ぞろぞろと通り過ぎる人の流れの中、アキラは目当ての人物ただ一人を探して視線を走らせていた。 壁に凭れるわけでもなく、真っ直ぐに両足をしっかり地につけ、顔も眉も動かさずに黒目だけを動かしているアキラを時折訝しげに振り返る者もいたが、アキラは意に介さない。 その時、ひときわ腹回りのふくよかな男がのしのしと対局室の方向から現れたのを、アキラの鋭く光った目が捕らえた。その男がエレベーター傍に佇むアキラの元に近づいたとき、アキラは静かに声をかけた。 「倉田さん」 その声に倉田は顔を向け、つぶらな目をきょとんと丸くさせてから、軽く右手をアキラに向かって振り上げた。 「よ、塔矢、久しぶり」 「ご無沙汰しています」 アキラは軽く笑みを浮かべて倉田に頭を下げ、それから含みを持たせた表情で目配せをする。 「少し、聞きたいことがあるんですが」 「今から?」 「ええ、できれば」 「いーよ。その代わりお前のおごりな!」 どうやら必然的に喫茶店への移動を余儀なくされたらしい。 アキラは苦笑しつつも頷いた。 「名人戦リーグ入りおめでとうございます」 テーブルを挟んで倉田と向かい合い、アキラは笑顔でそう倉田を祝福した。 倉田は特に表情を変えず、運ばれてきたケーキを忙しく口に運ぶ。 「まあ、今年こそ本気でタイトル取りにいかないとな〜。緒方先生の余裕面へこましてやらないと」 「はは、期待してますよ」 「お前は残念だったな。ちょうど向こう行ってた時だろ? 先生の容態、どう?」 もぐもぐと口を動かしながらの倉田の問いに緊迫感は感じられないが、この男はいつもこんな様子なのでアキラは特に気にすることはなかった。 軽く頷いて、穏やかな口調でアキラは答える。 「ええ、経過も良好です。来週には退院して、うちで療養する予定ですよ」 「そうかー、よかったなあ。先生が元気になったらまた打ちに行きますって言っといて」 「有難うございます。父も喜びます」 アキラが礼を言ったところで倉田はケーキを食べ終わり、ちょうど通りかかった店員を呼び止めて新しいケーキの追加注文をした。 手元にコーヒーしかないアキラは、倉田の食べっぷりを見ているだけで何となく胸焼けしそうな気分になる。 倉田はコーヒーと水を順番に口に含み、相変わらず表情の読めないきょとんとした顔で改めてアキラを見た。 「で、聞きたいことって? どうせ進藤のことだろ?」 単刀直入に切り込んできた倉田に、アキラも思わず言葉を詰まらせる。 「……お見通しでしたか」 「そりゃあなー。お前が俺に聞きたいことで、他のことって思いつかないし。この前の王座戦本戦の二回戦のことか?」 何でもないことのようにぺらぺら話すと倉田に、アキラは呆気に取られつつも拍子抜けした。 さすが、食えない男だとため息混じりに苦笑する。最初から感づかれていたというわけだ。 ここまで正面切って見抜かれてしまったのだから、間怠っこしいやりとりで様子見する必要はないだろう。 「おっしゃるとおりです。あの二回戦の時の、進藤の様子を聞きたくて」 「てことは、棋譜は見たんだ?」 「……ええ」 アキラは微かに表情を曇らせる。 帰国した翌日、挨拶に立ち寄った棋院でヒカルの棋譜を見て、眩暈を起こしそうな衝撃を受けたのが数日前。 アキラはずっと、倉田と話すチャンスを伺っていた。 「凄い棋譜だったろ。まさかあんな打ち方してくると思ってなくてさあ、立て直し間に合わなくて負けちゃったよ。俺が進藤に負けるなんてさー。」 「進藤は、どんなふうに打っていたんですか?」 「あー、お前は見ないほうが良かったよ。アイツ、いっぱいいっぱいだったからなあ」 まあ、そんないっぱいいっぱいの進藤に負けたのは俺なんだけどさ。そんなことを言いながら、倉田の前に追加注文したケーキが運ばれてきて、嬉しそうにフォークを手に取る様子をアキラが苦い表情で見つめていた。 「アイツ、自分と違うものを引き出そうとして必死になってるみたいだったな。それであれだけ打ったんだから、まあ大したもんだけど。その分、随分無理してるようだし」 「自分と違うもの?」 「ああ。本音を言えば、俺はちゃんと「アイツ」と打ちたかったんだけどな」 アキラの眉がぴくりと揺れた。 公式手合い、初めてだったからなあ。そんなのんびりした倉田の呟きに顔を顰める。 「倉田さん……「アイツ」って……」 「まあ、あんな無茶な打ち方してたら体力の前に精神力が危ないんじゃないか。あの一局はちょっと面食らったけど……次は勝てる」 アキラは少し驚いたように目を大きくした。 そんなアキラを見ても、倉田の表情に変化はない。 「それは……どういう意味ですか?」 「そのままの意味だって。レベルが下のヤツならいざ知らず、一局打つのにあれだけ疲れ切ってるんだ。もつはずがない」 アキラは息を飲んだ。 「そんなに……酷いんですか」 「酷いも何も、この前の一局だって終局したと同時にほとんど倒れるような感じで、アイツ検討もしないで帰ったよ。脂汗かいて、今顔なんかげっそりしてるしなあ。集中力が限界にきてる。あれじゃ打ち続けられないよ」 「……そんな」 「アイツ、あんなんで来月の北斗杯予選大丈夫なのかなあ」 言葉とは裏腹に呑気な口調で、倉田はずず、と音をたててコーヒーを飲み干す。水分が足りないのか、再び通りかかった店員に今度はコーヒーのおかわりを注文した。 それから、読めない黒目は相変わらずながらも、正面からアキラを見据えた倉田はきっぱりと告げた。 「あのままだと、駄目になるかもなあ、「アイツ」の碁」 「――」 「迷ってるうちはまだ良かったけど。アイツ、あんなになってるってのに驚くほど迷いがない。別のものに変わる覚悟が出来てるみたいに」 アキラの表情が硬く強張った。 微かに開いた口唇が何か言葉を紡ごうとして、震えてそれは叶わなかった。 「俺としては、残念なんだけどね」 「……倉田さん……」 「ま、これは俺がどうこう言うことじゃないし」 倉田が大きなげっぷをした。満足げに腹をさする倉田の前で、アキラは苦々しく口唇を噛み締めている。 ヒカルが覚悟を決めている。迷いなく、自分の碁を捨てようとしている。 ……ヒカルが変わろうとしている。 やはり悪い予感は的中した。あの短い期間に、ヒカルは無理に自分を変えようとしてあんなに窶れてしまった。 恐らくその変化がうまくいかずに、目指すものとの間に挟まれて苦しんでいる最中なのだ。 でも、もしもその苦しみを越えてしまったら? そうしたら、もうヒカルはアキラの知るヒカルではなくなってしまうのではないか? アキラは倉田に頭を下げ、約束通りレシートを引き受けて喫茶店を後にした。 やはり、原因はあの日にあったに違いないと確信する。 アキラはその切れ長の目に怒りすら灯らせて、風を切って街をすり抜けた。 |
以前、社が倉田にヒカルのことを聞いた時と同じ喫茶店です。
アキラと社はそんなこと知らないんですけどね……
倉田は一体どう思っているのか。