ANOTHER






 ヒカルは碁笥に手を伸ばし、黒石を掴む。
 指に挟もうとして、……そのまま碁盤の上に落とした。
「……ありません」
 搾り出した声が掠れていて、ヒカルはぐっと咳き込みそうになるのを堪えた。代わりに口内の肉をきつく噛み、俯いたまま喉を刺激する嵐が過ぎるのを待つ。
 顔を上げられない。緒方がどんな顔をしてヒカルを見ているのかが分からず、怖くて目を向けられなかった。
 ――勝てると思った。
 勝ちたいと思った。あの続きを、勝って終えたかった。
 佐為が打ったあの続きから、ひっくり返されるわけにはいかなかった、なのに。
「……お前がどこに向かっているかは知らんが」
 ヒカルの肩がぴくんと動く。
 ふわりと前髪の隙間から入り込んでくる煙は、緒方が煙草を吸い始めたためだろう。
「強くなりたいなら、モノマネからは卒業するんだな」
 ヒカルの目がかっと開き、弾かれたように顎を上げた。
「……モノマネ……? って、どういう意味……」
「そのままの意味だ。自覚があるのかは分からんが」
 緒方はヒカルに吹き付けるように細く煙を吐き出して、再び咥えた煙草の先のちらちら赤い炎を見つめて目を細めた。
 ヒカルは言葉が見つからず、ただ口の中を噛み締める。
「お前は見る度に碁のスタイルが変わる。良くも悪くもだ。その根底にあるものが、俺には何かに取り憑かれたモノマネにしか見えないと言っているんだ」
 さっと額に青色が落ちる。
 淡々とした口調で語る緒方の、光る眼鏡の奥でその細い目が、真っ直ぐヒカルを捕らえているのが分かる。
 緒方の指す「モノマネ」にかかる言葉が何なのか、分からないはずがない。
 しかし、その言葉をあっさり受け入れることはできなかった。
(……俺が、……佐為のモノマネ……?)
 畳の上で握り締めていた拳が小刻みに震える。
(違う……、俺は、俺が、佐為の碁を受け継いで)
「自分のものにもならない力を中途半端に振りかざしているようじゃ、お前の程度も知れる。自ずと限界は来るだろう」
「中途……半端……」
「お前は、何のために碁を打っているんだ?」
 ヒカルははっとして目を見開いた。
 そのまま、瞼が貼り付いてしまったかのように動かない。
 渇いた目の表面が、ヒカルに遠い昔の景色を思い出させた。

 ――いつか、誰かにも聞かれたことがあった……

 あの時は、何と……答えたのだったか……

『モノマネ』
 俺の碁が?
 佐為と二人で作った俺の碁が?

 ――いいや、そもそも俺の碁とはなんだ?

『ヒカル、ヒカル、打ちましょう!』

 碁が大好きだった佐為。
 俺に碁を授けてくれた佐為。
 アイツが果たせなかった神の一手を、俺は引き継ぎたいと思った。
 アイツの碁を、アイツが生きた証を、この手で引き継ぎたいと思った。

 ――モノマネ――

 佐為が消えてもうすぐ三年……
 俺が残してきたのは、ただのモノマネだって言うのか……?

(そんなはずない!)

 ヒカルは瞬きをし、緒方を睨みつけた。
 そんなはずはない。確かに、前が見えないほど迷った時期もあった。アキラとのことで悩んで苦しんで、うまく碁が打てない時期もあった。
 しかしそれらを全て越えてきて、素直な気持ちで碁石を手にした時、自分は自分らしく碁を打てていたはずだ。棋譜だって何度も見直した。自分の「らしさ」が分かりかけてきた。
(でも、緒方先生には負けた)
 口唇を噛む。
 ――佐為ならきっと負けなかった。
 自分らしさだと思っていたものが、佐為のモノマネでしか過ぎなかったというのだろうか?
(俺は佐為にまだ追いついていない)
 佐為との対局を切望していた緒方。――その緒方に、ヒカルは負けた。
 今、同じく佐為との再戦を望んでいた行洋が自分と打ったら、どんな結果が出るだろう。
 一から自分の手で、佐為をも震えさせた彼と打った時、どんな棋譜が生まれてくるのだろう。
(……失望されるだけだったら?)
 佐為を引き継いだはずの自分の力が足りないせいで、誰にも佐為の力を証明できない。
 今ここにいる自分は、……ただの、佐為のモノマネ。
 このままでは、このままでは、


 ――佐為に、及ばない――


 ぽん、と頭を叩かれた。叩かれたというよりは、手のひらを置かれたと言う方が正しいだろう。
「あまり難しい顔をするな。アキラが心配するぞ」
 アキラ、という単語にふっと肩の力が緩む。
 緒方はいつの間にか近くに引き寄せていた灰皿へ煙草を押し付け、軽く首を回した。
「さあ、俺は戻るぞ。まだ飲み足りないからな」
「あ……、お、緒方先生」
「なんだ、もう一局やるのか?」
 ヒカルは自分が緒方に向かって手を伸ばしていたことに気づき、はっとして気まずく引っ込める。
「……いや、いい」
「そうか、まあ、またそのうちな」
 緒方は立ち上がり、後片付けを頼むと残して襖の向こうに消えていった。
 ヒカルはしばらくその場でじっと碁盤を睨んでいたが、やがてふうっと大きなため息をついた。
 表情はまだ険しかったが、それでも戸惑いは消えていた。
 ――負けた。負けたのは、俺が弱かったからだ。
「モノマネなんて、言わせてたまるか」
 佐為の名を汚させるわけにはいかない。
 佐為の碁を受け継いだのは、自分しかいないのだ。


