先ほどの和室にそうっと戻るが、相変わらずの酒宴ぶりに特に変化は見られなかった。 ヒカルは軽く室内を見渡して、芦原の隣で煙草を吹かしている緒方を見つけると、迷わず緒方めがけて歩いていく。緒方が気づいて顔を上げた頃には、ヒカルはすでに彼の目の前に立っていた。 「緒方先生、打とう」 「ああ?」 「さっき一局打てって言ったじゃん。今すぐやろ」 「おいおい、まだここに酒が残ってるってのに俺を連れ出す気か? 気の利かないやつだな」 にやりと笑った緒方の目元は薄ら赤味を帯びて、だらしなく垂れ下がっている。 これはかなり酔っているな。――ヒカルは少しほっとした。この分なら早く終わらせられるかもしれない。 「いいの、どうせ俺は飲めないんだし。早く、早く」 「分かった分かった、元気だなお前は」 緒方の腕を引っ張って、床にどっしり根が生えかかっていたような腰を上げさせた。隣の芦原が、これまたぽやんと酔っ払った顔で、やけに楽しそうにけたけた笑う。 「緒方さん、モテモテじゃないすかー。良かったっすねー。」 「こんなガキにモテても何の自慢にもならん」 「悪かったな、ガキで」 ヒカルは動きの鈍い酔っ払いを引き摺って、酔っ払い棋士が集う室内を横切った。 途中、こちらを見ていた行洋と目が合った。慌てて頭を下げて、そういえばろくに新年の挨拶もしていなかったことに気づく。 後できっちり挨拶をしておかなければ。そう思いながら視線を動かすと、次は再び棋士たちの輪の中に納まったアキラのじいっとヒカルを見ている目にぶつかった。 アキラは酷く落ち着かない顔をしている。 ――すぐ終わらせるから! ヒカルは目配せして、未だ心配そうなアキラに僅かな安堵を贈ろうとしたが、あまり成功しなかったようだ。 アキラのためにも、さっさと緒方をやっつけてしまわないと。 酔っ払い相手に、勝つ気満々でヒカルは隣の襖を開けた。 襖の向こうでは、ヒカルたち以外にも何組か先客がおり、それぞれ碁盤に向かい合ってめいめいの対局を楽しんでいるようだった。 さすがに酒が舞う席で打つわけにはいかないので、襖を隔てた隣の部屋に碁盤がいくつか用意されていて、そこで自由に対局ができるようになっていた。 ヒカルは空いている碁盤を持ち上げ、部屋の端へと運んでいく。次に座布団。緒方は座布団の敷かれた場所にどっかり腰を下ろし、動こうとしない。ヒカルは自分ばかりが動いていることに内心むっとしながらも、下っ端の宿命と言い聞かせて更に碁笥をふたつ運んだ。 ようやく緒方の向かいに腰を下ろし、ふうっと息をつく。 緒方はあぐらをかいた膝の上に肘をつき、バランス悪く頬杖をついていた。 縁がぼんやり赤い目は完全に据わっており、ふとすると閉じてしまうのではないだろうかと思わせるような危うい瞬きをしている。これが現在の三冠の姿とは情けない。 こんな状態でまともな対局ができるのだろうか。 今にも眠ってしまいそうな酔っ払いを前にして、ヒカルはふと過去の世界に意識を飛ばした。 (……なんだか、どこかで……) どこかで見たシチュエーションだと、記憶が頭を掠めかけたと同時に、それはヒカルの脳裏で鮮明に蘇った。 窓際の薄明かりで、碁石を打ったあの夜。 (……もう二年以上も前だ) 目の前で酔っている相手は同じでも、あの日本当に碁石の道を示したのはヒカルではない。 思えば、あれが佐為の最後の一局。翌日ヒカルと打った一局は、打ちかけのまま終わってしまった。 そうすると、今から始めるこの碁はヒカルと緒方の初めての対局になる。 (緒方先生は、あの日のことまだ覚えてるんだろうか) あの夜もこんなふうに酷く酔っ払っていたっけ―― (なんだよ、感傷的になるなよ) さっき芹澤や青田と佐為の話をしたせいだろうか。 もう随分心の中で落ち着いたはずの存在が、何故か無性に懐かしく思い出される。 「……何ボーっとしてるんだ?」 「え? ……あ、べ、別に」 ヒカルは首を横に振り、軽く笑ってみせた。 さっさと終わらせなければならない。そうだ、昔の思い出に浸っている時間なんてない。 