『塔矢、お前今日ヒマ?』 この日は、ヒカルのそんな電話から始まった。 「キミ、昨日ボクが今日休みかどうか確認していただろう?」 『でもヒマかどうかは別じゃん。で、ヒマ?』 「まあ、ヒマだけど……」 アキラの頭に整理しかけの棋譜がちらりと浮かんだが、急ぎのものではない。 アキラがこの後の予定と言えば、棋譜整理が終わったら買い物に出かけ、夕食のお弁当でも調達してくる――そんな程度のスケジュールだった。 相変わらず日本に戻っては中国へ、日本へ戻っては韓国へと忙しく飛び回っている両親のため、アキラはこの広い家で一人暮らしのような状態が続いている。気兼ねはしないが、そろそろ食事のバリエーションに困ってきた。 次に母親が帰国したときは、いくつか料理を習っておいたほうがいいだろうか? スーパーの総菜やコンビニ弁当を食べているといつも思うことだが、毎回思うだけで終わっているのは少し情けない事実だったりする。 前置きは長くなったが、要するに別段用事があるわけでもない。 アキラはこの状況を、素直に暇と認めた。 『そっか、じゃあさ、今からお前んとこの碁会所で会わねぇ?』 「今から?」 『うん、俺今すっげえ打ちまくりたい気分』 アキラは時計を見上げる。お昼を過ぎたどころか、もうすでに午後二時を少し越えたところだ。 今からヒカルが満足するまで打ちまくるとなると、碁会所が閉まる時間まで居座らなければならないのではないだろうか? 『ダメ?』 受話器越しのねだるような口調が、アキラの耳には酷く可愛らしく響く。こんな声を出されてしまってはもう降参するしかない。 「いや……いいよ、分かった。今から碁会所に向かうよ」 『マジ!? サンキュー! じゃあ後でな!』 ガチャンとけたたましく電話は切れる。騒音に一瞬顔を顰めて耳から受話器を離したアキラは、それでもしばらく切れた電話の余韻に浸っていた。 相変わらず会う場所は碁会所が多いけど、ヒカルからデートに誘ってくれたと思えば一気に幸せな気持ちになれる。 「待たせると悪いな」 アキラは一人呟き、受話器を置いて部屋に走った。その軽やかな足取りは、普段の落ち着いたアキラからは想像されることもないほど。 この大人しかった青年は、恋の魔力でいつでも背中に翼を生やすことができるようになってしまった。勿論、頭に花を咲かせることも。 ヒカルにこうして振り回されるのは嫌いではない。大抵は些細な我儘が多いのだ。それも、アキラが一緒に付き合ってやるうちに、アキラ自身も楽しくなってしまうような我儘なのだからたまらない。 相変わらず、恋人に近いような曖昧な関係が続いているけれど、無理に返事を迫ったりはしていなかった。ヒカルもそのことを気にしているような素振りを時折見せるが、何よりアキラは待つことには慣れている。 急がなくていい、と思う。ヒカルが自分と同じように見つめ返してくれて、キスしたり触れ合ったりできたら素敵だとは思うけれど、傍にいられるだけで喜びを感じた初心を忘れないように。 今日も一緒に、明日も一緒に、一日一日を大切にしなければ。 アキラは鼻歌を歌いだしそうなご機嫌な様子で家を飛び出した。 碁会所に着くと、すでにヒカルはいつもの定位置を陣取っていた。 「おーい、塔矢〜」 手を振るヒカルの笑顔にアキラの頬も緩む。 ヒカルの周りにはいつもの常連客である北島や広瀬がいて、何事か話をしていたようだ。 (なんだかんだで仲良く見えるんだよなあ) アキラは苦笑する。いつもヒカルに食って掛かる北島だが、ヒカルもそれに応戦し、低レベルの言い争いを繰り広げる様は時折羨ましくなるほどだ。 「悪かったな、呼び出して」 大して悪いなんて思っていない顔でヒカルがあっけらかんと告げる。アキラはいいや、と笑顔で首を振って、では早速一局とヒカルの正面に座ろうとした。 「あ、待って。先に北島さんと広瀬さんとやるから」 ヒカルの笑顔の制止に、アキラの表情が凍る。 「……ボクと打つために呼び出したんじゃなかったのか?」 「そうだけどさあ、北島さんがうるさいから。二面打ちで持碁くらいできるって言ってんのに信用しねーんだもん」 アキラのこめかみにぴくぴくと血管が浮かぶ。 ヒカルのために、電話一本ですっ飛んできた哀しい純情。 ――ボクはキミのためにここまで来たんだぞ! ヒカルは「ボクと」打ちまくりたいのではなかったのか!? 実は打てれば誰でもよかったのか!? ……と怒鳴りたい気持ちは山々だが、父親経営の碁会所でそこまでぶっちゃけるのも躊躇われて(普段の騒ぎっぷりは記憶にないのだろうか)、アキラはぐっと堪える。 しかし、ご機嫌が不機嫌に変わったのは事実だった。 「……面白そうだね。せっかくだ、二面打ちと言わず五面打ちくらいやってみせなよ。キミならできるだろ?」 挑戦的な言葉に、ヒカルもむっと目を据わらせた。 「できるぜ」 「よく言った。では五面全て持碁で、キミだけは一手十秒の早碁だ。どなたかご協力いただけますか」 げぇっと仰け反ったヒカルが苦情を言い出す前に、俺も俺もと立候補の手が上がる。