 そうして、訳の分からない不安でびりびり痺れていた胸をそっと撫で、ヒカルは碁盤に並んだ黒と白の石を崩し始めた。
(今の対局、家で棋譜に直そう。何故負けたか検討するんだ――)
 ふと、黒石と白石を分ける手が増えて、ヒカルの手と並んで碁盤の上を整理し始める。顔を上げると、いつの間にか向かいに洋服に着替えたアキラが座っていた。
「塔矢」
 いつやってきていたのだろう。ヒカルがぽかんと口を開けているその前で、アキラは黙々と碁石を取り分ける。
 白石をざらりと手にとり、碁笥に戻しながら、アキラは躊躇いがちにそっと尋ねてきた。
「……負けたのか?」
「え? ……あ、ああ、……うん」
「そうか……厳しい顔してたから」
「……お前、着替えちゃったんだな。もったいない」
 思わずヒカルは話の流れを逸らした。微かに笑うと、アキラもまた遠慮したように笑った。
「早く、ここから出たかったから」
「ああ……、もう抜けても大丈夫だろ。これ、片付けたら行こうぜ」
「そうだね……」
 アキラの声はやけに歯切れが悪い。
(……なんだ?)
 どうも、緒方との対局について話してからアキラの態度がおかしい。
 何か、ヒカルの様子を伺うような素振りを見せている。
 ざらざらと耳障りな碁石の音が、二人を無言にさせていく。
(いつから見てた?)
 いつから、その襖を開けて、こちらの部屋に入ってきていたのだろう。
『あまり難しい顔をするな。アキラが心配するぞ』
 緒方の言葉が脳裏を掠める。
 今、目の前にいるアキラの表情は相変わらず晴れない。
(……お前、何を知ってる?)
 ヒカルが顔を上げずに、視線だけ上目遣いにアキラを見るが、アキラは静かに碁石を集め続けているだけで表情は変わらなかった。
 碁盤の上の碁石がきれいになくなると、隣の部屋の喧騒が耳に戻ってきた。
 どのくらい時間が経ったのだろう。
 まだ陽は完全に落ちていないから、夕方よりは早い時間だろうか。
 なんだか重苦しい空気が肺までも圧迫するようで、ヒカルは立ち上がって大きく背伸びをした。深呼吸をすると、少しだけ身体が軽くなったような気がする。
(まだまだ、足りない)
 佐為の名を継ぐには、自分はあまりにも力不足だ。
 それでも、今は自分しか彼の碁を遺すことができない。

 ――saiに魅せられた人が多いってことだろうねえ……

(今でも、佐為の碁を追っている人がいる)
 自分がこんなところで立ち止まるわけにはいかない。

「行こう、進藤」
 アキラに促され、ヒカルは隣の部屋の襖をちらりと見やり、そのままアキラに続いてその部屋には戻らなかった。
 襖の向こうにいるであろう、佐為すら焦がれた打ち手を思う。
 誕生日の夜に誓ったように、「いつか」きっと佐為を越えてみせる。
 その時が来て、アキラに全て話すことができたら。
 行洋と、一局打ってもらいたい。
 佐為ともう一度打ちたいと言ってくれた、行洋と。
(俺が、佐為の代わりに貴方と打つ)
 歩みを速めなければならない。
 そう、前を向いて、走り続けるしか道はない。今までのように真直ぐ先を目指せばいい、それだけだ。
(……それなのに)

 ――モノマネ――

 何故、こんなに掻き立てられるように心が騒ぐのだろうか?




 ***




 その後、アキラと神社に訪れて、人込みに揉まれながら初詣のお参りを終えた。
 何をお願いしたのかとヒカルが尋ねると、アキラは「ご利益がなくなるから言わない」と答えた。
 ただ、真っ直ぐにヒカルを見つめる瞳の奥が不安そうに揺らいでいるのを見て、ヒカルはアキラのお願い事が自分のことではないか、と思ってしまった。
(大丈夫だよ)
 心の中で囁くが、アキラの不安げな眼差しが頭から離れていかない。
 いつかも、あんな目でヒカルをじいっと見守ってくれたことがあった。
(大丈夫だって)
 あの時みたいに、一人きりだなんて思っていないから――


 いいというのに自宅前まで送ってくれたアキラと別れなければならない時間には、外はすっかり暗くなっていた。
 そういえば、行洋や明子にろくな挨拶をしなかった――ヒカルが慌ててそう言うと、アキラはまた遊びに来ればいいと微笑む。
 人目を忍んで小さなキスを交わし、アキラの背中が見えなくなった頃、ヒカルは白い息をため息のように吐き出して自宅の中へと入っていった。
 夕飯はアキラと済ませてきたので、母親からちゃんと手を洗えとの小言を受けながらも真っ直ぐ二階の自分の部屋へと階段を駆け上がる。
 ジャケットを脱ぐのももどかしく、ヒカルはパソコンの電源に手を伸ばす。ブーンと低い音が機械本体から聞こえ、静かな室内にひっそりと響いた。画面が立ち上がるのがやけに遅く感じて、ヒカルは苛々とマウスを握ってスタンバイする。
(棋譜を残さないと)
 ようやく表示されたデスクトップのショートカットアイコンから棋譜作成のソフトを立ち上げようとして――ヒカルは手をとめた。

 ――今でもネット上で探し回ってる人もいるって話だけど

「……」
 ヒカルはごくりと唾を飲み、ソフトを立ち上げる代わりに、ブラウザを立ち上げた。
 いつものように検索画面を表示させ、少し躊躇いながら、その名を検索単語としてゆっくり入力した。

 ――『sai』、と。








しばらくこんな感じの話が続きます……
甘々好きな方ごめんなさい……
(BGM:ANOTHER/LUNA SEA)