「緒方先生、ニギってよ」 「先番はお前にくれてやる。酔ってるからってナメるなよ」 「じゃ、ありがたく黒いただきます」 恐らく襖の向こうで、やけに緒方との対局を気にしていたアキラがやきもきしながら待っている。 早くケリをつけて、この堅苦しい場所から逃げ出して、アキラと二人で新年を祝いたい。 そう、早くアキラの元に戻りたい。どこか怯えたような、酷く落着かなく揺れた目をしていたアキラの元に。 (――アイツ、なんであんな不安そうな顔してたんだろう) ヒカルは一手目を碁盤に叩きつけた。 右上、星。図らずも、あの夜と同じ初手だったことに、ヒカルはその時気付いていなかった。 数手の定石で、すぐに気がついた。 (……これは……) 白、左下、星。黒、右下、星。白、再び左上、星。黒が右に三連星を打つと、白はようやく初手の右上星にカカってくる。 一瞬指を止めたヒカルは、思わず顔を上げて緒方を見る。 緒方の眼鏡が光を反射して、目の動きがよく分からない。 ヒカルはじっと口唇を噛み、やや険しい目で再び碁盤に視線を落とす。 (……あの夜と同じ) 奇しくも偶然、とでも言うつもりなのだろうか。 それともよくある定石だとはぐらかす気だろうか? あの日、佐為と緒方が打った一局と全く同じ展開が並ぶ。 ヒカルは緒方に聞こえないように舌打ちした。 (何が酔ってる、だよ) あの日も今も。 しっかり覚えているんじゃないか――あの日は今以上に泥酔していたはずなのに。 (いいぜ、そっちがその気なら) ヒカルは予め決まっていた場所に黒石を打つ。 緒方もまた、いつかの対局と同じ場所に白石を迎え打った。 これは棋譜並べだ。まともに戦うよりもずっと終局は早い。 (俺だって、あの日の一局はよく覚えてる) これは、佐為が最後に打った碁だから。 ヒカルでさえ果たせなかった、佐為が消える前の最後の一局だから。 ふいに白石が動きを変えた。 「――!」 ヒカルは微かに眉間に皺を寄せる。 (……これ……あの時の死活のミス) 緒方はここで初めて、あの夜と違う手を打ってきた。 命取りとなったミスが修正され、棋譜並べが終わる。ここからは緒方もヒカルも知らない、新しい対局が始まる。 (……そういうことかよ) ヒカルはちらりと緒方を見上げた。 相変わらず、反射した眼鏡の下の緒方の表情は読み取れない。 ただ、酩酊した人間が打つ碁ではないことはよく分かる。 (……よし) ヒカルは碁石を挟む指に力を込めた。 ――ここから先は、俺の碁を打つ―― パチン、と小気味良い音が響いた。 気持ちは逸るのに、思ったように指がついていかない。 いや、自分の指で作り出す石の流れがあまり心地の良いものではない。 翻弄されていると、ヒカルはそこでようやく気付いた。 打ちにくいように打ちにくいように追い込まれている。上辺にはほとんど手をつけていないのに、中央もおろそかにできなくて、気付けば下辺が白地に軍配を上げていた。 形勢はこちらだったはずだと、ヒカルは挽回の道を探す。 その間も緒方の白石は容赦なく黒の生きる道を奪って行く。 ――碁が変わって行く。 佐為が勝ったはずの一局が、全く違う一局に生まれ変わろうとしている。 気付けば額に汗が滲んでいた。背中も湿って気持ちが悪い。何より、冷たい指先がうまく動かなくて苛立ちが募る。 探しても探しても、見つからない。どこか、黒が生きる道を。元々は生きていた黒を、救い出す道を。 (――佐為) 白に隙がない。 黒の地を守れない。 佐為の勝利を……守れない。 頭の中で低い音がガンガン反響している。きつく食いしばったせいで、奥歯を支える歯茎がやけにだるくなっていた。 ……見つからない。 (佐為……) もう、後が無い。 ――俺では、この黒を生かすことができない…… 生きていたはずの黒を。……殺してしまった。 (……ダメ、だ……) 俺の碁では、守れない。 守れたはずの、……佐為の碁を。 |
腐ってもタイトルホルダー。
もしくは確信犯。
アキラの不安的中です……