碁会所自慢の若先生が持ち出した悪戯に、全員乗り気になったようだ。 「マジかよぉ?」 ヒカルはまいったなあ頭を掻きつつ、それでも目の前に五つの碁盤が並んだ頃にはすっかり棋士の顔になっている。 アキラは目を細めて、ヒカルの真剣な眼差しを見つめた。 「どうだ!? 塔矢!」 アキラを振り向くヒカルの顔は晴れ晴れとしている。 素直なヒカルの笑顔には弱い。アキラも眉根を寄せて思わず微笑んだ。 「やっぱさすがだねぇ」 「フン、腐ってもプロか」 「腐ってねえよ!」 ヒカルの抗議に大人たちは笑う。 見事五面打ちで全て持碁を完成させたヒカルは、どうだと腕組みをしてみせた。 「楽勝だぜ、楽勝」 「そう? その割に途中目算を誤って十一秒もかけた一手があったけど」 「お前の数え方が早いんだよ! あれは立派に十秒以内!」 まあまあ、と間に広瀬が入る。 「充分だよ、進藤くん。本当に凄い。さあ、もう若先生も機嫌直して進藤くんと一局どうぞ」 広瀬の何の気なしの言葉が、アキラの落ち着きつつあった心を逆毛立たせた。 もとい、くだらない意地とでも言うのだろうか、不機嫌だったことを見抜かれて恥ずかしいやら腹立たしいやら、実に引き攣った笑顔で広瀬を黙らせ、ヒカルに向き直る。 「ボクはちっとも機嫌を悪くなんてしてませんよ。さ、進藤、二回戦だ」 「二回戦?」 碁会所にいた全ての人の声がキレイにハモった。 「次は五面、右から順に一目勝ち、二目勝ち、三目、四目、五目勝ちでいってみようか。」 鮮やかなほどのアキラの笑みに、ヒカルの顔がうへえと歪んだ。 「お前なぁ〜」 「さあさあ、開始!」 ヒカルの呻き声が合図となって、無理矢理に開始された二回戦に大人たちも慌てて碁石に手を伸ばし始める。若先生の一言は絶対のようで、ヒカルも仕方がないと改めて碁盤に向かって集中した。 そして、ヒカルは今度も何とかアキラの言う通り、右から順に一から五目勝ちの碁盤を造り上げたのである。 「なかなかやるじゃねぇか。次は全員中押しだ!」 こうなると碁会所オヤジたちもノってくる。 「全員中押しのほうが楽勝だよ」 ヒカルの買い言葉に、アキラは新たな売り言葉を放り投げる。 「それは面白そうだ。全員五十手以内での中押しね」 「ええ!?」 「できるだろう? 進藤二段」 「うぐ……」 アキラの微笑みを見て、ヒカルが買わないはずはない。 それからしばらく、やれ全員に五目勝ちだの、一人置きに持碁と一目勝ちを交互にだの、ヒカルは散々打たされてへとへとになっていた。 ふと窓の外を見れば日はすっかり暮れ、張り切ってここに来たはずのアキラが一局もヒカルと打っていないことに気づく。 勝負を沸かせたギャラリーもちらほら帰宅する姿が見られる。そろそろヒカルと打ちたい、と思った頃、疲れ果てたヒカルが遂に弱音を吐き始めた。 「あ〜もう、次で終わりね〜。俺もうくたくたなんだけど」 「じゃあ最後はあっさり全員持碁にする?」 ヒカルの奮闘ぶりを楽し気に見守っていた市河嬢も助け舟を出す。ギャラリーもうんうんと頷きあい、最後の勝負として五人が席につこうとした時、アキラは咄嗟に五人目の肩に手をかけた。 「……では、最後はボクが五人目を」 おおっとギャラリーが沸く。 ヒカルもちょっと身構えた。 「いいぜ、そういや今日一回もお前と打ってないし」 「その代わりボクとだけは互い戦だ。キミはボクに半目で勝つこと。いいね」 最後にして最大の難問をつきつけたアキラに、すっかり疲労で萎えかかっていたヒカルの目の中の炎がめらめらと燃え上がった。 「やってやろーじゃん」 *** 勝負の展開は速かった。 時間制限を特に設けたわけではないが、ヒカルのそれは早打ちと言って良い速度だった。 何故だか気持ちが急くと、ヒカルは半ば無意識のように碁石を打ち付けながら五つの碁盤にくまなく視線を走らせる。 持碁を目指す四人の腕については、何度も打たされたせいですっかり把握し、特に苦はない。 問題は五人目のアキラだった。始まる前の「手加減なしで行くよ」との言葉通り、一切手を抜かずに厳しい手を返してくる。 気を抜くとやられる。しかも残り四人も相手にしなければならない。四対一のアンバランスな力の差に時折感覚が狂いそうになりながら、ヒカルの頭はフル回転を繰り返し、ショート寸前の心地よさに浸っていた。 アキラの一手に、ヒカルが更なる一手を返す。 ヒカルの予想に反した一手。狙い通りの一手。初めて見るような面白い一手。あれだけ打ち続けた相手だというのに、こうも引き出しが多いとは。 次に何が出て来るのかが分からない、期待と興奮が詰まった展開に心が揺さぶられる。 楽しい。楽しい。楽しい! ヒカルはいつしか笑っていた。この対局を純粋に楽しんでいた。 碁盤の無限の宇宙の中で、アキラと二人でどこまでも―― アキラとなら。 アキラとなら、無限のその先まで二人で辿り着けるかもしれない。 |
日常の一コマってやつが苦手なんです。
何かイベントが絡んでいないととっかかりが掴めない。
イベントも日常のうちと思えばいいか。