。棋士としてだけではなく、人生の大先輩でもある。下手なことを言って場の雰囲気を壊したくないが、相当酔っ払っているらしい青田を前にして、内心絡まれたらどうしようとビクついていた。
「アレかい、塔矢くんとは仲がいいの?」
「えっ? あ、い、いやあ、仲がいいって訳でも……ないっすけど」
 突然アキラの名前を出されて、ヒカルの口角が不自然に釣り上がった。適当に流せば良い質問なのに、過剰反応してしまう素直な自分が恨めしい。
「そうなのかい? 君たちは親しいものかと思っていたが」
 芹澤までもが冷静な顔を崩さぬまま、ヒカルを真っ直ぐ見つめて尋ねてくる。ヒカルはごまかしの言葉を探して思わず口ごもる。
「え、えーと……まあ、仲が悪いわけでもない……デス」
 語尾はオレンジジュースのコップを口につけることでごまかした。しかし、どうやらアキラの話題は青田の興味を引いてしまったらしい。
「友達って訳じゃないのかい?」
「ま、まあ、友達、みたいな感じですけど」
「塔矢くんも十七歳とは思えない打ち手だからなあ。一緒に研究会に誘えたらいいんだけどねえ。プライベートで打ったりしないの?」
「えーと、えーと、たまに……ネット碁とかなら」
 さすがに足繁く碁会所に通って打っているとは言い出しにくくて、ヒカルは相手を年配と見越してネット碁の話題を出した。青田のような年代は、カタカナの言葉はあまり受け入れないだろうから、このままアキラの話題から逃れられるのではという狙いがあったためだった。
 しかし、ヒカルは今時のオヤジを侮っていたらしい。
「ああ、ネット碁ねえ! 実は僕もたまにやるんだよ。君たちもやったりするんだ? 見つけたらお相手願おうかなあ」
 上機嫌で笑う青田に、ヒカルは完全に策を誤ったことを悟る。
「あ、僕は大抵『AOTAN』で出てるんだけどね。芹澤くんはやったりしないの?」
「私はそういったものに疎いものですから」
 ヒカルは芹澤の言葉に深く共感し、青田を恨めしげに眺める。
 ――青田先生、これが正しいオヤジの反応なんです!
「へえ、もったいない。いろんな人と打ててネット碁も面白いよねえ、進藤くん」
「あ、そ、そうですね……」
「じゃあ、芹澤くんはあれ知らないんだ? 伝説のネットの碁打ちの話」
「伝説?」
 芹澤が聞き返すのと、ヒカルの胸がぎくりと嫌な音を立てるのとは同時だった。
「何年か前にね、凄い打ち手がネット上に現れたんだよ。無敵の強さでねえ、なんと! あそこにいる塔矢先生とも打って、勝っちまったんだなこれが」
「ああ、それなら噂で聞いたことがありますよ。何と言う名前だったか……」
 ヒカルは、震え出しそうになる口唇をぐっと堪えて、小さな声でそっと呟いた。
「sai……、ですか」
「それそれ! 進藤くんも知ってたかい、やっぱり。芹澤くん、今度棋譜見せようか? あれはかなりの手足れだよ」
 ヒカルはドキドキと揺れる胸を隠すため、抱えたコップから口を離すことができずにいる。
 ここしばらく、他人から話題にされることのなかった佐為の名前を聞いて、面白いほど心と身体が動揺してしまっている。芹澤も青田も、緒方のように佐為とヒカルとの関係を疑っているはずがない。だというのに、自分がここまで狼狽えてどうするのか。
 素知らぬフリで、話に混ざればいいのだ。saiはネット上の囲碁界をあれだけ騒がせた。誰がその存在を知っていてもおかしくない。
 それなのに、喉に何か引っかかったように言葉がうまく出てこない。
「あの塔矢先生との一局以来、出てこなくなっちゃったんだよねえ。惜しいなあ。僕も是非お相手願いたかったんだが」
「塔矢先生に勝ったというのが本当なら、相当の腕でしょうね。プロではないのですか?」
「それがね、全然正体が分からなくてねえ。今でもネット上で探し回ってる人もいるって話だけど」
 ヒカルの耳がぴくっと反応する。
 思わず勢いをつけて振り返ったヒカルを、青田が丸い目で驚いたように見た。
「探し回ってる人がいるっ……て?」
「え? ああ、何でも、saiの正体を暴こうって人がネット上にサイトを立ち上げてるらしいよ。でもいなくなってから数年経つのに分かってないんだから、無駄な努力だと思うんだけどねえ」
 ヒカルはごくりと唾を飲み込む。
 ――佐為を探している人がいる。
 あんな消え方をしたのだから、仕方のないことかもしれない。それほどネット上での最後の一局はすさまじかった。あの塔矢行洋と互角に打ち切り、そして勝利したまま行方知れずになったsai。
 ……本当は、もっともっと打たせてやりたかったけど。
「あ、あの、青田先生、そのサイトって――」
「ああ、僕も実際見たことはないんだよ。でも、そういうことをしてる人が出てくるほどsaiに魅せられた人が多いってことだろうねえ」
「佐為に……魅せられた……」
 ヒカルは数回瞬きしながら、その言葉を噛み締めるように呟いた。
 ……今でも、佐為を追っている人たちがいる。
 自分しか存在を知らなかったはずの佐為が、今も人の心に生きている。
 何だか胸が切なく痛む。
「青田先生がそこまでおっしゃるなんて、私も興味が沸いてきましたよ」
「そうでしょ、芹澤くんもきっとたまげると思うよ〜。僕の持ってる棋譜、今度見せるよ。ホント、期待していいから」
 盛り上がろうとする青田の前で、ヒカルはジュースを置いておもむろに立ち上がった。
 唐突な起立に芹澤と青田がはっとして顔を上げる。
 一瞬影の落ちていたヒカルの表情が、すぐに二人に向けられてにっこり笑いかけた。
「俺、ちょっとトイレ行ってきます」
 その笑顔に青田はほっとしたように表情を緩ませ、もらすんじゃないよとからかいながら見送ってくれた。
 芹澤は何も言わなかったが、穏やかな目になった様子がヒカルにも分かったので、やはり突然立ち上がったヒカルに少しは驚いていたのだろう。
 ヒカルは棋士たちで溢れる和室を飛び出して、閉めた襖の縁を掴んだまま深く長い息をついた。
 ほんの少しのやりとりで、精神はあっという間に消耗する。
 なまじ、緒方のように何度となくやりあった相手ではなく、ノーマークだった芹澤や青田との会話だからこそこんなに疲れたのかもしれない。
 ふいうちで佐為の名前を出されるのは辛い。先ほどの会話が、行洋や緒方や……アキラに聞かれていなくてよかったと、今更ながら安堵する。
 ヒカルは薄ら額に滲んだ汗を指先で拭き取り、肩の力を落として強張っていた表情を緩める。
 ――おかしなことを口走らなくてよかった。
 まさか、こんなところで佐為の話題が出ようとは……
(どこでも油断できねえんだな)
 懐かしい名前でざわめいた胸を宥めながら、ヒカルは宣言通り便所へと足を向けた。






芹澤先生初登場。いまいち口調が分からない……
棋戦の時期とかはホントもうデタラメです。
きちんと調べて書いてる人に申し訳ない……
アキラさん全然出て来ないですね……