AURORA






「……こりゃすごい」
 北島でさえも感嘆の声を漏らす。
 持碁に押さえた四人の碁盤もさることながら。
 アキラの目の前の碁盤の上、それはそれは美しい一局が残されている。
 アキラの提案通り、ぎりぎりヒカルの半目勝ち。並んだ黒と白の鮮やかなライン。囲碁を知らない人間が見ても、美しいと思わせるような見事な模様が出来上がっていた。
 アキラは瞳に感動さえ滲ませて、目の前の碁盤を見つめる。会心の一局と言えるだろう。アキラに勝っただけではなく、これだけ美しい石の並びを造り出せたのだ。
「お前、手ぇ抜いてないよな?」
 ヒカルが悪戯っぽい笑顔でアキラに尋ねてくる。
 アキラは少し呆けたような表情のまま、ゆっくり頷いた。
「ああ……、抜いていない。でもこれは……素晴らしい。完敗だ」
 アキラが心からの言葉を伝えると、ヒカルの目が一瞬丸くなり、それから頬がほんのり赤くなる。
 いつもはうるさい北島も、今日ばかりは文句をつけてこなかった。
 アキラは胸に広がる充実感に心地よく浸っていた。
 何度も打っている相手と、こんなにも新しくこんなにも美しい一局を造り上げられた。
 ヒカルとの対局に終わりが見えない。いつでも新しいスタートを切ることができる。
 ヒカルとなら。アキラは思う。
 ヒカルとなら、神の一手をも果たせるのでは。
 ヒカルとなら、出口の見えないこの世界でも迷わずに前に進めるかもしれない。立ち止まり振り返ることがあっても、明日を目指す心を失わずにいられるかもしれない。
 ヒカルこそが自分の光だ――アキラは目を閉じる。
 美しい一局。最高の一局。
 しかしまた、新たな一局を打てば最高などいつだって塗り替えられる。
「あー疲れた! もー打てないっ!」
 遂にヒカルが両手を挙げ、まさにお手上げ状態になる。
 碁会所が和やかな笑いに包まれた。
 アキラとしては、ヒカルの電話での『俺今すげー打ちまくりたい気分』に自分こそ一局しか手伝えなかったものの、それが最高の一局で、おまけにヒカルとしては充分打ちまくっただろうからよいか、という気持ちになっていた。
 ヒカルは帰り支度を始める。それに伴ってアキラも帰ることにした。すっかり長居したと、碁会所の客たちも帰り始める。




「それにしても楽しかったぁ」
 並んだ帰り道、ヒカルは後ろ手に鞄を持ち、石ころを蹴りながら歩く。その様子にアキラは目尻を下げながら、そうだね、と相槌を打った。
「お前とは一局しか打てなかったけど、でもいい内容だったよな。キレイに石が並んで」
「ああ。美しい一局だった」
 隣のヒカルの肩が揺れ、少し笑ったようだった。
「本当だよ。お世辞じゃなくて」
「……サンキュー」
 ヒカルにしては素直な礼に、アキラのほうがおやっと不思議な顔をした。ヒカルを見るが、俯きがちに歩くヒカルの前髪が顔にかかって表情がよく見えない。
「進藤?」
 少し不安になって思わずかけた声に、ヒカルの顔がぴょんと跳ねてアキラを見た。
 ヒカルは眩しいくらいの笑顔をアキラに向けて、
「俺、今日誕生日」
 そんなことをのたまった。
 アキラの身体が硬直し、その顔が呆然と凍りつく。
「ええええ!?」
「うわ、お前声でけー」
 ヒカルはひゃひゃひゃと笑いながら耳を押さえ、小走りに駆け出した。慌ててアキラも後を追う。
「キミ、そんなこと一言も言わなかったじゃないか!」
「だってー、お前に言ったら仰々しく準備しそうじゃん」
 アキラはぐっと言葉に詰まる。確かにその通りだったからだ。
 最愛のヒカルの誕生日ともなれば、アキラが考え付く限りの豪華でロマンティックなデートコースをセッティングしただろう。哀しいことに、限りを尽くしたデートなどヒカルには似合わないのだけれど。
「俺そんなのヤだもん〜」
 楽しげに駆けるヒカルは軽やかで、なかなかアキラの腕には捕まらない。アキラはもどかしげにヒカルを追う。ヒカルの髪がぽつぽつと立っている街の灯りに照らされて、オレンジ色にきらきら光っていた。
「でも、せめて食事くらい、」
「帰ったらお母さんが晩飯作ってるからダメー」
「ボクはプレゼントも用意していない!」
 途端にヒカルがぴたっと動きを止める。釣られて立ち止まったアキラの前で、背中を向けていたヒカルはゆっくりアキラを振り返った。
「くれたじゃん」
 その笑顔にはあどけなさが残るものの、少しだけ色づいて。
 目を奪われたアキラは、「え? え?」と間抜けな声を漏らすしかできなかった。
「『素晴らしい』……『美しい一局だった』」
 僅かに目を伏せて、恐らくアキラの声真似をしたのだろう。
 アキラの瞼が少しの間瞬きを忘れた。
「……くれたじゃん」
 ――最高の一局を。
 はにかんだようなヒカルの微笑みに、アキラはくらくらと眩暈を覚える。
「……、いや、でも、その、それは!」
「お前がマトモに俺のこと褒めるの滅多にないもんな〜」
 ヒカルはまたいつもの子供っぽい笑顔に戻って、くるくる回りながら歩道を駆けていく。
 アキラは気づけば息切れしていたが、それでも必死でヒカルを追った。身軽なヒカルは疲れた様子を見せない。
 いつもよりもなんだか無邪気で、やけに楽しそうにアキラを振り返る。
「進藤、待って」
 その透けた前髪の金髪が、オレンジの光に照らされて七色に輝く。アキラはヒカルに手を伸ばした。
 ――届かない。
「塔矢ぁ、俺このまま帰るよ〜」
 アキラから離れた場所で、ヒカルはアキラに手を振っている。
「待ってくれ、進藤、」
「バイバーイ。楽しかった〜」
 きらきらと煌く髪が前を向き、ヒカルの身体はそのまま走り去ろうとしていた。アキラの止める声も聞かず、ヒカルの姿はどんどん闇に消えていく。
「しんどう」
 呼びかけは風に掻き消される。
 きらきらと光る余韻だけ残して。
「キミは……いつも……」
 ボクを置いてどこかへ行ってしまうんだな……




 待っていれば、いつかは報われるのだろうか。
 ボクはいつまで待ち続ければいい?
(でもきっとボクは)
 いつまででも待ち続けるのだろうけれど。
 アキラは嘆息し、儚い光の余韻を思い出して前を見据えた。

『……くれたじゃん』
 ――進藤。今日はキミにとってよい一日だっただろうか?

 アキラはようやく微笑んだ。
 次にヒカルに会う時までに、何か素敵なプレゼントを考えておかねば。
「誕生日おめでとう、進藤」
 アキラはヒカルの面影に優しく囁き、そして石ころを蹴りながら一人夜道を歩き始めた。






オトメというか妖精さん?
ヒカルは天然の魔物かも。
でも、あんまり深く考えてないんだと思います。
深く考えずに、一番欲しいものをちゃっかりもらいました。
(BGM:AURORA/LUNA SEA)